3章
「ね、久しぶりにうちで遊ばない?」
佐伯からのそんなお誘いは久しぶりであった。
検定試験が終わり、普通の定期考査ほどではないにしろその日はすこしだけ早くに学校が終わった。
みんなカラオケだの帰ってゲームだのに勤しむので、てっきり佐伯もそうするのだと思ったが。
でも本人が誘ってくれたのだから、緊張とか警戒とかも解かれたって思っていいんだろうか。二人きりで、しかも佐伯の家で遊ぶなんていつぶりだろうか。
電車代なんて大した問題ではなかった。佐伯は半分払うよ、なんて言っていたが。俺は男らしく断れたのである。
「あ、ちょっと待ってて。荷物置いて、ちゃっちゃと着替えてくるから」
和泉の家の前で俺を待機させて、佐伯はパタパタと中に入っていった。
待ってて、と言うことは佐伯の家の方で遊ぶってことか。
まあ、居候の身で友達を招くのは気を遣うよな。
「お、お待たせ」
「おう、おお?」
痺れを切らして中に入れてもらおうかと思い始めていた頃、ようやく出てきたと思うと、佐伯は緊張するような顔で少し身を縮こませていた。
その格好は少し余裕のあるニットに、ミニスカートだった。
シンプルだし、色も地味だけど、一目で女子らしいと思うような服装。
太もも丸出しだし。
「デ、デートでも行くんですか……?」
思わず敬語にもなる。
「い、行かないよ……、これ……買ってもらったから、どうかなって……」
誰に買ってもらったんだろう。男の時はそんなことなかったのに。いつも小学生のようないかにもこだわりのない服を着ていた。
やっぱり女子には着させ甲斐があるもんな。そりゃ金出すやつはいるか。
「ま、まあ、いいんじゃないでしょうか……」
「ほんと?」
「いや、知らないけど……」
そう言われて嬉しいのかどうか。
お世辞抜きにしても佐伯のスタイルに合っていると思う。河合さんが同じ格好しても、また印象が違うだろう。
かといって河合さんが良く着るようないかにもガーリィな格好はちょっと雰囲気に合わない気がする。
良く動き回るからズボンの方がいいと思うけど……でもロングスカートよりはミニの方が活動的で似合ってるのかな。パンツ見えないか心配になるけど。
ひとしきり俺の前でもじもじした後、耐えきれなくなったように「もー行くよ!」と俺の腕をぺしぺし叩きながら追い立てた。
照れるならズボンとか履けばいいのに……。
---
佐伯の家はでかい。
俺の家は横にでかいけど、佐伯の家は縦にでかい。
三階建て地下付き。
四人兄弟らしいが、それでもだいぶ余裕があるんじゃないだろうか。
地下は倉庫で、一階にリビングやキッチンなど、二階に子供部屋が3つとおまけにシャワールーム、三階に親の部屋と姉の部屋、と言うのがざっくりとした部屋割りらしい。俺はもちろん佐伯の部屋以外ろくに見たことないけど。ちなみになんとエレベーターもついている。
しかし佐伯の家はいつ来ても静かだった。
「お姉ちゃんと弟は部活で帰り遅いし、兄貴はバイトか遊びに行ってるから、日中はほとんど誰もいないんだ。代わりにその間、お手伝いさんが掃除とかしに来てくれるけどね」
とのことである。
食事などは各自、毎月一人一人食費、日用品などジャンルわけして決まった金額が渡されて自分で管理するらしい。レシートを提出するため好き放題には使えないらしいけど。
放任主義も極まれりというか、なんというか……。いや、金銭面はきっちり管理されてるから完全に放任とも違うか。
金銭感覚とか、自立心なんかは相当鍛えられるだろうけど……俺はそう言う家はちょっとしんどいな。
しんどかろうとどうしようもないのだが。
むしろ佐伯にとっては過保護な俺の家なんかは窮屈でたまらないのかもしれないし。
そんなわけで佐伯家は遊びに行くのには最適な場所だった。家族に気を遣うこともないし。
佐伯が不良だったらあっという間に溜まり場になってるんだろうな。
ちなみに夜になると隣の部屋で、お兄さんの友達集団がお酒持ち寄ったりして騒ぐらしい。そりゃ和泉家に避難もするだろう。
部屋に入るなり佐伯はベッドに飛び乗った。
一瞬パンツが見えてしまった……。
「やっぱり自分の部屋は落ち着くね〜」
「佐伯でも和泉ん家だと気を遣うんだ」
「まあねえ、緊張とかはしないけど、昭彦のものだし、雑には扱えないじゃん」
ここ座って、とベッドの縁をぽんぽんと示され、それに従う。
佐伯はそのままベッドの上をゴロゴロ転がって、ベッドの足側に置いてある小さい冷蔵庫の扉を開ける。
「なんか飲む? ジュースあるよ」
「ああ、うん、飲む」
「いっぱい飲んでいいからね~」
「処理させようとするな」
ああいうの、いいよなあ。好きな時に飲み物やおやつ食べられて。
