4章
もうじき待ち合わせの時間となる。この数ヶ月、ずっと待ちに待った瞬間だ。
俺たち三人は、予定通り柱と草むらの陰に隠れた。佐伯は川寄りのわかりやすい位置に立って、どこか遠くを眺めている。
風はやや強い。すっかり板に付いた長い髪が、背中を撫でるようにさらさらと揺れていた。
そして、男は現れた。
中肉中背、男にしてはやや髪は長いか。まあ、人のことは言えないのだが。
爽やかな見た目とは言い難い。しかし見るからに怪しい人物でもなかった。
普通なのだ。
あまり印象に残らないというか、覇気がないというか。本当にこいつが? と言いたくなるようなタイプであった。まあ、じゃあどんなタイプを想像していたんだと言われると、言われてみれば確かにこんなもんかとも思えたが。
佐伯は男の登場に気付くなり、神妙な顔でぺこりと会釈し、小走りに駆け寄った。その仕草さえなんだか、俺は少し納得がいかなかった。もっと毅然と振る舞ってほしいのに。
そして男は佐伯の誘導により俺たちに背を向け、佐伯の表情は確認できる配置となった。さすがにこちらの存在がバレるということはなくなっただろう。風向きもちょうど良く、声はなんとか聞き取れる。
「こ、こんにちは。来てくれて、ありがとうございます」
佐伯は緊張した声だ。あまり弱気なところはみせないよう言ったのだが、それは気の小さなか弱そうな声だった。
「まさかそっちから連絡くれるなんて、思わなかったよ」
男の表情は見えないが笑っているようなのがわかる。ああ、喋るとやっぱりちょっと気持ち悪いな。好意をむき出しにした男っていうのは。
女子たちが安易に「キモッ」と言うのをなんて残酷な仕打ちだろうと思ってきたが、その気持ちがよくわかった。
佐伯は視線を落とし、もじもじとするようにしていた。あいつ、全然俺の助言わかってないんじゃないか。
「あの……えっと、どうして、オレが男だったって、知ってたんですか?」
単刀直入だった。佐伯にしては珍しい。
「だってずっと見てたからね。去年から、朝のあの時間、何度も同じ車両に乗ってたでしょ。いつも同じ車両にいたんだけど、気付かなかった?」
「ええと……ごめんなさい……」
規則正しく生活していると、朝の流れは決まってくるものだ。俺も名前は知らないが、よく登校時間に見かける人というのは何人かいるし。
でもだからって気付かなかった? とは。思い上がりも甚だしい。
「君が女の子になったら、絶対可愛いと思ったんだ。最初は見た目だけしか知らなかったけど、友達とお話しているのを聞いて確信したよ。きっと君は人を傷つけないし拒んだりしない。受け入れてくれるって!」
「そ、そんなこと……」
……まあ、当たらずも遠からずだ。男は聞いてもないことをつらつらと語り始めた。佐伯は圧倒されている。
言っている内容は、たしかに佐伯ならそう思われることもあるだろうというものだ。ありえなくはない。
だが実際の佐伯はそれなりに文句も言うし、しっかりと断らなくても嫌なことは器用に避けるのだ。たしかに舐められやすいけどさ。
佐伯のゆるい笑顔は若干引きつっているが、そんな細かい表情の変化を読み取れる奴ではないだろう。俺からしたら明らかに佐伯は困っているのに、男の話は止まらない。多分相当強い口調でなければ止まらないだろう。佐伯が苦手とする分野だ。残念だな、男よ。お前と佐伯の相性は多分最悪だよ。
「何度も寝る前考えてたんだ。君が女の子になったら、どんなだろうって。そしたら今朝、思った通りの君を見つけて……、理想通りでびっくりしたよ……」
「え、あの……」
佐伯は何故か顔を赤くしている。
よくはわからないが、服を褒められたのどうのと言っていたし、どうもあいつは褒められると弱いらしい。
ここにきて弱点を知ってしまった。なんだよ、俺が褒めたときはそんな風に照れたりしなかったくせに。
「じゃ、じゃあ、オレを女にしたのは……あなたですか?」
何故だろう。ものすごくおかしな台詞だった。とりようによってはちょっと卑猥だし。実際なにもおかしくないはずなのだが。
ここからの相手の行動を固唾を飲んで見守る。
もしも違うというのなら、それが嘘なのかどうか見極めなければいけない。骨が折れそうだ。
