16章
数日が経過した。九月に入り、夏休みも後半である。俺はバイトを週に何度か行くようになって、千紗と瞬くんもすっかりこの生活に馴染んできていた。初めのうちは千紗はかなり気を遣って家事を覚えようと意気込んでいたが、最近では母との連携もスムーズに行えるようになっていた。脅威のスピードである。俺はいまだに家事に関してはアウェーである。
そんなある日の夜のことだ。千紗が覚悟を決めたような目で携帯を手に声をかけてきた。
「あのさ、今日瞬お風呂入れて貰ってもいいかな」
「そりゃ勿論いいけど……。あ、もしかして和泉?」
緊張した面持ちにピンと来て聞くと、千紗はこくこくと頷いた。
なるほど、ようやく腹を括ったか。
入浴中を狙わなくとも、瞬くんが眠ってからでも電話はかけられると思うのだが……、電話内容を聞かれたくなくて俺と距離を置く名目も欲しいのかもしれない。我が家に慣れたとはいえ、まだ千紗は堂々我が家を闊歩はしないのだ。いつも俺や瞬くんや母のあとをついてまわって、自分から一人になるのはトイレとお風呂くらいだ。
「長くなるかもしれないよね、俺の部屋使いなよ」
「あ、ほんと? ありがと、助かる」
長引くかもしれないし、あの部屋なら話し声も他の部屋からは聞こえないだろうし、ちょうどいいだろう。
「で、でも電話出るかなあ。今なにしてるかわかんないよね」
「今向こう昼間でしょ、大丈夫だと思うけどな。出られなくてもすぐ折り返しかかってくると思うよ」
やはり腰が引けているらしい。できれば逃げ出したいというような表情だ。
でもいつまでも放置しているのはさすがに和泉が可哀想だ。なんなら真っ先に連絡を取るべき相手だっただろう。
「そんなに思い詰めなくて平気だよ、きっと話してみたら昔となにも変わらないと思うよ。あいつはあのままだし」
「そ、そう……かなあ……。でも私の方が変わっちゃってるから、向こうも戸惑う気がするよ……」
それは……たしかに。
千紗はかつての印象とはだいぶ変わっているかもしれない。瞬くんの前では明るくノリもいいのだが、一人だともっとしおらしいというか、大人しいからな。笑い方とかも控えめだし……。
「……俺横にいようか? 瞬くんが寝てからとか……」
うっ、と千紗は言葉を詰まらせる。しばらく悩んだ後、ゆっくり首を振った。
「多分ね、私も昭彦も他の人にはあんまり見られたくなくなるかもしれないから……」
「そ、そっか」
はっきり断られるとやっぱりちょっと寂しい……。
でも二人は兄弟のように育ってきたのだ。俺にはわからないものがあるのだろう。少し嫉妬するものはあるが、間に入っていけるものだとも思えない。
和泉と河合さんの関係のような距離感だったらいくら俺でももの申すだろうが、その点千紗は大丈夫だ。千紗に好きなだけべたべたできるのは瞬くんだけなのだ。
千紗の健闘を祈りつつアニメを見終わった瞬くんを回収して風呂に向かった。
「きょうもパパか~。しゅんママとおふろはいりたいんだけど」
「あ、そういうこと言うんだ……寂しいじゃん」
瞬くんはやれやれ入ってやるかという態度だ。最近俺に対する遠慮というものは完全に消え去った。その方が嬉しいけど。ちょっとたまに辛辣だ。子供は残酷なのだ。
「でも瞬くん男の子でしょ? ママは女の子だから、ほんとは別々で入った方がいいんだよ」
「えーっママとしゅんなのに?」
「そうだよ~、まあまだ瞬くんは小さいから許されるけど……」
「しゅんちいさくないし! 4さいだし」
「あとちょっとでね。今はまだ3才だよ」
そう、まだたった3才なんだよなあ、と複雑な気持ちになりながらシャンプーを泡立てる。
瞬くんはなんでも自分でやりたがるが、それでも一人でお風呂に入れるようになるのはまだまだ先だろう。俺が働き始めたら千紗に任せることになるかもしれないんだよな……。
息子が母親と一緒に入浴するのっていくつまで許されるものなんだろうか。あまりこういうことは長引かせないに越したことはないと思うのだが。ちなみに俺は入院期間がちょこちょこ入ったせいでいつの間にか別々で入るようになったので明確な時期というのはわからない。
「あたまねこちゃんににしてくださーい」
「はーい」
泡にまみれた髪で角を二つ作ってやる。
それにしても結構髪が伸びているな。鏡を見てご満悦にしているうちに手に残った泡をせっせと自分の頭に擦り付ける。俺の洗髪などついでだ。
