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16章

 その日の夜、瞬くんが眠ったのを見届けて二人で庭に出た。縁側のように背もたれのないベンチが並べられているのだ。そこに二人で腰掛けた。秋の虫が鳴いている。
 秋の月夜を眺めながら縁側で涼むなんて、CMみたいだね、と千紗が笑って言ったので、CMっぽく綺麗なグラスにレモネードを注いで二人で飲んだ。お酒だったらもっと雰囲気良さそうだったんだけどな。残念ながら我が家にアルコールの類はないのだ。

「良かったね、裕子さんとまた会えて」
「……うん、ほんと」

 裕子さんの名前を出すだけで、千紗はにいっと笑うので面白い。

「二人でどんな話したの?」
「えーと……色々。私のこと探してあちこち行ったって話はもうたんまり聞いたよ」
「あはは、そこは勘弁してやってよ」

 並の精神力ではあんな捜索方法何年も続けていられない。
 ただでさえ忙しい身なのに、一人でずっと諦めずにいたのだ。

「あんな風に裕子さんが探してくれるなんて、思いもしなかった……」
「千紗は小さい頃から悲しいときどこかに隠れちゃうから……って、言ってたよ。だから必死で見つけようとしてくれてたんだよ」

 千紗は驚いたような顔でこちらを見ていた。
 まさかその習性に気付かれていると思わなかったのだろうか。千紗が裕子さんを長年見ていたように、裕子さんも千紗を見ていたのだ。あまり侮らない方がいい。……と、俺が自慢げに言ってもしょうがないのだが。

「私、何してたんだろうね。そんな風に思ってくれてるのに気付かなくて……、好きな人から逃げ回ってるなんて、バカだね……」
「バカかはさておき、できればこれからは逃げたり隠れたりはしないでほしいな」
「うん、さすがに……反省したよ」

 千紗は肩を竦めて笑った。
 ……まあ、千紗の選択すべてを責めるつもりはないのだ。ただ、うん、やっぱり心配するからな……。こればかりは容認しがたい。

「裕子さんを幸せにすることができるなら、私がしたいって思ってたんだけどなあ……」

 足をぶらぶらと揺らしながら、首が痛くなりそうなくらい夜空を見上げて千紗が口にする言葉は少し重たい。しかし、未練は見えなかった。
 そんな未来もあったんだろうか。そんな未来の俺はどうしているんだろうか。想像もつかなかった。
 あ、と千紗が思い出したような声を上げる。

「そうだ、この前裕子さん熱愛報道出てたの知ってた?」
「えっ!? 知らないよ! いつ?」
「先月くらいかなあ……」

 俺は芸能人のニュースなどには疎いのだ。それにしたって、裕子さんのことなら教えてくれてもいいのに……。

「んーと、恋人がいますって感じじゃなくて、ただ俳優の男の人と一緒に歩いてるとこ撮られただけっぽいから、嘘なのかなーって思って、聞いてみたんだ」
「へ、へえ……」

 わかってはいたことだが、大変だな、芸能人も……。
 千紗は肩をすくめて首を振った。

「ただの友達なんだって。あんまり恋愛とか得意じゃないから全然縁がないんだって」
「和泉もそうだけど、そういう家系なのかなあ……」
「どうなんだろうね? 昭彦は昔色々あったからわからなくもないけど」

 ……正直、千紗……というか佐伯がいないから……なのでは……と思うのだが……。今更どうしようもできない。
 まあ、別に恋愛なんてやらなくたってなんの問題もないしな。
 千紗はぱたぱたと足を揺らす。

「それにしても、内定出てよかったね。おめでと」
「あ、ああ! うん、よかったよほんと。肩の荷が降りた」

 ねー、と千紗は笑う。やっぱり心配かけてたんだろうな……。
 俺が面接に行くとき、俺より緊張してたしな。かといって就活のことなんてさっぱりわからないから何もできない、と落ち込んでいたのだ。ようやく安心させられたのだと思うと本当によかった。

「はじめの二年くらいは研修の延長みたいなものだから、お給料も多くはないけど……でも不定期でバイトするよりずっと安定してるし、恐らく問題はないはずだよ」

 まあ、入社してみたらとんでもないブラックでした、なんて話も聞いたことがあるし、働いてみないことにはわからないけどな。伊藤先生のおすすめでもあるしきちんとした大きな総合病院なので、むちゃくちゃな残業とか休日出勤とかはないよね……と思っているのだが。根拠は特にない。それにセンターとは勝手も違うだろうし。
 センターでは自然型の重い症状の子が多かったけど、総合病院ではセンターで治療をするほどでもないが指導やリハビリが必要だったりという子が通うのがメインとなる。全く違う仕事ではないものの、子供の特性が変わるとまた別の大変さが出てくるだろうし……まあ、ここで想像してもしょうがない。働いてからだな。

