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17章

 今年の夏は台風もいい具合に逸れ、かなり穏やかな年となった。元々この辺りは地形的にあまり天候が荒れることはない。
 しかしその分を取り戻すかのように、十月の半ばに入ってから急に雨が続くようになった。秋だというのに暑い日が続いていたのに、長雨で一気に冷え込みそのまま冬になってしまったようであった。
 昔は雨になるたび偏頭痛などに悩まされていたが、最近はそれほどでもない……のだが、こう続くとやはりどことなく体が重い。
 そして、瞬くんの元気がみるみるなくなっていくのを目の当たりにすることになってしまった。

「瞬~、もうご飯いい? 眠い?」
「んー……」

 一日雨が続いたくらいではそれほど明らかな異常というのは見られなかったのだが、徐々に癇癪が増え、寝付きが悪くなり、かと思えば三日目の朝からは殆ど起きていられなくなったのだ。
 完全に眠ってしまっているわけではないのだが、食事中も遊んでいる最中も常に睡魔と戦っている状態だった。食事や水分補給は千紗がなんとか世話している状態だ。
 千紗はすっかり泣きそうな顔になっていた。

「うん、大丈夫。呼吸はゆっくりだけど安定しているし、熱もない。病気ではないよ」

 一通り瞬くんの体の様子を見てそう伝えると、千紗は少しだけほっとしたような顔で、しかし未だ不安げに眉尻を下げている。念のためセンターに連絡もしたが、いくつか別の病気で見られる症状が出ていないかという確認をしたのち、やはり同様の判断だった。

 これは能力者には稀に見られる特徴的な防御反射だ。大体は特殊能力が強く体に影響を及ぼす10代後半から見られるのだが、幼児だからといってありえない症状ではない。きっかけに関しては能力は関係なく肉体的精神的なストレスでも引き起こされることもあるし。
 薬で無理やり目覚めさせることもできるのだが、体に負担がかかるし、それで体が眠ろうとするストレスの原因を解決できなければ意味もない。二、三日程度であれば寝かせておく方が良いとされている。長期となると餓死や衛生面など問題が出てくるので入院しなくてはいけないが、原因が雨であるならその心配もないだろう。長雨も今晩で終わるらしいし。

「とりあえずおむつは履かせてあげたほうがいいね。水分補給も朝あげていた分で十分だから、心配しなくて大丈夫」
「……ありがと。流がいなかったらなんにもわからなかったよ……」

 一応検診の時などに母親にはこういった症状がでることもある、という注意はされているのだが、しかしそれほどポピュラーな状態ではないし、知識があったとしても実際に目の当たりにすると動揺するものだろう。俺も、実体験だってあるのだから覚悟はできているはずだった。しかし寝ている本人であったにもかかわらず、その認識は他人事だったのだと感じる。
 母はどんな気持ちで世話をしていたのだろう。
 瞬くんはいつものように寝ている。しかし呼吸も心拍数も通常の半分以下だ。
 まるで生きることをやめて死にに向かっているようで、どんどん自分の手から離れていくような感覚だった。眠いのだからしょうがないとわかりつつも、起きようとしてくれないのは生きようとしてくれていないようで、とてつもない不安が襲ってくる。

「前住んでたとこはね、台風とか結構くる地域だったんだ。そしたらすごく機嫌悪くなって大変だったよ。……でも一日中寝るってことはなかったんだよね……」

 千紗はあまり暗い雰囲気にさせまいというように明るい声を出しているようで、しかし尻すぼみだった。しかしその表情や言葉の端々には不安が覗いている。

「体が大きくなったから、その分負担が大きいのかもね。生まれた土地と違う環境なのも大きいのかもしれない。できるだけ体の消耗を少なくして、やり過ごそうって冬眠状態に入ってるだけだから、心配するようなことはないよ」