「瞬くんいつも髪の毛誰に切ってもらってるの? ママ?」
「んーと、まえはおばちゃんがきってくれたー。てるてるぼうずしたよ」
なるほど。おばちゃんというのは以前住んでいた定食屋の奥さんという人のことらしい。
たしか千紗も自分で切ってると言っていたか。今度二人を美容院に連れて行ってみようかな。今の髪型もいいけどさ。
「ねーねーパパってママのことすきなのー?」
泡を落とし、湯船の中でゼリーの空き容器で遊びながら、瞬くんが何気ない質問のように問いかけてきた。
「好きだよ~、ママもパパのこと好きだと思う?」
「ママはしゅんがすきだからー」
「たしかに。でもパパも瞬くんのこと好きだってわかってる?」
「それはーわかってますけど」
あ、よかった。愛情が伝わってないのかとちょっと不安になったじゃないか。
瞬くんは照れくさいのかお湯をばしゃばしゃと叩いて飛沫をあげている。
「んーと、でもー、ママやっぱしゅんのことすきだからーニコニコしてるけど、パパといるときもニコニコしてるからすきだとおもうよ?」
「ほんと? 無理させてないかな?」
「してないしてない」
もしかして気遣ってくれているのだろうか。こういうところは千紗に似てるからな。
嘘をつくとも思っていないが。あんまりこういう話は息子にするもんじゃないんじゃないか? パパとママの仲に不安を感じさせるんじゃないだろうか。
それにしても瞬くんとは日に日に会話が滞りなくできるようになっているような気がする。
もともと本や読み聞かせが大好きな子だから、男の子にしてはかなり喋りは発達している方だと思う。一人っ子で友達もいないとなると、なかなか自分から喋ろうというモチベーションにならなくてもしょうがないと思うのだが。
うちに来てからどんどん新しい本に手を出すようになってからは文字を読むスピードも上がったようだし、自分から難しい言葉を話しはしなくとも、こちらの言葉は想像以上に正確に理解できている割合が高い。ニュアンスで汲み取っている可能性もあるが、そういった能力も高いのだろうと思う。
これからどんどん喋れる内容も長く濃くなっていくんだろうな……。今はまだ瞬くんの集中力が途切れないように、わかりやすい言葉を選ぶように気をつけているが、あっという間に対等に喋れるようになるんだろう。
うちの親も同じ気持ちだったのかな……。今はもう大人同士として話せるようになったもんな。最近千紗とのあれこれで久しぶりに親子としての会話をしたという気がするが、それまではもう新たにものを教わるっていうのは家事だとか役所での手続きのことくらいで、むしろこっちが新しい知識を教えることもある。
瞬くんともそういうやりとりができるようになると思うと楽しみでしょうがない。もちろん今だって楽しいけど。
お風呂から上がり、瞬くんのお世話を終えて脱衣所を出ると、ちょうど千紗も階段を降りてきたところだった。
「お、瞬~ほかほかだね~」
バスタオルをマントのようにして走り去る瞬くんに声をかけている姿は、少しだけ目元が赤い気がした。
「話せた?」
「うんっ、おかげさまで~。全然怒られなかったよ」
びっくりだよね、と続けるその表情は朗らかだ。
「……どんな話したの?」
「気になる? 今までどうしてたとか、これからどうするとか、そんな話だよ」
「へえー」
もちろん今後どうするかという話は俺と千紗がきちんと話し合って決めたのだが、それでもどんな風に話したのか気になる。
「パパもしゅんとひみつのおはなししたんだよ!」
対抗するように瞬くんも話に加わる。
「えっなになに、秘密って。ママにも教えてよ」
「パパがーママのことすきっていってた。しゅんのこともすきだけど」
「あ、言っちゃうんだ」
秘密の話っていうから秘密にしてくれるんだと思ってたのに……。
「ええ? なあに、その会話。恥ずかしいよ」
「瞬くんがパパってママのこと好きなのーって聞いてくるからだよ」
「あ、ひみつっていったのに」
瞬くんは咎めるような目をこちらに向けてくる。なんでだ。言い出したのは瞬くんなのに。
ーーー
千紗もお風呂から上がり瞬くんを寝かしつけると、その寝顔を見ながらそっと千紗は口を開いた。
「昭彦にね、ちゃんと夫婦でべたべた仲良くしろよって言われたんだよね」
「……和泉基準で考えたら日本の夫婦は殆ど基準に満たないよね」