でもうちはだめだろうな。飲み物飲みにリビングにいって、母親と話をしたり、お菓子摘んだりする時間がなくなってしまうと、拗ねられそうだし。
何より俺がそんな環境になったら太る。間違いなく。おやつを溜め込んで食べまくる。
「和泉家が本拠地、ここは秘密基地って感じかな」
「偉い金のかかった秘密基地だな」
なんて羨ましい二重生活。
「女の子の部屋で二人っきりってどきどきする?」
「ど、どきどきって……っていうか女の子の部屋……ではないだろ、この内装は」
「……たしかに。絶対お金かかるよね、女の子らしい部屋って」
そういう現実的な話はやめてほしい……夢を抱いていたいのだ。
しかし、当の佐伯からはっきり口にされると、ちょっと、女子と二人っきりかあ……みたいな気持ちになってしまうではないか。
女の子らしい服な分余計に。制服はもう見慣れたもんだけどさ。
やっぱり生地も丈も違うし……。
「桐谷赤くなってる」
「そ、そんなわけないだろ、布団の色の反射だよ、これは」
「どうかなー」
そのまま佐伯はぱたりとベッドに仰向けになった。両手は上げて、足は縁から下ろしている体勢だ。
なんだかおそろしく無防備に感じた。こんな格好、きっと今までだってなんとなしにやっていたはずなのに。殆ど平らな胸が、仰向けになるとちょっとだけ凹凸があるのがわかるせいだろうか。いや、あれは服の皺の厚みかもしれないぞ。騙されるな。
ぷらぷらと足を揺らしてまったりとしているのを横に、俺はなんとか意識を逸した。
こいつ、特に何をする予定もなく誘ったのか。色々とあるだろうに。
いつもはあれやこれやゲームやおもちゃを引っ張り出してくるのにその気配がなかった。
もしかして女になってから趣味も女に近づいてきて、ゲームへの興味も失われてしまったんだろうか……。
すっかりジュースを飲み干し、テーブルに置くと手持ち無沙汰になってしまう。
佐伯は横で仰向けになって、何か考えているのか、何も考えていないのか、良くわからない顔で天井を見上げていた。
「な……何する? 俺でもできそうなゲームとか……何かあるだろ?」
そう尋ねるとちろりと佐伯の目がこっちを向く。
「うん……」
しかしまた天井に戻ってしまった。
どうしたんだろう。
もしかして、遊ぶと言うのはただの口実で、また何かあったんだろうか。
相談とか、報告とか、そういうことをする場を作りたかったのだろうか。
だとしたらその雰囲気を崩すわけにはいかないだろう。
佐伯の出方を伺う。
相変わらず天井を見上げて、手は服とシーツを掴んで力を入れたり、抜いたりを繰り返している。
いつもどうでもいいことはペラペラと喋るくせに、急に大人しくなるのでこちらもやりにくい。
思えば裕子さんと顔を合わせるときもそうだった。
今は裕子さんがまとまった休みを取るたびに実家に帰っているらしいのだが、果たしてちゃんと意思疎通できているんだろうか……。
「ゆ、裕子さんとはうまくやれてる?」
「え?」
のそりと佐伯の頭がこっちを向いた。それから一拍置いて言葉の意味を理解したのか、また頭の角度を戻す。
「ああ……うん……、まあ、失恋したも同然だしね」
「え、そうなの?」
「さすがにねえ。もう完全にオレは妹って感じ。そんな相手恋愛対象になんないでしょ」
ま、まあ、確かに複雑な状況ではあるけど。
元々弟同然の扱いで、なんとか異性として意識してもらえないかと画策していたのに、一周回って同性になっちゃったんだもんな……。
「でもオレももう開き直っちゃって、これならこれでいいやーってカンジ」
「それでいいのか?」
「うーん……。元々付き合ってどうしたいって気持ちはそんなになかったしねえ……。一緒にいれたらそれが一番だったから」
「……で、でもさあ、そのうち他のどこの馬の骨とも知れない輩にとられるのはやだろ?」
「それは、そうかもしんないけど……、どうしようもないし……」
いかん。完全に諦めモードだ。
ただでさえ裕子さんに関してはうだうだと言い訳して行動に移せないヘタレだったのに、トドメが刺さったようにやる気というものが失われている。
「それになんか、ねえ」
佐伯は寝転がったまま膝を立て、小さなため息をついた。今もしかしてパンツ丸見えなんだろうか。それが気になってしょうがない。
「女に変わってから、最初のうちはドキドキしたり、恥ずかしかったりしたんだけど、最近は女同士で触れ合ったり、すぐ近くにいても、なんとも思わないんだ」
「え……それって……」
……つまり、中身も女に近づいていると言うことだろうか。見た感じ、振る舞い自体は前と変わったようには思わないけど。
和泉が懸念していたことである。
