4章
「だからなんだって?」
「だ、だから! その人の細胞を口に含んで頭の中で考えたら、その人の姿が変わってるっていう、そういう能力なんです!」
「変態じゃねえか。どうやったら気付くんだよそんな能力」
そこからの話は早かった。
和泉は男の手首をひとまとめに掴んでうつ伏せにさせ、背中に膝を乗せて淡々と尋問していた。
佐伯は相変わらず無言で男を見下ろし、いつの間にか一緒に出てきていた河合さんが寄り添っている。
……やはり、最初から和泉に無理矢理聞き出してもらった方がよかったんだろうか。
いや、でもこれはいくらなんでも目立つな。じゃれ合ってるだけだと思われればいいが、いつ警察が駆けつけてきても文句は言えない。
ちらりと向こう岸を見てみるが、こちらからはよくわからない。車が走るのが見えるだけで、人影はなさそうだが。
和泉が体重をかけたのか、男は痛がりながらあわあわと弁解を続けるので視線を戻す。
「せ、正確には、姿が変わるって言うか、別の体と交換するんです……」
「交換? 誰と?」
「少し違う自分と、だと思います……、よくわかんないんですけど……、多分別の世界の自分なんじゃないかなって……」
「……ほう?」
「別の世界?」
俺が追及すると、男は何故だかちょっとへらへらっとした。なんだよ。親近感覚えてんじゃないだろうな。
「そ、そうです、聞いたことないですか? テレビでもたまにとりあげられてるんですけど」
「パラレルワールドとかそんなんだろ。都市伝説番組とかでよく取り上げられてる」
「はあ、まあ、SFが好きな人はそういう言葉を使いたがりますよね」
「は? 馬鹿にしてんのか?」
「してないです! してないです! すみません!」
和泉はすんなり受け入れたようだ。河合さんも小さく「へえ」というのが聞こえた。俺も言葉自体は知ってるけど、あまり興味のない分野であった。
能力者のおかげでその存在はどうやら別世界があるらしい、というレベルには認識されるようにはなったが、その存在を証明するものは出てきていない。実はとっくに行き来ができるのに、それに関係する能力者を政府が隠していて世間には公表していないのだ、とかそういう話を聞いたことはあるけど。まあ、俺たちからすれば異世界があるっていう人がいるなら、あるのかなあという程度の感想しかでない。否定する材料がないだけだ。
肉体を交換できるとすれば、かなり画期的な能力ではないだろうか。そんな能力者がこんな河川敷にいるものだろうか。しかし、それならいくつか説明はつくことはある。
骨格まで変わったこと、まったく体に変異した形跡がなかったことや、視力が回復していたこと、髪も伸びているのもよく考えれば不自然だった。
つまりこの17年間男として生きてきた佐伯と、同じ時間を女として生きてきた佐伯の体が入れ替わったと。
記憶だけそのままで、体を転移させるということか。なるほど、理解不能だ。むちゃくちゃで、論理的な説明はできそうにない。が、そういうものなのだ。どうすればできるか、ではない。その現象が「ある」かどうかが重要だ。
「じゃあ元に戻せるんだな?」
「い、いやあ……どうだろうな……、ちゃんとコントロールできてるわけじゃないから……」
……まあ、たしかに、自分の力をきちんと把握して制御できるやつは少ない。練習は難しい能力だろうし、力の影響が強いものほど制御するのは難しいだろう。
「嘘よ」
全員が河合さんを見る。
河合さんはまっすぐ男を見つめていて、その瞳は冷たく、知り合ったばかりの頃の河合さんの目だった。
「嘘つかないで」
男は「あ」とか「いや」とかひとしきり言い訳を探した後、はあ……とため息をついた。
「まあ、そうですね……。戻せます……。今までやってきたときもちゃんと元に戻してましたし……」
男は完全に萎縮して敬語になっている。それでも観念した、という程度で、恐怖に震えているというほどではない。
警察に駆け込まれる心配はそれほどなさそうだ。
「じゃ、戻せ」
「そ、そんな! お願いします! ちょっとでいいんです! せめてもう少しだけ触れあわせてください!」