って、夫婦ではないんだけど。
「でもそう言われてみると瞬もさ、私たちの距離感をちょっと不安に思ってたのかなって。この前流、急に抱きついてきたでしょ? 河合さんのとこで。それで私びっくりしちゃったから、そのこと、ちょっと反省してたんだ。ごめんね」
「ああ、いや、俺も突然だったし……ごめん」
「ううん……、びっくりはしたけど……それだけだから、大丈夫だよ」
ほ、本当だろうか。怖かったり気持ち悪かったり嫌だったりはしなかったという風に受け取っていいんだろうか。
……しかし、たしかに、夫婦仲って子供への影響は大きい。
どうしても突然瞬くんと千紗と家族になったわけだから、瞬くんをできるだけのけ者にしないようにという気持ちで俺も千紗も動いてしまう。
そんなだからなんとなく二人で仲良くする、という距離感が未だに掴めずにいるのだ。会話は勿論滞りなくできる。最近は明るく楽しげに話してくれることも増えたし。でも仲のいい友人、と言ってもおかしくないくらいではある。恋人同士に比べるとだいぶ距離は離れている。
「……ね、多分きみさ、私に気を遣ってくれてるよね」
「え? な、なにを?」
「私に……えーと、怖がらないように?」
「あ、ああ……」
それは当然だ。
四年離れていたのだ。そして千紗からすると俺はかなり前より見た目も雰囲気も変わっているらしいし、再会しましたはい元通り、なんていくわけはない。
そしてもし男にトラウマ的な感情を抱いているとしたら、昔より俺はより慎重になるべきだろうと思っている。よくある話のように元彼とよりを戻す、という調子にはいかない。そういう過去がなくたって配慮は必要だろうし。
「あのね、確かに私、流に抱きしめられたらびっくりしちゃうし、それ以上のこともできるかって言われると……その……わかんないんだよね。どうしても瞬のこと考えちゃって、母親でいなきゃって、思うし……、うん……抵抗がないとは……言えないかも」
「そ、そうだよね……」
「……あのね、でも、前も言ったけど、嫌じゃないよ。嫌じゃないって、すごいことだと思う。多分どんなにかっこいい人でも可愛い人でも、今は正直嫌だと思うから……」
「ほ、ほんと?」
「……うん……」
昔、千紗はみんなのことが好きだと言っていた。そして裕子さんのことは特別好きなのだと。きっと今特別なのは瞬くんで、その他の男のことは嫌いなんじゃないだろうか。その中で嫌いではないに入れているなら、それはとても光栄なことだろう。
「あ、あのね、昭彦と今日話してて、思ったんだ。私、ずっと好きってよくわかってなかったんだと思う。ずっとぼんやり憧れてて、誰かの一番好きになりたかったんだ。でもわからないことは、実際に向けられてても、わかんないんだよ。言葉を知ってただけ」
「……そう? 裕子さんのこと好きだったでしょ」
よくわかっていなかった、というのが俺にはまずわからなかった。恋愛ということなら、俺のほうがよっぽど鈍感だろう。一途に一人の人を慕っていられるのは、やりたいからってできることではない。裕子さんへの感情は一時の勘違いみたいなものとは思えないし。
千紗は言葉を探している。元は喋り好きな奴だったが、説明はあまり得意ではないらしい。
「うん、えーっと、そう……なんだけど、好きだったんだと思う、よ。でもね人からね、好かれるの、わかんなかったんだ。嘘で好きって言われても、わかんなかったの。本当に好かれてても言葉にしてもらえなかったら、わからなかったの。そういうとき、あったのかわかんないけど」
「……ああ……。たしかに、自分への好意には鈍感そうだよね」
「へへ……」
言われてみれば、昔付き合い始めた時、どうにも恋人らしいやりとり、みたいなことがうまく機能しなかった覚えがある。俺がうまく愛情表現できないせいもあっただろうし、千紗も受け取るのが苦手だったようだ。
「本当に好かれてて、好きって言われてても、言葉じゃなきゃわからなかったら、次の日になったらまた不安になるの。好きはちゃんとまだ終わってないのかなって。でもさ、言えばそれでいいの? って話じゃない。その上自分から言うのは怖いんだ。好きっていって、向こうは違ったらすごく恥ずかしいし悲しいじゃない?」
「……まあね」
千紗がこうして自分の考えを話してくれるのは、かなり貴重なことである。
