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16章

 気まずい空気の中、二人は睨み合うことすらしていない。視線が交わってない。河合さんの不安げな視線を受けながら、石橋を顎で促した。

「……あー……い、和泉とはまだ連絡とってんの……?」

 何ひよって世間話なんかはじめてんだ! そんな話する仲じゃないだろ!

「え、ええ……。週に一回くらいは……」
「そっか……」

 またも沈黙が流れる。こんな話題で二人が盛り上がるわけもなかった。
 俺の前ではあれほどぺらぺらと喋れていたのに、同じことを今繰り返せばいいことなのにそれができないようだった。……しかしまあ、高校時代のように嫌味や皮肉ばかり出てくるようなのよりはうんとマシか。

「まあ……なんだ……なあ?」
「俺に助けを求めるなよ」

 俺はお前の仲間ではないぞ。そうあしらうと石橋はむすっとふてくされるような顔をした。しかし顔だけで、態度は崩さなかったからやつも成長したのかもしれない。

「……わ、悪かったよ……」
「えっ」

 河合さんは怯えるように決して石橋と視線を合わせないようにしていたのだが、やつの突然の言葉に驚いて顔を上げた。
 目をまん丸にして、口も丸く開けていた。
 石橋は居心地悪そうに、言い訳をするように続ける。

「……まあ……なんだ……、当時は何も悪いことをしているつもりなんかなかったが……その……客観的に見ると……俺がわ、悪かったかもしれないと……思う……」

 かもしれないじゃなくてどう考えても悪いと断言できるぞ。しかし追い打ちをかける必要もないので黙っている。
 河合さんは食い入るように石橋を見つめて、たどたどしい話にじっと耳を傾けていた。

「……それだけだよ。悪かったな」

 それで話は終わりだと言わんばかりに河合さんへしっしと追い払うように手を振った。
 何故こいつは自分で話を打ち切るのか。お前は話を聞いて貰ってる立場なんだぞ。この場を仕切る権利はないのだ。
 あんまりなので思わず口を挟む。

「それが謝る奴の態度か?」
「う、うるせーな」

 こいつ、頭を下げたら死ぬのか?

「河合さん、別にこんなの許してやる必要ないからね。許せないなら俺も一緒に恨むよ。今復讐する?」
「い、いいわよ、そんなの。恨んでなんかないわよ」

 ぶんぶんと顔の前で両手を振って河合さんは否定した。俺にはとても信じられない。合法的に殴れるチャンスがあるなら絶対逃さないのに。

「……石橋くんがそういう風に思ってくれただけで嬉しいから、よかったわ」

 菩薩か……?
 河合さんは照れるように肩を竦めて小さく微笑んだ。天使か……?
 とっさに石橋の表情を伺うと、やつは少しあっけにとられたようだ。ぽかんとしたあと、すぐに我に返ったのかばつの悪そうに目を逸らした。

「……それだけだよ、終わり。もう顔出さねーから」

 そうあしらうように言い放たれ、河合さんは微笑みを苦笑に変えて頷いた。あの顔は、本当に別に気にしていないような顔だった。こういうとき普段ポーカーフェイスな河合さんも、意外と顔にでるのだ。だから本当になんの異論もないようで、俺はとても不思議だった。

「……本に興味があったら、いつでも顔出しに来てもいいわよ」

 その台詞には、石橋だけでなく俺も目を見開いて耳を疑ってしまった。
 陰湿ないじめを受けたというわけではないとはいえ、石橋の発言は暴言であったし言いがかりでもあった。そして河合さんは他の子に何を言われても毅然と言い返していたが、石橋には怯え、怖がっていたのだ。だからよりによって石橋にそうやって優しく許しを与えるのは理解不能なのだった。いや、許すどころか、河合さんから一歩近づくなんて。

「じゃあ、わたし戻るわね」

 少し沈黙があったあと、石橋はおうと小さく返事をした。
 ……二人がそれでいいというのなら、俺に口を出す権利はない。立ち会ったものの、俺の出番などなかったわけだ。昔の河合さんならあんなに落ち着いて話を聞くことすらままならなかったはずだ。だから俺は心配だったのだが……そういうときは俺の出番だと思ったのだが……。昔と変わりないように見えて、河合さんも成長していたのだ。勝手に保護者面しようとしていたのが恥ずかしい。
 これで石橋も納得して貰えたでしょうと河合さんに連なって帰ろうとすると、ふいに呼び止められた。

「桐谷、ちょっと待て」
「うん?」

 ちゃんと名前で呼び止められるのは、なんだか新鮮だった。おいとかお前とかチビとか、そういう言い方ばかりだったからだ。
 河合さんは一度こちらを振り返った後、また店に戻っていった。それを横目で見つつ、石橋の方に数歩近づく。
 まるで内緒話でもしたいように、石橋も少しこちらに体を寄せた。

