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4章

 なんともシンプルな答えだった。
 佐伯の男としての体は並行世界に行き、そこで死んだ。
 理由はわかりようもないが、とにかく、交換した先の世界に佐伯と同一の存在はどこにも見つけられなかったんだそうだ。

「す、すみません、でした……、僕が、軽率なことをしたばっかりに……」

 男は顔面蒼白だった。俺からすると、こんな力を無断で他人に使用する時点で信じられない行為なのだが、この男は元に戻せないとなってようやく、事の重大さに気付いたようだった。
 和泉は鼻の上に皺を寄せ、今にも殴りかかりそうだったが、それでも必死に怒りを抑えているようだった。
 佐伯が怒ってはいないからだ。
 佐伯は怒るでも、悲しむでもなく、「そっか」と言った後、黙ってしまった。その表情からはなにも心情が伺えない。

「で、でも、元の体に近い男の体を交換することは、できると思います。そっくりとまでは言えないと思いますが……」

 それは、男として生まれたが、今とは全く違う人生を送っている別の佐伯だろう。別の世界の佐伯は今、このとき、どこでどうしているんだろうか。
 しかし先ほどの和泉ぐらいの差があると思うと、それはもう別人だ。……でも元が同じならいずれその体も今の佐伯になっていくのだろうとも思う。
 今の佐伯が女の体に馴染んでいったように。

「それって、別のオレに、女の体を押しつけるってことだよね」

 つまりは、そういうことだ。
 佐伯はそこでようやく、少し怒ってるような冷たい声を出した。

「それで、そっちのオレは、急に性別が変わって、きっと困って、でもその世界に、自分を変えた犯人はどこにもいないんだよね。そっちのオレは、理由もわからないまま、一生、そのまま」

 普段からは想像もつかないほど平坦な声を連ねる。

「もしかしたら、そっちのオレは、将来の夢があるかも。彼女とかいるかもしれないよね。それが全部、駄目になって、誰も責任とってくれなくて、誰も治してくれなくて、もし女として生きていけなかったら……」

 佐伯は、ゆっくり目を閉じて首を振った。

「お兄さん、どうもありがとう、大丈夫だよ」

 何がありがとうなのか。すべての原因はこいつなのに。俺には全くわからなかった。
 そしていくら別世界の自分といえど、一生関わりもない、知りようもない存在を気遣う理由も。
 認識できない世界なんて、妄想と変わらない。並行世界というのがこの男の勘違いとか空想の産物でしかないと、思いこんでしまえばそれまでなのに。
 しかし佐伯は、まるですべての所行を許すかのように笑っていた。困ったように、眉をハの字にして。
 でもすぐにため息をついてしまいそうな、そんな疲れたような顔でもあった。その顔を見ると俺は胸がなんだか苦しくなったのだ。
 俺が見たかった顔ではないと思った。

ーーー

 男の姿が見えなくなったのを見届けて、長い沈黙が続いていた俺たちもゆるゆると帰路についた。
 歩き始めてみると佐伯は言い訳をするように、一人饒舌に話しはじめる。
 少しだけ明るい声で。俺たちよりほんの少し前を歩いていた。

「オレさ、そんなにね、どうしても戻りたいってわけじゃなかったんだ。前はもちろん、ほんとに戻りたかったけど。最近は楽しいっていうのもほんとだよ。だから、まあ、いいかなって思ったんだ。他の人……っていうか、別の世界のオレだけど、その子がまた悩んだり、困ったりするより、絶対いいよ」

 だからオレより落ち込んだりしないで、と佐伯は俺たちに向けて言った。
 俺も和泉も、何と言っていいのか分からなくて、沈黙のまま並んで歩く。

「おわ」

 佐伯が横から衝撃を受け、たたらを踏んだ。
 河合さんが横から佐伯に飛びついたのだ。ぎゅっと抱きつき、肩口に顔を押しつけていた。

「佐伯がいいなら、わたしたちもそれが良いと思う。でも、人の迷惑とか心配とか気にしないで、我慢しなくていいのよ」

 佐伯はそっと河合さんの肩のあたりを撫でた。頭を撫でるには身長が近すぎるのだ。

「ありがとね。でも、ほんとにいいんだ。今はもう、男に戻ってこうしたい、ってことが思いつかなくて」

 河合さんはゆっくり離れて、それから佐伯はこちらを振り返り和泉に向き直った。

「昭彦、あのね、怒ってくれてありがと。多分、また親父と、おばさんたちとちゃんと話さないといけなくなると思う。お部屋、借りっぱなしでごめんね」
「……別に、好きにすれば」

 和泉は気まずそうにそっぽを向いた。
 それから佐伯はこちらを見、近づいて、ゆっくりと俺の手を取った。

「桐谷、いっぱい心配して、考えてくれてありがとう。結局戻れなくて、ごめんね。桐谷は男同士の方がいいかもだけど……、これからも仲良くしてね」

 握手だった。俺の片手を、大事そうに両手で掴んでいた。
 はじめてだったと思う。こんな風に人と握手するのは。
 俺はうまく言葉がでてこなくて、ただ、頷くことしかできなかった。
 もっと、言ってやるべきことはたくさんあるはずなのに。
 別に、佐伯が謝ることなんてない、とか。男同士じゃなくたっていいとか。仲良くするなんて、わざわざ言われるまでもないってこととか。言えたはずなのに。

「まっ、そういうことだから、新生佐伯友也ちゃんをよろしくー」

 努めて明るく、あの男の前では決して見せなかった、いつもの調子のいい佐伯の声色だ。
 嫌なことがあってもちっとも気にしないような、楽しいことだけを選ぶような、いつも声を上げて笑っているような、そんな佐伯だ。

「とりあえず……、やっぱオレっていうのはやめた方がいいかな? 私って言うの、変?」
「聞いてるこっちの方が違和感でかそうだぜ……」
「だよねえ」

 けらけらと笑うのでつられて和泉も少し笑った。
 河合さんは佐伯と手を繋いで歩いた。ずっと今までそうしてきた親友のように。
 夕日が禍々しいくらい綺麗で、高く伸びる二人の影を踏んで歩いた。
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