決まってこういうときは切羽詰まったときばかりだった。自分のことを話すのが好きではないようである。俺の周りは自分の知識や思考を聞いて欲しがる輩が多いのに。
「ええと……だから好きって言われたら好きになる、ってこと? 昔言ってたよね」
「ああ、それ、すっごい恥ずかしい……。とんでもない尻軽だよね。うん、でもそう。そのときは本気でそうだったの。ほんとにね、嘘でもなんでもよかったの。言葉だけでも、信じられないくらい嬉しいから……」
両手で自分の頬を覆い、そこから少し下にずらして口元を隠しながら千紗は嘆くように言った。
瞬くんを挟んでお互い布団の上に体を起こしていたのだが、そっと移動して千紗の横の壁にもたれかかるようにして座った。千紗も真似をして壁に背中を預ける。
カップルや夫婦というには若干距離はある。兄弟とか友達といえばちょうどいいか。そんな距離で千紗は肩を竦めて微笑んだ。
「でも、でもさ、流とね、付き合ってて、ほら、色々ね、話したり、言ってもらったりしたでしょ?」
「ま、まあちょっとこっぱずかしいことぺらぺら言ってたよね」
「お互い様だよねえ」
声を潜めて笑った。
なかなか、素面じゃ言えないようなことを言ったような気がする。正直たまに恥ずかしくてのたうちまわりたくなる。でも今も結構言っちゃってるよな。
「それでね、そうやって、あるときようやく、あ、この人オレのこと好きなんだって、わかったの。言葉がなくてもわかったし、それにいつか自分のこと好きじゃなくなっても、私は好きだなって思ったの、今も覚えてるよ」
「う、あ、ありがとう……」
「あはは、すっごい恥ずかしいこと言ってるよね? やだなあ……もういい大人なのに……」
千紗は照れ隠しのように何度も自分の髪を撫でつけている。
和泉と話して昔のことを思い返したんだろうか。俺はあまり過去のことを持ち出すのはずるいような気がして、しっかりと話すことはできないでいた。
でもこうして、千紗が笑顔で思い出を語ってくれるのが嬉しかった。消したい過去では少なくともないのだ。
「それから……それからね、瞬が生まれたでしょ。それでもう、わかったの。好きってこれなんだなあって。私が瞬のことを見てて、瞬も私のことを見てくれるの。そのときの目とか、雰囲気でね、わかったの。ちゃんと言葉でも言うし、抱きしめたりもするけど、そんなこと以外にも好きってあるんだなあって、わかったの」
そう言って瞬くんを眺めながら、スタンドライトの柔らかい光に当てられて微笑む千紗の顔は母親の顔だった。瞳が少しきらきらと反射していた。
好きというものがわからない、なんてとても思いもしない、愛情深い表情だ。
「多分ね、流と付き合ってなくて、ただ子供を産んだだけだったら、それっぽいことはできても、納得はできなかったと思う。フリだけだったと思うんだ」
そうだろうか。きっとどこか、別の誰かと出会って、千紗は自分の力で「それ」を見つけられた気がする。
……いや、そんなもしもの話はどうだっていいか。
「あ、もおー、にまにましないでよ。真剣なんだから」
「いや、するでしょ、誰でも」
「しないよ。引くよ普通こんな話」
こそこそとした小さな声で笑ったり、文句を言ったりするのが面白くて楽しかった。
誰よりも心を近づけているようで、実際に触れあうよりも深く何かを共有できるような気がした。
「……だからさ、ちょっとだけ待ってね」
「え?」
「……その……色々……。抱きしめたりとか、ね? びっくりしたくないのに、しちゃうから……。私がそんな反応したら、瞬も気にするだろうし……」
「ああ……うん……、そうだよね」
「今はね、色々考えちゃうの。自分のこととか、流のこととか、瞬のこととか、あと昔のこととか今のこととか。多分、ちゃんと流の顔見れないと思うから……。でも、このままなの私も嫌だし、治したいって思うから……」
「ああ、うん……。あの、でも、無理しなくていいからね」
「しないよ~」
千紗は眉尻を下げ、苦笑する。ああ、これじゃ無理に好きになって貰わなくてもいいみたいな意味になりそうだな。そうじゃないのに。
ただ、他の場所で不自由なく生きるのが困難な相手を、そんな状況を利用して傍にいさせているようで、時折胸が苦しくなるのだ。
本当は俺の元から逃げたいと思っているんじゃないかと、怖くなっていたのだ。
でも今の千紗の話を聞いて、安心した。
