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16章

 千紗は朝からそわそわしていた。家中を掃除して回って、まるで年末の大掃除のようにきりきり舞いしていた。
 それにつられて瞬くんもなんだか落ち着きがなく、なぜか常にちょっと早歩きだ。

「もっと落ち着いて、まったりしていようよ」
「そんな余裕ないよ! 何もしてないと十秒がすっごく長いんだから、一生かかっても一日終わらないもん!」

 その理屈はおかしい。
 珍しく厳しい声が帰ってきたので俺はソファの上で小さくなった。
 まあ、緊張する気持ちはわかるけどさ……。

 10月になってすぐ、裕子さんから連絡が入ったのである。
 ようやく長い撮影が終わって帰国できるというものだった。そして真っ先にこちらに向かってくるという宣言でもあった。
 俺もすでに第一志望である伊藤先生に進められた病院での面接が終わって、結果待ちの最中のことだった。バイトの融通も利くし、大学での試験も終わったところだったのでいくらでもスケジュールの都合はついた。

 俺は正直に居場所を白状した。裕子さんは今や有名人、前のように顔を隠しているからと外では気軽に会えないレベルの知名度となっていた。田舎だからみんな芸能人には免疫がないし、騒ぎにもなりかねない。別に一人暮らしのマンションに招く訳ではないのだし、外よりも自宅で会う方が都合がいいだろうということになったのだ。
 それを伝えると千紗はわたわたと掃除をはじめたのだった。もちろん拒否はしなかった。千紗のことを探し回ってくれた裕子さんを、ただ恥ずかしいだのの理由ではねのけていいとは思わなかったのだろう。
 ……しかしこれじゃ俺だけぐうたらしているみたいじゃないか。
 母にも千紗が小さい頃から世話になった人が遊びに来ると報告すると、じゃあ私は私で友達とお茶でもいこうかしらね、と早い時間からルンルンで出かけてしまった。気を遣ってくれたんだと思う。
 母は最近すっかり千紗がお気に入りで、義理の母と娘というより友達同士のような気軽さを見せていた。千紗も千紗で最近「おかあさん」と呼ぶようになって嬉しそうに日中の出来事を話してくれるし、家事の分担もうまく回っているようだ。
 裕子さんにも自信持って、おたくの娘さんをお任せください、といえるような環境になっている……と、思う。
 裕子さんが来る予定なのは昼過ぎ。ご飯を食べてからだ。空港からそのままこっちにくるらしい。和泉といい、一旦自宅に荷物を置くという発想はないようだ。

「ね、ねえ、私この格好変じゃない? 所帯じみてるよねえ」
「ママかわいいよ」
「ありがと。こっちとこっちどっちがいいと思う?」
「んー、おはながらがいーんじゃない?」
「持ってないよ~」

 やっと掃除を終えたかと思えば、まるでデートの前のように瞬くんと鏡の前でファッションショーをはじめてしまった。
 正直千紗の持っている服はどれも瞬くんと遊びに出るときを想定しているようで、年頃の女の子のファッションとは言い難いかもしれない。ダサいとか見苦しさは一切ないのだが……。かなりシンプルだ。

「ね、ねえ、お二人さん、お昼ご飯できたよ?」
「あっもうそんな時間!? うわあ、ドキドキしてきた……」

 俺の作ったうどんをすすりつつ、何度も胸に手を当て千紗は自分を落ち着けていた。
 わ、わかってる、初恋の人だし、今でも憧れの人だろうし、四年ぶりの再会だし、そりゃあ緊張もするだろう。でも、でもさすがにちょっと……嫉妬するというか……悔しいというか……。

---

「と、友也くんだああ~~~」

 ドアを開けた千紗の姿を見るなり、裕子さんはそういって地面にへたりこんでしまった。
 慌てて二人で駆け寄って助け起こし、家の中に連れて入ったが、玄関に腰掛けて泣くばかりで挨拶もままならなかった
 気持ちはわかる。すごくわかる。

「ともやって?」
「えーと、ママの前のあだな」

 急に泣き始めた女性に若干怯えている瞬くんに千紗は困ったように適当に誤魔化していた。
 裕子さんはだいぶ垢抜けたのかもしれない。美人だけど親しみやすいお姉ちゃん、というより綺麗なお姉さんとなっていた。大きな変化というほどではないけど。