嘘じゃなかったとしても、本人が自覚していない可能性もあるわけだし、そうですかと解放するわけにはいかない。場合によっては日を改めなければいけないかもしれない。長期戦になる可能性は十分あった。
しかし、男の返答は簡潔なものだった。
「多分……そうです、すみません! 責任とります!」
どういう責任だよ。お前しか得しないだろと。思わずツッコミを入れてしまいそうだった。
すぐ横で和泉が浅く小さな息を吐くのが聞こえた。
だってとうとう、犯人がわかったのだ。
こいつだ。ここ数ヶ月、佐伯が悩んだり、ひどい目にあったりした諸悪の根元。元凶。
しかし、和泉が怒りを募らせるよりも先に佐伯は動いた。
一気に男と距離を詰め、ばっと頭を下げた。一瞬遅れて髪がふわんと跳ねた。
「お願いします! 元に戻してください!」
シンプルな願いだった。
ぎゅっと体を固めて、ただ、赦しを待つように、それ以外はなにもいらないというように。
……本当は、もうすっかり女でいることに馴染んで、このままでいいと思ってるんじゃないかとか、どこかで思っていた。俺だけが焦っているようで、佐伯自身はとっくに受け入れてしまっているんじゃないかと。
けれど、そんなものは所詮、部外者の勝手な想像にすぎなかったのだ。
さっきまで佐伯はどちらでも良さそうな態度を取っているように思えたが、そんなものは全部吹き飛んだ。
しかし、男には何も伝わらないらしい。
「えっ……でも、そんなに似合ってるのに……」
「に、似合ってても、でも、男が良いです……。色んな人に迷惑とか、心配とかかけてて、もう、こんなの嫌です」
「そ、そんなこと言われてもなあ……」
「……戻せないんですか?」
「あっいや……」
男は躊躇した。
おそらく、ない、と答えれば佐伯がこの男に用がなくなるということを察したのだろう。その程度の頭は働くのか。あまり良いことではない。「ある」と言えば、そして何か条件を出されれば男の命令に従わざるを得ないからだ。佐伯がハマった罠である。
今回は俺も和泉もいるから、言いなりになるわけないのだが。
「戻せないわけじゃない……けど……」
あからさまに言い淀む姿に、やはりよからぬ画策をしていると感じる。まあ、当然だ。言われるがままに元に戻したんじゃ何がしたかったんだという話だ。
こういう状況の輩がどんなことを条件に出してくるかというのはさすがに察しがつく。
いくらなんでも佐伯ももうそんな手には乗らないだろうが、そろそろ出て行く準備をした方がいい。ちらりと横目で和泉と目を合わせる。
そこで、男の意を決したような声が響いた。
「すみません! 男に戻ってほしくないです!」
虚を突かれた。
条件だの脅しだのすっとばした、あまりにも馬鹿正直な提案だった。
こいつは思ったより馬鹿なのかもしれない。
ふざけるなと殴りに向かいたかった。なんでこいつのわがままに振り回されてるんだ。
「む、無茶を言ってるのはわかってます。でも、朝君の姿を見て、ほっとしたんです! 前はもっと寂しそうな顔をしてたでしょ?」
変わらず、男は勝手なことを言っていた。
ただ朝の電車の中で一緒なだけで、言葉を交わしたこともない人間に、なにがわかるというのか。
「……、男のオレじゃ、だめなの?」
ややあって、佐伯の顔から表情は消えていた。淡々とした声だった。
返事は聞こえなかったが、表情か、なにかで佐伯も察したらしい。俯いた。
佐伯は黙って、男を見つめていた。拳を握って、じっとりとした上目遣いで。
それから、ゆっくりとうなだれ、絞り出すような、こちらからはほぼ聞き取れない声で、何か言った。
「お願い……、……か、条件……てください、……ます、……して……」
風に乗って、言葉の欠片だけが耳に届く。
なんとなく、佐伯が言いそうなことは予想がつくような気がして、でも、やっぱりわからなかった。
すると男は感極まったように佐伯の肩を掴んだ。ひっという佐伯の声にならない悲鳴みたいなものが表情から読み取れた。
その顔に、ツバがかかる勢いで男が叫ぶ。
「そ、それなら! 子供! 子供がほしい!」
「……は?」
あっ、と思った時には和泉が男に跳び蹴りを食らわせていた。