 とは言うのだが、それでなーんだそっかと切り替えられたら苦労はしないのだ。
 幼児期はまだ能力の発達も体の発達も未熟だから、天候の影響で能力がうまく扱えなくてもすぐさま体に影響はでない。機嫌が悪くなる程度というのが大半だ。そう考えると瞬くんの症状は少し珍しいのだ。
 この眠りに入っている期間、体の成長は止まる。たった一日や半日だが、積み重ねればその差は大きい。俺が高校時代成長が遅かったのもこれが原因だ。
 瞬くんの年の子であればその差も大きいだろう。
 成長し損ねるわけではない、寝ていた時間だけ止まっているだけであって、遅れてやってくるだけなのだ。しかし最終的に同じように成長できるとしても、周りに比べて成長が遅いというのは人格形成にも影響する。
 俺なんか高校からは一年若い子に混じっていたのにその中でも未成熟だったのだからそりゃあ捻くれる。
 瞬くんはこれが癖にならないといいのだが。引っ越したことによる環境の変化と異常気象が原因だとしたら、まあ運が悪かっただけだろう。能力への影響でいうなら俺の子供なら雨よりもむしろ風の方が気をつけた方がいいのだろうし……。

「……そういえば、瞬くんの能力って具体的にはどんなものなの?」
「ええっ? 知らないの!?」

 千紗は心配げに泣きべそのような顔をしていたのだが、それが一気に驚愕に変わった。

「ご、ごめん、あれっ? 日常的に使ってたっけ」

 いつの間にか驚きの顔から呆れに変わっている。そ、そんな……。さっきまで俺の解説を真面目に聞いてくれていたのに……。
 このくらいの年の子ならまだ自分の能力の性質に気付いていない場合も多いのだ。だからてっきりまだ開花してないのかなと……。
 千紗はうーんと唸って、手を伸ばしてボールペンを握る。先ほどセンターに電話をしたときメモで使ったものだ。

「うんと……私も瞬から教えてもらっただけだからよく知らないけど、遠くのものを動かす力……っていうのかな」

 そう言いながら布団の上で眠る瞬くんに向かうようにペンを床の上でころころと転がす。

「こんな風に、瞬に近づけるとか、遠ざけるとか。横移動と浮かばせたりはできないんだけど……、頑張ればいつかできそうとは言ってた。外では使っちゃだめだよって言い聞かせてるけど、家の中ではたまに使ってるよ? ほんとに気付かなかったの?」
「う、うそお……」
「ほんと。まあ、基本動かすって言っても床を転がすことしかできないから、使えるときは限られてるけどさあ……工作のときとかよく注意してるんだけどな」

 俺や父の遺伝と思えば大気に関する力ではあるだろうと予想してはいたけど……。物を動かす、というか風を操って物を動かす、ということかな。
 転がす程度しかできない、というのならまあそれほど危険性はないか。でももうちょっと発達したら、周りの人が怪我をする可能性も出てくるな。

「……ま、まあ、今日の夜にはだいぶ雨も弱まるみたいだし、明日からは上がるみたいだから、大丈夫だよ」
「うん……そうだよね……」

 しかし千紗の表情は当然ながら晴れない。
 瞬くんはいつもと変わらない寝顔だ。しかしいつもなら楽しそうに遊んでいる時間に、こうして静かだとやはりこのまま目覚めないのではと不安な気持ちになるのだ。
 雨のおかげで日差しもなく、寝ている瞬くんのため照明もつけていないので昼前だというのに部屋は薄暗かった。

「……流も小さい頃こういうことあったの?」
「うん……俺はもうすこし大きかったけど、家でもそうだし、入院中も十日以上眠ったままのことも結構あったよ」
「十日も!? そんなに寝ても大丈夫なの?」
「家ではもちろんそんなに長期間は持たないよ。俺の場合は治療の一環だったから、ちゃんと事前に絶飲絶食で、設備とか準備を整えてからやった記憶あるよ」
「……でもそれはお母さん、辛かったよね」
「まあね」

