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17章

「デートしてらっしゃい」

 内容とは裏腹に、有無を言わせない圧のようなものを発しながら母がそう言ってきたのは、ある夜のことである。
 瞬くんが寝付いた夜更け、リビングで俺は勉強し、千紗は勉強の息抜きとして書庫にあったという古い漫画を読んでいた。毎晩この時間は二人でテレビを見たり、まったりした時間を過ごしている。たまに母や父も加わって話したりもするので、別にいくら夜だからっていかがわしいことなんかはない。
 そうしたぐだぐだとした空気感に、母の真面目そうなトーンはなんだか身構えさせられた。しかし台詞の内容が内容である。

「デ、デートって……ええ? どうしたの突然」

 千紗と目を合わせ、俺が訪ねると母は両手を腰に当てて偉そうな態度を取った。母の威厳的なものを表しているんだろうか。

「二人とも、夜にちょっとお話するだけで全く二人の時間がないじゃないの。だめよそんなの、長い間離れていたんですもの、お互いのことを知る時間がまだまだ必要だわ」
「ええ……? いや……別に一緒に暮らしてるんだから、十分だと思うけど……」
「そうだよ、お母さん、デートなんてそんな……瞬だっているし……」
「瞬くんは私が責任もって預かります!」

 普通親がもっと子供の面倒みろとか叱るもんじゃないのか……!? 自ら子供は任せて遊んでこいと言ってくる親がいるだろうか。
 そりゃあ確かに、千紗と二人きりで遊びに行くなんてことはない。買い物だって必ずどっちかが瞬くんと留守番するか、瞬くんも一緒だ。
 真面目な話をするときは母に瞬くんの面倒をお願いして二人でいることはあるけど、そういうことじゃないんだろうというのはわかる。
 母は絨毯の上に正座をした。ソファに座っている俺たちの方が頭が高くなり、母を見下ろす形になる。なんとなく気まずい。

「この前二人が抱き合ってるところをみて、ママは感じました。ああ、よかった! って。でもそんな光景が滅多に見られない環境なんて、良くないわ。私たちに気を遣って仲良くし損ねているんじゃないかって」
「だ、抱き合ってなんかないです!」

 千紗は否定するが、母は聞いていない。

「あのねえ、二人とも親として家事に育児によく頑張ってると思うわよ。でもやっぱり私だってあなたたち二人の親としてね、年相応の楽というか、遊びをさせてあげたい気持ちもあります」

 さっきから何その敬語。
 母はあんまり人に主張しないタイプだから、多分もの申すつもりなんだろうが調子が掴めないのだろう。
 二人の親、と言われたあたりで千紗が嬉しそうに口をきゅっと結ぶのがわかった。嬉しいけど今は笑うところじゃないという表情だ。

「それにやっぱりこれから家族としてやっていこうっていうのに、仲を深めずになあなあにしてしまっては後で困ってしまいそうで、心配なのよ~」

 それが本音か。
 ちらりと千紗の目を見る。千紗もこちらを見ていた。
 なあなあに……なってるだろうか。家族としては十分仲良くやれていると思う。夫婦として、と言われると……、先日千紗から触ってもいいとお許しが出たものの、実行に移す機会というのはない。

「デ、デートって言われても……私たち、昔から学校帰りにお話するくらいしかなかったから、何をすればいいのか……」
「まあ! 遊園地とか、水族館とか、行ってないの?」
「一回あるよ! それに猫カフェには行ったことあるし!」

 負けじと俺が口を挟むが、正直それくらいだ。
 当時はお金もなかったから遠出なんてできなかった。学校の連中にもバレないように気を遣っていたし。真冬であまり外を出歩きたくなかったのもある。
 たしかに、母の言うことも一理あった。結婚までしてしまったのだが、実際俺たちの関係性はなんだかよくわからない。夫婦である前に瞬くんの親という意識が先に出てきてしまう。かといって俺が千紗と一緒にいたいという気持ちに代わりはないのだが……、一方で、瞬くん抜きで遊びに行くという光景が想像つかない状態なのは確かだ。
 家でまったりしている時間以外、二人きりでの千紗の振る舞いなんかは知らない。

