19章
河合さんが熱を出したらしい。
和泉が興奮してあちらこちら連れ出して、慣れない遠出をさせたせいのようだ。その連絡がきたのが大晦日のことだった。俺たちは残念ながら、遙か離れた父の実家に帰省していたのでなにも手を貸すことはできない。
流行りの風邪というわけでもないし、和泉が付きっきりで看病するらしいので心配はいらないだろう。大人だし。まあ、年末年始で気軽に病院にかかれないのは心配だけど。
あんまり無茶させるなよ、と呆れるしかなかった。和泉は子犬のような情けない声を上げて電話を終える。
まったく、あいつ河合さんの体力をすっかり忘れてたんだろうな。
河合さんはか弱いのだ。外になんかろくに出ないし、ぐうたらだし。
「おばあちゃんテレビガキ使に変えてもいい?」
「お好きにどうぞ」
そして恐ろしいのは千紗である。
千紗はなんと長年紅白が流れ続けたこの床の間に新風を巻き起こしたのだ。
今回の帰省に、俺はかなり消極的だった。
もちろん正式に結婚したわけだし、挨拶にいかなければいけないというのはわかる。が、やっぱり実は結婚していてとっくに息子もいますなんていうのはちょっと……さすがに……ハードルが高い……。
礼儀としてもっと早くに報告すべきだったとはもちろん思う。でも千紗がうちに来たときも入籍したときも、なんというか、改まって時期をみて決まったことではなかったので、すっかり忘れていたのである。俺たち家族自体、祖母以外との親戚付き合いというものが基本的にないので、そういう考え方が抜けていたのだ。帰省に際し、母もちょっとやっちまった、みたいな顔はしていた。
古い考えの人だし、何を言われるかわからない。ショックを受けて寿命を縮めるかも。といろいろ理由を考える俺に、千紗は呆れた顔をした。
「数年後に何かで会うことあったら実は結婚してましたとか言うの? そんなお嫁さん絶対可愛くないよ」
とのことだ。
ちゃんとしている……。
俺がちゃんとしていないだけなのだ。祖母に怒られるのが怖いのである。
だって怒られることをした自覚があるから。でも怒られることで、千紗や瞬くんが傷つくのではと思うとそれが一番怖い。
でも今更そんな情けないことを言うわけにもいかなかった。千紗の言うとおりだ。後々にバレて結局割を食うのは俺よりも千紗だろう。
そして俺は勇ましく数年ぶりの帰省を決めたのである。
で、だ。
まあ当然瞬くんを見た祖母は驚愕した。
怒られると思っていたら祖母はすぐに奥に引っ込んでしまって、俺たちは挨拶も出来ぬまま勝手に中に入ることもできず、勇気を出した母が一人進入し迎えに行くまでしばらく玄関で棒立ちをくらってしまった。
どうやら、亡き父の幼い頃の生き写しだったらしいのだ。
ちょっとそれには俺も疑問が残るのだが。だって瞬くんの顔立ちはどう見ても千紗似だし。
まあ、幼少時代の父の顔なんて知らないし、そんなもんか。
とにもかくにもそのおかげでだいぶ空気は和やかなものになっていた。
俺の必死の説明というか弁明を右から左に流し、祖母は優しい目で曾孫の様子を眺めるばかりだった。
深い話を瞬くんの前でするわけにはいかないので、瞬くんを父に連れ出してもらってようやくいつものきりっとした祖母に戻ったのである。
俺の話しにこめかみを押さえていたが、しかし覚悟したほど叱られるというか、何かを言われること自体なかった。
千紗がうちの両親相手にしたように、自分の判断を謝罪するとようやく祖母は小さく息をついた。
「どこの嫁も似たようなものですね。何かを守ろうとするときは軽く無茶をしてしまうんですから」
千紗と、それから後ろで正座していた母も少し苦笑するのがわかった。
きっと祖母も同じだったのかもしれない。昔話なんてしてはくれないけど。
それから何故か矛先は俺に向かった。きちんと責任を果たせと、父と息子にちゃんと誇れる生き方をしろとこんこんと説教された。わ、わかってるさ、そのくらい……。
とにかく、ずっと不安に思っていたことは想像よりもあっさりと終結した。
父と瞬くんを呼び戻すと祖母はまた俺にさえ見せたことのないおばあちゃんらしい顔を見せるのだ。ちょっとずるくないか?