 当時の話は、かなり迷惑をかけたこともあって後ろめたさというか、後ろめたく感じることすら後ろめたいというか、とにかく気まずい。自分から親に話を聞いたことはなかった。
 母は瞬くんの様子を知って、初めは千紗の手前ネガティブな反応は見せなかったが、実際に瞬くんの様子を見ると当時の記憶が甦ったのか鼻をすすりながら寝室に籠もってしまったのである。

「……お母さんにお昼どうしたらいいか聞いてくるね」
「あ、わ、わかった」

 基本的に家のことを管理しているのは母なので、千紗はいつも指示をあおいでから動く。
 まあ、別に体調を崩したわけでもないからすぐにいつもののほほんとした顔で出てくると思うのだが。
 残された俺は瞬くんの寝顔を眺める。
 自分が同じような状態だったとき、眠る前と起きたときの心配げな母の顔を見て申し訳なくなった記憶がかなりある。というかあとは寝ているだけなのでその記憶しかないわけだが。
 全身麻酔を受けたときと感覚は近い。どれだけあらがおうとしても起きていられないのだ。夢は見たんだっけか、見なかったんだったか。
 ともかく、子供の頃は自分のことなんか考えもしなかったが、親の立場になってみると何を人の心配をしているのかというような有様だった。瞬くんは今はただ長めに寝ているという風にしか考えていないだろうけど。

「瞬くーん、起きて遊ぼうよー」

 軽く体を揺すってみても当然返事はない。
 わかっていても悲しかった。

ーーー

「眠ってるときって、やっぱり声かけられたりちょっかいかけられるのって嫌なもの?」
「うーん、寝てる間は全然わからないから嫌でもないと思うよ」
「そっか。じゃあマッサージとかってした方がいいのかな」
「ああそうだね……、寝返りは打たないから、たまに体勢変えてあげるくらいはしてあげた方がいいかも。でも普通の介護に比べると床ずれとか、エコノミー症候群とかの心配はしなくても大丈夫だよ」
「へえ〜」

 二人で並んでさやえんどうの筋をとりながら、千紗の質問にひとつずつ答えていた。
 瞬くんの世話ひとつなくなるだけでだいぶ時間に余裕ができる。かなりまったりと、そして時間の流れがやたら遅く感じるのだった。
 お昼も冷蔵庫に残った残りのご飯を温めるだけで済ませたし、大人三人いるとほかの家事もあっという間だ。子連れでは手間取る仕事をやっつけるかと思ったが、買い物くらいしか思いつかなかった。
 きちんと勉強した上でもやっぱり自分の家族の身に降りかかると不安に思うのだ。あまり知識のない千紗はもっと心配だろう。
 しかし千紗はつとめて明るく振る舞っていた。俺も千紗も、お互いに相手の不安やらを打ち消そうとなんとか励ましているような気がする。

「お母さんがね、瞬くんがいないなら大人なご飯も食べれるわねーって言ってたんだけどね、でも私子供舌じゃん? ほんとは瞬と同じご飯がいいんだよねえ」
「ああー……そういえば結構好き嫌い激しかったよね。克服したのかと思ったんだけど」
「ううん、そりゃあ出されたものは食べるけどね……、お母さんの料理はおいしいんだけど……ね?」

 ね? と言われましても……。どれだけおいしく調理されても嫌いなもんは嫌いということか。俺は好き嫌いがないのであまりわからない感覚だが。

「瞬くんがいないとほんと暇だよね。このあと何する?」
「んー課題とかないの?」
「ないわけじゃないけど……急いでやることでもないかな」
「勉強で何時間も時間潰せないよねえ」

 いや、俺は余裕だけどな。
 でもわざわざ千紗がいるときに部屋にこもって勉強したいかって言われると、NOだ。俺もそろそろがり勉から卒業するときが来たのだろうか。
 結局瞬くん抜きで遊ぼうという気にもなれないし、二人でとりとめもなく、それでも基本は瞬くんに関する雑談に華を咲かせることに、自然となっていった。