もしかして裕子さんが自分に対してどうの、の前に、佐伯にとって裕子さんが恋愛対象から外れてしまったということだろうか。
性別が変わるだけで、長年抱いていた恋愛感情が消えてしまうなんて、そんなものなんだろうか。
意外だった。
特に佐伯は元々、性欲みたいなものが薄そうだし、何より気軽な好意とは違う、もっと信仰めいたものを感じていたから、性別なんて大した問題ではないんだろうと勝手に思っていた。
いや、好意が消えたわけじゃなくて、性質が変わっただけと思うと、おかしな話ではないんだろうか。
それほど性的な繋がりに固執していなかった分、同性同士の関係性であれば、恋愛に持っていかなくても十分満たせると言うことなんだろうか。
「……ううーむ」
「何桐谷が悩んでんの」
佐伯が笑って、横を向いた。
体ごと俺の方を向いて、相変わらず寝転んだまま。
「おお、すごい。くびれがわかる」
「でしょー。セクシー?」
「う、うーん」
セクシー……? セクシーかな? 女性らしさを意識してしまったが、色っぽいとはちょっと違う気もする。
立っている時はやや大きめの服に隠れていたけど、横を向いて寝ると、重力で服が体に沿ってラインを作っていた。肩と腰の間のお腹のあたりが谷になっている。
いや、でもこれはちょっとセクハラっぽかったかな。
佐伯は全く気にしてないみたいだけど……。
「……あのね」
佐伯が何か切り出そうとして、しかしそのまま黙る。
また、何も掴んでいない手を小さくぐーぱーしている。
何かの癖だろうか。今まであまり見たことのない仕草だ。
「思い出すんだよね」
何をだろう。
佐伯が話を組み立てるのをじっと待つ。
「寝る時とか、こうしてゴロゴロしてる時とか、起き上がった時とか、そう言う時ね、なんか、なんだろ。デジャヴュみたいな、一瞬だけ、あ、あの時と同じだってなるんだよね」
あの時。
そうやって明言を避けるのは、あんまり、口に出すべきじゃない時のことだろうか。
俺はそっと居住まいを正した。茶化したりしていい話ではない。
「そう言う時、自分が自分じゃないような気がして、自分がどこにもいないような気がするんだ」
どういう言葉をかけていいのかわからない。
俺の表情を敏感に察したのか、佐伯は少し早口で付け足した。
「あ、いや。そんな深刻な感じじゃないんだよ。ただね、ちょっと、ぼーっとそんな風に考えちゃうってだけ。感情が爆発したりとか……そう言うのはないよ」
そう言う問題なのだろうか。
度合いじゃなくて、異変があるかどうかが重要だと思うのだが。
「……ごめん、こんな話されても反応に困るよね」
「い、いや。まあ、なんて言えばいいのか、わからないけど……、話してくれるのは、嬉しいし……」
謝られてしまい、俺は思わずベッドの上で正座をして向き直っていた。
月並みなことしか言えない。でもちゃんと聞くつもりであることは伝えたかったのだ。
佐伯は少しだけ笑って、けどすぐにまたその表情は消えた。
「それでね、どうやったらそれが消えるだろうって考えたのね」
一瞬言い淀んだ後佐伯は続ける。
いじいじとお腹の上で指を絡ませている。
「いい……って言うのは、贅沢だけど……あのさ……あのね、その……違う記憶で薄めるっていうか……う、上書きできたら、思い出さなくなるかなって、思ったんだよ」
ふむ。確かに、そうするのが一番だろう。
心理学なんてまだ勉強したことがないからわからないけど、時間が経って、他のことで埋めていけば少しずつ気持ちをずらしていけるだろうと言うのは考えつく。
「そ、それで……、その……もし、嫌じゃなければ……すっごく、嫌だったら別にいいんだけど……大丈夫だったら、その……桐谷に……付き合って、欲しくて……」
佐伯は顔を赤くしていた。耳までだ。
必死に落ち着こうとしているが、気持ちが昂っているようだった。
らしくないなと思った。
「そんなの、全然いいよ」
「ほ、ほんと……!?」
「うん、楽しいこといっぱいすれば、嫌なことなんてすぐ過去のことになるよ。例えば……遊園地とか、そういう非日常的なとこに行ったり、目新しいことにどんどん挑戦していけば、きっと大丈夫。いくらでも付き合うよ」
「……えっ?」
佐伯が固まる。
あれ? 何か間違えただろうか。
佐伯の顔は限界を迎えたとばかり思っていたのに、さらに真っ赤に染まっていって、その場でこちらに背を向け体を丸くしてしまった。
「……ご、ごめん。あれ? なんの話? 俺てっきり……その、嫌な過去を忘れたいのかと……」
「ううん、大丈夫、あってる……」
くぐもった声で佐伯は自分の腕にぐりぐりと顔を押し付けながら言った。
それからしばらくうーうー言って向こう側を向いたりとじたばたしている。ど、どういう反応だ!?