危ないな。佐伯が巻き込まれるところだったじゃないか。
俺たち三人は、予定通り柱と草むらの陰に隠れた。佐伯は川寄りのわかりやすい位置に立って、どこか遠くを眺めている。
風はやや強い。すっかり板に付いた長い髪が、背中を撫でるようにさらさらと揺れていた。
そして、男は現れた。
中肉中背、男にしてはやや髪は長いか。まあ、人のことは言えないのだが。
爽やかな見た目とは言い難い。しかし見るからに怪しい人物でもなかった。
普通なのだ。
あまり印象に残らないというか、覇気がないというか。本当にこいつが? と言いたくなるようなタイプであった。まあ、じゃあどんなタイプを想像していたんだと言われると、言われてみれば確かにこんなもんかとも思えたが。
佐伯は男の登場に気付くなり、神妙な顔でぺこりと会釈し、小走りに駆け寄った。その仕草さえなんだか、俺は少し納得がいかなかった。もっと毅然と振る舞ってほしいのに。
そして男は佐伯の誘導により俺たちに背を向け、佐伯の表情は確認できる配置となった。さすがにこちらの存在がバレるということはなくなっただろう。風向きもちょうど良く、声はなんとか聞き取れる。
「こ、こんにちは。来てくれて、ありがとうございます」
佐伯は緊張した声だ。あまり弱気なところはみせないよう言ったのだが、それは気の小さなか弱そうな声だった。
「まさかそっちから連絡くれるなんて、思わなかったよ」
男の表情は見えないが笑っているようなのがわかる。ああ、喋るとやっぱりちょっと気持ち悪いな。好意をむき出しにした男っていうのは。
女子たちが安易に「キモッ」と言うのをなんて残酷な仕打ちだろうと思ってきたが、その気持ちがよくわかった。
佐伯は視線を落とし、もじもじとするようにしていた。あいつ、全然俺の助言わかってないんじゃないか。
「あの……えっと、どうして、オレが男だったって、知ってたんですか?」
単刀直入だった。佐伯にしては珍しい。
「だってずっと見てたからね。去年から、朝のあの時間、何度も同じ車両に乗ってたでしょ。いつも同じ車両にいたんだけど、気付かなかった?」
「ええと……ごめんなさい……」
規則正しく生活していると、朝の流れは決まってくるものだ。俺も名前は知らないが、よく登校時間に見かける人というのは何人かいるし。
でもだからって気付かなかった? とは。思い上がりも甚だしい。
「君が女の子になったら、絶対可愛いと思ったんだ。最初は見た目だけしか知らなかったけど、友達とお話しているのを聞いて確信したよ。きっと君は人を傷つけないし拒んだりしない。受け入れてくれるって!」
「そ、そんなこと……」
……まあ、当たらずも遠からずだ。男は聞いてもないことをつらつらと語り始めた。佐伯は圧倒されている。
言っている内容は、たしかに佐伯ならそう思われることもあるだろうというものだ。ありえなくはない。
だが実際の佐伯はそれなりに文句も言うし、しっかりと断らなくても嫌なことは器用に避けるのだ。たしかに舐められやすいけどさ。
佐伯のゆるい笑顔は若干引きつっているが、そんな細かい表情の変化を読み取れる奴ではないだろう。俺からしたら明らかに佐伯は困っているのに、男の話は止まらない。多分相当強い口調でなければ止まらないだろう。佐伯が苦手とする分野だ。残念だな、男よ。お前と佐伯の相性は多分最悪だよ。
「何度も寝る前考えてたんだ。君が女の子になったら、どんなだろうって。そしたら今朝、思った通りの君を見つけて……、理想通りでびっくりしたよ……」
「え、あの……」
佐伯は何故か顔を赤くしている。
よくはわからないが、服を褒められたのどうのと言っていたし、どうもあいつは褒められると弱いらしい。
ここにきて弱点を知ってしまった。なんだよ、俺が褒めたときはそんな風に照れたりしなかったくせに。
「じゃ、じゃあ、オレを女にしたのは……あなたですか?」
何故だろう。ものすごくおかしな台詞だった。とりようによってはちょっと卑猥だし。実際なにもおかしくないはずなのだが。
ここからの相手の行動を固唾を飲んで見守る。
もしも違うというのなら、それが嘘なのかどうか見極めなければいけない。骨が折れそうだ。