「もう! 心配したなんてものじゃないんだからねっ! ずっとずーっと探し回ってたんだから!」
「ご、ご心配をおかけしました……」

 ぷんすかという擬音が聞こえてきそうな表情で積年の思いをぶつける裕子さんに、午前中あれほどそわそわしていたのが嘘のように千紗は苦笑なんか見せて、冷静に返事をしていた。ああ、そうだった。昔からそうだった。裕子さんに会うまではおろおろそわそわしているくせに、いざ対面すると素知らぬ顔をするのだ。懐かしい姿だ。
 それに多分裕子さん自身の空気感っていうのもあるんだろうな。見た目はすごく有能な女性っぽい感じなのに、喋ると昔と何も変わらない。

「あのね、今、千紗だから、間宮千紗」
「あっそうだっけ、ごめんね。千紗ちゃん……うん、わかった。もー、あたし絶対泣いちゃうってわかってたからね、ちゃんとアイメイクせずに来たの。危ない危ない」
「そんな、大げさだよ」
「そんなことない! むしろ落ち着いてるくらいだもん。ごめんね、来て早々ティッシュ借りちゃって……」

 そうだぞ、そんなことないぞ。俺の号泣っぷりを忘れたのだろうか。
 しかし、裕子さん一人加わるだけでかなり場の雰囲気が変わる。場の中心が裕子さんとなる。ゲストだから、というよりも本人のカリスマ性によるもののような気がする。
 玄関でへたりこんでしまっていたためそろそろリビングに移動しようか、というところで、裕子さんはずっと俺の後ろにひっついていた瞬くんにようやく気付いたらしい。ぱっと表情が変わった。

「こんにちは~!」
「こ、こんにちは」
「ふふー、あたし裕子っていうの。裕子お姉ちゃんって呼んでね。ママとパパのお友達なの。ぼくのお名前教えてくれる?」
「……まみやしゅんです、よんさいです」
「瞬くんかー! ママの小さい頃にそっくり! 可愛いねえ」

 にこっと音がしそうなくらい満面の笑みを向けた裕子さんに、瞬くんは恥ずかしそうに俺のケツに顔をうずめた。いいけどさ。いいのか?

「瞬、裕子さんはね、ママが赤ちゃんの時からのお友達なの。ほら、前写真見た、いじゅみ、いたでしょ? あの人のお姉さんなんだよ?」

 瞬くんは少し考えた後、結局俺のケツに顔を押しつけたままコクコクと頷いた。ちょっと、やめてほしい。不安になる。

「すごおい、お母さんしてるう~!」

 それで裕子さんは拍手をしながらまた泣くし。俺はなにもすることがないのに周りはずっとわたわたとしていた。
 今日はそういう日らしい。

---

 数年ぶりに顔を会わせる裕子さんは、すっかり髪を短くショートにしていた。ボーイッシュなくらいだ。

「次の役の都合上ね。むしろこの方が楽かも。シャンプー楽だしね」

 そう言って笑う顔は昔とひとつも変わらない。
 裕子さんはお土産をいくつか持ってきてくれていて、それで易々と瞬くんの心を掴んでしまった。シャボン玉を噴射するおもちゃの銃である。ガトリング型をしていて両手で抱えるサイズの本格派だ。ここに来る道中で買ったらしい。
 リビングの窓はそのまま庭に出られるようになっていて、そこから外に向かってシャボン玉を噴射してみせて裕子さんは自慢げにこちらを振り返った。まるで映画のワンシーンのようだ。

「しゅんもしたい! しゅんもしたい!」
「えー? 難しいよ~? 赤ちゃんには重たくて持てないかもねえ」
「あかちゃんじゃないよ!!! 4さいだし!!」
「ほんと? じゃあ裕子お姉ちゃんとも仲良くしてくれる?」
「いいよ!」
「じゃあしょうがないなあ~」

 さすがというべきか。あっという間に二人は打ち解けていた。というか瞬くんは完全に裕子さんのてのひらの上をころころ転がされている。
 シャボン玉を撃ち出してはオーバーに裕子さんに褒められて、瞬くんは得意げだった。父にバットを買って貰ったときや、俺が新聞紙で剣を作ってあげたときのような興奮具合だ。やはり武器を持つと血が騒ぐのだろうか。

「すごーい、瞬、人見知り激しいのに」
「河合さんなんか未だに打ち解けてないもんね」
「あはは、たしかに雪ちゃんこういうの苦手そうだもんねえ。あたしは精神年齢おんなじだから」