後ほど母から聞いたが、俺が瞬くんと同じ年の頃は父の死に際でもあったわけだし、まだあれこれ溝が埋まりきったわけでもなく、そして俺に息子である父の面影を重ねては罪悪感に苛まれて存分に可愛がれなかったと、昔母に語っていたらしい。年齢的にも、祖母も両親も早い内に子供を作ったから、曾孫が孫としてちょうどいいぐらいの年みたいだし、猛スピードで瞬くんはおばあちゃんにおばあちゃんとして接されることに慣れてしまった。
まあ、瞬くんがかわいがられているならそれでいいさ。
そして瞬くんを通して祖母と急速に距離を詰めたのが千紗である。
さすがというレベルだった。自分を目の敵にしていた元義母さんも陥落したようだし、千紗は老人ウケがいいのだろうか。
よく動くしリアクションも子供のように大きくて、少しだけ我が儘を言って子供が甘えるようなことをする。その我が儘の見極めもうまいのかもしれない。俺が下手に真似したら、その場ではにこやかでも裏でぶちぶち言われかねない。
まあ、祖母はあんまりそういうことはしない、はっきりとした人だからそれほど心配はないけど。
そうして年末の僅かな日数を終え、大晦日である。
女性三人はお節を作ったり、年越しそばの準備をしていたりと慌ただしく、俺も何かしますけど……とおずおず声をかけると瞬の相手しててーとそのまま居間に戻されたのである。
父と顔を見合わせる。
「パッパ~たんけんいこ?」
「え。寒いでしょ。こたつ入っていようよ」
「だってひまだもん」
千紗がつけっぱなしにしたガキ使は瞬くんはお気に召さないようだ。
この家には瞬くんが読むような本はないし、一人であちこち見て回る勇気はないらしい。たしかに暇か。
祖母に声をかけ、祖母の寝室以外は好きにしていいと許可を貰ったので瞬くんと探検に繰り出した。
祖母の家は広いが、物は少ない。高そうな謎のツボとかお皿とかはあるから、瞬くんが暴れないように見守らないといけないが、瞬くんが興味をそそられそうなものはまったくないのである。
「あ! こわい! こわいおかおある! パパ~!」
「ひょっとこだよ。怖いかな? 面白い顔だと思うけど」
「こわい! はなれないで!」
壁に飾られたお面に恐怖したり、タンスの上に飾られている人形に恐怖したりと忙しい。なんで古い日本の民芸品とかって子供受け悪いものばかりなんだろう。
「おそとのみちいきたい!」
「え。寒いよ? わざわざ外に出なくても部屋繋がってるし」
「おにわみたいもん」
お外の道というのは濡れ縁のことだろう。庭に面した廊下のことだ。
以前住んでいた家にもあったと瞬くんは自慢げに語る。
やっぱり昔のこと覚えているもんなんだなあ……と複雑に思っていると、横で瞬くんが「あ!」と声を上げて走り出した。
「これじいじの!」
「あ、ほんとだ」
瞬くんが指さしたのは柱にかかれた名前と年齢である。子供の身長を記録するあれだ。
父の名前と3才から6才にかけて、すこしずつ上の位置に記録が伸びていた。
「よく気付いたね、瞬くん」
ふふんと瞬くんは胸をそらす。
さっそく台所に戻って祖母に許可をとると瞬くんを柱の前に立たせた。
「しゅんおっきい?」
「待って、前向いてぴっと立って」
シャキンと瞬くんは直立する。何故か顔が勇ましい。
「お、じいじが四歳のときよりちょっと大きいね。やるじゃん」
「やったー! すごい?」
「すごいすごい、瞬くんは将来高身長になるかもね」
千紗は今は小柄だけど男の頃は背が高かったし、たしか家族みんな背が高いのだと言っていた。もしかしたら将来瞬くんに抜かされるかもしれないな。
「ゆう 4才」という文字の少し上に「しゅん 4才」と記録した。
寂しいから俺の四才時の記録も捏造しておこうかと思ったが、瞬くんに嘘はいけないと窘められやめた。
それから、納戸から昔のおもちゃをあれこれと見つけ出し、瞬くんは宝物を見つけたとはしゃいだ。
しかし俺も使い方がよくわからないものも多く、台所仕事を終えた祖母が瞬くんにひとつずつ教えてくれた。
おてだまとか、コマとか、めんことか、カルタとか、剣玉とか、あやとりとか、だるま落としとか、竹蜻蛉とか、ぽっくりとか、まさに昔の遊びというやつだ。外で遊ぶものは明日やれば理想的なお正月の子供の遊ぶ光景となることだろう。
俺も昔何かの折りに少し触れたことはあるけど、今となってみるとところどころ一体何が面白くて遊んでいたのかわからないものも多い。