嘘じゃなかったとしても、本人が自覚していない可能性もあるわけだし、そうですかと解放するわけにはいかない。場合によっては日を改めなければいけないかもしれない。長期戦になる可能性は十分あった。
しかし、男の返答は簡潔なものだった。
「多分……そうです、すみません! 責任とります!」
どういう責任だよ。お前しか得しないだろと。思わずツッコミを入れてしまいそうだった。
すぐ横で和泉が浅く小さな息を吐くのが聞こえた。
だってとうとう、犯人がわかったのだ。
こいつだ。ここ数ヶ月、佐伯が悩んだり、ひどい目にあったりした諸悪の根元。元凶。
しかし、和泉が怒りを募らせるよりも先に佐伯は動いた。
一気に男と距離を詰め、ばっと頭を下げた。一瞬遅れて髪がふわんと跳ねた。
「お願いします! 元に戻してください!」
シンプルな願いだった。
ぎゅっと体を固めて、ただ、赦しを待つように、それ以外はなにもいらないというように。
……本当は、もうすっかり女でいることに馴染んで、このままでいいと思ってるんじゃないかとか、どこかで思っていた。俺だけが焦っているようで、佐伯自身はとっくに受け入れてしまっているんじゃないかと。
けれど、そんなものは所詮、部外者の勝手な想像にすぎなかったのだ。
さっきまで佐伯はどちらでも良さそうな態度を取っているように思えたが、そんなものは全部吹き飛んだ。
しかし、男には何も伝わらないらしい。
「えっ……でも、そんなに似合ってるのに……」
「に、似合ってても、でも、男が良いです……。色んな人に迷惑とか、心配とかかけてて、もう、こんなの嫌です」
「そ、そんなこと言われてもなあ……」
「……戻せないんですか?」
「あっいや……」
男は躊躇した。
おそらく、ない、と答えれば佐伯がこの男に用がなくなるということを察したのだろう。その程度の頭は働くのか。あまり良いことではない。「ある」と言えば、そして何か条件を出されれば男の命令に従わざるを得ないからだ。佐伯がハマった罠である。
今回は俺も和泉もいるから、言いなりになるわけないのだが。
「戻せないわけじゃない……けど……」
あからさまに言い淀む姿に、やはりよからぬ画策をしていると感じる。まあ、当然だ。言われるがままに元に戻したんじゃ何がしたかったんだという話だ。
こういう状況の輩がどんなことを条件に出してくるかというのはさすがに察しがつく。
いくらなんでも佐伯ももうそんな手には乗らないだろうが、そろそろ出て行く準備をした方がいい。ちらりと横目で和泉と目を合わせる。
そこで、男の意を決したような声が響いた。
「すみません! 男に戻ってほしくないです!」
虚を突かれた。
条件だの脅しだのすっとばした、あまりにも馬鹿正直な提案だった。
こいつは思ったより馬鹿なのかもしれない。
ふざけるなと殴りに向かいたかった。なんでこいつのわがままに振り回されてるんだ。
「む、無茶を言ってるのはわかってます。でも、朝君の姿を見て、ほっとしたんです! 前はもっと寂しそうな顔をしてたでしょ?」
変わらず、男は勝手なことを言っていた。
ただ朝の電車の中で一緒なだけで、言葉を交わしたこともない人間に、なにがわかるというのか。
「……、男のオレじゃ、だめなの?」
ややあって、佐伯の顔から表情は消えていた。淡々とした声だった。
返事は聞こえなかったが、表情か、なにかで佐伯も察したらしい。俯いた。
佐伯は黙って、男を見つめていた。拳を握って、じっとりとした上目遣いで。
それから、ゆっくりとうなだれ、絞り出すような、こちらからはほぼ聞き取れない声で、何か言った。
「お願い……、……か、条件……てください、……ます、……して……」
風に乗って、言葉の欠片だけが耳に届く。
なんとなく、佐伯が言いそうなことは予想がつくような気がして、でも、やっぱりわからなかった。
すると男は感極まったように佐伯の肩を掴んだ。ひっという佐伯の声にならない悲鳴みたいなものが表情から読み取れた。
その顔に、ツバがかかる勢いで男が叫ぶ。
「そ、それなら! 子供! 子供がほしい!」
「……は?」
あっ、と思った時には和泉が男に跳び蹴りを食らわせていた。
危ないな。佐伯が巻き込まれるところだったじゃないか。