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18章

「それ友也に言ったのかよ」

 グラスを持つ手の人差し指をこちらに向け、和泉は鋭い眼光でこちらを睨んだ。……いや、まあ、実際はただ見ているだけかもしれないけど。和泉は俺や千紗のように目つきが悪いってことはないのに、その表情はたまに攻撃的に見えることがある。威嚇のうまい目だと思う。
 そういえば高校時代、生意気だと上級生に絡まれてたことがあったっけ。見た目が派手だからだと思っていたが、多分それだけじゃないんだろうと今になっては思う。

「と、友也じゃなくて千紗だろ……。言ったってなにを……」

 夕食後、順番に入浴も終え、俺と和泉は俺の自室で晩酌をしていた。
 瞬くんはとっくに夢の中だ。今日は駄々をこねることも喧嘩することもなくずっとご機嫌だったな。和泉の真似して少し汚い言葉を使って、千紗に注意されてたくらいか。
 千紗の入浴中、どうせ俺たちしかお酒は飲まないんだしと先に飲み始め、そして相談というか、まあ近況報告みたいなつもりでごにゃごにゃと昨日からのわだかまりの話を和泉に打ち明けたところなのである。もちろんだいぶかいつまんで、だけど。
 多分千紗が母に話した内容とそう変わりはないだろう。
 俺が聞き返すと和泉は腕を組んで口をへの字にした。

「おれは今日一日見てただけだけどよ、お前無口すぎねえ?」
「えっ? そ、そうかな……。これでも穏やかになったとか話しやすくなったとか言われるんだけどな……」
「そりゃあ丸くなったとは思うけどよ」
「お前が主役なんだし、そんな日にぺちゃくちゃと喋りはしないよ」

 当然の回答のつもりである。しかし和泉は納得しないようだ。
 無口、と言われてもな。会話は十分にあると思うし、内容もひとりよがりでないつもりだ。だが自分が認識している欠点の他に、なにか問題があるようだ。
 たしかに千紗はあまり俺に指摘をしない。文句は言わず、自分があわせるタイプである。両親だってわざわざ俺たちの距離感や会話内容を気にしたりはしないだろう。

「お前がちゃんと瞬ともうまくやってて、幸せそうにしてるのは伝わってきた。嫌というほどな。友也……あー、千紗もそれはわかってると思う。でも言葉は少ないだろ。うまい! とか楽しい!とかさ」
「そんなの子供じゃないんだからいちいち感動してられないでしょ」
「悪かったな子供で!」

 言われてみれば和泉はうまいうまいと言ってご飯を食べていた。顔や動きでももちろん表現するし、感情を伝える能力は圧倒的に俺より秀でているだろう。

「たしかに俺の反応が淡泊なことは認めるよ。でも今更そんなこと千紗が求めるかな」

 もちろん素直に表現できるのはいいことだ。だが俺は昔からこうなのだ。言葉を口に出すのは簡単だが、それに見合う声や表情を出すのは難しい。急にやったってわざとらしくて嫌みっぽくなるだけではないか。意思表示は大事だとわかる。でも表現方法は人それぞれだろう。

「そこじゃねえ。おれがいいたいのは、そんなことも言ってないんじゃ肝心なときだって、お前は自分の気持ちをちゃんと千紗に伝えられてないんじゃねえかってとこだよ」

 ……むむ。聞き捨てならないな。日常の一面だけを見て裏でのやりとりまで推し測られてしまった。占い師でもあるまいに。
 俺だって今まで何度も時間をかけて自分の気持ちを伝えてきたつもりだ。そうでなければ千紗をこの家に引き留めることなんてできなかっただろう。
 現に俺が千紗を好きだということは十分伝わっている、と本人から確認をとったし。
 そんな恥ずかしい確認作業までやっているのだぞ、と和泉に胸を張って宣言した。
 和泉は苦い顔をしながらもそれを黙って聞いた。
 それからまた腕を組み、壁に背を預ける。俺の部屋は椅子がないから、床に座っているのである。
 そしてふむ、とひとつ頷いた。

「言葉が足りてねえのはお前じゃなくて友也の方かな?」
「かな、って言われても……まあ、たしかに俺もあれこれ聞いて傷つけるのが怖くて突っ込んで聞けないってところはあるよ。いつもだいぶあとになって、多分千紗の中である程度踏ん切りがついてから教えて貰っているように思う」
「んー……? 事後報告を待てってこと? 夫婦のことなのに? それってなんか勝手すぎねえ?」
「か、勝手と言われても……俺には千紗の気持ちはわからないんだから、いくら夫婦でも何でもかんでも洗いざらい話してくれなんていう筋合いはないよ。言ったとして、実行するのは簡単ではないでしょ」
「んんー……。そりゃそうだけど……あいつの逃げ癖は根が深いからな……」