「少しもクソもあるか! その隙に髪の毛でも奪って解放されたあとまた同じこと繰り返すだろ!」
こういうときの和泉はちゃんと頭が回る。
ここで同情心を出して油断されると面倒だった。
「そんなことしませんよぉ! 僕だって自分に振り向いてくれないなら誰ともくっつかずに男でいてくれた方がマシです!」
こいつ、本当に手の施しようがないな……。
「昭彦、もう放してあげてよ」
そう声をかけたのは、佐伯だ。
いたな、同情心を出して油断しそうな奴。
和泉は少しいらいらしたような顔で佐伯を睨む。誰のためにやってると思ってんだ、という顔だ。気持ちはわかる。
「お前さあ、ここで逃げられたらおじゃんだぜ? そういうのはもう少しあとで……」
「だってその人さっきからスカートの中覗こうとしてるんだもん。オレこれ以上近づけないじゃん」
無言で和泉は男を座らせた。
手を後ろに回させて、それをがっちり掴むという、どうにも間抜けな拘束姿だ。
体を捻るなりしたらいくらでも抜け出せそうだが、相手は和泉だ。ゴリラ並の握力を振りほどくことはできないだろう。多分先に奴の骨が折れる。
そして、男は佐伯から罰の宣告を受けるかのように差し出された。
「お兄さんは学生ですか?」
しかし、佐伯の口から出たのは、世間話でもするのかというなんの変哲もない質問だった。
それでも、一応みんな黙って、男の返答を待っている。あくまでも当事者は佐伯だ。
「は、はい、専門の一年です……」
「さっき、子供が欲しいって言ってましたよね。それは学校をやめて働いて父親になるということですか?」
「えっ? そ、それは……ええと……」
何も考えていなかったのだろう。それか、あまりに自分に都合がいいことしか考えていないことを自覚したか。
「す、すいません、学校は、やめられないです……」
「子供を作ったら、オレは学校をやめなきゃいけないですよね、産んだら、男に戻してくれるってことですよね。そしたらオレは学校もやめて、働いたこともないのに子供は残って、でも子供に母親はいなくて、あなたは学生で、どうするんですか?」
男は何も言わない。
こんなに一つずつ問題を提示しなくたって、小学生にだってむちゃくちゃだとわかる。
こいつは本当に子供が欲しいわけではないのだ。どうせ、ただ子供を作ることをしたいだけなのだ。
「お兄さんは、全然オレのこと好きじゃないと思います。オレのことはなにも考えてないもの」
「そ、そんな! ち、違うんです、焦ってしまって……、失礼なこと言ったのは謝ります!」
この期に及んでこいつは……、と思っていると和泉も同じだったらしい、男は痛い痛いと叫び始めた。
この男が佐伯をずっと見ていた、というのは事実なんだろう。ただその期間が長すぎたのか、この男の中の佐伯という、実際の佐伯とは別のものがしっかりとあるのだ。
いまいち、佐伯が傷つくだろうとか、怒るだろうとか、そういうことへの配慮が見られなかった。普通の人間として最低限としての敬いというものが抜けている。
そして佐伯も、そういう感情を露わにしないから、男も図に乗るのだ。
今の佐伯の声色は冷たかったが、怒りというより悲しみのニュアンスの方が強い。その悲しみを取り除けばまだチャンスはあるかのような、そんな気配を感じさせた。
和泉なんかのような、有無を言わせない圧というのがない。相手に言い訳する余地を与えてしまうような、隙があるのだ。
ふと、佐伯は小さくため息をついた。落胆とか失望とかのような雰囲気のない、嫌な感じのしないため息だ。
そして男の前でしゃがみ、目線を合わせる。
「女の子になって、最初は怖かったけど、近頃はたしかに、楽しかったです。みんなも喜んでくれてる気がしたし、似合ってるって、よく言われたし。……でも、もう戻りたいです。戻してください」
真摯な願いだった。
あくまでも、相手に納得してもらって元に戻してもらいたいようだ。佐伯にとって、通り魔にあったような理不尽な状況だというのに。
しかし、男は今度こそ申し訳なさそうな顔をした。
