16章
「待って、石橋と連絡とってたの? っていうかここ、よく来るの!?」
思ってもみない名前の登場に頭がついていかない。
卒業して以来、全く一度も聞いたことがない、というかむしろ連絡なんて取りたくもないだろう相手との繋がりに驚いて声を上げると、河合さんはぶんぶんぶんと大きく首を振った。その顔は最近では珍しく焦りが滲んでいる。
「連絡先なんて知ってるわけないじゃない、こんなの初めてよ!」
河合さんの必死な様子に少し安心する。全く知らないところで実は交流があった、というわけではないらしい。しかしそれはそれで不審である。突然数年ぶりに自宅兼職場に訪ねてくるなんて、そんな仲では決してない。むしろ知られたくない相手のはずだ。
二人の関係はいわゆるいじめっこといじめられっこの関係である。
ちょっと近くを通りかかったから……と寄ってみるような間柄では決してない。不気味だ。
「……むこうは河合さんを訪ねてきたの?」
膝に瞬くんを乗せた千紗が穏やかに聞き出す。
俺たちほど慌てた様子がないのは昔石橋と良好な関係を築けていたからなのだろうか……。俺たちからすると嫌なやつ、敵、向こうもこっちを嫌ってる、そんな相手なので身構えてしまうのだが……。しかも俺はともかく、河合さんは一方的に敵意を抱かれてたし。
「……そうみたい。でも今友達が来てて、って説明したらまた来るって帰って行っちゃって……」
「な、なんだそれ……怪しすぎる……」
どの面下げて来れたっていうんだ。要件も伝えず。
しかも出直してくるってことは結構しっかりした目的があるんじゃないのか……? 軽い立ち話や顔を見にきただけでは済まないということだ。
三人で一瞬悩んだ後、一番に顔を上げたのは千紗だった。
「……パパ、ちょっと行ってきてよ」
「え!? な、なんで俺が!?」
「気になるじゃない。また来るんだったら河合さんは逃げられないし、このままじゃ石橋がどういうつもりなのか不安でしょ」
「そ、それはそうだけど……」
俺が、石橋と……? 正直気は進まない。というか高校時代ろくな思い出がないし……。すぐしょうもない口喧嘩に発展してしまっていたからなあ……。万が一そんなところ瞬くんに見られたらたまらないし……正直できることなら一対一で対峙したくない相手だ。同窓会なんかで見かけるくらいで十分なのだ。
……でもそれは河合さんも同じか。しかも向こうから寄ってくるんだからたまったもんじゃないよな。俺と違って一方的に攻撃されるだけだし……。
「じゃあ私が行ってくるよ、瞬をお願い」
「ま、まま待ってよ、俺行くって! 瞬くん、ママをお願いね」
俺に押しつけられそうになった瞬くんは、むんと千紗の腕にしがみつく力を強めた。
急いで靴を履いて店の外へ飛び出す。
千紗が行ったんじゃ色々話が本筋からズレてしまいかねない。それにあいつ、高校時代は千紗……というか佐伯には馴れ馴れしかったから、あまり近づけたくはない。女になってからはそれほど絡んでいる様子はなかったけどさ。これは嫉妬とかではなくて……ああいうプレイボーイを気取っているようなやつは警戒しとくにこしたことないじゃないか。うん。
幸い店の前の通りはまっすぐ一本の大きな道路が続いていて、住民以外横道に逸れる理由はほぼない。
人通りはあまりなく、あっても主婦だとか老人がほとんどの道だ。左右見渡すと、距離はあるが瞬時にあいつだ、と確信できる背中を見つけた。
少し躊躇したが、でもここまできて後戻りもできない。走りやすい歩道を大股で駆けて、ある程度距離を縮めたところで慣れない大声を上げた。
「石橋!」
まさかこの名前を大声で呼ぶことがあろうとはな。
にっくきあの野郎は数秒置いた後、ゆっくり振り返った。訝しむような、喧嘩を売るような表情で、あんまり想像通りだったので走っている最中に吹き出しそうになった。少しは大人になってるかと思ったが、相変わらず嫌な奴そうで少し安心した。
「……誰?」
俺が数mの距離までやってくるのを待った後、むこうは低燃費そうな小さな声でそう投げやりに聞いてきた。
割と距離があったが、それほど息は乱れずに済んだな。
しかし誰ときたもんだ。こいつ……忘れたとは言わせないぞ。
「……俺、桐谷、高校ん時の」
「ああ……?」
ぽかんとした顔から、段々と驚くような顔に変わって、それがさらに人懐っこそうな笑顔に変わった。
あれっこんな表情する奴ではなかったはずだが。きもちわるっ。
「はあ? お前、桐谷? あのチビの? マジかよ、全然面影ねえじゃん!」
あ、やっぱり石橋だ……。表情はニコニコと人好きのするようにみせかけて、言葉は最悪である。
しかし俺ももう大人だ。むっときてもそれをすぐに表に出したりはしないのだ。
「チ、チビは余計だろ。四年近く経ってるんだからそりゃ成長もするよ」
「いやいやいや、にしてもほどがあんだろうよ。大人じゃねえか」
「お、お、お前の方こそなんだよ!! ニヤニヤしやがって!」
そんな爽やかな笑い方するような人間じゃなかっただろ!!