 逃げ癖、と言われて腑に落ちた。
 たしかに、追いつめられたとき千紗は攻撃なんてしないし、助けを求めたりもしない。言い訳もしない。ただ逃げるのだ。
 逃げて、一人でじっと堪えて自分の中で結論をだしたり、折り合いをつける。今まで何度もそういうことはあった。

「……じゃあ幼馴染に聞くけどさ、千紗が逃げたときって、どうするのが正解なの?」
「正解なんて知らねえよ。引きずり出せば?」

 和泉と河合さんは変なところが似ている。ざっくばらんだ。
 しかし、逃げるというのは生存本能ではないだろうか。
 引きずり出して、逃げ道を塞ぐというのは追いつめて絶望させるだけではないだろうか。
 喧嘩したときに距離を置くというのは適切な行動だと思う。それを結論を急いで興奮した頭で詰め寄るのは、根本的な解決にはなかなか繋がらないだろう。俺はそうしたい性質ではあるが、相手によっては有効でないということも理解している。千紗には逆効果だと判断しているのだ。
 逃げるのも千紗が冷静に考えられる時間を稼ぐためだと思えば、必要なことだと思えた。
 もちろん、物理的に逃げてまたどこか遠い地に行かれてしまっては困るが。

「今朝千紗がおれになに言ってきたか気になるか?」

 ふいに、和泉がそう問いかけてきた。

「そりゃあ、まあ」
「だよな。……あー、勝手に話すのはさすがによくないか……聞いてくるわ」
「えっ、そ、そんな、いいよ。千紗も嫌だろうし……ちょっと!」

 俺の制止も聞かず和泉は立ち上がってさっさと部屋を出てしまい、慌てて追いかける。
 やつは運動神経がいいので、階段もまるで飛び降りるようにぽんぽんと降りる。何年もここに暮らしている俺が踏み外さないよう気を払いながら降りるのに。

「おい、バカ、入浴中だぞ!?」
「別に風呂場まで入んねえよ、ドア越しに聞くだけだって」

 階段を降りると玄関の目の前にでる。そこを左にUターンしてドアを開け、廊下を横切ると脱衣所のドアはすぐそこである。
 人んちだっていうのに和泉は遠慮がない。

「なあ千紗、今朝話してたことだけどよお……あっ! わりぃ!」

 俺が追いついたと同時に和泉は開いたドアをそのままの勢いですぐまた閉じた。

「…………」

 ドアを閉めたポーズのまま、気まずそうな苦笑いをこちらに向ける。

「お、お前……お前……!」
「いやっ、大丈夫、下着つけてたし!」
「そういう問題じゃねえだろ! ぶっとばすぞ!」

 こ、こいつ……! ほんと! こいつ!!!
 和泉は俺が凄んでもなんてことないのだ。へらへらすまんすまんと手を合わせる。殴りたい。暴力反対の人間なんだがこの顔だけはぶっとばしたかった。
 詰め寄ろうとすると再び勢いよく脱衣所のドアが開かれた。

「うるっさいな! 何時だと思ってるの!」

 そ、その声もうるさいと思いますけど……とは言えず、俺と和泉は揃って「すみません……」と謝るしかできなかった。

 千紗が部屋で髪を乾かしている間、ドライヤーの音で会話もできないため俺と和泉は正座して小さくなっていた。
 千紗に大きい声で叱られることがなかったので、ちょっとショックなのである。和泉も同様であるようだった。

「腕疲れちゃった」
「まだ乾いてないじゃない。貸して」

 まだ後ろは見るからに湿ったままで終わろうとするので、後ろに回って続きを代わってやる。
 元男だからなのか、こういうことに頓着しない。うちに来たばかりの頃はきちんと乾かして出てきていたが、あれは取り繕っていただけらしい。いつのまにかろくに乾かさず、頭にタオルを巻いてそのまま自然乾燥に任せるスタイルとなっていた。しかし今の時期さすがに風邪を引きかねないとちょこちょこ俺が口を挟んで半ば無理矢理ドライヤーで乾かすようになったのである。

「なんだそれ。見せつけてくれるじゃん」
「う、うるさい、茶化すな。照れてやらせてくれなくなったらどうするんだ」

 千紗は何も言わないが、どうせ唇を尖らせているのだろう。
 だいぶ湿り気がとれ、解放された千紗はやれやれというように首を回しながら改めて座り直した。

「で、何? 人の着替え中に入ってきてまで聞きたかったことって」
「す、すみません……」

 さすがの和泉も言い訳のしようがないようである。そうだ、ちゃんと悔い改めろ。
 俺だって下着姿なんか高校以来見たことないのに。千紗が着替える時は俺はきちんと部屋の外に出るのだ。

