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18章

 午前中は散々だったが、午後はそれなりに穏やかに過ごせたと思う。
 瞬くんは少しだけ元気がなかったが、それは疲れただけだろう。睡眠不足に加え、泣いて暴れたのだから軽い昼寝程度では足りなかったはずだ。
 案の定夜ご飯を食べ終えるともう瞬くんは寝落ち寸前だった。
 なんとか歯磨きを終えたが、お風呂は無理そうだ。そうしていつもより二時間ほど早く床についたのである。
 そして俺と千紗と母の三人でクリスマス仕様の我が家を片づけていく。
 賑やかな装飾を段ボールに仕舞い込んでいく、ちょっと切ない作業である。河合さんのお店も今ごろこうして片付けているんだろうか。

「あ、あのさ千紗、このあとちょっとドライブでも行かない?」
「え……う、うん……うーん……」

 一段落ついたところで千紗に声をかける。
 河合さんの懸念は一理あると思いつつも、俺はやはり今日指輪を渡そうと一念発起したのだ。まだそれほど夜遅いわけではないし、ちょうどいい時間なはずだ。
 しかし千紗は瞬くんの眠る寝室を気にするように言葉を濁す。

「……瞬くん、起きちゃうかな?」
「どうだろ……大丈夫だと思うけど……」

 しかし、あんなやりとりをしたあととなっては、そばにいたいというのが本音だろう。
 ううーんと少し頭で考える。……まあ、お風呂も入ってしまったし、今から出かけるってなると億劫な気持ちもないではないな。

「わかった、じゃあ家にいようか」
「ご、ごめんね。嫌なわけじゃないんだよ」

 それはわかっているつもりだ。自分が嫌という理由ではあんまり千紗は拒絶しないからな……。
 しかし、こうなるとやはり二人でお出かけというのは瞬くんが起きている間に母に預けるしか方法はないのではなかろうか……。
 寝ているうちにというのは騙し討ちのようで、もしも途中で起きたらとてつもない疎外感を与えそうで結局踏み切れていない。かといって起きているときにパパとママデートしてくるね、なんてのけ者にするようなことはやっぱりできなくないか……?

「世の夫婦はどうやって弟妹作ってるんだろうね……」
「……へ?」

 ま、まあ、少なくとも今は作るつもりはないけど。
 とりあえず働き始めて……、最初の二年は研修医的な見習いの位置づけになるから、それが終わってからかな。今はまだわからないけど、千紗の仕事の都合もあるし……。
 そしたら瞬くんも小学生の頃になるのか。学校がはじまったらだいぶ子育ても楽になると聞くし、少し兄弟の年の差はあるけど、ちょうどいいタイミングかもしれない。
 一人で家族計画を妄想していると千紗に不審げな目で見られた。
 いけないいけない。こんなことは今どうでもいいんだ、今は指輪である。
 リビングでゆっくりしているときにさりげなく自然な調子でプロポーズするのがいい、という話はたまに聞く。
 ……でも今はまだ母がキッチンでなにやらやっているみたいだし、空気を壊されるのも嫌だが気を遣われるのも嫌だ。

「じゃ、じゃあ、俺の部屋でゆっくりしようよ」

 こくんと頷いて千紗は素直に俺についてきてくれた。
 ど、どうしよう、全然ロマンチックな雰囲気になりそうにないぞ……。
 指輪は俺の部屋に隠してあるから都合はいいけど……。
 部屋に入り、とりあえずベッドに二人並んで座ってみる。ううーん……とてもじゃないが自然な感じではないし、もちろんいいムードというわけでもない。

「あのさ、うちの生活、少しは慣れた……?」

 適当な話題を振ってみる。
 千紗はぴくんと体を反応させて俺の顔を見上げると、小さく微笑んで頷いた。

「うん、お母さんもお父さんも優しいし、まさかプレゼントもらえるなんて思わなかったよ。あ、ねえお母さんたちの誕生日っていつ?」

 そうか、千紗の立場ならそういうことも気にしないといけないんだよな……。俺が勝手に気を遣わなくていいよ、なんて言えることでもないだろう。二人の誕生日を教えると、忘れないようにと千紗はスマホのカレンダーに記録する。俺がもし千紗の立場だったらこういうことに気が回っただろうか……。多分考えもしなかっただろう。