「お前佐伯と連絡とってんのか?」
「えっ」

 思いも寄らない名前に驚く。いや、おかしくはないのか。

「えっと……なんで? 女になってからお前、佐伯のこと避けてただろ」
「避けてたってほどじゃねーけど……まあ、そうだな……」

 否定しておいて、すぐ認めた。
 会わせろとか言われても返答に困るので、俺は返事を濁す。

「あいつやっぱ子供できて学校やめたのかなって、ずっと気になっててさあ……」

 息が詰まりそうになった。多分動揺が伝わったんだろう。やっぱりな、というような表情をされたが、確認はされず、そして俺も即座に否定できずにタイミングを逃してしまった。これじゃあ認めたようなものじゃないか。

「な、なんでそう思ったんだよ」
「いや……だって……なあ……?」

 なあと言われても、俺は和泉に言われるまで当事者であったにも関わらず想像もしなかったのだ。それを全く事情を知らない第三者が確信を持っていたとはとても思えない。

「あいつとのハメ撮り自慢してたやつ、いたろ」

 下品なワードに反射的に顔をしかめた。そして同時に思い出したくもない記憶が蘇る。ああ、そうか、こいつはあの場にいたのだ。

「ああ、お前、写真見てねーの?」
「……見る訳ないだろ。そんなもの」

 段々苛々としてくる。こいつは別に千紗を貶めた犯人というわけではない。でもこいつは見たのか。そう思うと先ほどまで少し見直したような気持ちが少し沸き上がっていたのがすべて消え去るのを感じた。
 俺は今まで何度か当時の夢を見ていた。ここ数年はなくなっていたけど。その度に面白がって話すやつらをなんで殴りとばせなかったのか、後悔しながら目覚める。
 当の千紗はどうなんだろうか。なんて聞けるはずもない。

「本人がさ、写真、今も出回ってんじゃねーかと心配してたら、平気だっつっといてくんねえ?」
「……どういうこと?」
「あんときデータ全部消させといたから。誰ももう覚えてねえよ」
「え?」

 消させたって、こいつが?
 ……たしかに、あの頃のクラスの雰囲気は何かおかしかった。気持ちの悪い空気は初めのうちだけで、翌日には消えて、まるでなにもなかったかのように元通りになっていたのだ。俺が千紗と仲がいいから目に入らなかっただけなのかと思ったが、それでも好奇の目みたいなものは何か伝わってくるものがあるはずだ。それが一切消えていた。それはずっと疑問だったのだ。

「な、なんで……?」
「なんでって……気分悪ィだろ」

 当然のように石橋は言った。そうだ、当然なのだ。一人の人間の、人目に触れるべきでない姿を勝手に撮影して大勢で回し見するなんて、あってはならない。考えるだけで吐き気がする。自分に直接関わりがなくたって気分が悪いことなのだ。
 それなのに他の奴らはそんな感覚がすっぽり抜け落ちていて、ただAVやエロ本を消費するように、その上それが知人であることがおもしろおかしいことのように扱えるというのに、俺は失望したのだった。
 ろくでもない、嫌な奴だと思っていたこいつが同じ感覚だなんて、思っても見なかった。

「あ、ありがとう……ほんとに……。俺じゃどうしようもなかった……」
「別に。そういうの得意だっただけだし」

 やっぱ連絡とってんだな、と石橋は安心したような声を出した。
 連絡……っていうか、すぐそこに本人がいるんだけどな。今から連絡とって、会ってみるか聞いてみようかな。喜ぶのだろうか、嫌がるのだろうか。

「ま、無事ならいーや。あいつ、男のときは結構好きだったけどさ、女になってからは微妙だったんだよな。あんま優しくしたら俺のこと好きになりそうで」
「はああ!?」

 何言ってんだこいつ! ちょっと見直しかけてたのに!!!

「いやーわかんだよなー空気で。のめり込むタイプっつーの? そんなん俺責任とれねーし、泣かせたくねーからちょっと距離取ってたんだよなー」
「な、なんだそれ……! キモ!!! どこからそんな自信出てくんの!?」
「経験」
「うざ!!!」

