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5章

 ここしばらくずっと頭の隅にあった悩み事がひとつ消えた。
 思ったよりそれは俺の脳の多くを占めていたらしい。なんというか、ぽっかりと穴があいたような、という表現がぴったりな虚無感のようなものを味わっていた。
 あの男は結局、なんの責任も果たさず、なんの罰も受けずに生きていくわけだ。
 すっきりしない。納得いかない。もっと受けるべき罰があると思う。
 一応、何が起こるかわからないので、連絡先とか住所とかあらかた情報は手に入れたし、昨日のやりとりはすべて録音してある。……まあ、随所に和泉の暴力行為も収められているので、使いどころは限られているが。
 それでも、女と生きていくと決まって佐伯本人は吹っ切れているようだ。いつまでも俺が引きずっていたら、それこそ佐伯が気にするだろうとは思っている。

 翌日、佐伯はことのあらましを家族に相談した結果を報告してくれた。律儀なやつだと思う。

「名前とか、戸籍ってゆーの? そういうのね、ちゃんと変えないといけないんだって。まあ名前は別にお好きにどーぞって感じだけど、さすがに友也はねえ」

 たしかに、どう見たって女性の名前ではない。名前に性別による規定がないにしろ、今後色々面倒が出てきそうだ。

「……それってどうやるんだろう? 裁判所とかにいくんだっけ。それとも市役所?」

 さすがにそんな知識は俺にはなかった。もちろん佐伯にだってわからないだろうけど。

「えーとね、親父が色々調べてくれてるみたいだから、よくわかんないんだけどねー。性同一性障害とは違うし……。ざっと調べたら未成年じゃ難しそうだったんだけど~」

 佐伯は人差し指を顎に当て、記憶をたぐるように目線を上に上げる。

「でもさー、戸籍が男でも妊娠しようとしたらするし、出産しようと思ったらできるし、なんかおかしーよね。お医者さんどう思うんだろうね? 子供できても戸籍が男だったらやっぱり結婚はできないのかな。それとも体は女だけど戸籍上は男として女の人と結婚できちゃうのかな? それってなんだか裏技じゃない?」
「まあ、誰も急に性別が変わることを想定して法律作ってないだろうからな……」

 佐伯はあっけらかんとしている。まあ、どうでもいいのだろう。どうしようもないことだし。これで男として生きたい、となったらまた話は大きく変わってくるのだろうが、佐伯にそんなつもりはないようだし。
 結婚するときにはたしかに色々とややこしそうだが、成人していればそういうところはなんとかなるだろう。手間はもちろんかかるだろうが。

「でも、名前変えるのはもっと楽っぽい。なんて名前になるんだろー。やっぱ友子とか?」
「せっかく変えられるなら好きな名前にすればいいじゃん」
「うーん、想像つかないなあ……。ま、急ぐことじゃないし、進級とか進学するときとかにやろってことになってるんだ。途中から色々変更するの大変だしね」

 乞うご期待! と佐伯は何故かこちらを指さし、決めポーズのようなものをした。
 こいつ、結構厨二っぽいとこあるからな。キラキラネームとかになったらどうしよう。まあ、名前が変わったって結局苗字で呼ぶから俺には関係ないけど。

「兄弟とかはどういう反応だったの?」
「ぜーんぜん、興味なしって感じ。似合ってんだからいいじゃーんって感じ」
「うわあ」

 なんというか、寂しくなってくる。もっと心配とかさ……色々あると思うんだけどなあ……。

「でも今度親父が仕事の休み作って帰って来てくれるんだ。和泉家のみんなにも今後どうするのかとか親父から報告するみたいだし。一応おばさんには男に戻るのダメっぽい〜って話したんだけどね、もうよっぽど悲しんでくれたよ。これが普通の反応か〜って思うよね〜」
「う、うん」