なんだか急に裏切られたような気持ちになった。
石橋はいつでも愛想が悪い男だったはずだ。それなのに何故か彼女とかいて、偉そうで、人には決してバカにされる立ち位置にはいなくて、いつもする側だった。
それがなんだ? にかっというように笑う仕草は愛嬌というのがありそうではないか。そんなキャラじゃないだろ。なに猫被ってんだ。騙そうっていうのか? 詐欺師なのか?
「俺は別に変わってなくね。背も止まったし。髪型は違うか」
「そ、それは、そうだけど……」
高校時代はちゃらちゃらした髪型をしていた。長めの髪をうねらせて、そんなに気合いいれて学校にきてどうすんだというようなセットをしていた。他の奴が同じ髪型をしたらきっとからかわれるのに、こいつがやれば誰も文句を言わないのだ。それがとても気に入らなかった。
今はもう少し短くなっているか。気取った印象は抜けきらないが、まあちゃらついてるってほどではないかな。でも社会人として真面目にやってます、というほどかちっとした印象でもない。
「……それで、お前、河合さんに何の用だよ。こんな突然アポなしで……」
「しょうがねーだろ、連絡先知らねーし。……あー……、ああ、友達ってお前? なんだ、結局和泉じゃなくてお前が付き合ってるわけ?」
「ち、違うよ。友達だって言ってるだろ。で、なんの用だよ。どの面下げて河合さんに会いに来れたわけ?」
石橋は考えるように自分の顎を撫でた。
昔は見上げてばかりだったから妙な威圧感があったが、今は普通に会話する距離であれば視線はそれほど変わらない。それなのになんというか、貫禄というのだろうか、雰囲気というものがあった。人に無碍にされないであろうという謎の雰囲気が。これは図体のお陰だけではなかったらしい。癪に触る。
「友達がいるっつーから出直そうかと思ったんだが、お前なら別にいっか」
「あ、いや、他にもいるから……」
「……なに? 俺の知らないやつ? んな友達あいつにいんのか?」
「失礼だな! い、いるよ。だからとりあえず今日は俺が間に立つと言うことで……」
少なくとも瞬くんは石橋にとって知らないやつだしな! ……それ以外に河合さんの交友関係の更新がないのが、他人事ながらちょっと切ない。
どちらにしても千紗のことは俺が独断で開示していい情報ではないだろう。
石橋は腕を組み、品定めするようにこちらをじろじろと見ていた。なんて失礼なやつなんだろう。
そして通りすがりの女子高生からちらちらと石橋に視線を集めているのを感じ、納得いかない気持ちになるのだった。
やつの頭の中でどういう結論が出たのか、はあ、とため息をついて首を振った。
「……別に、大した理由じゃねーし。わざわざ訪ねて行ってまでいじるほど暇じゃねえし、別に警戒されるような企みとかねーよ」
「でもわざわざ出直してくる程度の理由ではあるんだろ? それってなに? 告白?」
「はああ~?」
心外そうに眉間に皺を寄せる石橋に、こっちの方が心外な気持ちになる。河合さんだぞ? お前。わかってるか? そんな顔していい立場だと思ってんのか?