 石橋ははじめにしたように人懐っこそうな笑い方をして「じゃあなー」と背を向け歩き始めた。爽やかな顔しやがって! 言ってること最悪だからな!
 ……しかし、まあ……おそらく、あれが奴のこの四年での成果なのだろう。
 偉そうに無愛想に人を顎で使っていた奴が、四年で愛嬌というものを得たらしい。まあ、無闇やたらに人を煽るようなことはしなくなったようだし、少しはまともになったのか。
 ああいうやつは一生自分の過去を省みることなく、都合のいい記憶で生きていくのだとばかり思っていた。家族や子供ができたタイミングなどで反省するという話は聞かなくもないが、あまり信じてはいなかった。結局は自分の子供がそちら側になっては適わないという保身の気持ちではないかという疑いがあった。そしてそんなときにわかるようでは遅すぎるのだ。そんなものに俺は価値を感じない。
 ……でも、まあ、河合さんがいいなら、いいか……。
 もし俺が河合さんの立場だったらひとつも許せないけど。
 それはそれとして、千紗のことに関しては正直感謝しかない。データが本当にすべて削除されているのか、それは確かめようがないが、それでも千紗が学校にいる間変な噂が立ったりからかわれるようなことはなかったのは事実だ。それはすべて石橋のお陰なのだとしたら、ただお礼を言うだけでは足らないほどの恩だ。
 もしあの状態で追い打ちのようなことがあれば、状況は大きく変わっていただろう。
 ……もう少し丁重に扱ってやってもよかったかもしれないな。

ーーー

 河合さんの店に帰ると、三人はお店側に出てきていて瞬くんが本を物色しているのに付き合っていたようだ。

「あ、おかえりなさい、喧嘩しなかっ……うわっ」

 ほっとしたような表情でこちらに笑顔を向ける千紗に、帰ってきたそのままの勢いで抱きしめた。そんなに力は込めなかったが千紗は腕の中で小さくなっている。

「わ、わ、ちょ、ちょっとお……」

 声が上擦っている。でも思ったより怖がられなかったので安心した。
 俺は正直、過去千紗にあった辛い出来事は思い出さないようにしていた。でも千紗自身はそうはいかないのではないか。知らないところで、過去の記憶に何度も苦しめられているのではないだろうか。
 石橋の話も、安心させるつもりとはいえわざわざ昔の出来事を掘り返すなんてことはできない。
 ただどれだけ苦しさを共有したくても、結局は他人事でしかないのだと思わされた気がして、悔しくなったのだ。

「しゅんもぎゅーしてー」

 千紗を離し、しゃがんで瞬くんも同じように抱きしめて、解放する。

「な、な、なに? どうしたの……?」
「いや、ちょっと昔話したら愛おしくなって……」

 千紗は少し顔が赤くなっていた。その後ろにいる河合さんの顔の方が何故か数倍赤いけど。
 男にひどい目に合わされてきたのに自分に心を許してくれているのがたまらなく嬉しかった。いや、大人になってからは、二人きりで接触するとやっぱり緊張するようなのだが、嫌悪感のようなものはなさそうだから、いいのだ。……佐伯はよくないのかな。ちょっと気をつけよう……。

「……それで、どうだった? 石橋、大人っぽくなってた?」
「まあ多少はね。刺々しさは減ってたかな。まだクソガキっぽいとこはあるけど」

 答えながら瞬くんにたまにするように、千紗のほっぺを両手で包んでいるとこれは途中で身を捩って逃げられた。

「もう、なんなのさ。パパらしくないよ、ねえ瞬? 変だよねー」
「いーじゃんいーじゃん」
「えーっ瞬までそう言うの?」

 瞬くんは俺たちがいちゃついていると嬉しいようだ。いつもは少しだけ距離があるからな。
 しかしたしかに俺らしくはないかもしれない。和泉なら違和感ないんだろうけど。どちらにしろよそ様の家でやるもんではないよな。反省して少し離れる。

「……意外とあなたたち、ちゃんとカップルらしいことするのね」
「い、いや、普段はこんなことしないんだよ! やめてよね、バカップルと思われちゃうじゃない!」

 思わせておけばいいのだ。別に河合さんしかいないんだし。
 河合さんは呆れ気味だが、相変わらず顔は赤い。和泉と河合さんはいつもこれ以上にべたべたしているのだが、自覚がないんだろうか。

「……でも河合さんも、よかったね。石橋のこと」
「……そうね……、うん。今まで気にしたことないつもりだったけど、思ったよりすっきりしたかも」

 河合さんは口で説明する以上に、見るからに機嫌が良さそうだった。やはり恨みこそしていないものの、心のどこかに引っかかっていたようだ。
 石橋が出てきてこんなに嬉しい気持ちになるなんて思いもしなかった。
 もう一度高校生活を送れたらあいつとも……。……いや、それはないな。やっぱり口喧嘩くらいしかできなかっただろう。さすがにもうあいつと毎日顔を合わせる生活はこりごりだ。
 でもまあ、昨日までは石橋のことを思いだしても、なにかしら痛い目にあってないかなーぐらいしか考えなかったが、まあ、あいつが幸せにやってても別にいいな、と思った。
 うん、あいつもうまくやれるといいと思う。
 俺も成長したのだ。
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