自分はたしかに、彼女を形作っているものの一部としているらしい。それが嬉しかった。
「……わかった。待ってる」
そう言うと、千紗はまるで愛の告白を受けたように嬉しそうに笑った。
そんなある日の夜のことだ。千紗が覚悟を決めたような目で携帯を手に声をかけてきた。
「あのさ、今日瞬お風呂入れて貰ってもいいかな」
「そりゃ勿論いいけど……。あ、もしかして和泉?」
緊張した面持ちにピンと来て聞くと、千紗はこくこくと頷いた。
なるほど、ようやく腹を括ったか。
入浴中を狙わなくとも、瞬くんが眠ってからでも電話はかけられると思うのだが……、電話内容を聞かれたくなくて俺と距離を置く名目も欲しいのかもしれない。我が家に慣れたとはいえ、まだ千紗は堂々我が家を闊歩はしないのだ。いつも俺や瞬くんや母のあとをついてまわって、自分から一人になるのはトイレとお風呂くらいだ。
「長くなるかもしれないよね、俺の部屋使いなよ」
「あ、ほんと? ありがと、助かる」
長引くかもしれないし、あの部屋なら話し声も他の部屋からは聞こえないだろうし、ちょうどいいだろう。
「で、でも電話出るかなあ。今なにしてるかわかんないよね」
「今向こう昼間でしょ、大丈夫だと思うけどな。出られなくてもすぐ折り返しかかってくると思うよ」
やはり腰が引けているらしい。できれば逃げ出したいというような表情だ。
でもいつまでも放置しているのはさすがに和泉が可哀想だ。なんなら真っ先に連絡を取るべき相手だっただろう。
「そんなに思い詰めなくて平気だよ、きっと話してみたら昔となにも変わらないと思うよ。あいつはあのままだし」
「そ、そう……かなあ……。でも私の方が変わっちゃってるから、向こうも戸惑う気がするよ……」
それは……たしかに。
千紗はかつての印象とはだいぶ変わっているかもしれない。瞬くんの前では明るくノリもいいのだが、一人だともっとしおらしいというか、大人しいからな。笑い方とかも控えめだし……。
「……俺横にいようか? 瞬くんが寝てからとか……」
うっ、と千紗は言葉を詰まらせる。しばらく悩んだ後、ゆっくり首を振った。
「多分ね、私も昭彦も他の人にはあんまり見られたくなくなるかもしれないから……」
「そ、そっか」
はっきり断られるとやっぱりちょっと寂しい……。
でも二人は兄弟のように育ってきたのだ。俺にはわからないものがあるのだろう。少し嫉妬するものはあるが、間に入っていけるものだとも思えない。
和泉と河合さんの関係のような距離感だったらいくら俺でももの申すだろうが、その点千紗は大丈夫だ。千紗に好きなだけべたべたできるのは瞬くんだけなのだ。
千紗の健闘を祈りつつアニメを見終わった瞬くんを回収して風呂に向かった。
「きょうもパパか~。しゅんママとおふろはいりたいんだけど」
「あ、そういうこと言うんだ……寂しいじゃん」
瞬くんはやれやれ入ってやるかという態度だ。最近俺に対する遠慮というものは完全に消え去った。その方が嬉しいけど。ちょっとたまに辛辣だ。子供は残酷なのだ。
「でも瞬くん男の子でしょ? ママは女の子だから、ほんとは別々で入った方がいいんだよ」
「えーっママとしゅんなのに?」
「そうだよ~、まあまだ瞬くんは小さいから許されるけど……」
「しゅんちいさくないし! 4さいだし」
「あとちょっとでね。今はまだ3才だよ」
そう、まだたった3才なんだよなあ、と複雑な気持ちになりながらシャンプーを泡立てる。
瞬くんはなんでも自分でやりたがるが、それでも一人でお風呂に入れるようになるのはまだまだ先だろう。俺が働き始めたら千紗に任せることになるかもしれないんだよな……。
息子が母親と一緒に入浴するのっていくつまで許されるものなんだろうか。あまりこういうことは長引かせないに越したことはないと思うのだが。ちなみに俺は入院期間がちょこちょこ入ったせいでいつの間にか別々で入るようになったので明確な時期というのはわからない。
「あたまねこちゃんににしてくださーい」
「はーい」
泡にまみれた髪で角を二つ作ってやる。
それにしても結構髪が伸びているな。鏡を見てご満悦にしているうちに手に残った泡をせっせと自分の頭に擦り付ける。俺の洗髪などついでだ。
「瞬くんいつも髪の毛誰に切ってもらってるの? ママ?」
「んーと、まえはおばちゃんがきってくれたー。てるてるぼうずしたよ」