おそらくだが、本人は考えていないだろうが、飴と鞭がうまく働いたのだろう。和泉の恫喝ののちの佐伯の相手を尊重するような対応というのは、より効果的に映るはずだ。いわゆる、良い警官と悪い警官という作戦である。
「……本当に、すみませんでした……、ご迷惑をおかけしました……」
「男に戻してくれますか?」
「……わかり、ました……、で、でも最後にひとつだけ!」
こいつ、まだ言うか、と全員の鋭い視線に気付いたのか、語気だけは弱める。
「あ、え、えーと……姿を変えるには、その人の細胞を口に含まないといけないと説明したと思うんですけど、髪の毛なんかだと成功率が低いというか……何度も挑戦しないといけないことが多くてですね……もっと密度の濃くて新鮮な遺伝子とかそういう情報の詰まったものがあるとおそらく、すぐにでも成功すると思うんですよね」
「どういう意味だよ」
和泉が一応、促してはやるが。まあろくでもないことだということは全員が予想できた。
「つまり、キスして貰えたら、確実に元に戻せます!」
「……まあ、キスくらいなら……いてっ」
佐伯の髪の毛を引っこ抜いた。
何がキスくらいならだ。……いくらなんでも、経験豊富ってことはないだろうに。元々そういうことに潔癖だったし。
「何回失敗してもいいから、これでやれ」
「そ、そんなあ」
「お前あんま調子のんなよ? このまま川に沈めてやってもいいんだぜ、おい」
いやそれは全くよくないが。しかし男はどもりながらもすみませんと小さくなった。その態度を佐伯に向けることはできないんだろうか。
「そもそもあなた、失敗なんて、本当はしないでしょう。さっきから、ちょこちょこ嘘をついているみたいだけど」
河合さんが口を挟むと、男は「うっ」と苦い顔をする。わかりやすい。
こいつは最初からずっと、短絡的で、自己中心的で小賢しい。甘ったれで自分に都合のいい方向にどうにか話を進めようとする、非常に浅ましい俺の嫌いな人種だ。おそらく和泉もこういった輩を看過しない。
「わ、わかりました……髪の毛で……あ、あの食べさせてもらっていいですか……?」
「うげえ……」
俺がやるのか……。
和泉は手が塞がっているし、佐伯がやったらこいつにとってご褒美になりそうでなんだか嫌だし、河合さんはこんな男に近づけさせたくない。
しかたがないので男の口に、そおっと髪の毛を落とした。
気持ち悪い……。
男は神妙な顔で口の中を動かしている。鳥肌がたった。
河合さんは難しい顔をして、視線を佐伯に移している。
佐伯は祈るように手を組み、ぎゅっと目をつむっていた。
和泉は苦い顔をしながら男の後ろで上半身を反らして距離をとっている。
俺も目を逸らしたい。が、すこし興味深くもあった。少し距離を置いて、男と佐伯が視界に収まるようにして眺める。
特殊能力を持つ人間は珍しくない。だが、実際に人前で力を使う者は少ないのだ。
食事だって、人前でするのは恥ずかしいという人もいるし、寝顔を見られるのが嫌な人は多いだろう。性行為や排泄は当然人に見せることではない。生きている限り誰だって当然やることで、なにもおかしなことではないが、あまり人に見せるべきではない。そういった感覚だ。
といっても、油断しているところを敵に見せたくない、という本能的なメカニズムとは違う。裸だのを見られるわけでもないので、厳密にはそれとこれとは別だろうけど。個人差もあるし。それでも大体の人間が人前で気軽に力は使わない。力を持たない大人の振る舞いを真似るのだ。
実際のところ、人が能力を使っているところを目の当たりにしたからって、普通の能力ならわざわざ目をみはるほどの関心は向かない。直視するのはなんとなく失礼かな、くらいの気持ちが働く。
でもこいつの力はかなりレアだ。
全く未知の力だ。今の科学レベルでは事象を観測できない、分類しようのない能力。それを目の当たりにするのははじめてのことだ。
一体どのように発動するのか。男の頭の中で、なにが起こっているのか。
生理的な気持ち悪さはあるが、見ない、というのは選択肢になかった。
……しかし、いくら待ってもその発動の時というのは訪れなかった。
「あれ?」
男が首を傾げる。
何か喋ろうとして違和感があったのか、ぺっと髪の毛を吐き捨てた。
