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19章

 日が落ちかけている。
 ちょうど山の向こうに、ぐんぐんと太陽が近づいていくところで、きっとすぐに夜が訪れるだろう。でもそれにあらがうように、太陽は目一杯明るく頬を照らしていた。
 背中はそれを上回るくらい熱かった。そっとずりおちそうな熱の固まりを揺すって体勢を整える。

「重くない? 大丈夫?」

 こちらの顔をのぞき込んで、千紗は心配げに言った。
 まだ彼女の中では俺は非力で病弱な男に映っているんだろうか。

「全然。多少重くても今のうちにおんぶしておかないとね」

 たしかに、と千紗は微笑む。
 だっこする機会はそれなりにあるが、おとなしくおんぶされている時間というのは結構貴重なのだ。どうせすぐに大きくなってしまうし。

「ふふ、熟睡だねえ。やっぱ男の人の背中は広いから寝心地いいんだ」
「頼もしい背中?」
「うーん、まあそういうことにしておこう」

 くすくすと小さく笑いあう。まあ、我が家の中では頼もしさはある……はずだ。
 千紗の横顔を見ようとして、逆光が眩しくて目を細める。

「それよりそっちの荷物も重いでしょ。ひとつ持とうか?」
「ううん、瞬が一個持ってくれたし。私だってこのくらい余裕だよ」
「……あれ、結構無理してたよね。アニメ間に合ったかな……」

 一番重そうな荷物を奪い取り、アニメが始まっちゃうと鍵を持って先に走っていった姿を思い返す。平静を装ってはいたが、ちょっと足取りは怪しかったな。

「ふふ……なんか、はじめてのおつかいみたいになってたよね、もう高学年なのに……」
「瞬くんの前で笑ったらまた喧嘩になるよ、プライドあるんだから」
「わかってるわかってる」

 最近は年頃なのか、ちょっと無愛想だからな。千紗は相変わらず今まで通りに構いたがるから、妙に反発してしまうらしくちょこちょこ衝突してしまうのだ。といってもまあ、可愛いもんだ。
 俺に似て神経質なところもあるが、おおむね千紗に似て人に好かれやすい優しい子に育ったと思う。クールぶっているが、妹には甘々だし。

「そうだ、とうとう日記全部埋めたんだよ」

 昨晩の達成感を思いだし、何気なく報告する。千紗は夕日を背に驚いた声をあげた。

「え、あの分厚ーいやつ? すごい、よく続いたねえ」
「10年以上かかったからね。毎日欠かさず書いてたらもっと早く終わったんだろうけど」

 10年以上。と千紗は若干引くような声で繰り返した。もっと褒める方向でびっくりしてほしいのだが。
 バカにならない年月だ。大昔のようで、でもついこの間のようでもある。
 誰々が結婚したとか、子供が生まれたとか、仕事についたとかやめたとか、自分も周りも大きく環境が変わった。想像なんてつかなかったし、これから先もそうなんだろう。
 ……まあ、どれだけ時間がかかっても全く関係性が変わる気配のない奴らもいるけど。

「それはまあ、お疲れさまでした」
「どうもどうも」
「帰ったら見せてくれるのかな」
「いいけど、九割くらい千紗のことだよ」

 そういうと千紗は思ったとおり「あーやだやだ」と憎まれ口を叩く。その顔が笑ってるけど。
 千紗は話を変えたかったのか、それとも単純に思っただけなのか、目線を空に移して呟くように言う。

「すごい夕焼けだね」

 高台の道を歩いているおかげで、遙か遠くの山に沈んでいくその日差しを遮る物はなにもなかった。上の方はピンク色で、そのさらに上はもう夜が迫っている。昔はこういった景色をただ眩しいとしか思わなかった。
 そりゃあ、色や雲の具合が綺麗だと思うくらいはあったけど、感情が揺さぶられるとか、何かを呼び覚ますような、そんな感覚はまだ育まれていなかったように思う。

「綺麗だね、桐谷」

 はっと息を飲んだ。いたずらっぽいその声は、たまに、ほんの極まれに二人きりのときに千紗が言う合い言葉みたいなものだった。彼女も桐谷になって久しいのに、今でもその呼び名は誰に呼ばれたときより耳に馴染むのだ。
 なんだか一層眩しく感じて、でも目を逸らしたら、その一瞬で消えてしまうような、そんな儚くて脆い場所に立っているような気がして、ぐっと足を踏ん張る。
 きっと向こうからは、俺の顔はよく見えるのだろう。どんな表情をしているのだろうか。情けない顔じゃないといいけど。
 光を背に受けて真っ黒い影になったその手をとり、坂道の少し先を行く。すると半分夕日に赤く照らされた顔がよく見えた。

「佐伯の方が綺麗だよ」
「……あははっ! 何それダサーい!」

 おどける俺の台詞に呆れながら、それでも、子供が親に向けるような屈託のない顔で笑ってくれるのだ。
 きっといつか見逃してしまった、あの時と同じ顔で。

 おわり
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