「ほんとにね、流にも、お母さんたちにも感謝してるんだよ。こんなに私にも瞬にもよくしてくれて……こんなに色んなことしてもらうばかりでいいのかな。私は何もお返しできないのに……」
「そ、そんなことないって。千紗たちがいい人だから、みんな何かしてあげたくなるんだよ。ご飯だっておいしいし、うちの母だって自分の時間できて楽になったって言ってたし、それにマフラーも暖かかったよ! 河合さんがすごく褒めてた。絶対こんな大変なことできないって」
「……ありがと」

 少しぎこちないが、千紗は微笑んだ。
 会話が途切れ、少しだけ気まずい沈黙が訪れる。
 千紗は自分の手を触ったり眺めたりしていて、俺も手持ちぶさたに視線をあちらこちらにやって話題を探すばかりだ。
 いや、話題自体はいくらでもあるんだ。瞬くんのこととか、大学であったこととか、明日のこととか。でもそうじゃなくて、もっと俺は千紗との話がしたいのである。でも照れくさかったり、聞いていいのかわからないことだったりして話題が定まらないのだ。
 どうにか、指輪を渡す流れに持って行きたいのに。
 千紗は服の裾を両手でもぞもぞとなぞったり少し引っ張ったりしている。
 それを見ていると、段々と指輪のことなどどうでもよくなっていた。

「さ、最近……」

 言葉を選びながら口を開くと、また千紗はぴくっと反応してこちらに目を向ける。

「最近、千紗……ちょっと、悩んだり、してない?」

 俺はなんとなく、まっすぐ千紗を見下ろすことができない。
 ただこちらを見つめているのは視界の端からもわかって、ちょっとだけ口を開けたのもわかった。
 そしてその目線が外れて、正面を向いた。

「うん……」

 肯定はあった。しかし説明はない。

「どんなことを悩んでるのか、聞いてもいい?」
「……うーん……」

 背中を丸くして、膝を見つめるように千紗は俯いた。そうすると長い前髪や横髪が邪魔してすぐに顔は見えなくなる。

「私……、何も流にいいこと……できてないから……」
「えっ?」

 いきなり、なんだ?

「そんなことないよ、家事をしてくれたり、マフラーだってくれたじゃん。あれ、ほんとに嬉しかったよ」
「……でも……私がやらなくても、お母さんだってしてくれるじゃない」

 絞り出すような声に、千紗の顔を伺う。
 泣いてはいない。ただ苦い顔をしていた。
 どうしてそんなことを言い出すのかわからなかった。

「母がしてくれるのと千紗がしてくれるのとじゃ全然意味が違うだろ」

 千紗はほんの少しだけ顔をあげる。しかし目線はうまく合わない。

「千紗はちゃんとやってくれてるよ。俺の方がむしろ家事の邪魔とかしちゃってさ、ほら、この前忘れ物してわざわざ届けてもらっちゃったし……」

 少し明るい調子で話してみる。
 そうだ。俺なんて、バイトだって週に数回だし、大学だってもう最低限しか行っていないのだ。それにまだプレゼントだって渡せていないし……。比較にならないレベルで何もできていないじゃないか。
 少し躊躇したが、そっと頭を撫でる。やっぱりいつものように肩が跳ねて、少し怯えさせてしまう。

「あ、あの」

 千紗が口を開いた。千紗が「あの」と言うときは大抵こっちの機嫌を伺いながら喋るときである。

「あの……し、しよう……?」
「えっ……?」

 なにを? と聞こうとして千紗の表情や目配せで察して、思わず腰を浮かしかける。

「し、しないよ! なに言ってんだよ!」

 一体なんでこの話の流れで、そうなるのか。突然すぎてぎょっとしてしまった。
 大声……というわけではないが、少し張った声に驚いたのか千紗は目を見開いて、それから一瞬で顔色が青ざめて視線が落ち着かないようにきょろきょろと動いた。
 しまった、と思う。