「じゃあさ、これからはもっと家にいる時間増える?」
「あー、うーん、どうかな。バイトをもっと入れようかなって思ってるんだけど……」
「あ、そっか。そうだよね」

 え、何その反応……。もっと俺といたいみたいな……そんな気持ちなのかと期待してしまうではないか。
 軽い気持ちで直接聞いてみれば良いものを、思わず尻込みしてもじもじとしてしまった。

「ね、年収の制限あるから、ほら、所得税とかってやつ、それは越さない程度にしようかな。だから、うん、あんまりバイト三昧にはならないよ!」
「あ、そうか、そういうのあるんだよね。扶養……とか……そういうやつ……でしょ?」
「そうそう!」

 俺たちの知識はとてもやんわりしているのだ……。
 今年は研修だのなんだのでバイトには殆ど入っていなかったものの、二年の頃結構な頻度でバイトに入っていたから注意されたんだよな。
 というか、千紗は今誰の扶養にも入っていないし、年金とか保険とか自分でこのあたりのことをやっているはずなのだが……。

「……ね、瞬、ちゃんと自己紹介できてたでしょ?」
「え? ああ、うん。そうだね」
「裕子さん、桐谷じゃないんだねって言われちゃった」
「あ、ああー。そっか……みんな気が早いな……」

 まあ、気持ちはわかるけどさ。一応まだ再会して3ヶ月くらいだしな……。
 俺からすると大歓迎ではあるが、誰よりもまず俺の状況が整っていないという状況だったし……。
 でも内定が出たということはいい……のか……? いや、普通だったらもっと時期を見るべきだろうが、瞬くんのこともあるし……。あれ? 千紗はもしかして籍を入れてくれる気満々だと思って良いのか……?
 ううーん。難しいところだ。下手なことを言ってまた距離を開けられたくはない。でも最近はかなり明るく話してくれるようになったしなあ……。
 ぱちりと千紗と目があう。それからへへ、とお互いに笑う。

「……ええっと……千紗は今の生活、不満はない?」
「そんなのあるわけないよ。生活費だって、流もお母さんたちも受け取ってくれないし、仕事だって急がなくていいって言ってくれるし……贅沢しすぎだよ。怒られちゃうよ」
「怒られるって誰にさ」
「……わかんないけど、色んな人」

 世間様とかそういうことを言いたいんだろうか。それを言われると俺だってボコボコにされそうな立場である。甘えに甘えまくってるからな。
 でもその世間は千紗のこれまでの苦労を知らないのだ。知ってるから俺たちは少しでも楽に過ごして欲しいと思うのだ。

「……ほんと、私、毎日遊んで暮らしてるようなもので……」
「えっ!? ま、まさか! いつも朝早くに起きて家事やってくれてるじゃない。お弁当だってこの前作ってくれたし!」

 や、やばい! さっきまで笑っていた千紗の表情が沈んでしまっている!
 俺の慌てふためきように千紗は呆れるよう少し笑った。

「……大丈夫だよ、もう逃げたりしないし……、瞬と離れたくないもん。安心して?」
「そ、そういうつもりじゃないけど……」

 そりゃあ逃げられたくはないけどさ!

「ただ千紗が申し訳無さそうな顔するのが嫌なだけだよ」
「……ごめんね、気を遣わせちゃって……」
「だ、だから、良いって。好きでやってるんだから」

 多分、俺の立場が問題でもあるのだ。いくら俺が任せとけ! と言ったって、俺だって親に頼らざるを得ない。そうなると余計に千紗は申し訳なくなってしまうのである。

「……千紗、あのさ、内定決まったとは言え、まだ安心して生活を預けられるような男とは程遠いけど、一緒に居てくれるかな」
「え?」

 今更何を、というような顔で千紗は俺の顔を見る。
 俺はつくづく考えてしまうのだ。あれやこれと。喋るのも行動も、思考と比較するとわずかだ。そうしているうちに色んなものを逃してしまうのである。俺の直さなくてはいけないところだと思っている。

「……うん」

 千紗は少しだけ頬を赤くして頷く。
 うん。だって。
 俺は勢いをだして立ち上がって、腰掛けたままの千紗を見下ろす。

「よし。じゃあ、結婚しない?」
「…………えっ?」

 ここで結婚しよう、と堂々と言えれば格好はついたが、しかしちょっと待って、と言われても仕方ない状態である。今ひとつ押しが弱いが、しょうがないのだ。
 以前冗談交じりに婚姻届持って帰るか聞いたら、ちょっと及び腰になられたし。もしそうならあんまり自信満々に言うと断る千紗が気を使いそうな気がした。そういうやつなのだ。