なるほど。おばちゃんというのは以前住んでいた定食屋の奥さんという人のことらしい。
たしか千紗も自分で切ってると言っていたか。今度二人を美容院に連れて行ってみようかな。今の髪型もいいけどさ。
「ねーねーパパってママのことすきなのー?」
泡を落とし、湯船の中でゼリーの空き容器で遊びながら、瞬くんが何気ない質問のように問いかけてきた。
「好きだよ~、ママもパパのこと好きだと思う?」
「ママはしゅんがすきだからー」
「たしかに。でもパパも瞬くんのこと好きだってわかってる?」
「それはーわかってますけど」
あ、よかった。愛情が伝わってないのかとちょっと不安になったじゃないか。
瞬くんは照れくさいのかお湯をばしゃばしゃと叩いて飛沫をあげている。
「んーと、でもー、ママやっぱしゅんのことすきだからーニコニコしてるけど、パパといるときもニコニコしてるからすきだとおもうよ?」
「ほんと? 無理させてないかな?」
「してないしてない」
もしかして気遣ってくれているのだろうか。こういうところは千紗に似てるからな。
嘘をつくとも思っていないが。あんまりこういう話は息子にするもんじゃないんじゃないか? パパとママの仲に不安を感じさせるんじゃないだろうか。
それにしても瞬くんとは日に日に会話が滞りなくできるようになっているような気がする。
もともと本や読み聞かせが大好きな子だから、男の子にしてはかなり喋りは発達している方だと思う。一人っ子で友達もいないとなると、なかなか自分から喋ろうというモチベーションにならなくてもしょうがないと思うのだが。
うちに来てからどんどん新しい本に手を出すようになってからは文字を読むスピードも上がったようだし、自分から難しい言葉を話しはしなくとも、こちらの言葉は想像以上に正確に理解できている割合が高い。ニュアンスで汲み取っている可能性もあるが、そういった能力も高いのだろうと思う。
これからどんどん喋れる内容も長く濃くなっていくんだろうな……。今はまだ瞬くんの集中力が途切れないように、わかりやすい言葉を選ぶように気をつけているが、あっという間に対等に喋れるようになるんだろう。
うちの親も同じ気持ちだったのかな……。今はもう大人同士として話せるようになったもんな。最近千紗とのあれこれで久しぶりに親子としての会話をしたという気がするが、それまではもう新たにものを教わるっていうのは家事だとか役所での手続きのことくらいで、むしろこっちが新しい知識を教えることもある。
瞬くんともそういうやりとりができるようになると思うと楽しみでしょうがない。もちろん今だって楽しいけど。
お風呂から上がり、瞬くんのお世話を終えて脱衣所を出ると、ちょうど千紗も階段を降りてきたところだった。
「お、瞬~ほかほかだね~」
バスタオルをマントのようにして走り去る瞬くんに声をかけている姿は、少しだけ目元が赤い気がした。
「話せた?」
「うんっ、おかげさまで~。全然怒られなかったよ」
びっくりだよね、と続けるその表情は朗らかだ。
「……どんな話したの?」
「気になる? 今までどうしてたとか、これからどうするとか、そんな話だよ」
「へえー」
もちろん今後どうするかという話は俺と千紗がきちんと話し合って決めたのだが、それでもどんな風に話したのか気になる。
「パパもしゅんとひみつのおはなししたんだよ!」
対抗するように瞬くんも話に加わる。
「えっなになに、秘密って。ママにも教えてよ」
「パパがーママのことすきっていってた。しゅんのこともすきだけど」
「あ、言っちゃうんだ」
秘密の話っていうから秘密にしてくれるんだと思ってたのに……。
「ええ? なあに、その会話。恥ずかしいよ」
「瞬くんがパパってママのこと好きなのーって聞いてくるからだよ」
「あ、ひみつっていったのに」
瞬くんは咎めるような目をこちらに向けてくる。なんでだ。言い出したのは瞬くんなのに。
ーーー
千紗もお風呂から上がり瞬くんを寝かしつけると、その寝顔を見ながらそっと千紗は口を開いた。
「昭彦にね、ちゃんと夫婦でべたべた仲良くしろよって言われたんだよね」
「……和泉基準で考えたら日本の夫婦は殆ど基準に満たないよね」
って、夫婦ではないんだけど。
「でもそう言われてみると瞬もさ、私たちの距離感をちょっと不安に思ってたのかなって。この前流、急に抱きついてきたでしょ? 河合さんのとこで。それで私びっくりしちゃったから、そのこと、ちょっと反省してたんだ。ごめんね」