汚。
「……できません」
「は?」
「なんだろう……、おかしいな……。いや、でも……」
「説明しろ」
しゃがんで男と目線を合わせる。本気で戸惑っている様子だった。
和泉は手を離し、自由になったが逃げようともしない。
「力が使えなくなったとかいうなよ」
「いや、そういうんじゃない、と思います……」
ふむ。
大人になると能力は失われる。この大人というのは範囲が広く人によるのだが、遅ければ二重代前半、早ければ十代後半から力は衰え始める。偶然にもその時期がきて使えなくなったふりをする、そういう逃げ道はあると思った。が、違うようだ。演技でもなさそうで、少し焦りすら感じた。
「おかしいなあ……すみません、ほかの誰かで試させてもらっても良いですか?」
男の提案に、思わず息を飲む。
試す。たしかに、相手の能力が本物なのか、試してもらった方がいいとは思ってはいた。しかし、リスクが高い。もし戻せないと言われたなら、後の祭りだ。こいつに責任をとるということはできないのだ。
しかし、佐伯を元に戻せないというなら原因を突き止める必要があるわけで、それには比較対象が必要なのもわかる。
そこまでわかってはいても……、得体の知れないことに身を差し出すというのは……
「ん。おれの髪」
透けるような金色の髪の毛。
なんてことないように和泉はそれを男に差し出していた。
「昭彦、危ないよ……」
「なんかあったらこいつ殴って憂さ晴らしすればいいだろ」
全くよくない。ひとつも解決しない。
しかし和泉は拘束を解いてなんてことないように髪の毛を手渡し、立ち上がると腕を組んだ。一応いくらでも蹴り倒せる位置は保っている。
……しかし、こいつに怖いものなどないんだろうか。
男もそこまですんなり差し出されるとは思わなかったのだろう、驚いた顔をしたあと、座り直す。
「えーっと、まず、もう少し詳しく説明してもいいですか?」
「わかりやすくしろよ」
そうして、男の話がはじまった。
佐伯は不安げにしながらも、じっと黙って聞くほかなかった。
「だ、だから! その人の細胞を口に含んで頭の中で考えたら、その人の姿が変わってるっていう、そういう能力なんです!」
「変態じゃねえか。どうやったら気付くんだよそんな能力」
そこからの話は早かった。
和泉は男の手首をひとまとめに掴んでうつ伏せにさせ、背中に膝を乗せて淡々と尋問していた。
佐伯は相変わらず無言で男を見下ろし、いつの間にか一緒に出てきていた河合さんが寄り添っている。
……やはり、最初から和泉に無理矢理聞き出してもらった方がよかったんだろうか。
いや、でもこれはいくらなんでも目立つな。じゃれ合ってるだけだと思われればいいが、いつ警察が駆けつけてきても文句は言えない。
ちらりと向こう岸を見てみるが、こちらからはよくわからない。車が走るのが見えるだけで、人影はなさそうだが。
和泉が体重をかけたのか、男は痛がりながらあわあわと弁解を続けるので視線を戻す。
「せ、正確には、姿が変わるって言うか、別の体と交換するんです……」
「交換? 誰と?」
「少し違う自分と、だと思います……、よくわかんないんですけど……、多分別の世界の自分なんじゃないかなって……」
「……ほう?」
「別の世界?」
俺が追及すると、男は何故だかちょっとへらへらっとした。なんだよ。親近感覚えてんじゃないだろうな。
「そ、そうです、聞いたことないですか? テレビでもたまにとりあげられてるんですけど」
「パラレルワールドとかそんなんだろ。都市伝説番組とかでよく取り上げられてる」
「はあ、まあ、SFが好きな人はそういう言葉を使いたがりますよね」
「は? 馬鹿にしてんのか?」
「してないです! してないです! すみません!」
和泉はすんなり受け入れたようだ。河合さんも小さく「へえ」というのが聞こえた。俺も言葉自体は知ってるけど、あまり興味のない分野であった。