「でも水族館とか行くなら、瞬も連れて行ってあげたいなあ……」

 そして千紗の気持ちもものすごくわかるのだ。
 瞬くん抜きで楽しむのはやっぱり罪悪感がある。外で何か面白いことがあれば、ああこれ瞬くんが見たら喜んだだろうなあとか考えてしまうのだ。俺でこうなんだから、千紗はもっとだろう。
 ……あ、そう考えると、ちょっと母の言い分もわかったかもしれない。もちろん瞬くんと一緒に楽しもうと考えるのはよいことだと思うのだが、瞬くんが気がかりで楽しめるはずのことを楽しめなくなるというのは、もしかしたら精神衛生上よろしくないんではないだろうか。
 新生児の頃なんかはそりゃあ趣味や遊びに行ったりしていられないのかもしれないけど、千紗は未だにそのくらい瞬くんに割合を割き続けているように見える……というのは俺も思った。
 まあ、子育てが性にあっているようだし、育児ノイローゼみたいなものはなさそうだけど。

「じゃあ瞬くんを連れて行きづらいようなところとか行ってみる?」
「……え。ええ? ほんとに?」

 千紗はまんまるの目をして俺を見つめ返した。
 てっきり俺は千紗と同意見だと思ったのだろう。そんなことが許されるのか、というような顔である。

「……たまにはよくない?」

 説得のためにあれこれ理由は思いついたが、なんだか瞬くんがまるで千紗の重荷になっているかのような意味に受け取られるような気がしたので黙っておくことにする。そんな風に思っているわけではないのだ。
 千紗はうーんと視線を落とす。
 そりゃあさ、子供をほっぽいて遊びに出るなんてよくないのは俺だってわかるさ。一日中子供とべったりできるのが今だけの贅沢だとも思うし。
 でも俺が働き始めたら、それこそ休みの日は瞬くんと一緒にいたくてたまらないだろうし、そんなときに二人でデートというわけにはいかなくなるだろう。

「じゃあ……少しだけ」

 すまなそうな顔をしていう千紗はなんだか、俺や母に気を遣ってくれているようで少し切ない気持ちになった。
 まるですごいわがままを言っているみたいな、そんな顔だったのである。


 結局のところ、土壇場になって千紗はああだこうだと抵抗した。
 最終的に母が朝瞬くんを幼児向けの映画につれていってくれることとなり、その裏でちょっとウインドウショッピングでもして息抜きをしようという話に落ち着いたのである。
 映画自体は一時間ほどだが、その映画館があるショッピングモールにはボールプールなどがあるキッズコーナーもあるし、そこで遊んだ後合流してお昼を食べて帰宅する手はずとなった。
 千紗は何度も母一人で大丈夫か、迷惑をかけないかと心配していた。しかし母は俺たちよりうんと年上なのだ。しかもおばあちゃんと言うには若く、体力だって問題ない。むしろひょろひょろの千紗の方がか弱い。瞬くんは聞き分けがいいし優しい子なのだから、ちょちょいのちょいなのだ。

「瞬、ばあばの言うことちゃんと聞いてね。トイレはぎりぎりまで我慢したらダメだからね、ちゃんとトイレ行きたいって言うんだよ?」
「わあかってるよー」

 千紗が何度も聞くせいで瞬くんはちょっと鬱陶しそうである。
 ばあばと二人だと告げると、思ったより瞬くんはすんなり受け入れた。駄々をこねているのは千紗だけなのである。
 パパとママはー? と聞いてきた時は胸が締め付けられそうになったが、お買い物に行くのだというと、そっかー。とあっさり引き下がったのである。
 チケットの半券を貰って母に連れられて奥に歩いていく瞬くんを心配そうに見送っている。

「瞬くん映画館ってはじめて?」
「そうなんだよ、暗いの怖がってすぐ出てきたらどうしよう」

 そうして上映時間が始まって数分立つまで千紗は映画館から動こうとはしなかった。

ーーー

「……ごめんね、私心配性すぎるのかな」
「仕方ないよ、俺も映画館デビューはもうちょっと大きくなった頃だったし」

 千紗はちらりとこちらを見上げ、緩く笑った。

「流さあ、ほんと喋り方変わったよね」
「え、そ、そう? どんな風に?」
「昔はもっとズバッとしてた……かな? あ、でも昔付き合ってたときから優しくなったかも」

 そりゃあ喋り方のトーンはもっと話しやすいように明るくしようと心がけている……けど、彼女になったからと態度を変えた自覚は一切なかったな……。

「さっきもさ、心配性なのかなって私が言ったら流は「そうかもね」とか「そんなことないよ」って言うと思ってたんだ。そっかあ。仕方ないって言うのかあって思ったよ」

 ……違いがわからない。内容は違うけど、話し方の印象としては同じじゃないだろうか。しかし千紗はこの方が気に入ったようだ。ならよかった。
 ショッピングモールを当てもなく歩いていく。休日なので人が多い。
 はぐれないよう、人の邪魔にならないようそばを歩く。いつもは間に瞬くんがいるので、近づきすぎると顔が見えないことにようやく気づいた。かわりにつむじが見える。