俺は必死に宥めるような、情けない声をかける。
「こ、今度の休みとかに河合さんとかも誘っていこうよ、遊園地。本格的に冬になる前にさ」
「……そ……そうだね、ああ、ううん、でもちょっと、お財布厳しいかも」
「あ、ああ、そっか……」
佐伯の気持ちは上がりきらないようだ。
確かに結構値が張るもんな……河合さんも、急に誘われても困るか。
そうか、それなら結構限られてくるな。
金がかからず、新鮮で楽しめるもの。ううーむ。
「じゃあほら、寒いけど、キャンプとか! うち、道具あるよ。今まで紅一点だったから諦めてたけど、女子もいるって言うなら河合さんとこも許してもらえそう……じゃない? いや、やっぱ厳しいかな……」
ああでもないこうでもないと頭を捻る。佐伯がこういうことを打ち明けてくれたのは、一人じゃ案が浮かばなかったからだろう。
いつのまにか佐伯は暴れるのをやめていた。
すごすごと体を起こし、いつものようにベッドの縁に座る。
「桐谷、河合さんのこと好きなんだね」
「え?」
なんだ? 急に。
そりゃあ河合さんは話題に登りはしたけど、そういう発想になる話し方はしなかったはずだが。
「なんか、伝わってきたよー」
「い、いや。別に、好きっていうか、みんなと同じ感じにね? ほら、河合さんには、和泉いるし」
「わかったわかった。ごめんね」
何がごめんねなのか。佐伯はよし!と気合を入れながら立ち上がり、テレビの方に向かった。
「ゲームしよっ! 桐谷をちゃんと現代っ子にしてあげないとね!」
「べ、別にゲームできなくても現代っ子だろ……」
一体なにがきっかけになったのか、佐伯の気分はすっかり切り替わったようだった。
先程までの狼狽えたような雰囲気は欠片もなく、いつもの空気になっている。
さっそく床にいくつもゲームを並べて、どれにするか吟味していた。俺はよくわからないので、ただ眺めるしかない。
なんだろう。なんだかもやもやした。でも佐伯に文句があるわけではないのだ。なんだか、うん、経験がある。俺が早とちりとか、勘違いや間違いをしたのに、佐伯は間違いを指摘せず、そっと俺の発言に合わせてくれるのだ。そんなことはたまにあった。
それに似た感覚だ。しかし自分では何が間違ってるのかはわからなかった。そして佐伯はむざむざ種明かしをしたりはしないのだ。
まあ、これも俺の勘違いかもしれないけどさ……。
---
「せめて次は決定ボタンの位置覚えててよねー」
「ううーん……」
すっかり日が暮れていた。
慣れない動きに手が疲れた。脳も普段使わない部分を使った気がする。案外ゲームもいい勉強になりそうだ。
「駅まで送ろっか」
「いいよ、一応女子なんだから、夜道一人で歩くのはダメだろ」
女子扱いをするつもりはないが、不審者は佐伯を女だと疑いもしないだろうしな。ちゃんとそこは気をつけてもらいたい。
ふと、俺が佐伯家をでようとしているのに、佐伯は玄関で見送る姿勢だと言うことに気付く。
「あれ、和泉家に戻んないの?」
「ああ、うん。おばさんたちが帰るまではこっちでごろごろしてよっかなって思って」
「そっか。じゃあ、近所だからって油断するなよ」
「大丈夫だって! 本当にすぐそばだし。そんなに気にしてたら外出れないよ」
追い立てるようにばいばーいと手を振る佐伯と、玄関で別れた。
今日の佐伯はなんだか変だった。
……いや、でも、変ってことは、平静を取り繕ったりしていないという意味だ。佐伯の性格を考えると、多分良いことだろう。
他に事情を知る人がいないとはいえ、前と比べたら少しは信頼されてるってことだよな。うん。
少しくらいは力になれてるといいんだけどな。
さすがに頼もしいとは思えないだろうけど、せめて困ったときに声をかけようって思えるくらいには、そういう友人になれてるといいな。
そう思うと、帰りの長い道のりなんて気にならなかった。
佐伯からのそんなお誘いは久しぶりであった。
検定試験が終わり、普通の定期考査ほどではないにしろその日はすこしだけ早くに学校が終わった。
みんなカラオケだの帰ってゲームだのに勤しむので、てっきり佐伯もそうするのだと思ったが。
でも本人が誘ってくれたのだから、緊張とか警戒とかも解かれたって思っていいんだろうか。二人きりで、しかも佐伯の家で遊ぶなんていつぶりだろうか。
電車代なんて大した問題ではなかった。佐伯は半分払うよ、なんて言っていたが。俺は男らしく断れたのである。
「あ、ちょっと待ってて。荷物置いて、ちゃっちゃと着替えてくるから」