石橋はぽりぽりと頭をかく。
「あー……いや、まあ、出直すほどでもねえわ。もうどうでもよくなった。金輪際会わねえから安心しろよ」
「ええ!? 気になるだろ! 教えろよ」
「お前ちょっとは気遣ってくんねえの……?」
なんで石橋に気なんか遣わなきゃならないんだ。
数回同じようなやりとりを繰り返した後、結局根負けしたのか石橋が折れた。
長い話にはならないようだが、道の真ん中で話すことでもないのでと商店街の中のベンチに座った。中は日が陰っているとはいえ当然のように暑いが、店に入るほど話に華を咲かせる気もお互いないのだ。
座った石橋が少し居心地の悪そうに口を開いた。
「今お前何してんの」
「何って……大学4年だけど」
「就職?」
「まあ、そうだね。お前もだろ。就活とか、お前ちゃんとできてんの?」
「はん、バカにしてんのか」
バカにしなくたって気になることだろう。こいつがスーツ着て、面接受けてる姿なんて想像つかない。そして新入社員として働く姿も。まるで自分が頂点であるかのように周りを見下しきっていた男だぞ。
「そりゃまあ普通の会社員とかできる気しねえけど……」
だよな。和泉と同じ。そっち側の人間だ。こいつにもどっかしら人よりすごい部分とかはあるとして、でもそれを発揮するのに会社だとか、そういうきちっとしたところは向いていないだろう。むしろ良さを潰すんだろうと和泉を見てひしひしと感じた。そういう奴も当然いる。別にどっちがよくてどっちが悪いという話ではないのだ。まあ、こいつのことはよく知らないけど。
「付き合って一年ちょいの彼女がいんだけどさ」
「え、長いね」
「そうか……?」
「石橋の見た目からすると長い」
嫌みのつもりだったのだが、「ああ、引っ張りだこだからな」と何故か誇らしげに返された。
よく考えると俺と千紗との付き合いは、友人期間を差し引くと一年にはとても満たないのだ。今だって恋人関係かというと、実際はそういう雰囲気はないし。
「ま、その彼女が妊娠したかもとか言い出して」
「え」
頭がひやっとした。そして俺の今の状況はそのひやっとする告白の延長線上にあるのだと思い出して、なんだか複雑な気持ちになった。
「相手は同級生……?」
「いや社会人。……まあ、結局妊娠は勘違いだったんだけど」
「あ、ああ……そうなんだ」
なんとなく、自分の立場を考えると、よかったね、と言いたい気持ちにはなれない。もちろん準備もできていないときに計算外の妊娠はしないに越したことはないと思っているのだが、なんだか瞬くんに悪いような気がしたのだ。
「まあ、結果的にはよかったけど、結果出るまで色々考えんじゃん。まだ俺明け方までゲームしてえし、つーかパソコン買い換えたいし。でもやることやっといてさあ、産みたいって言われたらだめだとか俺が言えることじゃねえじゃん。いや俺しか言える立場のやついねえけどさ」
「あ、そういう感覚あるんだ」
「なんだよ……」
喧嘩を売っているようなじっとりと恨めしげな目をこちらに向けてくる。それでこそ石橋だ。笑顔なんて似合わない。
しかし都合が悪いからとばっさり女を捨てるほどのクズではなかったらしい。見直した。どうしようもない奴だと思っていたが、責任感というものはこいつにもあるようだ。
まあ、なんにせよ何の責任も持てない外野が自分の意見を述べていいことではない。産むだけ産んでろくに育てられないんじゃどうしようもないし。
つくづく、こういうことを考えるとそもそも環境が整っていないのにできるような行為をするなっていうのが自分に突き刺さるんだよなあ……。
自分を棚に上げて石橋の話にリアクションする権利は俺にないのだ。
「いや、ごめん。……それと河合さんがどう関係あるわけ?」
「ああー……まあ、直接関係あるっつーわけじゃねえんだけど……、色々考えてくなかでさ、今回の妊娠がどうであれ、自分も親になる年なんだって自覚するじゃん。それってやばくね? って」
いややばいかどうかはわからない。同意を求められても困る。
やばいというか、自覚することに関しては順当だと思う。
「今まで子供の立場のつもりだったけど、自分にそういう対象ができて、俺が親になんの? って思ったら、なーんか、今までの自分視点の思い出を客観的に思い直すようになったわけ」
なんとなく、石橋の目的がわかってきた気がする。
それよりもこいつがあれこれ過去のことを考えた事実に驚いた。
よくある話だが、いじめられた方が何十年も引きずっていることでもいじめた側は憶えてすらいないものだ。まあ、こいつの場合よくあるいじめというより、河合さん個人を執拗に嫌っていたので、また違うのだろうが。一人の人間を熱心に嫌うっていうのは結構頭のリソースを割くことだろうから。それも数年来の関係らしいから、どこにでもあるようなクラスメイトに嫌いなやつがいる、程度ではないはずだ。