 瞬くんは存在しない敵から身を隠してさっと銃を構えている。こういう動き、どこで習ったんだろう。
 それにしても、こういうとき同年代の友達や兄弟がいればもっと心おきなく楽しめられたんだろうな。
 近所の公園に顔は出すものの、なかなか同世代の子はいないのだ。多分、同い年くらいの子は同じ時間、園に通っているんだろう。

「ママ! これでわるいやつきたらしゅんがまもってあげるからね!」
「おっ、かっこいいねえ。瞬がいれば安心だなー」

 俺を銃で撃ち殺した直後の台詞だったので、俺は死体になりながらもしかして本当は瞬くんに受け入れられていないのでは? と焦燥感に包まれた。だ、大丈夫だよな……? 深い意味はないよな?
 そして裕子さんはそんなやりとりすらも涙腺にくるようだ。はわわーみたいな顔をして両手で口を覆って感極まっている。
 俺は瞬くんの追撃を受けながらも二人にこそこそと話しかける。

「……二人でゆっくりお話したいよね? 瞬くん連れてちょっと買い物でも行ってこようか?」
「えっそんなの悪いよ! 今瞬バーサーカーモードだし」
「いいからいいから。電話だってしてなかったんでしょ? 

 千紗が慌てたように拒否するが、裕子さんは少しだけ顔を綻ばせたのがわかった。
 そりゃそうだよな。和泉のときもそうだったけど、二人のつきあいは俺には計り知れないのだ。
 俺の見立てでは二人は両思いみたいなもんだった。そりゃあ言いたいこともあるだろう。うーん、これだったら最初から俺は瞬くんを連れ出して、二人の再会が終わった後に帰宅して合流すべきだったかな……。仕方ない、これは和泉のときへの教訓にしよう。

「瞬くん、パパと飲み物買いに行こうか」
「えっしゅんそとでたくないんだけど……」
「銃も持って行っていいからさ。公園の方が広くてやりがいあると思わない?」
「あ、そっかー」

 すぐそばの公園の自販機に行って、そこで少し遊んで帰ればちょうどいい時間だろう。
 千紗は声に出さずに「ありがと」とこちらに手を合わせてくれた。ま、当然だ。俺だって裕子さんが千紗を真剣に探している姿を見てきた。存分に再会を味わってほしいじゃないか。

---

「うーこおねえちゃん、ママみたいでやさしくてすき」

 瞬くんは重たいからと俺に銃を押しつけ、きこきことまったり補助輪付きの自転車を漕ぎながらそう言った。

「よく気付いたねえ。裕子さんはママのお母さんみたいな人なんだって、ママ言ってたよ」
「ママのママー? おばあちゃん?」
「違う違う! 怒られるよ。ママにとって、ママみたいに優しいってこと」

 大した速度は出てないとはいえ、ずっとすぐそばをついていきながら会話するのは少ししんどい。というかまだハンドル捌きが心配なのだ。
 それでも最初に乗り始めたときよりだいぶうまくなった。
 俺は自転車に乗れないので偉そうなことは言えないんだけどさ。千紗に一緒に練習してみなよ、とは言われたのだが、大人用の自転車を買う余裕はないし、この年になって練習で転んだりするとなかなか恐ろしい。……でも千紗は車の運転ができないし、一台くらい買ってもいいのかな……。
 ぐるりと家の周りの丘の縁に沿って回って、門の反対側にたどり着くと公園だ。千紗が女になったときに落ち合った公園である。

「こどもいないねえ、しゅんのじゅうみせたかったのにねえ」
「そうだね。でも遊び放題だよ」
「じゃあパパてきね!」
「げ」

 俺の演技力が試される。
 公園前の歩道を歩く女性二人組に若干笑われつつも、俺はしぶとく生き残る絶妙に足の遅い敵をやりきった。

「しゃぼんだまでなくなったけどー」
「ああ、液が尽きたんだよ。おうち帰ったらまた作れるよ」
「じゃあブランコしよっかなー」
「おーいおい、もう帰るよ。ほら、ジュース買っちゃったし、途中まで自転車の籠に入れさせて」
「あそっかー」
「ハンドル重くない?」
「へえき」

 たっぷり三十分以上遊んでしまった。帰宅の移動を考えると、多分結構な時間が稼げたはずだ。千紗にそろそろ帰るとメールして、瞬くんと四人分のジュースを購入して帰路に着く。
 坂の麓のガレージで自転車を仕舞うところで、あっと気づく。瞬くんの分のジュースは自分で持ってもらうとして、飲み物三本と巨大なガトリングガンを抱えるのは至難の業である。銃は脇で挟もうかな。でもおもちゃを雑に扱って壊しでもしたらとんでもないことになりそうだし。

