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3章

 一緒に帰る、と言っても俺と佐伯の通学路はほぼ正反対の方向だ。
 いつも四人で帰る時は、なんとなく大回りしてみたりはするけど、結局途中ですぐ別れてしまうのだ。

「どっか寄る?」

 佐伯の提案に少し悩む。
 話の内容的に、ファミレスなんかでするものではないだろうし。
 できれば俺か佐伯の家の方がいい気がするが、それはお互い交通費もかかるし、移動時間を差し引くとあまり長居もできないだろう。
 今まで二人で、主に河合さんとか裕子さんについて人目を避けて話し合う時というのは示し合わせてではなく、なんとなく周りに人がいないので……という状況ありきだった。自分から二人きりで話せる環境を作るということはほぼなかったのである。

「ああ……、じゃあカラオケ行こうか」
「え」

 佐伯は何故か固まって、言い訳を探すように口を開けたまま瞳をキョロキョロ動かす。
 そういえば、佐伯は音痴をからかわれるのが嫌だとかで、積極的にカラオケに行こうとはしなかったか。
 大人数なら盛り上げ担当になるだとか言って自分は歌わないで済むように立ち回っているらしい。
 確かに、お世辞にもあまり歌がうまいとはいえない。
 別に歌唱目的で行く訳ではないのだが……、そう付け足そうとすると、佐伯はかぶりを振った。

「ううん、わかった。行こ! 桐谷歌上手だもんね、いっぱいリクエストしちゃお!」

 歌う気はないんだけど……。
 まあ、カラオケなら邪魔が入ることもないし、のらりくらりと逃げられることもないだろう。
 ……しかし、明るく振る舞っている佐伯にあの話題をぶつけていいんだろうか。
 もし佐伯の中で本当になんとか折り合いがついていたのに、後からほじくり返すようなことになるとしたら……。
 そう思うと急に尻込みしてきた。

 カラオケに行くようになったのは、高校に入ってからだ。
 流行りの歌は殆ど知らないし、友達と放課後や休日に遊びに行くほど親密になることはなかったから。
 こうして気軽に行く場所として選択肢に上るようになったのは河合さんたちとつるむようになってからである。といっても河合さんも歌には自信がないらしく、多分他の同級生より行く回数は相変わらず少ないと思う。
 自分から積極的に人を誘うことはもちろんないし。
 つまり二人だけと言う少人数で来ることなど今までなかったのだ。当然会員でもないので受付でプランとか機種を選んだりだとかは佐伯任せにしてしまった。
 そうして、二人で使うにしてはやや大きい部屋に通された。
 佐伯は早速タッチパネルを抱えて何か弄り始めた。俺は向かいに座って荷物を下ろす。
 さて……どう切り出すか……。ひとまずずっとテレビが大音量で何か喋っているので音を下げて……。
 と思っていると急に画面が切り替わった。
 流れてきたのは俺でも知っている、何年か前に流行った音楽だ。

「これ! これ歌って!」

 わくわくした顔の佐伯にマイクを差し出されて思わず受け取った。
 しまった、完全に佐伯のペースだ……。
 結局その後続けて二曲歌わされ、歌の最中に次の曲を入れようとする佐伯からパネルを取り上げてようやく落ち着いた。
 なんと、俺がパネルを持った手をいっぱいに伸ばすと佐伯はギリギリ届かないのだ。

「きょ、今日は歌を歌いにきた訳じゃない」

 そう言うと、佐伯は観念したように奪え返さんとしていた手をゆっくり下げた。不安そうな顔だ。
 そしてそのまま向かいの席に座って、手を膝の上に置いた。やや俯いて、まるでこれから罪状が言い渡されるかのような、そんな様子に思わず後悔する。
 やっぱり、わざわざ第三者が掘り返すべきではないんだろうか。
 佐伯の目に、俺はどう言うふうに映ってるんだろう。
 ちゃんと味方だと思われているんだろうか。

「あの……あのさ、大丈夫だよ」

 何も言えないでいると、佐伯は追い詰められたように言った。

「オレ、桐谷が思ってるほど弱ってないよ」

 瞳を真っ直ぐこちらに向けている。しかし、膝の上の拳にはかなり、力が入っているように見えた。瞳がきらきらと光を反射していた。
 俺はそれでも言葉を選んで、選びきれずにいた。
 それならいいんだ、と言っていいのか。
 これが佐伯でなく河合さんだったら、多分ぽつりぽつりと話してくれたように思う。河合さんは気が強いけど泣き虫で、うまく出来なかったり、落ち込んだ時、ゆっくり待っているとどんな気持ちなのかどうにか伝えようとしてくれる。だから俺や和泉はなんとか励まそうと手を尽くすことができるのだ。
 佐伯だって泣き虫だ。でも河合さんとは違うと思う。佐伯はいつも、人のことで悩んでも、自分に関することで愚痴ったり、悩みを打ち明けたりしない。相談を受けるのはいつも河合さんとの接し方とか、せいぜい裕子さんにまつわることくらいだ。
 映画やアニメを見たとき以外、悲しくて泣く姿だって見ることはない。
 そして俺たちは本人に打ち明けてもらえないと、何も手を出せないのだ。
 そういう信頼を勝ち取るために、まずは何ができるのか。
 こう言うのは佐伯の得意分野なんだ。でも佐伯本人には、佐伯のように接する奴はいない。

「……そうはいっても……今回のことは……俺にも責任がある。犯人がいて、そいつなら佐伯を元に戻せるという、俺の推測が油断を招いたんだと思う」

 喋りながらすぐ次の言葉を考えながら組み立てる。そうだ。俺がわざわざ犯人について話さなければ、もしくはそれがありえた場合の最悪の展開も想定できていれば、回避できたと思う。
 佐伯の顔が真っ直ぐ見れなくなっていた。