「今朝お前が話してくれた内容こいつに言っていいか聞こうと思って……」

 和泉の告白を受け、千紗は驚いた顔をしたあと、少し怒ったような、むっとしたような顔をした。
 俺はあまり見たことがない顔だった。複雑だ。

「……そんなこと流の目の前で聞かれて、流には言わないで、なんて言えないじゃん」
「……そ、そうか……?」
「そうだろ、お前、ちょっとは考えろ」

 この場に乗じて俺も和泉を咎めておく。
 そして千紗の言い分も確かである。目の前で俺には内緒にしてなんて言われて俺が何も思わずいられるわけない。そして千紗はそれを気にして、和泉の提案を却下できないだろう。
 ……多分、和泉と河合さんはこういうややこしいことにならないのだ。河合さんが千紗の立場だったら、嫌だとキッパリ断るはずだ。だからわからないんだろう。心配になったら海を渡って乗り込んでくるような奴だし。
 でも俺と千紗は違うのだ。そりゃあもちろんなんでも教えて欲しいし知りたいけど、千紗が俺に話せるようになるには時間が必要なのかもしれないというのも察している。
 千紗は目を伏せ、手を口に当てている。必死にどう説明したものかと考えているのがわかった。

「ち、千紗、無理しなくていいよ。もちろん気になるけどね、でも和泉もいる場所で無理矢理聞き出すのがいいことだとも思えないし、千紗のタイミングでいいからさ」
「でもおれには話せたことをなんで当人を前にしたら話せないんだよ」
「そりゃあ、あるだろ、そういうことも」

 いくらでもあるだろ、本人に伝えたら嫌われそうで言えないこととか……。あれ、そういうことなのかな。俺が嫌な気持ちになるかもしれないってことか……?
 い、いやいや、千紗はこういうことを重く考えるタイプだから、それであれこれ心配して言えないだけだろう。うん。

「あ、昭彦……ちゃんと私の話……理解してる?」
「はあ? 失礼な! まだ日本語忘れてねえよ」

 千紗は正座のままずりずりと床の上を移動し、和泉の横で耳に手を当て、内緒話するときや、テレビでこそこそと司会者にクイズの解答を言うときのようなポーズをする。
 すぐにその意図がわかったらしい和泉がぽそぽそと答えを伝える。
 千紗がふんふんと頷くのを眺めている。なんだこの光景。何を見せられているんだ。
 しかしみるみる千紗の表情が変わった。

「そんなことひとつも言ってないよ、バカ!」
「あいてっ」

 すぱんと千紗が和泉の頭をひっぱたいた。ハズレだったらしい。ざまあみろ。
 ……いや、これ千紗が確認しなかったら俺間違った解釈の和泉の解答を千紗の意思として吹き込まれてるところだったのか……? しっかりしてほしい……。ちょっかいだすなら適当な仕事はしないでくれ……。

「あっれえ、何が違うんだよ。だってそういうことじゃねえの?」
「違うよ! もおっ、別に嫌われてるとか、思ってないし! 好かれてる自覚あるから、悩んでるんだってば!」
「あ、そうなのお?」

 クッションでばしばしと和泉を殴っていた千紗は、途中ではっと気づいたように動きを止め、しまったというような目をこちらに向けて固まった。そして千紗のほっぺたがみるみる赤くなっていく。
 しかし、俺はいまいち千紗の話しの内容を推理しかねていた。なにやら恥ずかしい話をしているようだということはわかったけど。
 俺が千紗を嫌っているとは思っていないらしい。……まあ、そりゃそうだろ。この日常生活でそんな勘違いされてたらさすがにショックだ。しかし和泉は千紗の話でそう解釈したというなら一体元がどんな内容ならあり得るだろうか……。
 
「なんで流は平然と聞いてるだけなのさ!」
「え、な、なんで俺まで怒られるの」

 千紗は一人で盛り上がっていた。
 よほどその内容が恥ずかしいものなのだろうか。
 和泉を叩くために持っていたクッションをしっかりと抱き込み、難しい顔をしてストライプのその柄をじっと睨んでいる。
 どうしたものか。

「間違っていることを前提として、和泉はどういう話しだと解釈してたの?」
「あー……、なんかお前が千紗にこ」
「待ってよ! なんで私がいるのにこいつから聞こうとするわけ!? わざわざ間違ったこと聞こうとしないでよ!」