 けろっとした様子で佐伯は笑う。
 こんなこと正面から言えないが、こいつの家はやっぱりちょっと特殊だ……。

「よくもまあ、グレたり拗ねたりしないよね、お前」
「え。あ。うちの家族のこと?」
「偉いと思う」
「うわっなに? 不気味〜」

 ほ、褒めてるのに……。いや、酷い家族だと言っているようなものだから、気分良いことでもないのか。
 佐伯はそれほど気にしてはいないようで、笑って肩をすくめた。

「そういう人たちだからしょうがないよ。諦めてるし。オレが和泉家に寄ってるから家族の中では変なだけなんだよ」

 なるほど。和泉家の英才教育の賜物か。
 ちょっと納得した。

「桐谷はあんまりベタベタするタイプじゃないけどさ、お母さんは結構息子好き好きオーラ出してるタイプだよね」
「や、やめろよ……別にそんなんじゃないし……」

 そんなんってどんなんだ。自分の発言が謎である。
 佐伯は悪戯っぽく笑った。

「クール系に見えて桐谷も結構家ではベタベタしたい人なのかな?」
「ち、違うし。どう考えてもそんな俺気持ち悪いだろ……」

 そりゃあ若干この年齢の男にしては母親との距離は近いかもしれない……でもママ〜なんてひっついていったりは絶対しないし!
 ただ昔色々心配とかかけた自覚あるから、多少鬱陶しくても跳ね除けたりできないだけなのだ。そんな酷いことできない。それだけだ。自分から家族にベタベタしていくという前科はないはずだ。

「親が俺のこと子供扱いしてるだけで、俺は別に普通の距離感だよ。あんまり構ったり構われたりするのは得意ではないよ」
「ふうん。じゃあきっと桐谷みたいな人の集まりなのかもね、うちの家族って」

 あ、それはちょっと嫌だ。
 第一、俺は家族に関心がないわけではないし。
 そのあたり、まだまだこいつもわかってないな。俺のこと。

「あ、ねえねえ、次のグループワーク一緒にやろうよ。男女二人ずつでしょ? ちょうどいいじゃん!」
「ああ、うん、そうなるのか」
「前はオレだけ別だったもんねえ」

 次の授業の準備を机の上に広げながら、佐伯はのほほんとしている。
 うちのクラスは男女比率に偏りがあるせいで、男女混合の授業では番号順にグループ分けというのはあまりない。そうなると男ばかりのグループに女子一人とか、そういうアンバランスな配分になってしまいかねないのだ。さすがにそれは哀れだと思う。
 多分高校生にしては男女で隔たりがあるクラスなのだ。喧嘩とかは一切ないが、お互いちょっと腫れ物に触るというか、なんというか。佐伯とか、河合さんとか、中には異性と仲良くするやつもいるけど。他のクラスが体育祭なんかで男女関係なしに協力しあってるのをみて感動したもんな……。
 だから割とグループ分けというのは自由に組めるのである。
 しかし俺たちの場合男女ふたりずつ、という分け方が難関であった。
 まず和泉と河合さんはもう決定だ。佐伯がじゃあ他のとこ行くよーなんて言ったとき、当然俺が残るわけだが、そうなるともう一人の女子という立場は地獄だろう。俺は女子に気遣ったりできないし、和泉もさすがにそんなときに河合さんにばかり構ったりはしないが、やはり女子は苦手だから若干ぶっきらぼうだ。河合さんにはもっと期待できるわけない。ここでうまくやれるならとっくにクラスの女子たちと打ち解けているだろう。
 さすがにあんまりだったので俺が抜けて、佐伯が残り、佐伯と仲のいい女子が加わるとまあ収まりはいい。
 ただ俺はつまらない。
 佐伯のようにいいよいいよーこっちでうまくやるから、なんて言える人間ではないのだ。悲しいことに。しかし嫌なもんは嫌だ。