それでも、嫌ってるなら嫌っている側の正義があるはずなのだ。そしてそれは成長してもなかなか変わるものではないだろう。もしどこかしらで性格が丸くなったりなんかしても、わざわざ昔の記憶を掘り返しはしないはずだ。苦い過去として忘れたふりをしたって誰も気付かない。
第一、表だって一方的に人に暴言を吐いたり嫌みを言うのは、あまり深い考えを持っている人間がとる行動だとは思えない。これは偏見かもしれないが。だって、自分がすっきりする以外はメリットは薄いし、デメリットやリスクはでかいからな。
言われた側の立場とか、聞いている周りの感情だとか、そういうものに考えが及ばない、思ったことをそのまま言うからできることだと思っている。そんなやつが過去の自分の行いを客観的に捉え直すという発想になるとは思えなかった。あったとしても自分に都合のいい形でのみだろう。……というのはちょっと人をバカにしすぎだろうか。
まあ、とにかく、俺にとってこういう輩は人のことはどうでもよく、自分や身内に甘いという認識だったのだ。
だから石場の発言はとても意外だったわけだ。
「……それで……河合さんに謝ろうってこと……?」
石橋は目も合わせず肯定もしなかったが、否定もしなかった。
「なんて勝手な……」
「はあ? お前の意見は別に関係なくね」
……うざっ。
腕を組んで考える。
たしかに、別に意見を求められたわけではなく今回勝手に聞き出しただけの話だ。俺は関係ない立場である。河合さんが石橋に対してどう考えているのかもわからないし。
「……まあ、考えを改めたというのは偉いと思うけど、それに河合さんを巻き込むのは違うんじゃないの。普通に考えてさあ、昔自分をいじめてきた男が急に現れて、自分が一人のときにまた訪ねてくるって予告されるの、恐怖じゃないか。お前の目的なんか、それこそ関係ないよ」
「はあ~? じゃあ俺は怖がる女に気を遣って離れて暮らせってか?」
「そんな主張はしてないだろ! ただお前が怖がられるのは当然なの! それに配慮しないことで周りから文句が出るのは身から出た錆なの!」
「なのなのうるせえな!」
うるさいな! こちとら瞬くんの相手ばっかりしてて優しい言葉遣いが染み付いてるんだよ!
「それにさあ、お前が頭下げて許してくださいって言うとして、そんなことされたら河合さんは許すしかないじゃん。許さないとか言ったら殴られるかもしれないし」
「んなこといっぺんもやったことねえし」
「やったことなかろうとそれだけの威圧感がお前にはあんの! 相手に選択肢がない状況を作るのがだめだってことだよ、お前だけ気持ちよくなろうったってそうはさせないぞ」
「なんだよめんどくせえな……」
……しかしまあこいつの言うとおり、俺に河合さんの気持ちを代弁する筋合いはないのだ。
河合さんはあれで石橋のことを嫌ってはいないようなのだ。不思議なことに。もしかしたら恨んでもいないのかもしれない。
しかし河合さんが石橋を警戒しているのも事実だ。
こういうとき、和泉がいれば必要以上に二人の間に入ることもなく、しかしちゃんと河合さんが安心できるように手助けしてあげられるのだ。俺はそれができない。
「……じゃあ今から、俺立ち会いの元河合さんを呼び出す?」
「はじめは別にそれでいいかと思ったけど、なんか話してっとめんどくさくなってきたな……」
「俺だってお前の相手はそろそろ面倒になってきたところだよ。呼ぶね」
「うそだろお前……」
愕然とこちらを見る石橋を放って立ち上がり、少しだけ距離を開けて河合さんに電話する。埒があかないしな。
それに過去が清算できるとしたら、河合さんだってすっきりするかもしれないし。モヤモヤすることになる可能性もあるけど、でもこのまま石橋が帰ったってどうせモヤモヤするんだ。
どうやら向こうは俺たちが喧嘩してないか冷や冷やしているようだった。
石橋の用件は伏せて、ひとまず河合さん一人で出てきて貰うよう要請する。
徒歩三分もかからない距離だ。
すぐにとことこと歩く河合さんの姿が見えた。なんだか外にいる河合さんを見るのは久しぶりな気がする。
その姿を認めると石橋は観念したようにベンチから立ち上がり、気まずそうに地面を睨む。まるで告白現場だ。
河合さんは少しだけ俺の体で石橋の視線を遮るように、直線に向かい合わないような微妙な位置にやってきて、立ち止まった。その表情には一見動揺は見られないが、少しだけ緊張しているような雰囲気は伝わってくる。きっと他の人にはぼんやりとした無表情に見えることだろう。
「……よお」
石橋はつっけんどんな態度だった。まるで反抗期の子供みたいにふてぶてしい態度で、俺は少し笑いそうになった。
まさか、こんな状況になるなんて、あの頃の俺たちに想像できただろうか。
思ってもみない名前の登場に頭がついていかない。