いくらなんでも瞬くんは今時のおもちゃをいっぱいもっているし……と心配していたが、意外とどれも夢中になっていた。とりあえず年末年始の暇は潰せそうだ。
そしてそれに付き合っていると意外とコマをうまく回せなくて夢中になったりして、いつの間にか奪い合いになって色んな人に叱られた。
和泉が興奮してあちらこちら連れ出して、慣れない遠出をさせたせいのようだ。その連絡がきたのが大晦日のことだった。俺たちは残念ながら、遙か離れた父の実家に帰省していたのでなにも手を貸すことはできない。
流行りの風邪というわけでもないし、和泉が付きっきりで看病するらしいので心配はいらないだろう。大人だし。まあ、年末年始で気軽に病院にかかれないのは心配だけど。
あんまり無茶させるなよ、と呆れるしかなかった。和泉は子犬のような情けない声を上げて電話を終える。
まったく、あいつ河合さんの体力をすっかり忘れてたんだろうな。
河合さんはか弱いのだ。外になんかろくに出ないし、ぐうたらだし。
「おばあちゃんテレビガキ使に変えてもいい?」
「お好きにどうぞ」
そして恐ろしいのは千紗である。
千紗はなんと長年紅白が流れ続けたこの床の間に新風を巻き起こしたのだ。
今回の帰省に、俺はかなり消極的だった。
もちろん正式に結婚したわけだし、挨拶にいかなければいけないというのはわかる。が、やっぱり実は結婚していてとっくに息子もいますなんていうのはちょっと……さすがに……ハードルが高い……。
礼儀としてもっと早くに報告すべきだったとはもちろん思う。でも千紗がうちに来たときも入籍したときも、なんというか、改まって時期をみて決まったことではなかったので、すっかり忘れていたのである。俺たち家族自体、祖母以外との親戚付き合いというものが基本的にないので、そういう考え方が抜けていたのだ。帰省に際し、母もちょっとやっちまった、みたいな顔はしていた。
古い考えの人だし、何を言われるかわからない。ショックを受けて寿命を縮めるかも。といろいろ理由を考える俺に、千紗は呆れた顔をした。
「数年後に何かで会うことあったら実は結婚してましたとか言うの? そんなお嫁さん絶対可愛くないよ」
とのことだ。
ちゃんとしている……。
俺がちゃんとしていないだけなのだ。祖母に怒られるのが怖いのである。
だって怒られることをした自覚があるから。でも怒られることで、千紗や瞬くんが傷つくのではと思うとそれが一番怖い。
でも今更そんな情けないことを言うわけにもいかなかった。千紗の言うとおりだ。後々にバレて結局割を食うのは俺よりも千紗だろう。
そして俺は勇ましく数年ぶりの帰省を決めたのである。
で、だ。
まあ当然瞬くんを見た祖母は驚愕した。
怒られると思っていたら祖母はすぐに奥に引っ込んでしまって、俺たちは挨拶も出来ぬまま勝手に中に入ることもできず、勇気を出した母が一人進入し迎えに行くまでしばらく玄関で棒立ちをくらってしまった。
どうやら、亡き父の幼い頃の生き写しだったらしいのだ。
ちょっとそれには俺も疑問が残るのだが。だって瞬くんの顔立ちはどう見ても千紗似だし。
まあ、幼少時代の父の顔なんて知らないし、そんなもんか。
とにもかくにもそのおかげでだいぶ空気は和やかなものになっていた。
俺の必死の説明というか弁明を右から左に流し、祖母は優しい目で曾孫の様子を眺めるばかりだった。
深い話を瞬くんの前でするわけにはいかないので、瞬くんを父に連れ出してもらってようやくいつものきりっとした祖母に戻ったのである。
俺の話しにこめかみを押さえていたが、しかし覚悟したほど叱られるというか、何かを言われること自体なかった。
千紗がうちの両親相手にしたように、自分の判断を謝罪するとようやく祖母は小さく息をついた。
「どこの嫁も似たようなものですね。何かを守ろうとするときは軽く無茶をしてしまうんですから」
千紗と、それから後ろで正座していた母も少し苦笑するのがわかった。
きっと祖母も同じだったのかもしれない。昔話なんてしてはくれないけど。
それから何故か矛先は俺に向かった。きちんと責任を果たせと、父と息子にちゃんと誇れる生き方をしろとこんこんと説教された。わ、わかってるさ、そのくらい……。
とにかく、ずっと不安に思っていたことは想像よりもあっさりと終結した。
父と瞬くんを呼び戻すと祖母はまた俺にさえ見せたことのないおばあちゃんらしい顔を見せるのだ。ちょっとずるくないか?