能力者のおかげでその存在はどうやら別世界があるらしい、というレベルには認識されるようにはなったが、その存在を証明するものは出てきていない。実はとっくに行き来ができるのに、それに関係する能力者を政府が隠していて世間には公表していないのだ、とかそういう話を聞いたことはあるけど。まあ、俺たちからすれば異世界があるっていう人がいるなら、あるのかなあという程度の感想しかでない。否定する材料がないだけだ。
肉体を交換できるとすれば、かなり画期的な能力ではないだろうか。そんな能力者がこんな河川敷にいるものだろうか。しかし、それならいくつか説明はつくことはある。
骨格まで変わったこと、まったく体に変異した形跡がなかったことや、視力が回復していたこと、髪も伸びているのもよく考えれば不自然だった。
つまりこの17年間男として生きてきた佐伯と、同じ時間を女として生きてきた佐伯の体が入れ替わったと。
記憶だけそのままで、体を転移させるということか。なるほど、理解不能だ。むちゃくちゃで、論理的な説明はできそうにない。が、そういうものなのだ。どうすればできるか、ではない。その現象が「ある」かどうかが重要だ。
「じゃあ元に戻せるんだな?」
「い、いやあ……どうだろうな……、ちゃんとコントロールできてるわけじゃないから……」
……まあ、たしかに、自分の力をきちんと把握して制御できるやつは少ない。練習は難しい能力だろうし、力の影響が強いものほど制御するのは難しいだろう。
「嘘よ」
全員が河合さんを見る。
河合さんはまっすぐ男を見つめていて、その瞳は冷たく、知り合ったばかりの頃の河合さんの目だった。
「嘘つかないで」
男は「あ」とか「いや」とかひとしきり言い訳を探した後、はあ……とため息をついた。
「まあ、そうですね……。戻せます……。今までやってきたときもちゃんと元に戻してましたし……」
男は完全に萎縮して敬語になっている。それでも観念した、という程度で、恐怖に震えているというほどではない。
警察に駆け込まれる心配はそれほどなさそうだ。
「じゃ、戻せ」
「そ、そんな! お願いします! ちょっとでいいんです! せめてもう少しだけ触れあわせてください!」
「少しもクソもあるか! その隙に髪の毛でも奪って解放されたあとまた同じこと繰り返すだろ!」
こういうときの和泉はちゃんと頭が回る。
ここで同情心を出して油断されると面倒だった。
「そんなことしませんよぉ! 僕だって自分に振り向いてくれないなら誰ともくっつかずに男でいてくれた方がマシです!」
こいつ、本当に手の施しようがないな……。
「昭彦、もう放してあげてよ」
そう声をかけたのは、佐伯だ。
いたな、同情心を出して油断しそうな奴。
和泉は少しいらいらしたような顔で佐伯を睨む。誰のためにやってると思ってんだ、という顔だ。気持ちはわかる。
「お前さあ、ここで逃げられたらおじゃんだぜ? そういうのはもう少しあとで……」
「だってその人さっきからスカートの中覗こうとしてるんだもん。オレこれ以上近づけないじゃん」
無言で和泉は男を座らせた。
手を後ろに回させて、それをがっちり掴むという、どうにも間抜けな拘束姿だ。
体を捻るなりしたらいくらでも抜け出せそうだが、相手は和泉だ。ゴリラ並の握力を振りほどくことはできないだろう。多分先に奴の骨が折れる。
そして、男は佐伯から罰の宣告を受けるかのように差し出された。
「お兄さんは学生ですか?」
しかし、佐伯の口から出たのは、世間話でもするのかというなんの変哲もない質問だった。
それでも、一応みんな黙って、男の返答を待っている。あくまでも当事者は佐伯だ。
「は、はい、専門の一年です……」
「さっき、子供が欲しいって言ってましたよね。それは学校をやめて働いて父親になるということですか?」
「えっ? そ、それは……ええと……」
何も考えていなかったのだろう。それか、あまりに自分に都合がいいことしか考えていないことを自覚したか。
「す、すいません、学校は、やめられないです……」
「子供を作ったら、オレは学校をやめなきゃいけないですよね、産んだら、男に戻してくれるってことですよね。そしたらオレは学校もやめて、働いたこともないのに子供は残って、でも子供に母親はいなくて、あなたは学生で、どうするんですか?」