卒業して以来、全く一度も聞いたことがない、というかむしろ連絡なんて取りたくもないだろう相手との繋がりに驚いて声を上げると、河合さんはぶんぶんぶんと大きく首を振った。その顔は最近では珍しく焦りが滲んでいる。
「連絡先なんて知ってるわけないじゃない、こんなの初めてよ!」
河合さんの必死な様子に少し安心する。全く知らないところで実は交流があった、というわけではないらしい。しかしそれはそれで不審である。突然数年ぶりに自宅兼職場に訪ねてくるなんて、そんな仲では決してない。むしろ知られたくない相手のはずだ。
二人の関係はいわゆるいじめっこといじめられっこの関係である。
ちょっと近くを通りかかったから……と寄ってみるような間柄では決してない。不気味だ。
「……むこうは河合さんを訪ねてきたの?」
膝に瞬くんを乗せた千紗が穏やかに聞き出す。
俺たちほど慌てた様子がないのは昔石橋と良好な関係を築けていたからなのだろうか……。俺たちからすると嫌なやつ、敵、向こうもこっちを嫌ってる、そんな相手なので身構えてしまうのだが……。しかも俺はともかく、河合さんは一方的に敵意を抱かれてたし。
「……そうみたい。でも今友達が来てて、って説明したらまた来るって帰って行っちゃって……」
「な、なんだそれ……怪しすぎる……」
どの面下げて来れたっていうんだ。要件も伝えず。
しかも出直してくるってことは結構しっかりした目的があるんじゃないのか……? 軽い立ち話や顔を見にきただけでは済まないということだ。
三人で一瞬悩んだ後、一番に顔を上げたのは千紗だった。
「……パパ、ちょっと行ってきてよ」
「え!? な、なんで俺が!?」
「気になるじゃない。また来るんだったら河合さんは逃げられないし、このままじゃ石橋がどういうつもりなのか不安でしょ」
「そ、それはそうだけど……」
俺が、石橋と……? 正直気は進まない。というか高校時代ろくな思い出がないし……。すぐしょうもない口喧嘩に発展してしまっていたからなあ……。万が一そんなところ瞬くんに見られたらたまらないし……正直できることなら一対一で対峙したくない相手だ。同窓会なんかで見かけるくらいで十分なのだ。
……でもそれは河合さんも同じか。しかも向こうから寄ってくるんだからたまったもんじゃないよな。俺と違って一方的に攻撃されるだけだし……。
「じゃあ私が行ってくるよ、瞬をお願い」
「ま、まま待ってよ、俺行くって! 瞬くん、ママをお願いね」
俺に押しつけられそうになった瞬くんは、むんと千紗の腕にしがみつく力を強めた。
急いで靴を履いて店の外へ飛び出す。
千紗が行ったんじゃ色々話が本筋からズレてしまいかねない。それにあいつ、高校時代は千紗……というか佐伯には馴れ馴れしかったから、あまり近づけたくはない。女になってからはそれほど絡んでいる様子はなかったけどさ。これは嫉妬とかではなくて……ああいうプレイボーイを気取っているようなやつは警戒しとくにこしたことないじゃないか。うん。
幸い店の前の通りはまっすぐ一本の大きな道路が続いていて、住民以外横道に逸れる理由はほぼない。
人通りはあまりなく、あっても主婦だとか老人がほとんどの道だ。左右見渡すと、距離はあるが瞬時にあいつだ、と確信できる背中を見つけた。
少し躊躇したが、でもここまできて後戻りもできない。走りやすい歩道を大股で駆けて、ある程度距離を縮めたところで慣れない大声を上げた。
「石橋!」
まさかこの名前を大声で呼ぶことがあろうとはな。
にっくきあの野郎は数秒置いた後、ゆっくり振り返った。訝しむような、喧嘩を売るような表情で、あんまり想像通りだったので走っている最中に吹き出しそうになった。少しは大人になってるかと思ったが、相変わらず嫌な奴そうで少し安心した。
「……誰?」
俺が数mの距離までやってくるのを待った後、むこうは低燃費そうな小さな声でそう投げやりに聞いてきた。
割と距離があったが、それほど息は乱れずに済んだな。
しかし誰ときたもんだ。こいつ……忘れたとは言わせないぞ。
「……俺、桐谷、高校ん時の」
「ああ……?」
ぽかんとした顔から、段々と驚くような顔に変わって、それがさらに人懐っこそうな笑顔に変わった。
あれっこんな表情する奴ではなかったはずだが。きもちわるっ。
「はあ? お前、桐谷? あのチビの? マジかよ、全然面影ねえじゃん!」
あ、やっぱり石橋だ……。表情はニコニコと人好きのするようにみせかけて、言葉は最悪である。
しかし俺ももう大人だ。むっときてもそれをすぐに表に出したりはしないのだ。
「チ、チビは余計だろ。四年近く経ってるんだからそりゃ成長もするよ」
「いやいやいや、にしてもほどがあんだろうよ。大人じゃねえか」
「お、お、お前の方こそなんだよ!! ニヤニヤしやがって!」
そんな爽やかな笑い方するような人間じゃなかっただろ!!