「ねえ、どこいくの? 何か見たいものってある?」
「いや、これといって目的があるわけじゃないけど……。あ、服とか見る?」
「ええっ、いいよ~、まだ着れる服あるし」

 相変わらずファッションには興味がないようだ。
 う、うーん。どうしよう。どうすれば楽しんでもらえるだろうか。俺の恋愛偏差値はものすごく低い。デートなんて千紗しか経験がないし、しかもそれだって千紗に先導されてちょっとうろついたりする程度だ。あとはカラオケ、喫茶店、ファミレス、自宅。大学生とはとても思えないラインナップである。
 そもそもデート以前に、外へ出かけて遊ぶという文化が俺にはない。連れ出されてようやくなのだ。
 しかしこの場ではやっぱり俺がリードしないと。母に促されたものの、抵抗していた千紗を俺が誘ったようなものだ。

「あ、ふわふわ~」

 悩んでいると、いつのまにか千紗は俺がすでに通り過ぎていた店のクッションの前に立ち止まっていた。あ、危ない……気づかず置いていくところだった……。いくらスマホで連絡がとれるとはいえ、デートしてたはずなのにはぐれてしまうなんて笑えない。

「それほしいの?」
「え? ううん、いらなーい。ふわふわだなって」

 ……ほおう……?
 千紗はワゴンの上にむき出しになっているクッションや抱き枕なんかを手当たり次第さわさわして感触を確かめている。
 俺は親に売り物はあまり触るもんじゃないと言われてきたが……ま、まあ、感触を確かめるのは大事だし……。
 その店はパジャマとかルームウェアなどを中心に触り心地のいいリラックスできるような用品を取り扱っているようだ。

「千紗いつも部屋着適当じゃん。寝る時こういうの着てみたら?」
「触り心地はいいけど……、でもゆるめだから寒そうだよ。風入りそう。でも中に着ちゃったら感触楽しめないし」
「なるほど……」

 色々事情があるらしい。
 そう言われて改めてみてみると、冬用のもこもことしたデザインだがショートパンツだったり、上の服もかなり余裕のあるデザインだから、着心地はよいだろうがこれだけでは防寒目的には使えなさそうだ。ちゃんと暖房が行き届いたワンルームとかなら過ごしやすいのかもしれない。
 しかしうちのようなやたらにでかい家だと廊下は恐ろしく寒いし、夜中にトイレなんかにはこの格好じゃいけないな。
 でも絶対可愛いんだけどな……。絶対に……。見たい……。
 そう思ってるのが顔に出ていたのか、千紗はにやっと笑った。

「こういうの、彼女に着て貰うのって憧れるよね~」
「あ、そういう感覚まだあるんだ」
「まだっていうか、女としても普通に考えるよ。こういう服着てちゃんとスキンケアしてたり、あとインテリアこだわってたりとか、そういう子はやっぱいいよね~って思うもん。真似したいとは思わないけど」

 ああ、たまにテレビで女優さんの自宅公開とか見るもんな……。やること多くて大変だなとしか思わないけど。

「私はああいうの、多分買い揃えてもすぐめんどくさがってやんないと思うからさ。ちゃんとできる人ってやっぱ周りから見てもいいんだろうな~って思うよ」
「へえ……まあ元々見た目にはそんなにこだわらない方だったもんね」
「そーそー…………美意識低くてごめんね?」
「えっ全然全然!」

 慌てて首を振る。
 今だって十分清潔感あるし……、そう、素朴さがよいのだ! 着飾っている女子にはやっぱりこっちも緊張してしまうし、そもそもうちに来るまで瞬くんの面倒を見ながらではそんな暇なかったろうし。
 千紗はタオル生地のぬいぐるみを触りながら難しい顔をした。納得していない顔だ。

「……もっと流や瞬が自慢できるような女の人になりたいな……」
「じ、自慢……?」

 はて……。
 俺にはその発想がないようだった。

「自慢できる人というものの定義がよくわからないんだけど……」
「てーぎ?」
「例えば親が有名人だったら自慢かもしれないけど、でも自慢できる親になるために有名人になるわけではないから、そういう話ではないんでしょ? それに親が目立つのを恥ずかしがる子供もいるだろうし……」