「どうやって持っていこう」

 ふむ。と一度立ち止まって考える。もし飲み物を落としたら坂を転がり落ちていくだろうし、無理に持つより瞬くんの自転車を引いていくか……、でもだいぶ骨が折れそうだな……。

「パパのさ、おようふくでちゅちゅんでもってくのはー?」
「え? ああ、シャツを?」

 言われるがままに羽織っていた服を脱いで、地面にそのまま広げる。なんという背徳感。
 瞬くんはおいしょおいしょと声に出して、ジュースを服の上に広げて、袖の部分を結んでほら! と声を上げた。結び目と襟と裾の上下を持てば風呂敷のようになった。

「すごーい! 瞬くんよく思いついたね~!」
「でしょ~! しゅんのはつめい!」

 まあ、俺は下に肌着しか着ていなかったから、完全に変態なんだけどな。私有地だから、いいか……。今日暑いし……。
 それにしてもやはり瞬くんは天才かもしれない。まだこの世に生を受けて四年しか経っていないのに。そこから日本語も歩き方もトイレも覚えて、その上こんな機転も利くなんて! とんでもない才能なのかもしれない……。
 風呂敷シャツを持ち上げようとしたところで、スマホにメールの通知が入った。千紗たちからかなと思い瞬くんに待ってもらって確認する。

「……あっ」
「えっなに?」

 瞬くんがこちらを見上げて、思わずぽん、と瞬くんの肩を叩く。

「な、な、内定でた」
「ないてー!?」

 見間違いじゃないかと何度も内容を確認する。
 あってる、あってる! 伊藤先生がおすすめしてくれた病院である。
 瞬くんに言ってもまったく意味がわからないだろうが、それでも目の前にいる瞬くんの顔を見ると、瞬くんも俺の表情からなにか喜ばしいことであるというのはわかったらしい。きらきらした顔をしていた。

「やったー!」
「やったねー! パパー!」

 喜びのあまり瞬くんを高い高いしてぐるぐる回った。喜びの舞であった。


 俺たちの帰還を迎えてくれた千紗と裕子さんは目元が少し赤く、でも二人とも清々しい笑顔だった。そして俺の格好を見てその笑顔がすぐ引きつってしまって、でもそんなことはいいのだ!

「あっお、お、俺、さっき、な、内定でた!」

 どもりにどもりつつ伝えると、訝しげな千紗の表情が驚きからすぐに笑顔に変わる。

「ほんとっ!? すごい! おめでとう!」
「流くん就活してたのー!? 偉いねえ、おめでと~!」

 瞬くんを相手にしたときのような二人の褒めっぷりに照れくさくなり、へへへ、と頭をかく。
 今日中にきちんと返信をしなくては。二人共就活とは無縁だったため、やたらにすごいすごいと褒めてくれた。
 しかし本当によかった……。周りはとっくに就活なんて終えているし、イレギュラーな事態だったわけだし。特殊な職業だというのもあり、問題ないだろうと先生なんかには言ってもらえたけど、本当は不安だったのだ。面接のとき、研修までしてセンター就職を辞退した理由も聞かれたし、正直に答えた。その時の反応で、やはり思ったより苦しそうだと思っていたのだ。
 しかし、まずは一安心である。こういうときいつも、いいやもしかしたらこれはなにかの間違いで、内定取り消しなんてこともあるかもしれないぞ、と喜ぶ気持ちを諌める自分がいるのだが、それは千紗たちの喜ぶ顔で吹き飛んだ。
 裕子さんに至っては俺が未だ就活中だったことすら知らなかっただろうに。

「お祝いしなきゃだねえ、何かご馳走しようか? 食べたいものある?」
「い、いや、とんでもないです! お土産だって貰っちゃったし」
「あ、じゃあお姉ちゃん、一緒に晩ごはん作ってよ。夜までいれるんでしょ?」
「わあ! いいねえ、あたしも千紗ちゃんとお料理してみたかったの!」

 千紗のお姉ちゃん呼びを聞くのは久々だ。四年ぶりに会ったとはとても思えない。千紗はうきうきとお母さんにも連絡しておこうとスマホをいじっている。
 そんな表情も二人はよく似ていると思った。
 顔立ちはまったく似ても似つかないけど、千紗の笑い方には裕子さんがいて、裕子さんの喋り方には千紗がいた。
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