なんだか急に裏切られたような気持ちになった。
石橋はいつでも愛想が悪い男だったはずだ。それなのに何故か彼女とかいて、偉そうで、人には決してバカにされる立ち位置にはいなくて、いつもする側だった。
それがなんだ? にかっというように笑う仕草は愛嬌というのがありそうではないか。そんなキャラじゃないだろ。なに猫被ってんだ。騙そうっていうのか? 詐欺師なのか?
「俺は別に変わってなくね。背も止まったし。髪型は違うか」
「そ、それは、そうだけど……」
高校時代はちゃらちゃらした髪型をしていた。長めの髪をうねらせて、そんなに気合いいれて学校にきてどうすんだというようなセットをしていた。他の奴が同じ髪型をしたらきっとからかわれるのに、こいつがやれば誰も文句を言わないのだ。それがとても気に入らなかった。
今はもう少し短くなっているか。気取った印象は抜けきらないが、まあちゃらついてるってほどではないかな。でも社会人として真面目にやってます、というほどかちっとした印象でもない。
「……それで、お前、河合さんに何の用だよ。こんな突然アポなしで……」
「しょうがねーだろ、連絡先知らねーし。……あー……、ああ、友達ってお前? なんだ、結局和泉じゃなくてお前が付き合ってるわけ?」
「ち、違うよ。友達だって言ってるだろ。で、なんの用だよ。どの面下げて河合さんに会いに来れたわけ?」
石橋は考えるように自分の顎を撫でた。
昔は見上げてばかりだったから妙な威圧感があったが、今は普通に会話する距離であれば視線はそれほど変わらない。それなのになんというか、貫禄というのだろうか、雰囲気というものがあった。人に無碍にされないであろうという謎の雰囲気が。これは図体のお陰だけではなかったらしい。癪に触る。
「友達がいるっつーから出直そうかと思ったんだが、お前なら別にいっか」
「あ、いや、他にもいるから……」
「……なに? 俺の知らないやつ? んな友達あいつにいんのか?」
「失礼だな! い、いるよ。だからとりあえず今日は俺が間に立つと言うことで……」
少なくとも瞬くんは石橋にとって知らないやつだしな! ……それ以外に河合さんの交友関係の更新がないのが、他人事ながらちょっと切ない。
どちらにしても千紗のことは俺が独断で開示していい情報ではないだろう。
石橋は腕を組み、品定めするようにこちらをじろじろと見ていた。なんて失礼なやつなんだろう。
そして通りすがりの女子高生からちらちらと石橋に視線を集めているのを感じ、納得いかない気持ちになるのだった。
やつの頭の中でどういう結論が出たのか、はあ、とため息をついて首を振った。
「……別に、大した理由じゃねーし。わざわざ訪ねて行ってまでいじるほど暇じゃねえし、別に警戒されるような企みとかねーよ」
「でもわざわざ出直してくる程度の理由ではあるんだろ? それってなに? 告白?」
「はああ~?」
心外そうに眉間に皺を寄せる石橋に、こっちの方が心外な気持ちになる。河合さんだぞ? お前。わかってるか? そんな顔していい立場だと思ってんのか?