「ああ、いや、俺も突然だったし……ごめん」
「ううん……、びっくりはしたけど……それだけだから、大丈夫だよ」
ほ、本当だろうか。怖かったり気持ち悪かったり嫌だったりはしなかったという風に受け取っていいんだろうか。
……しかし、たしかに、夫婦仲って子供への影響は大きい。
どうしても突然瞬くんと千紗と家族になったわけだから、瞬くんをできるだけのけ者にしないようにという気持ちで俺も千紗も動いてしまう。
そんなだからなんとなく二人で仲良くする、という距離感が未だに掴めずにいるのだ。会話は勿論滞りなくできる。最近は明るく楽しげに話してくれることも増えたし。でも仲のいい友人、と言ってもおかしくないくらいではある。恋人同士に比べるとだいぶ距離は離れている。
「……ね、多分きみさ、私に気を遣ってくれてるよね」
「え? な、なにを?」
「私に……えーと、怖がらないように?」
「あ、ああ……」
それは当然だ。
四年離れていたのだ。そして千紗からすると俺はかなり前より見た目も雰囲気も変わっているらしいし、再会しましたはい元通り、なんていくわけはない。
そしてもし男にトラウマ的な感情を抱いているとしたら、昔より俺はより慎重になるべきだろうと思っている。よくある話のように元彼とよりを戻す、という調子にはいかない。そういう過去がなくたって配慮は必要だろうし。
「あのね、確かに私、流に抱きしめられたらびっくりしちゃうし、それ以上のこともできるかって言われると……その……わかんないんだよね。どうしても瞬のこと考えちゃって、母親でいなきゃって、思うし……、うん……抵抗がないとは……言えないかも」
「そ、そうだよね……」
「……あのね、でも、前も言ったけど、嫌じゃないよ。嫌じゃないって、すごいことだと思う。多分どんなにかっこいい人でも可愛い人でも、今は正直嫌だと思うから……」
「ほ、ほんと?」
「……うん……」
昔、千紗はみんなのことが好きだと言っていた。そして裕子さんのことは特別好きなのだと。きっと今特別なのは瞬くんで、その他の男のことは嫌いなんじゃないだろうか。その中で嫌いではないに入れているなら、それはとても光栄なことだろう。
「あ、あのね、昭彦と今日話してて、思ったんだ。私、ずっと好きってよくわかってなかったんだと思う。ずっとぼんやり憧れてて、誰かの一番好きになりたかったんだ。でもわからないことは、実際に向けられてても、わかんないんだよ。言葉を知ってただけ」
「……そう? 裕子さんのこと好きだったでしょ」
よくわかっていなかった、というのが俺にはまずわからなかった。恋愛ということなら、俺のほうがよっぽど鈍感だろう。一途に一人の人を慕っていられるのは、やりたいからってできることではない。裕子さんへの感情は一時の勘違いみたいなものとは思えないし。
千紗は言葉を探している。元は喋り好きな奴だったが、説明はあまり得意ではないらしい。
「うん、えーっと、そう……なんだけど、好きだったんだと思う、よ。でもね人からね、好かれるの、わかんなかったんだ。嘘で好きって言われても、わかんなかったの。本当に好かれてても言葉にしてもらえなかったら、わからなかったの。そういうとき、あったのかわかんないけど」
「……ああ……。たしかに、自分への好意には鈍感そうだよね」
「へへ……」
言われてみれば、昔付き合い始めた時、どうにも恋人らしいやりとり、みたいなことがうまく機能しなかった覚えがある。俺がうまく愛情表現できないせいもあっただろうし、千紗も受け取るのが苦手だったようだ。
「本当に好かれてて、好きって言われてても、言葉じゃなきゃわからなかったら、次の日になったらまた不安になるの。好きはちゃんとまだ終わってないのかなって。でもさ、言えばそれでいいの? って話じゃない。その上自分から言うのは怖いんだ。好きっていって、向こうは違ったらすごく恥ずかしいし悲しいじゃない?」
「……まあね」
千紗がこうして自分の考えを話してくれるのは、かなり貴重なことである。
決まってこういうときは切羽詰まったときばかりだった。自分のことを話すのが好きではないようである。俺の周りは自分の知識や思考を聞いて欲しがる輩が多いのに。