後ほど母から聞いたが、俺が瞬くんと同じ年の頃は父の死に際でもあったわけだし、まだあれこれ溝が埋まりきったわけでもなく、そして俺に息子である父の面影を重ねては罪悪感に苛まれて存分に可愛がれなかったと、昔母に語っていたらしい。年齢的にも、祖母も両親も早い内に子供を作ったから、曾孫が孫としてちょうどいいぐらいの年みたいだし、猛スピードで瞬くんはおばあちゃんにおばあちゃんとして接されることに慣れてしまった。
まあ、瞬くんがかわいがられているならそれでいいさ。
そして瞬くんを通して祖母と急速に距離を詰めたのが千紗である。
さすがというレベルだった。自分を目の敵にしていた元義母さんも陥落したようだし、千紗は老人ウケがいいのだろうか。
よく動くしリアクションも子供のように大きくて、少しだけ我が儘を言って子供が甘えるようなことをする。その我が儘の見極めもうまいのかもしれない。俺が下手に真似したら、その場ではにこやかでも裏でぶちぶち言われかねない。
まあ、祖母はあんまりそういうことはしない、はっきりとした人だからそれほど心配はないけど。
そうして年末の僅かな日数を終え、大晦日である。
女性三人はお節を作ったり、年越しそばの準備をしていたりと慌ただしく、俺も何かしますけど……とおずおず声をかけると瞬の相手しててーとそのまま居間に戻されたのである。
父と顔を見合わせる。
「パッパ~たんけんいこ?」
「え。寒いでしょ。こたつ入っていようよ」
「だってひまだもん」
千紗がつけっぱなしにしたガキ使は瞬くんはお気に召さないようだ。
この家には瞬くんが読むような本はないし、一人であちこち見て回る勇気はないらしい。たしかに暇か。
祖母に声をかけ、祖母の寝室以外は好きにしていいと許可を貰ったので瞬くんと探検に繰り出した。
祖母の家は広いが、物は少ない。高そうな謎のツボとかお皿とかはあるから、瞬くんが暴れないように見守らないといけないが、瞬くんが興味をそそられそうなものはまったくないのである。
「あ! こわい! こわいおかおある! パパ~!」
「ひょっとこだよ。怖いかな? 面白い顔だと思うけど」
「こわい! はなれないで!」
壁に飾られたお面に恐怖したり、タンスの上に飾られている人形に恐怖したりと忙しい。なんで古い日本の民芸品とかって子供受け悪いものばかりなんだろう。
「おそとのみちいきたい!」
「え。寒いよ? わざわざ外に出なくても部屋繋がってるし」
「おにわみたいもん」
お外の道というのは濡れ縁のことだろう。庭に面した廊下のことだ。
以前住んでいた家にもあったと瞬くんは自慢げに語る。
やっぱり昔のこと覚えているもんなんだなあ……と複雑に思っていると、横で瞬くんが「あ!」と声を上げて走り出した。
「これじいじの!」
「あ、ほんとだ」
瞬くんが指さしたのは柱にかかれた名前と年齢である。子供の身長を記録するあれだ。
父の名前と3才から6才にかけて、すこしずつ上の位置に記録が伸びていた。
「よく気付いたね、瞬くん」
ふふんと瞬くんは胸をそらす。
さっそく台所に戻って祖母に許可をとると瞬くんを柱の前に立たせた。
「しゅんおっきい?」
「待って、前向いてぴっと立って」
シャキンと瞬くんは直立する。何故か顔が勇ましい。
「お、じいじが四歳のときよりちょっと大きいね。やるじゃん」
「やったー! すごい?」
「すごいすごい、瞬くんは将来高身長になるかもね」
千紗は今は小柄だけど男の頃は背が高かったし、たしか家族みんな背が高いのだと言っていた。もしかしたら将来瞬くんに抜かされるかもしれないな。
「ゆう 4才」という文字の少し上に「しゅん 4才」と記録した。
寂しいから俺の四才時の記録も捏造しておこうかと思ったが、瞬くんに嘘はいけないと窘められやめた。
それから、納戸から昔のおもちゃをあれこれと見つけ出し、瞬くんは宝物を見つけたとはしゃいだ。
しかし俺も使い方がよくわからないものも多く、台所仕事を終えた祖母が瞬くんにひとつずつ教えてくれた。
おてだまとか、コマとか、めんことか、カルタとか、剣玉とか、あやとりとか、だるま落としとか、竹蜻蛉とか、ぽっくりとか、まさに昔の遊びというやつだ。外で遊ぶものは明日やれば理想的なお正月の子供の遊ぶ光景となることだろう。
俺も昔何かの折りに少し触れたことはあるけど、今となってみるとところどころ一体何が面白くて遊んでいたのかわからないものも多い。
いくらなんでも瞬くんは今時のおもちゃをいっぱいもっているし……と心配していたが、意外とどれも夢中になっていた。とりあえず年末年始の暇は潰せそうだ。
そしてそれに付き合っていると意外とコマをうまく回せなくて夢中になったりして、いつの間にか奪い合いになって色んな人に叱られた。