 まあ、佐伯が女になったことによって解決したことというのはそれだな。
 いつもの四人で男女混合グループが組める。
 ……しかし、こうして正式に女扱いするのはやっぱり抵抗があった。クラスのみんなは誰も文句を言わないのに。
 いいのかなあ。なんて気持ちになるのだ。

「……なあにい〜? ジロジロ見て。そんなに可愛い?」
「な、何馬鹿なこと言ってんだよ……」
「あ、ひどい」

 ひ、ひどいのか。そうか。
 佐伯の感覚というのは本当に理解できない。どこが引っかかって、何で喜ぶのか。
 俺はどうだろうか。俺の思考回路というのは、わかりやすい気がするんだけどな。頭であれこれ考えるわに、出てくる結果はつまらないものだと思う。奇抜な発想とか、突拍子もない行動とかはしないと思うし。
 佐伯も俺が返す言葉を想定した上で喋っているような気がする。
 だから佐伯が驚いたり、何かしら大きな反応が返ってくると少しだけ不安になったりもするのだ。

「……女子としてカウントされるのは嫌じゃないの?」
「ええ〜? だって、もう2ヶ月だよ? 慣れたよ」
「そ、そうか……」

 言われてみれば、もうそんなになるのか。
 でもたった2ヶ月じゃないか、とも思うのだ。
 男に戻りたいと泣きべそをかくように言っていたのはほんの少し前のことじゃないかと思ってしまうのだが、佐伯にとっては地獄のように長い2ヶ月だったのだろうか。
 俺があっという間に感じていた間も、佐伯はずっと女として過ごしていたわけだし。きっとたくさん現状を受け入れなければいけない瞬間というのがあったのだろうと、頭ではわかる。想像はつくはずなのだ。

「……じゃあさ、やっぱり女子になると可愛いってやっぱ言われたいもん?」 

 そう聞くと、佐伯は何度か瞬きをした。

「うーん、嬉しいよ? 可愛くなる努力をするほど言われたいわけじゃないけど、だって褒めてくれたとこはちょっと好きって意味でしょ? 嬉しいよ」
「……そ、そっか……」

 ちょっと脱力するような、そんな感覚だった。ショックなんだろうか。なんだろう。
 いや、わかってたはずなんだけどさ。
 スカートだって履くし、女子としての姿を褒められて嬉しそうにしていたのも見たし。
 佐伯はひとつあくびをして、それから机に上体を寝かせるようにして、腕を枕に頭を乗せた。

「桐谷も、ちょっとずつでいいから慣れてって欲しいな」
「わ、わかってるよ」

 佐伯はそのまま寝るつもりのようだ。あと5分程度で授業なんだけどな。

 ……別に、慣れてないつもりはない。もう今の姿が佐伯だって、ちゃんとわかってる。
 ただ、たださ。やっぱりどうしても、女の子になったからって扱いまで女の子のようにするのは、勝手なような気がするんだ。
 手のひら返しみたいでさ、急にちやほやするみたいなさ。
 そういうことをする男だと思われたくないんだと、思う。
 なんでそう思われたくないのかはわからないけど。
 ただ、本人も周りも受け入れつつあるのに、俺だけ駄々をこねているんだという自覚はあるのだ。周りが正しい。俺は意地を張ってるだけだろう。
 わかってるけど、きっかけを失ってしまった。
 俺が急に可愛いね、とか言い出したらどう思う? 他の女子にだって言わないけどさ。
 佐伯が正面からもっとはっきりと、女の子扱いしろと言ってくれれば、そうすればできる気がした。
 そうでもしないと、俺は勇気が出せそうもない。
 普段はそんな周りくどいやり口は嫌いなのに、俺は周りが自分をうまく促してくれるのを待つしかできなくなっていた。何かが怖かったんだと思う。
 そんな風にただ手をこまねいて待っているだけでは、きっとあのときああすればと後悔する羽目になるのに。
 それを味わったことがあるはずなのに、俺はただ、じっと念じていたのだ。
 息を潜めて。
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