和泉の家の前で俺を待機させて、佐伯はパタパタと中に入っていった。
待ってて、と言うことは佐伯の家の方で遊ぶってことか。
まあ、居候の身で友達を招くのは気を遣うよな。
「お、お待たせ」
「おう、おお?」
痺れを切らして中に入れてもらおうかと思い始めていた頃、ようやく出てきたと思うと、佐伯は緊張するような顔で少し身を縮こませていた。
その格好は少し余裕のあるニットに、ミニスカートだった。
シンプルだし、色も地味だけど、一目で女子らしいと思うような服装。
太もも丸出しだし。
「デ、デートでも行くんですか……?」
思わず敬語にもなる。
「い、行かないよ……、これ……買ってもらったから、どうかなって……」
誰に買ってもらったんだろう。男の時はそんなことなかったのに。いつも小学生のようないかにもこだわりのない服を着ていた。
やっぱり女子には着させ甲斐があるもんな。そりゃ金出すやつはいるか。
「ま、まあ、いいんじゃないでしょうか……」
「ほんと?」
「いや、知らないけど……」
そう言われて嬉しいのかどうか。
お世辞抜きにしても佐伯のスタイルに合っていると思う。河合さんが同じ格好しても、また印象が違うだろう。
かといって河合さんが良く着るようないかにもガーリィな格好はちょっと雰囲気に合わない気がする。
良く動き回るからズボンの方がいいと思うけど……でもロングスカートよりはミニの方が活動的で似合ってるのかな。パンツ見えないか心配になるけど。
ひとしきり俺の前でもじもじした後、耐えきれなくなったように「もー行くよ!」と俺の腕をぺしぺし叩きながら追い立てた。
照れるならズボンとか履けばいいのに……。
---
佐伯の家はでかい。
俺の家は横にでかいけど、佐伯の家は縦にでかい。
三階建て地下付き。
四人兄弟らしいが、それでもだいぶ余裕があるんじゃないだろうか。
地下は倉庫で、一階にリビングやキッチンなど、二階に子供部屋が3つとおまけにシャワールーム、三階に親の部屋と姉の部屋、と言うのがざっくりとした部屋割りらしい。俺はもちろん佐伯の部屋以外ろくに見たことないけど。ちなみになんとエレベーターもついている。
しかし佐伯の家はいつ来ても静かだった。
「お姉ちゃんと弟は部活で帰り遅いし、兄貴はバイトか遊びに行ってるから、日中はほとんど誰もいないんだ。代わりにその間、お手伝いさんが掃除とかしに来てくれるけどね」
とのことである。
食事などは各自、毎月一人一人食費、日用品などジャンルわけして決まった金額が渡されて自分で管理するらしい。レシートを提出するため好き放題には使えないらしいけど。
放任主義も極まれりというか、なんというか……。いや、金銭面はきっちり管理されてるから完全に放任とも違うか。
金銭感覚とか、自立心なんかは相当鍛えられるだろうけど……俺はそう言う家はちょっとしんどいな。
しんどかろうとどうしようもないのだが。
むしろ佐伯にとっては過保護な俺の家なんかは窮屈でたまらないのかもしれないし。
そんなわけで佐伯家は遊びに行くのには最適な場所だった。家族に気を遣うこともないし。
佐伯が不良だったらあっという間に溜まり場になってるんだろうな。
ちなみに夜になると隣の部屋で、お兄さんの友達集団がお酒持ち寄ったりして騒ぐらしい。そりゃ和泉家に避難もするだろう。
部屋に入るなり佐伯はベッドに飛び乗った。
一瞬パンツが見えてしまった……。
「やっぱり自分の部屋は落ち着くね〜」
「佐伯でも和泉ん家だと気を遣うんだ」
「まあねえ、緊張とかはしないけど、昭彦のものだし、雑には扱えないじゃん」
ここ座って、とベッドの縁をぽんぽんと示され、それに従う。
佐伯はそのままベッドの上をゴロゴロ転がって、ベッドの足側に置いてある小さい冷蔵庫の扉を開ける。
「なんか飲む? ジュースあるよ」
「ああ、うん、飲む」
「いっぱい飲んでいいからね~」
「処理させようとするな」
ああいうの、いいよなあ。好きな時に飲み物やおやつ食べられて。
でもうちはだめだろうな。飲み物飲みにリビングにいって、母親と話をしたり、お菓子摘んだりする時間がなくなってしまうと、拗ねられそうだし。
何より俺がそんな環境になったら太る。間違いなく。おやつを溜め込んで食べまくる。
「和泉家が本拠地、ここは秘密基地って感じかな」
「偉い金のかかった秘密基地だな」
なんて羨ましい二重生活。
「女の子の部屋で二人っきりってどきどきする?」