「で、でも、気が早いって、さっき……」
「うん、早いかなとは思うよ。一般的な感覚で言えばね。もっときちんと状態が整って、千紗も馴染んでからがいいと思った」

 そうだ、付き合っている……とも言い難いところではあるが、一緒に暮らすようになって二ヶ月。これで結婚に踏み切るのは、人の話として聞いたら早すぎると思う。俺はともかく、人の家に住むことになった千紗の負担が大きいはずだ。
 でも俺が千紗のことを慮って主張をしないのはおかしい気がした。千紗が嫌なら嫌でいいのだ。それを聞く前から俺が配慮するのはやめるべきだと思った。

「今うちの親とも上手くやってくれているし、再会してから……する前からずっと千紗と結婚できたらって思う気持ちは変わらないよ。だったら、まだ自信持って二人を養ってみせる、なんて言えない立場だけど、今のうちでも問題ないんじゃないかな、って……短絡的だけど思ったんだよね」
「……」

 千紗はぽかんとした顔で俺を見上げていた。俺のつま先を見て、それから頭のてっぺんを見た。
 目線が高すぎるな。と思って両膝をついた。瞬くんと目を合わせるときのようだ。片膝をついたほうがそれっぽいなと思いつつも、そう考えてしまうと妙に意識してしまって照れくさくてできなかったのである。こういうところが俺は格好つかないのだ。

「千紗はどう思う? まだ早いかな」
「え、え? えっと……」

 こんな聞き方をして、はじめて俺はこうして千紗の意見を聞いたことがあっただろうかと考える。千紗の考えていることを知りたかったのに、本当は話したくないのかも、とか、言いづらいのかも、とか考えて、今まできちんと聞けていなかったかもしれない。こうではない? というような言い回しをした記憶ばかりだ。
 千紗は言葉を探すように、膝の上に置いた手をもぞもぞと動かし、ちらちらと視線を動かす。
 それから唇を尖らして、うんとね、と呟いた。

「えと……私……その……あのね?」
「うん」

 俺が頷くと、何故か照れるように余計に唇を尖らせて俯く。
 今は下から覗き込むような姿勢になっているため、それでも表情は見えた。
 しかし見る見る口がへの字になって、まるで泣くのを堪えるような表情になってしまった。慌てて腰を浮かせようとしたところで千紗が口を開く。

「私、あの、あのね、瞬の幼稚園……ね、願書をね、貰いに行くの」
「……え? ああ、うん……、この前言ってたね」

 急に話が変わってしまった。
 確か少し前、俺が大学に行っている間に説明会に行ってきたという報告は聞いていた。朝から並んで願書を貰いに行くのだという話も聞いて、親たちがみんなそんなことをしているのかと驚いたものだ。
 しかし急になんでそんな話題になるのか。戸惑っていると千紗は膝を擦り合わせるようにして続けた。

「それで、それでね、瞬の名前……、いっぱい書くようになるでしょ? 入園したら鞄とか、靴とかにも……。それに、間宮って書くのかなって、思って……それって……やだ……かなって、でもそんなこと言えないから……思ってたの……」

 ぽつりぽつりと話す。
 そんなことを考えていたなんて、まったく思いもしなかった。そしてそんなこと考えもしなかった。
 育児に関して千紗だけに任せるつもりなど一切なかったのに、実際瞬くんに関する書類を書くこともなかったのだ。

「ごめん、俺そんなこと、考えもしなくて……」
「ううん。私が一人で気にしてただけだから……」

 少し居住まいを正して、千紗は表情を切り替える。
 頼りない泣きそうな顔とは違って、しっかりとした顔だった。

「ほんとにいいの? 私……、まだ何もできてないよ。してもらってばっかり。それに……女としても……ダメダメで……過去のことを考えたら、男の人は嫌な気持ちになると思うし……」
「そんなのなんの関係もないよ」
「関係あるよ……。離婚の原因にもなるって、聞くし……」
「ないよ。千紗が苦しんでるなら関係あるけど。俺が千紗についてどうこうなんて、そんなの今更だよ?」