男は何も言わない。
こんなに一つずつ問題を提示しなくたって、小学生にだってむちゃくちゃだとわかる。
こいつは本当に子供が欲しいわけではないのだ。どうせ、ただ子供を作ることをしたいだけなのだ。
「お兄さんは、全然オレのこと好きじゃないと思います。オレのことはなにも考えてないもの」
「そ、そんな! ち、違うんです、焦ってしまって……、失礼なこと言ったのは謝ります!」
この期に及んでこいつは……、と思っていると和泉も同じだったらしい、男は痛い痛いと叫び始めた。
この男が佐伯をずっと見ていた、というのは事実なんだろう。ただその期間が長すぎたのか、この男の中の佐伯という、実際の佐伯とは別のものがしっかりとあるのだ。
いまいち、佐伯が傷つくだろうとか、怒るだろうとか、そういうことへの配慮が見られなかった。普通の人間として最低限としての敬いというものが抜けている。
そして佐伯も、そういう感情を露わにしないから、男も図に乗るのだ。
今の佐伯の声色は冷たかったが、怒りというより悲しみのニュアンスの方が強い。その悲しみを取り除けばまだチャンスはあるかのような、そんな気配を感じさせた。
和泉なんかのような、有無を言わせない圧というのがない。相手に言い訳する余地を与えてしまうような、隙があるのだ。
ふと、佐伯は小さくため息をついた。落胆とか失望とかのような雰囲気のない、嫌な感じのしないため息だ。
そして男の前でしゃがみ、目線を合わせる。
「女の子になって、最初は怖かったけど、近頃はたしかに、楽しかったです。みんなも喜んでくれてる気がしたし、似合ってるって、よく言われたし。……でも、もう戻りたいです。戻してください」
真摯な願いだった。
あくまでも、相手に納得してもらって元に戻してもらいたいようだ。佐伯にとって、通り魔にあったような理不尽な状況だというのに。
しかし、男は今度こそ申し訳なさそうな顔をした。
おそらくだが、本人は考えていないだろうが、飴と鞭がうまく働いたのだろう。和泉の恫喝ののちの佐伯の相手を尊重するような対応というのは、より効果的に映るはずだ。いわゆる、良い警官と悪い警官という作戦である。
「……本当に、すみませんでした……、ご迷惑をおかけしました……」
「男に戻してくれますか?」
「……わかり、ました……、で、でも最後にひとつだけ!」
こいつ、まだ言うか、と全員の鋭い視線に気付いたのか、語気だけは弱める。
「あ、え、えーと……姿を変えるには、その人の細胞を口に含まないといけないと説明したと思うんですけど、髪の毛なんかだと成功率が低いというか……何度も挑戦しないといけないことが多くてですね……もっと密度の濃くて新鮮な遺伝子とかそういう情報の詰まったものがあるとおそらく、すぐにでも成功すると思うんですよね」
「どういう意味だよ」
和泉が一応、促してはやるが。まあろくでもないことだということは全員が予想できた。
「つまり、キスして貰えたら、確実に元に戻せます!」
「……まあ、キスくらいなら……いてっ」
佐伯の髪の毛を引っこ抜いた。
何がキスくらいならだ。……いくらなんでも、経験豊富ってことはないだろうに。元々そういうことに潔癖だったし。
「何回失敗してもいいから、これでやれ」
「そ、そんなあ」
「お前あんま調子のんなよ? このまま川に沈めてやってもいいんだぜ、おい」
いやそれは全くよくないが。しかし男はどもりながらもすみませんと小さくなった。その態度を佐伯に向けることはできないんだろうか。
「そもそもあなた、失敗なんて、本当はしないでしょう。さっきから、ちょこちょこ嘘をついているみたいだけど」
河合さんが口を挟むと、男は「うっ」と苦い顔をする。わかりやすい。
こいつは最初からずっと、短絡的で、自己中心的で小賢しい。甘ったれで自分に都合のいい方向にどうにか話を進めようとする、非常に浅ましい俺の嫌いな人種だ。おそらく和泉もこういった輩を看過しない。
「わ、わかりました……髪の毛で……あ、あの食べさせてもらっていいですか……?」
「うげえ……」
俺がやるのか……。