「ど、どきどきって……っていうか女の子の部屋……ではないだろ、この内装は」
「……たしかに。絶対お金かかるよね、女の子らしい部屋って」
そういう現実的な話はやめてほしい……夢を抱いていたいのだ。
しかし、当の佐伯からはっきり口にされると、ちょっと、女子と二人っきりかあ……みたいな気持ちになってしまうではないか。
女の子らしい服な分余計に。制服はもう見慣れたもんだけどさ。
やっぱり生地も丈も違うし……。
「桐谷赤くなってる」
「そ、そんなわけないだろ、布団の色の反射だよ、これは」
「どうかなー」
そのまま佐伯はぱたりとベッドに仰向けになった。両手は上げて、足は縁から下ろしている体勢だ。
なんだかおそろしく無防備に感じた。こんな格好、きっと今までだってなんとなしにやっていたはずなのに。殆ど平らな胸が、仰向けになるとちょっとだけ凹凸があるのがわかるせいだろうか。いや、あれは服の皺の厚みかもしれないぞ。騙されるな。
ぷらぷらと足を揺らしてまったりとしているのを横に、俺はなんとか意識を逸した。
こいつ、特に何をする予定もなく誘ったのか。色々とあるだろうに。
いつもはあれやこれやゲームやおもちゃを引っ張り出してくるのにその気配がなかった。
もしかして女になってから趣味も女に近づいてきて、ゲームへの興味も失われてしまったんだろうか……。
すっかりジュースを飲み干し、テーブルに置くと手持ち無沙汰になってしまう。
佐伯は横で仰向けになって、何か考えているのか、何も考えていないのか、良くわからない顔で天井を見上げていた。
「な……何する? 俺でもできそうなゲームとか……何かあるだろ?」
そう尋ねるとちろりと佐伯の目がこっちを向く。
「うん……」
しかしまた天井に戻ってしまった。
どうしたんだろう。
もしかして、遊ぶと言うのはただの口実で、また何かあったんだろうか。
相談とか、報告とか、そういうことをする場を作りたかったのだろうか。
だとしたらその雰囲気を崩すわけにはいかないだろう。
佐伯の出方を伺う。
相変わらず天井を見上げて、手は服とシーツを掴んで力を入れたり、抜いたりを繰り返している。
いつもどうでもいいことはペラペラと喋るくせに、急に大人しくなるのでこちらもやりにくい。
思えば裕子さんと顔を合わせるときもそうだった。
今は裕子さんがまとまった休みを取るたびに実家に帰っているらしいのだが、果たしてちゃんと意思疎通できているんだろうか……。
「ゆ、裕子さんとはうまくやれてる?」
「え?」
のそりと佐伯の頭がこっちを向いた。それから一拍置いて言葉の意味を理解したのか、また頭の角度を戻す。
「ああ……うん……、まあ、失恋したも同然だしね」
「え、そうなの?」
「さすがにねえ。もう完全にオレは妹って感じ。そんな相手恋愛対象になんないでしょ」
ま、まあ、確かに複雑な状況ではあるけど。
元々弟同然の扱いで、なんとか異性として意識してもらえないかと画策していたのに、一周回って同性になっちゃったんだもんな……。
「でもオレももう開き直っちゃって、これならこれでいいやーってカンジ」
「それでいいのか?」
「うーん……。元々付き合ってどうしたいって気持ちはそんなになかったしねえ……。一緒にいれたらそれが一番だったから」
「……で、でもさあ、そのうち他のどこの馬の骨とも知れない輩にとられるのはやだろ?」
「それは、そうかもしんないけど……、どうしようもないし……」
いかん。完全に諦めモードだ。
ただでさえ裕子さんに関してはうだうだと言い訳して行動に移せないヘタレだったのに、トドメが刺さったようにやる気というものが失われている。
「それになんか、ねえ」
佐伯は寝転がったまま膝を立て、小さなため息をついた。今もしかしてパンツ丸見えなんだろうか。それが気になってしょうがない。
「女に変わってから、最初のうちはドキドキしたり、恥ずかしかったりしたんだけど、最近は女同士で触れ合ったり、すぐ近くにいても、なんとも思わないんだ」
「え……それって……」
……つまり、中身も女に近づいていると言うことだろうか。見た感じ、振る舞い自体は前と変わったようには思わないけど。
和泉が懸念していたことである。
もしかして裕子さんが自分に対してどうの、の前に、佐伯にとって裕子さんが恋愛対象から外れてしまったということだろうか。
性別が変わるだけで、長年抱いていた恋愛感情が消えてしまうなんて、そんなものなんだろうか。
意外だった。