 千紗はもごもごと口を動かした。
 少し待ったが続きが出てこないようなので俺が口を挟む。

「……千紗が気になってるのは俺の気持ち? 俺は千紗と結婚したいんだよ。俺の言葉を信じてほしい。千紗だけの気持ちを教えてほしいな」

 相手の気持ちを下手に考えてしまう気持ちは十二分にわかっている。遠慮せずに自分の感じていることを打ち明けるのは恐ろしいことなのだ。
 でもそれを打ち明けてもらえる人に俺はなりたいのである。
 千紗は何度か口を開けて、閉じてを繰り返したあと、力が抜けたようにこくんと頷いた。

「する……結婚……」

 小さな子どものような言葉に、思わず笑ってしまった。釣られるように千紗も照れくさそうに笑う。
 子供同士の戯れみたいだ。実際まだ大人とは言い切れない立場で。ままごとのような生活で。

 千紗の顔をじっと見つめていると、段々とほほえみから笑いを堪えるような顔になっていった。

「若い人の結婚の離婚率すっごく高いって聞くけどなあ……」
「あ、すぐそういう事言う」

 縁起の悪いことを言うもんじゃない。そりゃあお互い一緒にいた時間は短いけど……。でも俺からすると、ようやく、やっと、なのだ。積年の思いなのだ。だめだったときのことを考えてはこれまでの俺が報われない。

「……もっと指輪とかきちんと用意してからプロポーズしたほうがよかったんだろうけど」
「ううん……。私の話……聞いてくれて嬉しかったから。指輪とか用意されたら断れないじゃん?」

 断らないけどさ、と千紗は小さい声で続けた。
 それだけで十分だった。

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 翌朝、両親に見守られながら婚姻届を書いて、河合さんにも証人を頼み、瞬くんも連れて役所に提出にいった。
 なんとなく瞬くんも一緒がいいだろうと思ったのだが、本人は大して遊べもせず面白くなかったらしい。帰りに公園に連れて行くとこれじゃないというような目をしていた。

「しゅんはさ、どうぶつえんがよかったんだけど」
「ごめんね、でもばあばがお昼ご飯作って待ってるから、あんまり遠くに遊びにいけないんだよ。パパも午後は用事あるし」
「ライオンがよかったんだけど!」
「瞬ーおっきいブランコあるよ? これじゃだめ?」

 むっすりしている瞬くんを抱えて移動し、三人掛けくらいの大きなベンチ型のブランコに乗せる。千紗も一緒に座って、俺が後ろから揺らした。
 ちょっとだけ顔が綻んだ気がしなくもない。よしよし。

「あのさ、瞬さ、間宮瞬っていうお名前でしょ?」
「そうだよ?」
「で、ママは間宮千紗って名前でしょ?」
「え、そうなの?」
「そ、そうだよ、知らなかったの?」

 変なところで躓いた。
 ……まあ、親の名前ってそんな知ることない……かな?
 うちの親は千紗のことを下の名前で呼ぶし、以前暮らしていたところでも名前で呼ばれてたんじゃないかと思うんだけど……。瞬くんが聞き逃していただけだろうか。瞬くんには他の人も千紗のことをママって呼ぶもんな。

「え、ええっとね、パパの名前はわかる?」
「きいたに」

 あ、そこは覚えてたんだ。記憶力いいな。まあ、河合さんには今でもそう呼ばれているけどさ。

「ばあばはりゅーちゃんってゆう」

 あっ俺の名前は認識してるのね!?
 千紗は説明を続ける。

「そう、それでね、パパと、ママと瞬の苗字が違うでしょ? ほんとは家族って同じ苗字なんだけどね、ずっと違うところで暮らしてたから、違う名前だったんだよ」
「でもいまパパといっしょにいるよ?」
「そう! だからね、さっき、一緒に暮らしてますよーっていうことを偉い人に言いにいったんだよ。だから、瞬もママもこれからは間宮じゃなくて桐谷って名前になったの。わかるかな?」

 改めて説明されると感動するな……。
 面倒な説明役は千紗に押しつけ、一人幸せを噛みしめる。

「なんでー? まみやじゃだめなの?」
「え、ええーと……桐谷の方がいいかなって思って……。じいじもばあばも桐谷だから。……ごめんね、勝手に決めちゃって」
「えー? いいよっ」
「あ、よ、よかった」

 どうやら納得してもらえたらしい。

「だから、瞬の名前は今日から桐谷瞬だよ。お名前聞かれたらどう答えるのかな?」
「きいたに……しゅんです?」
「そう! ありがとね、しばらく慣れないかもしれないけど、ごめんね?」

 瞬くんは再び「いーよっ」と言った。
 桐谷千紗と桐谷瞬。思い浮かべるだけで口角が上がっていくのを感じる。
 二人にこの顔は見せられまい。そっと強めにブランコの背を押した。
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