「あのね、幼稚園て、結構保護者も色々やらなきゃなんだって。だからね、お母さんがやっぱりしばらくパートとかは様子見たらっていうの」
「色々って? そんなに忙しいものなの? みんながみんな専業主婦ってわけでもないでしょ」
「うん、まあ幼稚園によるらしいんだけどね、バザーとか、えーと、あとなにか色々。瞬が通うとこはどうなのかまだよくわからなくて……。ほら、まだどんなお仕事できるかもわかんないから、もしかしたらお迎えはお母さんに頼むかもって話だったでしょ? それでしわ寄せがいっちゃったら申し訳ないなって……」

 保護者会とかいうやつだろうか。うーん、自分が園児だった頃の記憶などもはや殆どない。
 そしてあったとしても母が何をしていたのかなど認識してなかっただろう。

「ううーん、そっか……。ごめん、そういうとこ全部丸投げしちゃってたね……全然考えもしなかった」

 こういうとき、俺は戦力外なのである。はなっから頭数にいれられていない。
 そして実際、幼稚園の送り迎えの担当は苦しいだろう。

「んーん、それはいいんだよ。だから、ほら高認取ったら動物看護士さんの資格取ろうって言ってたじゃない? でもそれは瞬が小学校に上がるくらいに就職っていうのを目指した方がいいのかなって。ほら資格とれたらお仕事の紹介とかもあるって言ってたじゃん。それ使わなきゃもったいないし」
「え、あ、そうか……」

 ううーん、たしかに、急いで就職しなければいけないわけではない。パートなら時間の融通も利くし。
 お金に関しても、実家に世話になっている以上だいぶ助かっているし、俺が働き始めたらだいぶ余裕はできる。パート自体も別にしてもらわなきゃ困るってことはないはずだ。

「……別に無理に働かなくてもいいんだよ? 俺も春からは今みたいに瞬くんと一日中一緒にいられる時間は限られてしまうし……その分千紗に一緒にいてあげてほしいと思う」

 千紗はぱちぱちと瞬きをする。
 もしかしてもっと表に出たいのかな。働かないで済むならそれに越したことはないと思っていたのだが、引きこもっているより働きに出たいタイプだってもちろんいるだろう。

「んー……、でもパートはやるよ。ほんのちょびっとしかできないかもだけど、ないよりマシでしょ? それに瞬が幼稚園行ってる間二人も大人で家事やってても暇になるだけだしさ」

 バイトしたことないから興味あるし、と明るく千紗は付け足す。
 ……なんか、こう言ってくれているものの、結局は千紗にばかり譲歩させているような気がする。
 しかし千紗はいつもただ素直に「そっか、わかった」と納得してくれるのだ。
 もっと好きなタイミングで好きなことをしてほしいのに、俺や瞬くんや俺の母親の事情をふまえた上であとから千紗のことが決定していて、なんだか……すごく制限をかけさせてしまっている。

「……ごめん、なんか、気苦労かけて……」
「えっ!? そんな、全然だよ。私一人だったら仕事だって選んでられなかったし」
「いや~でも、でもさ~……なんか、子育てに無関心な父親みたいで……」

 そのまま隣の千紗にしがみつくように肩を掴んで体重を乗せる。

「わ、わ」

 千紗が慌てて体勢を整えるのを感じて、こっちも少し寄りかかる力を緩めた。

「ごめんほんと……」
「別にいいってば。……流、結構ひっつくの好きだよね」
「……人並みだと思うけど……」

 一応これでも、もう少し待ってくれと言われたから待っているのだ。まあ、瞬くんがいる家でそれ以上のことはできるわけもないのだが。
 それでも最近千紗の体は前のように緊張に固まったりしていない。なんとなく、少し慣れてくれたのだろうというのを最近感じる。休みの日は一日中一緒にいるし、夜も毎日一緒に寝ているお陰だろう。
 それでも立っている時とか、千紗だけ座っている時なんかに近づくと少し身構えられてしまうけど。