特に佐伯は元々、性欲みたいなものが薄そうだし、何より気軽な好意とは違う、もっと信仰めいたものを感じていたから、性別なんて大した問題ではないんだろうと勝手に思っていた。
いや、好意が消えたわけじゃなくて、性質が変わっただけと思うと、おかしな話ではないんだろうか。
それほど性的な繋がりに固執していなかった分、同性同士の関係性であれば、恋愛に持っていかなくても十分満たせると言うことなんだろうか。
「……ううーむ」
「何桐谷が悩んでんの」
佐伯が笑って、横を向いた。
体ごと俺の方を向いて、相変わらず寝転んだまま。
「おお、すごい。くびれがわかる」
「でしょー。セクシー?」
「う、うーん」
セクシー……? セクシーかな? 女性らしさを意識してしまったが、色っぽいとはちょっと違う気もする。
立っている時はやや大きめの服に隠れていたけど、横を向いて寝ると、重力で服が体に沿ってラインを作っていた。肩と腰の間のお腹のあたりが谷になっている。
いや、でもこれはちょっとセクハラっぽかったかな。
佐伯は全く気にしてないみたいだけど……。
「……あのね」
佐伯が何か切り出そうとして、しかしそのまま黙る。
また、何も掴んでいない手を小さくぐーぱーしている。
何かの癖だろうか。今まであまり見たことのない仕草だ。
「思い出すんだよね」
何をだろう。
佐伯が話を組み立てるのをじっと待つ。
「寝る時とか、こうしてゴロゴロしてる時とか、起き上がった時とか、そう言う時ね、なんか、なんだろ。デジャヴュみたいな、一瞬だけ、あ、あの時と同じだってなるんだよね」
あの時。
そうやって明言を避けるのは、あんまり、口に出すべきじゃない時のことだろうか。
俺はそっと居住まいを正した。茶化したりしていい話ではない。
「そう言う時、自分が自分じゃないような気がして、自分がどこにもいないような気がするんだ」
どういう言葉をかけていいのかわからない。
俺の表情を敏感に察したのか、佐伯は少し早口で付け足した。
「あ、いや。そんな深刻な感じじゃないんだよ。ただね、ちょっと、ぼーっとそんな風に考えちゃうってだけ。感情が爆発したりとか……そう言うのはないよ」
そう言う問題なのだろうか。
度合いじゃなくて、異変があるかどうかが重要だと思うのだが。
「……ごめん、こんな話されても反応に困るよね」
「い、いや。まあ、なんて言えばいいのか、わからないけど……、話してくれるのは、嬉しいし……」
謝られてしまい、俺は思わずベッドの上で正座をして向き直っていた。
月並みなことしか言えない。でもちゃんと聞くつもりであることは伝えたかったのだ。
佐伯は少しだけ笑って、けどすぐにまたその表情は消えた。
「それでね、どうやったらそれが消えるだろうって考えたのね」
一瞬言い淀んだ後佐伯は続ける。
いじいじとお腹の上で指を絡ませている。
「いい……って言うのは、贅沢だけど……あのさ……あのね、その……違う記憶で薄めるっていうか……う、上書きできたら、思い出さなくなるかなって、思ったんだよ」
ふむ。確かに、そうするのが一番だろう。
心理学なんてまだ勉強したことがないからわからないけど、時間が経って、他のことで埋めていけば少しずつ気持ちをずらしていけるだろうと言うのは考えつく。
「そ、それで……、その……もし、嫌じゃなければ……すっごく、嫌だったら別にいいんだけど……大丈夫だったら、その……桐谷に……付き合って、欲しくて……」
佐伯は顔を赤くしていた。耳までだ。
必死に落ち着こうとしているが、気持ちが昂っているようだった。
らしくないなと思った。
「そんなの、全然いいよ」
「ほ、ほんと……!?」
「うん、楽しいこといっぱいすれば、嫌なことなんてすぐ過去のことになるよ。例えば……遊園地とか、そういう非日常的なとこに行ったり、目新しいことにどんどん挑戦していけば、きっと大丈夫。いくらでも付き合うよ」
「……えっ?」
佐伯が固まる。
あれ? 何か間違えただろうか。
佐伯の顔は限界を迎えたとばかり思っていたのに、さらに真っ赤に染まっていって、その場でこちらに背を向け体を丸くしてしまった。
「……ご、ごめん。あれ? なんの話? 俺てっきり……その、嫌な過去を忘れたいのかと……」
「ううん、大丈夫、あってる……」
くぐもった声で佐伯は自分の腕にぐりぐりと顔を押し付けながら言った。
それからしばらくうーうー言って向こう側を向いたりとじたばたしている。ど、どういう反応だ!?