 千紗が大声で遮ったのがおかしくてたまらない。
 笑ってはいけないと思いつつ必死に堪えていると、それに気づいた千紗がおもしろくなさそうな顔をした。

「な、何笑ってんのさ……」
「いや、主張強い千紗が珍しくて……」

 喋るともう耐えきれなかった。
 こんなに大声出してはっきりと物をいうところを見るのは本当に久しぶりだった。すっかり忘れていた。そうだ、昔の千紗はもう少し我が儘なことを言ったり、はっきり人を咎めたり騒いだりできる奴だったのだ。
 やっぱり長い間一緒に過ごしてきた和泉がいると昔の感覚が蘇るんだろうか。
 すごく新鮮で、そして懐かしかった。

「と、とにかく、変なこと言わないでよ、私が自分で言うから」
「あ、そう? ならおれは大人しくしてるけどよ」
「今は言わないよ!? 二人で……話せるときに話すから……」

 語尾の弱さが最近の千紗に戻ってしまった。
 和泉はこういうとき素直だ。ふーん……と頷いたあと、わかったとすぐに納得する。

「おれが日本にいる間になんとかしろよな。心配で帰れねえぞ」
「そ、そんなこと言われても困る……」

 そうだ、俺も千紗も現状をなんとかしなくては、とお互い思っているのだ。それでも上手くいかないから困っているわけで。
 ……でも、千紗が話してくれる、というのなら、少しは進展するのかな……。内容を聞いてみないことにはわからないけど。

「まあ別れそうになったらおれも河合も間に立つし! いくらでも頼ってくれや!」
「わ、別れるわけないだろ!」
「昭彦は今のでだいぶ信用なくなったからなあ……」

 非難の目を浴びた和泉は、おおっと……と気まずそうな顔をする。
 ……まあ、こいつなりに俺たちのことを心配してくれているのはわかるけどな。

「ま、まあまあ、この場は変なことは忘れて、楽しく行こうぜ……」

 誤魔化すようにへらへらと笑いながら、和泉は持ってきた鞄からなにやら箱を取り出した。
 にやにやしながら中身をとり出して、何かの駒のようなものとカードとを並べる。よくわからないが、なにかしらのゲームなのだというのはすぐにわかった。
 そして声のボリュームは落としつつも張った声で宣言する。

「朝まで遊ぶぜ!」
「お、おー……?」
「おー……いや、朝まではちょっと」

 実はこれやりたくてたまらなかったんだよな、と和泉は笑った。

ーーー

「いじゅみなにしてるかなあ、しゅんのことわすれてないかなあ」
「忘れないよ~。また顔出してくれるって言ってたし、すぐ会えるよ」

 朝、早々に河合さんのところに行くのだという和泉を、瞬くんは必死に引き留めた。それでも駄々をこねて泣きわめいたりはしなかったのだ。偉い。ちょっと成長を感じてしまう。
 今日は俺も午前中から夕方までバイトである。仕事納めだ。
 家を出るまでの間、だらだらと瞬くんの相手をしているのである。

「はい、これお弁当」

 いかにも眠そうな顔の千紗がふわふわした足取りでお弁当の包みを渡してくれた。

「眠いのにごめんね、ありがとう」
「ううん、昭彦も出る前に手伝ってくれたから」

 手を後ろに回し、ふるふると笑顔で首を振る。その姿はやっぱり元気そうで安心する。
 やっぱり、和泉の存在感というのは大きい。あいつは何もしてるつもりないだろうが、勝手に周りが影響を受けるのだ。
 弁当をリュックに詰めていると瞬くんはすぐに気付いて追いかけてきた。

「えー! パパもいっちゃうのー?」
「そうだよー、その代わり明日も明後日もその次も一緒にいられるからね」
「きょういつかえる?」
「夕ご飯までには帰るよ」
「パパかわいそう~!」

 ひしと抱きつかれた。どうやらおやつの時間に参加できないことを哀れんでくれているようだ。そうだな……糖分は大事だからな……。でもその分夜中に瞬くんが寝てる間にこっそり食べてるから大丈夫だよ……。
 しばらく瞬くんに引き留められたが、なんとか誘惑を振り切り家を出た。
 多分その内俺が仕事に行っても全く気にしなくなるんだろう。それどころか家にいない方がせいせいするくらいに思われる可能性だってある。
 俺もたまに両親がいない夜なんかはテンション上がったしなあ……。
 ……いかん、考えるだけで胸が苦しくなってきた。
 やめよう、こんなことより今日のバイト先で相方になる予定のクソジジイの扱い方でも考えよう。口を開けば嫌味三昧で厄介なのだ。いくら無視しても止まらないので非常に気が削がれる。
 法律がなければどうにか始末していただろうが、瞬くんにそんなパパは似つかわしくないからな。ちゃんと誇れる父になるために俺は今日も気持ちを落ち着かせるのだ。
 おそらく昔の俺だったら相応にやり返していただろうが、今の俺はちゃんと無視できる。大人だ。
 さっさと片づけて千紗と瞬くんの待つ家へ帰ろう。
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