石橋はぽりぽりと頭をかく。
「あー……いや、まあ、出直すほどでもねえわ。もうどうでもよくなった。金輪際会わねえから安心しろよ」
「ええ!? 気になるだろ! 教えろよ」
「お前ちょっとは気遣ってくんねえの……?」
なんで石橋に気なんか遣わなきゃならないんだ。
数回同じようなやりとりを繰り返した後、結局根負けしたのか石橋が折れた。
長い話にはならないようだが、道の真ん中で話すことでもないのでと商店街の中のベンチに座った。中は日が陰っているとはいえ当然のように暑いが、店に入るほど話に華を咲かせる気もお互いないのだ。
座った石橋が少し居心地の悪そうに口を開いた。
「今お前何してんの」
「何って……大学4年だけど」
「就職?」
「まあ、そうだね。お前もだろ。就活とか、お前ちゃんとできてんの?」
「はん、バカにしてんのか」
バカにしなくたって気になることだろう。こいつがスーツ着て、面接受けてる姿なんて想像つかない。そして新入社員として働く姿も。まるで自分が頂点であるかのように周りを見下しきっていた男だぞ。
「そりゃまあ普通の会社員とかできる気しねえけど……」
だよな。和泉と同じ。そっち側の人間だ。こいつにもどっかしら人よりすごい部分とかはあるとして、でもそれを発揮するのに会社だとか、そういうきちっとしたところは向いていないだろう。むしろ良さを潰すんだろうと和泉を見てひしひしと感じた。そういう奴も当然いる。別にどっちがよくてどっちが悪いという話ではないのだ。まあ、こいつのことはよく知らないけど。
「付き合って一年ちょいの彼女がいんだけどさ」
「え、長いね」
「そうか……?」
「石橋の見た目からすると長い」
嫌みのつもりだったのだが、「ああ、引っ張りだこだからな」と何故か誇らしげに返された。
よく考えると俺と千紗との付き合いは、友人期間を差し引くと一年にはとても満たないのだ。今だって恋人関係かというと、実際はそういう雰囲気はないし。
「ま、その彼女が妊娠したかもとか言い出して」
「え」
頭がひやっとした。そして俺の今の状況はそのひやっとする告白の延長線上にあるのだと思い出して、なんだか複雑な気持ちになった。
「相手は同級生……?」
「いや社会人。……まあ、結局妊娠は勘違いだったんだけど」
「あ、ああ……そうなんだ」
なんとなく、自分の立場を考えると、よかったね、と言いたい気持ちにはなれない。もちろん準備もできていないときに計算外の妊娠はしないに越したことはないと思っているのだが、なんだか瞬くんに悪いような気がしたのだ。
「まあ、結果的にはよかったけど、結果出るまで色々考えんじゃん。まだ俺明け方までゲームしてえし、つーかパソコン買い換えたいし。でもやることやっといてさあ、産みたいって言われたらだめだとか俺が言えることじゃねえじゃん。いや俺しか言える立場のやついねえけどさ」
「あ、そういう感覚あるんだ」
「なんだよ……」
喧嘩を売っているようなじっとりと恨めしげな目をこちらに向けてくる。それでこそ石橋だ。笑顔なんて似合わない。
しかし都合が悪いからとばっさり女を捨てるほどのクズではなかったらしい。見直した。どうしようもない奴だと思っていたが、責任感というものはこいつにもあるようだ。
まあ、なんにせよ何の責任も持てない外野が自分の意見を述べていいことではない。産むだけ産んでろくに育てられないんじゃどうしようもないし。
つくづく、こういうことを考えるとそもそも環境が整っていないのにできるような行為をするなっていうのが自分に突き刺さるんだよなあ……。
自分を棚に上げて石橋の話にリアクションする権利は俺にないのだ。
「いや、ごめん。……それと河合さんがどう関係あるわけ?」
「ああー……まあ、直接関係あるっつーわけじゃねえんだけど……、色々考えてくなかでさ、今回の妊娠がどうであれ、自分も親になる年なんだって自覚するじゃん。それってやばくね? って」
いややばいかどうかはわからない。同意を求められても困る。
やばいというか、自覚することに関しては順当だと思う。
「今まで子供の立場のつもりだったけど、自分にそういう対象ができて、俺が親になんの? って思ったら、なーんか、今までの自分視点の思い出を客観的に思い直すようになったわけ」
なんとなく、石橋の目的がわかってきた気がする。
それよりもこいつがあれこれ過去のことを考えた事実に驚いた。
よくある話だが、いじめられた方が何十年も引きずっていることでもいじめた側は憶えてすらいないものだ。まあ、こいつの場合よくあるいじめというより、河合さん個人を執拗に嫌っていたので、また違うのだろうが。一人の人間を熱心に嫌うっていうのは結構頭のリソースを割くことだろうから。それも数年来の関係らしいから、どこにでもあるようなクラスメイトに嫌いなやつがいる、程度ではないはずだ。