「ご、ごめんなさい、私……」
「……あ、いや、ごめん、大きな声だして……急で、びっくりしただけだから……」
「私、私……気持ち悪い……よね……ごめんなさい……」

 千紗はベッドから立ち上がり、数歩距離を取る。このままでは逃げられしまうと思った。でもそれを止めていいのか、俺はよくわからなかった。

「……気持ち悪くなんかないよ。ごめん、大きな声出して、怖がらせたよね? 大丈夫だから、座ろう?」
「私……だめだ……やっぱりだめだ……」

 気付けば千紗の額には冷や汗が浮かんでいるようだった。暖房はまだつけたばかりだし、決して暑くなんてない。しかし息だって上がっていた。
 うわごとのように呟いて、必死に何かを考えているように見えた。まるで天敵に睨まれた動物が、じっと逃げる手だてを探しているようだった。

「……大丈夫?」

 立ち上がり、そっと肩に触れる。落ち着けるように背中をさする。

「どうしたの? 千紗がどんなことを考えてるのか教えてよ」

 涙が浮かんだふたつの目がこちらを見上げていた。
 この子の頭の中で一体何が生まれているのか、他の何よりも知りたかった。

「私……私が嫌……。他の……全然違う……誰かになりたい……」

 一瞬呼吸が止まりそうになった。
 俺も少し泣きそうになったと思う。

「そんな風に言われたら、俺悲しいよ。瞬くんも悲しむよ。今の千紗が好きなんだから」

 怖がらせないかと怯えながら、少し腕に力を込めて千紗を抱きしめる。やっぱり細くて小さかった。
 しばらくそうしたあと、千紗は涙を拭い、こちらを見上げたので腕を緩めた。

「私……今日……一人で寝ても……いい?」
「え……いや……」

 一人にさせるのは嫌だった。そのままどこか遠くへ行きそうだからだ。
 でも俺が嫌だと言ったらきっと千紗は従ってくれて……そんなことをしたらその内なにも主張してくれなくなりそうで、それだって嫌だ。

「……わかった。俺がよそで寝ようか?」

 千紗は小さく首を振る。

「……じゃあ、この部屋使ってね。……ごめんね」

 また明日と声をかけて、頭を撫で、千紗が頷くのを見て部屋を出た。
 閉じたドアに背をもたれて、木目の天井を見上げる。
 ……指輪どころじゃなくなってしまった。
 前のときもそうだった。俺の部屋で二人きりになると突然口でしようか、なんて言い出して。
 そういうこと、したいんだろうか……。
 ……そんなわけない。だったらあんな怯えたような反応するはずない。
 俺がそういうことしたがってるって思ってるのかな……。それで無理してるのかもしれない。それか、妻なんだからそういうことしなくてはいけないと思い込んでいるとか。
 もっと落ち着いて話せるときに話し合っておいた方がいいだろう。でもどうやって? 今までトラウマになるようなことされたんでしょ? それなら無理しなくていいからね。なんて言うのか? 傷口に塩を塗るようなもんじゃないか?
 自分のことが嫌だと言っていた。
 さすがに……ちょっと……へこむ。悲しい。
 いくらこの生活に慣れてくれたように感じていても、楽しそうにしてくれていると思っても、そんなのは本当に表層だけに過ぎないのだ。
 ……やっぱり、診て貰った方がいいんだろうか……。
 俺がなんとかすると意固地になっている間に、どんどん千紗を傷つけていってしまうような気がする。
 まあ、なんにしても年末年始じゃ病院はやっていないし……じっくり考えよう。
 そっと足音を殺して寝室に戻り、瞬くんの隣に収まる。
 横を向いても、瞬くんの向こうには誰もいない。
 わかりきっていることなのに寂しくて、悲しかった。
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