「ごめん、なんか、申し訳なさと愛しさが入り交じって」
「うわ、愛しさって。うわ~……」

 今更だが、千紗はあまりわかりやすく可愛がられたりするのが苦手なようで非常に渋い顔をする。自分は瞬くんにべたべたのくせに……と思ったが、思い返してみればうちの母と比べるとだいぶさっぱりしているか。ただうちの母が甘すぎるだけで、ほかと比べると千紗も十分甘いんだろうけど。
 母親の反面教師で俺はあまり人との接触を好まないタイプになったと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。人との接触頻度の比較対象が他は和泉くらいしかいないので、俺の基準は間違っているようだ。鬱陶しがられる前にすごすごと離れる。
 すると千紗は途端に申し訳なさそうに視線を下げた。

「……ごめんね、私可愛げないね」
「えっ」

 今愛しいといったばかりなのに……。

「私、瞬といるとね、母親としての自分が勝つんだけど、一人だと多分自分のこと、今でもまだ心のどこかで男の自分だと思ってるんだ。……だからね、なんか、たまにすごく変な感じになるんだよ。うそだ~って、思っちゃうんだよね……」
「…………男でも同じこと言ったりしたりすると思うよ?」
「ええー? それはさすがにどうかなー?」

 ちょっと思い浮かべてみる。うーん、やっぱり見た目よりも話す内容とか、関係性とか今までの思い出みたいなものが重要だと思うんだけどな。
 ……まあ、本人が自分の姿を客観的に想像して萎えてしまう気持ちは十分わかる。
 でもそんなこといったら何もできなくなってしまうじゃないか。特に恋愛だとかエロいこととか、そういうのはちょっと正気失ってるくらいじゃないとやってられなくないか? 冷静に自分の姿を想像して平気でいられるやつはなかなかいないのではないだろうか。
 まあ、可愛がらせてくれないという意味では可愛げはないのか。河合さんといい、俺の周りの女性は結構淡泊だ。
 ああでも裕子さんはそんなことなさそうだな。しっかりしてるけど、恋人には甘えたりしそうだ。なんせ和泉のお姉さんだし、愛情表現は得意だろう。千紗は裕子さんによく似てるのに、そういうところの影響は受けなかったらしい。和泉家の専売特許なんだろうか。
 もし千紗が甘えん坊で素直になんでも喜んでくれるとしたら……。……なるほど。たしかにとても良いかも。
 でもこういう愛され慣れていないところも嫌いじゃないのだ。なんというか、なんとしてでも喜ばせたくなるし、たまに素直に喜んでくれるとより嬉しくなるってもんだ。何より役得という感じがする。

「まあ、可愛げあろうとなかろうとどっちでもいいよ」
「……」

 まじまじと見つめられた。さすがにちょっと恥ずかしくなって目を逸らす。

「ほんと……流って、変わってるよね」
「うっ」

 そんな呆れたように言わなくたって……!

「私、不思議なんだよね。真面目な人だから、私や瞬に責任を取ろうとしてくれるのはわかるんだけど、ずっと離れてたのに、当然のようにこう……愛情……みたいなものを向けてくれるでしょ? それって、すごく不思議だなって……。私って別に流に好かれるようなことしてないじゃん」
「ああ……ううーん、そうか……そうくるのか……」

 と言われても、それを説明するのは難しい。

「あ、ごめん。言葉でちゃんと説明しろって意味じゃないの。ただね、ずっと離れてる間、そろそろ次の彼女とかできたのかなーとか考えてたから、全然違うって知って……なんだろ……なんだろうね」
「それは俺もずっと考えてたから、同じだよ」
「え、ほんと?」
「そりゃあ、そうでしょ。嫁いびりされてないかとか、もし離婚してても引く手あまただろうなーとかさ」

 どうでもいい相手ならともかく、お互い好きだったのに別れたのだからそう考えるのも当然だろうと思うのだが、千紗は少し頬が赤くなっていた。
 とっくにさやえんどうはすべて筋を取り終えていた。千紗は筋を入れたチラシで作った籠の中身をいじいじと触っている。