俺は必死に宥めるような、情けない声をかける。
「こ、今度の休みとかに河合さんとかも誘っていこうよ、遊園地。本格的に冬になる前にさ」
「……そ……そうだね、ああ、ううん、でもちょっと、お財布厳しいかも」
「あ、ああ、そっか……」
佐伯の気持ちは上がりきらないようだ。
確かに結構値が張るもんな……河合さんも、急に誘われても困るか。
そうか、それなら結構限られてくるな。
金がかからず、新鮮で楽しめるもの。ううーむ。
「じゃあほら、寒いけど、キャンプとか! うち、道具あるよ。今まで紅一点だったから諦めてたけど、女子もいるって言うなら河合さんとこも許してもらえそう……じゃない? いや、やっぱ厳しいかな……」
ああでもないこうでもないと頭を捻る。佐伯がこういうことを打ち明けてくれたのは、一人じゃ案が浮かばなかったからだろう。
いつのまにか佐伯は暴れるのをやめていた。
すごすごと体を起こし、いつものようにベッドの縁に座る。
「桐谷、河合さんのこと好きなんだね」
「え?」
なんだ? 急に。
そりゃあ河合さんは話題に登りはしたけど、そういう発想になる話し方はしなかったはずだが。
「なんか、伝わってきたよー」
「い、いや。別に、好きっていうか、みんなと同じ感じにね? ほら、河合さんには、和泉いるし」
「わかったわかった。ごめんね」
何がごめんねなのか。佐伯はよし!と気合を入れながら立ち上がり、テレビの方に向かった。
「ゲームしよっ! 桐谷をちゃんと現代っ子にしてあげないとね!」
「べ、別にゲームできなくても現代っ子だろ……」
一体なにがきっかけになったのか、佐伯の気分はすっかり切り替わったようだった。
先程までの狼狽えたような雰囲気は欠片もなく、いつもの空気になっている。
さっそく床にいくつもゲームを並べて、どれにするか吟味していた。俺はよくわからないので、ただ眺めるしかない。
なんだろう。なんだかもやもやした。でも佐伯に文句があるわけではないのだ。なんだか、うん、経験がある。俺が早とちりとか、勘違いや間違いをしたのに、佐伯は間違いを指摘せず、そっと俺の発言に合わせてくれるのだ。そんなことはたまにあった。
それに似た感覚だ。しかし自分では何が間違ってるのかはわからなかった。そして佐伯はむざむざ種明かしをしたりはしないのだ。
まあ、これも俺の勘違いかもしれないけどさ……。
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「せめて次は決定ボタンの位置覚えててよねー」
「ううーん……」
すっかり日が暮れていた。
慣れない動きに手が疲れた。脳も普段使わない部分を使った気がする。案外ゲームもいい勉強になりそうだ。
「駅まで送ろっか」
「いいよ、一応女子なんだから、夜道一人で歩くのはダメだろ」
女子扱いをするつもりはないが、不審者は佐伯を女だと疑いもしないだろうしな。ちゃんとそこは気をつけてもらいたい。
ふと、俺が佐伯家をでようとしているのに、佐伯は玄関で見送る姿勢だと言うことに気付く。
「あれ、和泉家に戻んないの?」
「ああ、うん。おばさんたちが帰るまではこっちでごろごろしてよっかなって思って」
「そっか。じゃあ、近所だからって油断するなよ」
「大丈夫だって! 本当にすぐそばだし。そんなに気にしてたら外出れないよ」
追い立てるようにばいばーいと手を振る佐伯と、玄関で別れた。
今日の佐伯はなんだか変だった。
……いや、でも、変ってことは、平静を取り繕ったりしていないという意味だ。佐伯の性格を考えると、多分良いことだろう。
他に事情を知る人がいないとはいえ、前と比べたら少しは信頼されてるってことだよな。うん。
少しくらいは力になれてるといいんだけどな。
さすがに頼もしいとは思えないだろうけど、せめて困ったときに声をかけようって思えるくらいには、そういう友人になれてるといいな。
そう思うと、帰りの長い道のりなんて気にならなかった。