「……ご、ごめん……怖い、思いをさせて……、それなのに、何も出来なくて……」
「桐谷が謝ることじゃないよ」

 声が震えた。こんなの初めてのことだったように思う。人に話すことを怖いと思うことはなかった。今まではきちんと正しいと思ったことをしてきた自信があったからだ。
 切り替えるように、息を吸う音が聞こえた。

「大丈夫だよ。オレがずっと女の子として生きてたら、それか、オレが男のままああいう目にあったなら、多分もっと苦しかったと思うけどさ」

 チラリと目を向けると、佐伯は鼻が少し赤くなっている気がした。

「でも、そうじゃなかったから。大丈夫、ずっとどこか他人事だったんだ。ずっとこの体視点の映像を見てるような、そんな感じだったんだよ。夢の中みたいな感じかな……」

 だから大丈夫だよ、と肩を竦めて笑顔をみせて続ける佐伯だが、……本当だろうか。
 あの電話の声は、とてもそんなふうに割り切れているようには思えなかったけど。

「ほら、もう、すっかり元気でしょ? だから桐谷もそんな顔しないで」

 なんてことないように佐伯は笑っているが、作り笑いに見えてしょうがない。

「桐谷は優しいねー」

 佐伯は身を乗り出して、俺の頭を撫でていた。
 そっと労るような、柔らかい手だった。
 俺の頭なんて、どうだっていいのだ。少しくらい雑に扱ったって平気だ。石頭だし。
 労って、優しく触れられるのは佐伯であるべきだったのに、そうはされなかった。
 それが無性に悔しくて、腹が立って、悲しかった。
 人前で泣くのは初めてだった気がする。

「ごめん、俺が泣くことじゃないのに……」

 涙だけが出ていた。声はそれほど悲壮感なんて出さずにすんだと思う。
 俺が泣くことじゃないんだ。俺は安全なところでのうのうと旅行なんてしていた。それがなんで当の佐伯を差し置いて、その上頭を撫でられて、なにをしているんだろうか。
 佐伯に泣いてほしかった。でも申し訳無さそうに微笑んでいるだけなのだ。

「桐谷が、こんな風に心配してくれるなんて思わなかったな」
「し、失礼だな。俺だって人の心を持っているんだけど」
「あはは、そんな意味じゃないよ。桐谷は情に厚い人だもんね」

 くすくすと佐伯は笑う。
 頭を撫でるのをやめた佐伯は俺の隣に座った。
 俺の顔は見ずに、背中をそっと擦ってくれるのだった。
 女子がたまに泣いてる友達の肩だの背中だのをさすっていて、一体何の意味があるのか、しゃくりあげるほどならまだしも、啜り泣く程度ではそれほど意味があるとは思えなかったその行為を、まさか自分が受けるとは思わなかった。
 物理的な意味はよくわからなかったが、寄り添ってくれているという実感は得られた。そう言う意図の行為だったのか。
 俺もそういうことを佐伯にしたかったのだ。なのに佐伯は俺の前で泣いたりなんかしなかった。
 でも、果たして佐伯が泣いたとして、俺はこうして寄り添ってやれただろうか。そうしたいという気持ちはあっても、どんな行動に移せば良いのか、俺にわかっただろうか。

「オレに対してどう接していいか、わかんなかったでしょ? 桐谷はあんまり深入りしないと思ったんだよね。気を遣って。だから電話してくれたり、話聞こうとしてくれたの、結構意外だったの」

 俺が落ち着いてからも佐伯は隣に座ったまま、やはり明るい調子でそう言った。普段の会話となにも変わらない声色だった。
 確かに、かなり迷った。佐伯が切り出さなければ結局何も言えなかったかもしれない。

「ありがとね、ほんとに。オレのために傷ついてくれて……」

 友達が傷ついたら、誰だって一緒に傷つくのに、どうしてそんなことを言うのだろうと思った。
 佐伯はそんなことを言ってはじめてつらそうに表情を歪めた。

「ごめんね、色々……」
「何がだよ。心配かけてってこと? それはお前が謝ることじゃないだろ。犯人が全部悪い」
「ううん、そうじゃなくて……」

 佐伯はいつの間にか靴を脱いで、ソファで体操座りをしていた。まるまって、顔の下半分は膝に隠れて見えなくなった。

「オレ、もう、男に戻れないかもしんない……」

 ため息のような声だった。

「……なんでそう思うわけ?」

 佐伯が、ようやく出した弱気な言葉に、もっと優しく尋ねたかったのに、自分のセリフは冷たくて嫌になる。
 縮こまっている佐伯はため息を繰り返すように、深い呼吸を繰り返していて、肩が揺れていた。

「何度も言われたんだ。女の体だねって、そんな感じのこと。ああ、そうだなあって思ったんだ。本当に、そうだと思ったんだ。鏡を見たら、どっからどう見ても女の人なんだ。お風呂入る時とかも、自分の裸なんて見てたはずなのに、ああ、もう、だめだなあって、思ったんだ」

 電話で聞いたような声だった。
 泣いてはいないが、胸の中身を吐き出すような声だった。

「……それは佐伯の思い込みだよ。今回のことは、佐伯が女になったこととは何の関係もない。ただその状況を利用されただけで、傷つけてくる相手がいただけで、お前自身は何も変わってない」

 きちんと言葉が俺の考えている通りに伝わっているか自信がない。知らないところで傷つけないか、それだけが気がかりだった。
 佐伯は目も合わせず、頷きもしなかった。
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