「ほ、ほんとに流もずっと考えてた? 他にいい人いなかったの?」
「後輩に告白されたことはあるよ。当然断ったけど」
「え、そうなの!?」

 あ、思ったより驚かれた。
 そしてつい言ってしまったけど、これはもしかしたらあまり言うべきではなかったのだろうか。全くひとっつもモテもしませんでしたよというのは、なんだか情けないじゃないか、と思ったのだが……。
 千紗のことだから、他の人と付き合えるチャンスを自分が潰したとか思いかねないと、口に出してから気付いた。でもすでに遅い。

「あ……待てよ……? いや、よく考えたら告白はされてなかった。でも俺のこと絶対好きだなと思って、断ったよ」
「え……なにそれ……」

 あれ? 今度は普通に引かれた。

「いや、ほんとに、勘違いではないんだよ。でも今はもう完全に普通の先輩後輩って感じで、全然怪しい関係ではないからね。だいぶ前の話だし、向こうも彼氏できたりしたみたいだし、そもそも大学が同じなだけで殆ど接点ないし」
「か、勘違いでないにしろ、自分から断ったの……? 告白されてもないのに……?」

 あれっ!? 思ったより本気で引かれている。おかしいな……。
 ま、まあ、話の流れがちゃんとあった上であるという説明をして、なんとか納得してもらった。急に出会い頭にお前俺のこと好きだろ、みたいに言い出したと思われたんだろうか。そんなの石橋がやったって笑い物にされるぞ。俺はもっと慎ましやかだ。
 千紗の苦い顔を横目に、こういう話題は振るべきではなかったなと後悔した。

「……やっぱり今でも俺が他の人と一緒にいる方が安心する、みたいに思う?」

 不安になり、そう訪ねるとすぐに千紗は口をへの字にして俯いて、さやえんどうの筋で遊びながら唇を尖らせた。
 すごく意地の悪いことを聞いてしまった。嫌味のつもりはないのだ。でもそう取られても文句は言えまい。というか、嫌味にしか聞こえないか。
 さっきから話の切り出し方を間違え続けているな……。

「……ごめん、今のはちょっと……」
「多分私、……お、怒ると……思う」
「え」

 千紗の顔を見ようとして、でも俯いているというか、こっちに顔を見せないように隠しているようにしか思えないくらい小さくなっていて表情はもう伺えなかった。

「私……浮気とかほんとはすっごく……大嫌いだから……ていうか瞬のことも裏切ってることになるし……」
「お、怒ってよ! いや、浮気なんてしないけどさ! 怪しい行動しただけで怒ってもいいよ!」
「な、なんで嬉しそうなのさ……。いわれのないことで私に怒られたらちゃんと怒り返してよ……」

 もちろん怒って当然のことなのだが、千紗はその当然の権利すら振るわずすぐに諦めてしまう人間なのだ。そんな彼女が怒ってくれる程度には、裏切り行為だと思ってくれることが嬉しかった。

「……だから、ね、あのね、さ、触っても、いいからね」

 ちらりとこっちを見上げる目とあった。多分俺の目はもっとまんまるだったと思う。
 しかし千紗はすぐにまた視線を下げる。

「よそに行っちゃやだけど、触るのもだめとか、さすがにおかしいでしょ……、私も元男だから……こう……欲求不満……? みたいなの、わからないではないし……」
「い、いや……別に……それとこれとは別でいいと思うけど……千紗が嫌だったら俺は全然……」

 ま、まあ確かに一日中千紗と瞬くんが家にいるので、なかなかこう……一人で発散できる機会すらかなり限られていて悶々とするときはあるが……。でもまあ、どうしようもできないことではないし……。っていうか触っていいとしても瞬くんがすぐそばにいる中でどうこうできるわけもないし……。
 だから問題はないのだ、とできるだけ頼もしそうな表情を作って頷いてみせるが千紗は相変わらず唇を尖らせ、恨めしそうにこちらを見て、呟くように言った。