「ええと……だから好きって言われたら好きになる、ってこと? 昔言ってたよね」
「ああ、それ、すっごい恥ずかしい……。とんでもない尻軽だよね。うん、でもそう。そのときは本気でそうだったの。ほんとにね、嘘でもなんでもよかったの。言葉だけでも、信じられないくらい嬉しいから……」
両手で自分の頬を覆い、そこから少し下にずらして口元を隠しながら千紗は嘆くように言った。
瞬くんを挟んでお互い布団の上に体を起こしていたのだが、そっと移動して千紗の横の壁にもたれかかるようにして座った。千紗も真似をして壁に背中を預ける。
カップルや夫婦というには若干距離はある。兄弟とか友達といえばちょうどいいか。そんな距離で千紗は肩を竦めて微笑んだ。
「でも、でもさ、流とね、付き合ってて、ほら、色々ね、話したり、言ってもらったりしたでしょ?」
「ま、まあちょっとこっぱずかしいことぺらぺら言ってたよね」
「お互い様だよねえ」
声を潜めて笑った。
なかなか、素面じゃ言えないようなことを言ったような気がする。正直たまに恥ずかしくてのたうちまわりたくなる。でも今も結構言っちゃってるよな。
「それでね、そうやって、あるときようやく、あ、この人オレのこと好きなんだって、わかったの。言葉がなくてもわかったし、それにいつか自分のこと好きじゃなくなっても、私は好きだなって思ったの、今も覚えてるよ」
「う、あ、ありがとう……」
「あはは、すっごい恥ずかしいこと言ってるよね? やだなあ……もういい大人なのに……」
千紗は照れ隠しのように何度も自分の髪を撫でつけている。
和泉と話して昔のことを思い返したんだろうか。俺はあまり過去のことを持ち出すのはずるいような気がして、しっかりと話すことはできないでいた。
でもこうして、千紗が笑顔で思い出を語ってくれるのが嬉しかった。消したい過去では少なくともないのだ。
「それから……それからね、瞬が生まれたでしょ。それでもう、わかったの。好きってこれなんだなあって。私が瞬のことを見てて、瞬も私のことを見てくれるの。そのときの目とか、雰囲気でね、わかったの。ちゃんと言葉でも言うし、抱きしめたりもするけど、そんなこと以外にも好きってあるんだなあって、わかったの」
そう言って瞬くんを眺めながら、スタンドライトの柔らかい光に当てられて微笑む千紗の顔は母親の顔だった。瞳が少しきらきらと反射していた。
好きというものがわからない、なんてとても思いもしない、愛情深い表情だ。
「多分ね、流と付き合ってなくて、ただ子供を産んだだけだったら、それっぽいことはできても、納得はできなかったと思う。フリだけだったと思うんだ」
そうだろうか。きっとどこか、別の誰かと出会って、千紗は自分の力で「それ」を見つけられた気がする。
……いや、そんなもしもの話はどうだっていいか。
「あ、もおー、にまにましないでよ。真剣なんだから」
「いや、するでしょ、誰でも」
「しないよ。引くよ普通こんな話」
こそこそとした小さな声で笑ったり、文句を言ったりするのが面白くて楽しかった。
誰よりも心を近づけているようで、実際に触れあうよりも深く何かを共有できるような気がした。
「……だからさ、ちょっとだけ待ってね」
「え?」
「……その……色々……。抱きしめたりとか、ね? びっくりしたくないのに、しちゃうから……。私がそんな反応したら、瞬も気にするだろうし……」
「ああ……うん……、そうだよね」
「今はね、色々考えちゃうの。自分のこととか、流のこととか、瞬のこととか、あと昔のこととか今のこととか。多分、ちゃんと流の顔見れないと思うから……。でも、このままなの私も嫌だし、治したいって思うから……」
「ああ、うん……。あの、でも、無理しなくていいからね」
「しないよ~」
千紗は眉尻を下げ、苦笑する。ああ、これじゃ無理に好きになって貰わなくてもいいみたいな意味になりそうだな。そうじゃないのに。
ただ、他の場所で不自由なく生きるのが困難な相手を、そんな状況を利用して傍にいさせているようで、時折胸が苦しくなるのだ。
本当は俺の元から逃げたいと思っているんじゃないかと、怖くなっていたのだ。
でも今の千紗の話を聞いて、安心した。
自分はたしかに、彼女を形作っているものの一部としているらしい。それが嬉しかった。
「……わかった。待ってる」
そう言うと、千紗はまるで愛の告白を受けたように嬉しそうに笑った。