 ぱちくり、という言葉がとても似合う顔で千紗は俺を見上げている。

「見た目が綺麗、とかは自慢できるかもしれないけど……それも立場や年代によって世間に推奨されるジャンルや程度が変わってくるようだし……。それに個人的に似合うかどうかも大きいよね。世間と自分の趣味と似合うメイクや服装が合致するなら何も気にする必要はないだろうけど。でも自慢できる、というところに重きを置くとなると……」
「あ、ごめん。そこまで考えて言ってない」
「あ、お、おお……そっか、ごめん」

 俺の話をそっと止めたあと、しばらくして千紗はくすくすと堪えるように笑った。

「な、なに?」
「ううん、なんかすごく桐谷っぽかった」
「ど、どういうこと? そう言うあなたも桐谷ですからね……?」
「おっと。そうだったそうだった」

 結局その店ではソックスを購入した。千紗のと瞬くんのと、ついでに母のとである。俺はさすがにふわふわもこもこのソックスなんて履く勇気は持てないのである。外に出るときわざわざ履き替えないといけないし。
 せめてパンツはどうかと千紗に勧められたが、断固拒否しておいた。俺はまだ男らしさを諦めてはいないのだ……。
 店を後にして、千紗の興味の向くままに靴や服、日用品なんかを見て回る。俺はあれやこれや買ってやりたかったのだが、千紗は記念日でもないんだし、と拒否する。
 その代わり……と言って、もじもじするような、恥ずかしそうな顔をしたので俺は動揺してしまった。多分このあとどんな無理難題を言われても俺はいくらでも財布の中身を明け渡すだろうと思ったからだ。
 しかし千紗のお願いというのはとんでもなくささやかなものであった。


「ゲームセンターかあ……」

 その商業施設の上の階、半分ほどを使ってゲームセンターが設置されていた。といっても家族向けといった感じで、友達に連れて行かれた街のゲームセンターのような喧しさや密集度というのはあまりない。クレーンみたいなものでお菓子を移動させるゲームとか、UFOキャッチャー、プリクラがメインで、表の方に子供用のアニメか何かのゲームが並び、奥側に銃で戦うやつとか、格闘ゲームとか……まあ、俺はよくわからないけど、そういったゲームが並んでいた。

「ちょ、ちょっと……遊んでみたい……、いいかな……? 流、こういうの興味ないよね?」
「よく知らないけど、全く興味がないわけじゃないよ。何やるの?」
「特に目当てのものがあるわけじゃないんだけどね、今どんなのがあるのかなって気になって……」

 ふむ。
 今日この数十分一緒に行動しただけだが、千紗は基本的に興味があるからといってこれといった目的があるわけではないようだ。それ自体俺も理解できるのだが、俺はそんな千紗にすぐ目的を聞いてしまっているきらいがあるなと、自覚した。目的というか、結論を急ぐというか。
 これは直すべきかもしれない。理由がなくてはいけないわけではない。それはわかっているのだ。
 一人脳内で反省会を開いていると、千紗に服の裾をひっぱられる。

「これね、二人プレイできるから一緒にやろ。ここにマークが来たら、ここを押すの」
「なるほど。そのくらいなら俺にもできるな」

 千紗は始める前にすぐルールを把握したらしく、ここを見て、こういうときはこう。と指導してくれた。とても簡単なルールだ。成長したということを見せつけてやるか。

 ま、結果惨敗だったわけだが。


 瞬くんといるときの千紗はよく笑うのだが、やっぱりどこか余裕がある。瞬くんが危ないことをしないよう、すぐに対処できるよう少しだけ冷静な部分を残しているのだろう。
 だから久しぶりに、まさに数年ぶりに千紗が子供のように声を上げて笑うところを見た。人の笑顔を誘うようなそんな笑い方を、昔はなんてことのないようにいつも見ていたのを急に思い出した。

「あー面白かった。流、ほんとにこういうの慣れてないんだねえ」
「ま、まあね……」

 俺の翻弄されっぷりが相当ツボに入ったらしい。
 ゲームの最中、千紗もはじめてやると言っていたのにこっちにアドバイスする余裕を見せるほどすぐにコツを掴んだようだった。
 笑いはするが、バカにするようなニュアンスは一切ないから、わからないなりにこっちも楽しい雰囲気は伝わってくるのでいいのである。大学の友人なんかだと足を引っ張って険悪な雰囲気になってもよくないし、あまり人とゲームをしようとは思わなかったけど。
 無駄遣いはよくない、と千紗はそれ以上遊ぼうとはしなかったが、ぐるりと見て回った顔はそれだけでもワクワクしているようだった。