「…………嫌じゃない……」
「え!!」

 嫌じゃないの!? いや、嫌がっていると思って触ってたわけではないけど!
 しかし俺の接触はあくまでも家族としてというか、まあ、さっきのはちょっとしがみつくような形になって距離は近かったけど、瞬くんにもできるような接触だ。でも浮気どうのってなると……また種類が変わってくるというか……。

「あの…………あのね……ほんとはね……最近は……ちょっと……嬉しい」
「……さ、さっきのも?」

 だいぶ間を置いてから千紗の首がコクンと動いた。
 う、嘘~~~あの反応しておいて……? むしろいつもは抑揚のついた明るい喋り方なのに、ああいうときは反応が薄くて、やっぱり心の底では複雑なんだろうなあとか、色々気にしていたんだけど……。
 相変わらずこいつ、変なところで嘘がうまい……。

「でも……体が、勝手に嫌がっちゃう……から……、流のこと、傷つけちゃうかも……」
「あ、そ、そう、なんだ……」

 恐怖症なんてそういうものだろう。頭で考えるより先に体が反応してしまうのだ。

「気にしなくていいから……、流だってわかったら大丈夫になる……と思う」

 と、言われても……怖がってる相手に無理矢理引っ付くなんてことは流石にできないよなあ……。
 荒療治にはなるだろうけど、千紗の負担は計り知れない。どういうタイミングで怖がるかきちんと分析しておくべきだろうな。
 そのためには千紗本人の協力が必要だけど……と思っているうちに、千紗は自分の発言を後悔するように「あああ~」と喚いて机に突っ伏すように体勢を崩した。

「……でも私、ほんと、あばずれなんだよ……人様におすすめできる物件じゃないんだよ……」
「あ、あばずれって……」
「ほんとに……私、それで嫌われたらって思うと……」
「だ、大丈夫だよ……」

 千紗は自分の頭を拳で軽く叩きながら自己嫌悪に苛まれている。
 あばずれって。好き好んでそういうことをしたわけでもないだろうに。なんとか励まそうと声をかける。

「俺は別に千紗が脳だけになってさ、モニター越しにしか会話できなくなっても変わらないよ」
「な、なにそれ……私がやだよそんなの……」

 千紗は顔だけ少し上げて本気で嫌そうな顔をしたあと、呆れるように笑った。
 なんとなくの気まずさを誤魔化すように、また寄りかかるように机に上体をもたれていた千紗に横から抱きついた。今度はこちらの様子を見ていて心の準備ができていたのか驚きもせず、上体をよじって片腕を後ろに回してくれた。そんなちょっとした動作だけで感動してしまうのだ。

「千紗ちゃん今晩お鍋……」

 ドアを開けたまま固まっている母と目が合い、三秒ほど見つめ合ったのち、そっと逆再生するようにドアが閉じられた。
 息子をほっといていちゃつくバカ親と思われたと静かに絶望する千紗の傍ら、なんだか高校時代もこんなことあったな、と走馬燈のように思い返すしか俺はできなかった。

ーーー

 日が暮れ、夕飯が終わり、雨脚が弱まっていくのを千紗はすぐに感じ取った。
 瞬くんが目が覚めたときちゃんとそばにいてあげたいと千紗に急かされ、俺たちは早めに入浴などの支度を終えて瞬くんの眠る寝室にいた。寝る前の読み聞かせのときに使うスタンドライトを持ち出して、それぞれ本や参考書なんかを読んでいる。たまに小声で会話したり、瞬くんの寝顔を覗いたりしながら。
 雨は先ほど上がったようで、時間的にそろそろ目を覚ましてもおかしくはない時刻だと踏んだ。といっても数時間の誤差は十分考えられるのだが。そのまま普通の眠りに移行する可能性だってあるし。
 でももう夜だし、それならそれでこのまま俺たちも寝ればいいのだ。