和泉は手が塞がっているし、佐伯がやったらこいつにとってご褒美になりそうでなんだか嫌だし、河合さんはこんな男に近づけさせたくない。
しかたがないので男の口に、そおっと髪の毛を落とした。
気持ち悪い……。
男は神妙な顔で口の中を動かしている。鳥肌がたった。
河合さんは難しい顔をして、視線を佐伯に移している。
佐伯は祈るように手を組み、ぎゅっと目をつむっていた。
和泉は苦い顔をしながら男の後ろで上半身を反らして距離をとっている。
俺も目を逸らしたい。が、すこし興味深くもあった。少し距離を置いて、男と佐伯が視界に収まるようにして眺める。
特殊能力を持つ人間は珍しくない。だが、実際に人前で力を使う者は少ないのだ。
食事だって、人前でするのは恥ずかしいという人もいるし、寝顔を見られるのが嫌な人は多いだろう。性行為や排泄は当然人に見せることではない。生きている限り誰だって当然やることで、なにもおかしなことではないが、あまり人に見せるべきではない。そういった感覚だ。
といっても、油断しているところを敵に見せたくない、という本能的なメカニズムとは違う。裸だのを見られるわけでもないので、厳密にはそれとこれとは別だろうけど。個人差もあるし。それでも大体の人間が人前で気軽に力は使わない。力を持たない大人の振る舞いを真似るのだ。
実際のところ、人が能力を使っているところを目の当たりにしたからって、普通の能力ならわざわざ目をみはるほどの関心は向かない。直視するのはなんとなく失礼かな、くらいの気持ちが働く。
でもこいつの力はかなりレアだ。
全く未知の力だ。今の科学レベルでは事象を観測できない、分類しようのない能力。それを目の当たりにするのははじめてのことだ。
一体どのように発動するのか。男の頭の中で、なにが起こっているのか。
生理的な気持ち悪さはあるが、見ない、というのは選択肢になかった。
……しかし、いくら待ってもその発動の時というのは訪れなかった。
「あれ?」
男が首を傾げる。
何か喋ろうとして違和感があったのか、ぺっと髪の毛を吐き捨てた。
汚。
「……できません」
「は?」
「なんだろう……、おかしいな……。いや、でも……」
「説明しろ」
しゃがんで男と目線を合わせる。本気で戸惑っている様子だった。
和泉は手を離し、自由になったが逃げようともしない。
「力が使えなくなったとかいうなよ」
「いや、そういうんじゃない、と思います……」
ふむ。
大人になると能力は失われる。この大人というのは範囲が広く人によるのだが、遅ければ二重代前半、早ければ十代後半から力は衰え始める。偶然にもその時期がきて使えなくなったふりをする、そういう逃げ道はあると思った。が、違うようだ。演技でもなさそうで、少し焦りすら感じた。
「おかしいなあ……すみません、ほかの誰かで試させてもらっても良いですか?」
男の提案に、思わず息を飲む。
試す。たしかに、相手の能力が本物なのか、試してもらった方がいいとは思ってはいた。しかし、リスクが高い。もし戻せないと言われたなら、後の祭りだ。こいつに責任をとるということはできないのだ。
しかし、佐伯を元に戻せないというなら原因を突き止める必要があるわけで、それには比較対象が必要なのもわかる。
そこまでわかってはいても……、得体の知れないことに身を差し出すというのは……
「ん。おれの髪」
透けるような金色の髪の毛。
なんてことないように和泉はそれを男に差し出していた。
「昭彦、危ないよ……」
「なんかあったらこいつ殴って憂さ晴らしすればいいだろ」
全くよくない。ひとつも解決しない。
しかし和泉は拘束を解いてなんてことないように髪の毛を手渡し、立ち上がると腕を組んだ。一応いくらでも蹴り倒せる位置は保っている。
……しかし、こいつに怖いものなどないんだろうか。
男もそこまですんなり差し出されるとは思わなかったのだろう、驚いた顔をしたあと、座り直す。
「えーっと、まず、もう少し詳しく説明してもいいですか?」
「わかりやすくしろよ」
そうして、男の話がはじまった。
佐伯は不安げにしながらも、じっと黙って聞くほかなかった。