「たまに息抜きに遊びに来たらいいじゃない。もう少し瞬くんが大きくなったら興味持つだろうし」
「うーん、ゲーセンはコスパ悪いからねえ……。上手な人は少ないお金でたくさん遊べるんだろうけどさ」

 千紗はそれほどうまい部類にはならないのか。
 まあ確かに、俺はわけもわからないままゲームオーバーになってしまうから、それに数百円なんてとてもかけられないけど。
 でも千紗の楽しみっぷりを見るとたった数百円だと思うんだけどな。きっと千紗にとっては数千円の服を買うよりうんと充実する使い道だろう。

「全然お母さんからヘルプの連絡こないね」
「ああ、そういえばそうだね。ちゃんといい子で楽しんでるんだ」

 ゲームセンターを抜けた俺たちは、ジュースを買ってベンチで休憩していた。もう映画は終わっている頃だろう。

「流、疲れてない? 昨日くたくただったでしょ?」
「え? ああ。もう全然。いっぱい寝たからね」

 そうだ。昨日俺はセンターに行っていたのである。瞬くんの治療のため血液の提供に行ったのだ。
 月に一度、結構な量を抜かれるので、昨日はなんだか眠かった。しかし一応こちらの体の負担にならない程度に加減はされているし、まあそれほどでもない。血を抜かれるのは慣れているし。
 しかし千紗はそうではないようだ。病院へ通う経験も少なかったせいで、やたらにとんでもなく恐ろしいことをやっているように思っているようなのだ。
 どのくらい抜いたのかと聞かれて正直に答えると、まるで病人のように扱われたんだよな。悪い気はしなかったけど。

「心配してくれるのは嬉しいけど。毎月やるんだから、あんまり気にしないでよ」
「うう……ごめんね、代わってあげられたらよかったのに」

 それはそれで、女の人の小さな体では負担も大きいし、元から貧血にもなりやすいのだから男がやる方が都合がいいのだ。
 なんとなくほっぺたを触ろうとしたら逃げられた。くそう。
 腕時計で時刻を確認していると、隣で千紗がジュースを飲みながら声を上げる。

「んっ!」
「え? なに?」
「ストロー噛んじゃった」
「ああ……、昔から噛む癖あるよね」

 千紗はぶんぶんと手を振った。

「直したんだよ! 前おばあちゃんにすごい叱られてさ、みっともないって言われてさ、そうなんだって思って。そしたら私も今まで考えたこともなかったのが恥ずかしくなって、直したんだよ。ほんとだよ? でもちょっと気が緩んじゃった……」

 そういうと今度は潰れたストローの先を広げるように向きを変えて甘噛みしている。
 確かに、褒められる行動でないことは確かだけど。

「別に気にしないよ」
「他の人が気にするよ〜」

 他の人はわざわざ人の咥えているストローの形状など見ないと思うが。
 むしろ気を許して癖が出てしまったのだとしたら嬉しいし……というのはさすがに照れくさくて言えないけど。
 それでも自分の行いに不満そうな千紗がジュースを飲み終わったのを見届けて立ち上がる。

「ゴミ捨ててくる」
「え! 紳士~! ありがとー」

 千紗の褒め方は大げさである。
 ……まあ、高校時代こういう気の利かせ方は照れくさくてできなかったけどさ。俺が気を回す前に率先して千紗が動いてしまっていたのを思い出す。
 ゴミ箱との距離は、同じフロアで目の届くところではあるのだが、中央の吹き抜けを挟んでいるので地味に不便な位置だった。その分そちらの方が人が多くて奥側しかベンチに空きがなかったのだが。
 瞬くんは何をしている頃だろうか。ボールプールではしゃいでいるかな。近くのおもちゃ屋で何か見つけてほしいほしいと駄々をこねてないといいんだが。
 ゴミ箱で氷を捨てようとしていると、視線に気付いた。
 奥のアイス屋の方から歩いてくる女子が、何故か進行方向ではなくこちらに釘付けになっていた。

「……あっ……つ、筒井さん……」
「やっぱりー!? 先輩じゃーん!」

 そう言うと小さく手を振りながら人の流れを無視して駆け寄ってきた。
 こ、この子はなんで毎回女子と歩いているという一番見られたくないときに限って……!
 申し訳ないが、ちょっと、うげっと思ってしまった。ほんとに、悪いけど。
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