「……ねえ、あのさ、ちょっと気になってたんだけど」

 千紗の声はひそひそ話のお陰で少しだけ眠そうな雰囲気が漂っている。
 何? と先を促し、体を寄せる。

「瞬みたいになっちゃう子って、やっぱり治療せずに大人になったら死んじゃうの?」

 眠ってしまう子のことだろうか。その辺りの説明、前しなかっただろうか。いや、瞬くんの場合、という話をしただけだったか。
 どこから説明したものだろうか。

「そんなことないよ。この症状自体は能力者であれば広く見られる状態だし。まあ、より症状が出やすいということはあるけどね。健康に支障をきたすのは能力がどんな風に体に影響しているかによるから、一概には言えないよ」

 まあ、指標のひとつにはなるけど。眠りにつくトリガーがなんであるかにもよるし。

「瞬くんの場合、俺や俺の父親っていう前例があるから、治療しなくちゃいけないだけで、今の瞬くんの状態だけみたら、健康を害するレベルであるかっていうのは正直半々くらいだったよ。その分細かく通院して状態を見なきゃいけなかったんだけどね。……でも瞬くん、俺と違って全然元気だよね」
「あ、うん。そうなの。でも赤ちゃんの時は乳児喘息とかっていうのがあったよ。大きくなったらなんともなくなったけど」
「そっか。いいことだね。千紗の血のお陰かなあ」

 そういうと千紗はくすぐったそうに笑った。
 少し気になってたんだよな。俺の血筋は代々病弱だったのに、瞬くんは健康優良児だ。
 そういえば、俺の母もそうだが、今まで俺の家系の結婚相手は同じ地域に住んでいる人ばかりだった気がする。だからこそあの土地と家に誇りを持ち、執着するのだ。
 土地が悪いとばかり思っていたが、もしかして同じ土地の人間との子供であるということも大きかったのではないだろうか。これは完全にただの推論だが。瞬くんの健康は遠く離れた地の千紗の遺伝子のお陰なのではないだろうか。
 もしかしたら将来的に命に関わりすらしないかもしれない。……が、それでもやっぱり悪天候の度にこうして大ダメージを受けていたんじゃ生活に差し支えるし、治療はすべきことなのだ。

「……そっか、ちょっと、安心した」
「安心?」
「うん……」

 やっぱり今の瞬くんを目の当たりにすると不安になるものか。それとも今までの俺の説明が不足していただろうか。
 他に何か気になることはないだろうかと聞こうとして、千紗の目がこちらに向いていないことに気付いた。
 視線の先を追う。

「おはよおー」
「お、おはよう……」

 もう夜なんだけどな。瞬くんは眠たげにまぶたを擦り、体を起こしていた。

「ママーしゅんおむついっぱいですけど……」
「ああそっかそっか! ごめんね、気持ち悪いよね。瞬がねーいっぱい寝てたから、おねしょしないように履かせておいたんですよ」
「しゅいましぇんねえ」

 多分すぐにでもそのまま寝るな。
 起きるに決まってる。そうわかっていたけど、でも目を覚ましてくれるのがたまらなく嬉しかった。
 あくびをしながらされるがままにおむつを替えてもらった瞬くんは気持ちよさそうにすぐにまた布団に戻った。普段は赤ちゃん扱いされたら怒るのに、それどころではないらしい。
 しかしもう二度と動かないかのような眠り方ではなくて、生き物らしい寝姿にほっとする。

「パパとママもねましょうねえ」
「はーい」

 ぼんやりとした瞬くんの呼びかけに、さすがに今日はもう一安心して二人の時間……という気にはならない。明かりを消し、俺も千紗も大人しく瞬くんの隣に収まった。
 うっすらとした月明かりで呼吸の度に少し揺れる瞬くんの輪郭が見える。きっと反対側から千紗も同じ思いでいるのだと自然にわかった。
 ずっとここにいたい。
 今までの人生で一番穏やかに眠りに落ちたと思う。
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