それでも、嫌ってるなら嫌っている側の正義があるはずなのだ。そしてそれは成長してもなかなか変わるものではないだろう。もしどこかしらで性格が丸くなったりなんかしても、わざわざ昔の記憶を掘り返しはしないはずだ。苦い過去として忘れたふりをしたって誰も気付かない。
第一、表だって一方的に人に暴言を吐いたり嫌みを言うのは、あまり深い考えを持っている人間がとる行動だとは思えない。これは偏見かもしれないが。だって、自分がすっきりする以外はメリットは薄いし、デメリットやリスクはでかいからな。
言われた側の立場とか、聞いている周りの感情だとか、そういうものに考えが及ばない、思ったことをそのまま言うからできることだと思っている。そんなやつが過去の自分の行いを客観的に捉え直すという発想になるとは思えなかった。あったとしても自分に都合のいい形でのみだろう。……というのはちょっと人をバカにしすぎだろうか。
まあ、とにかく、俺にとってこういう輩は人のことはどうでもよく、自分や身内に甘いという認識だったのだ。
だから石場の発言はとても意外だったわけだ。
「……それで……河合さんに謝ろうってこと……?」
石橋は目も合わせず肯定もしなかったが、否定もしなかった。
「なんて勝手な……」
「はあ? お前の意見は別に関係なくね」
……うざっ。
腕を組んで考える。
たしかに、別に意見を求められたわけではなく今回勝手に聞き出しただけの話だ。俺は関係ない立場である。河合さんが石橋に対してどう考えているのかもわからないし。
「……まあ、考えを改めたというのは偉いと思うけど、それに河合さんを巻き込むのは違うんじゃないの。普通に考えてさあ、昔自分をいじめてきた男が急に現れて、自分が一人のときにまた訪ねてくるって予告されるの、恐怖じゃないか。お前の目的なんか、それこそ関係ないよ」
「はあ~? じゃあ俺は怖がる女に気を遣って離れて暮らせってか?」
「そんな主張はしてないだろ! ただお前が怖がられるのは当然なの! それに配慮しないことで周りから文句が出るのは身から出た錆なの!」
「なのなのうるせえな!」
うるさいな! こちとら瞬くんの相手ばっかりしてて優しい言葉遣いが染み付いてるんだよ!
「それにさあ、お前が頭下げて許してくださいって言うとして、そんなことされたら河合さんは許すしかないじゃん。許さないとか言ったら殴られるかもしれないし」
「んなこといっぺんもやったことねえし」
「やったことなかろうとそれだけの威圧感がお前にはあんの! 相手に選択肢がない状況を作るのがだめだってことだよ、お前だけ気持ちよくなろうったってそうはさせないぞ」
「なんだよめんどくせえな……」
……しかしまあこいつの言うとおり、俺に河合さんの気持ちを代弁する筋合いはないのだ。
河合さんはあれで石橋のことを嫌ってはいないようなのだ。不思議なことに。もしかしたら恨んでもいないのかもしれない。
しかし河合さんが石橋を警戒しているのも事実だ。
こういうとき、和泉がいれば必要以上に二人の間に入ることもなく、しかしちゃんと河合さんが安心できるように手助けしてあげられるのだ。俺はそれができない。
「……じゃあ今から、俺立ち会いの元河合さんを呼び出す?」
「はじめは別にそれでいいかと思ったけど、なんか話してっとめんどくさくなってきたな……」
「俺だってお前の相手はそろそろ面倒になってきたところだよ。呼ぶね」
「うそだろお前……」
愕然とこちらを見る石橋を放って立ち上がり、少しだけ距離を開けて河合さんに電話する。埒があかないしな。
それに過去が清算できるとしたら、河合さんだってすっきりするかもしれないし。モヤモヤすることになる可能性もあるけど、でもこのまま石橋が帰ったってどうせモヤモヤするんだ。
どうやら向こうは俺たちが喧嘩してないか冷や冷やしているようだった。
石橋の用件は伏せて、ひとまず河合さん一人で出てきて貰うよう要請する。
徒歩三分もかからない距離だ。
すぐにとことこと歩く河合さんの姿が見えた。なんだか外にいる河合さんを見るのは久しぶりな気がする。
その姿を認めると石橋は観念したようにベンチから立ち上がり、気まずそうに地面を睨む。まるで告白現場だ。
河合さんは少しだけ俺の体で石橋の視線を遮るように、直線に向かい合わないような微妙な位置にやってきて、立ち止まった。その表情には一見動揺は見られないが、少しだけ緊張しているような雰囲気は伝わってくる。きっと他の人にはぼんやりとした無表情に見えることだろう。
「……よお」
石橋はつっけんどんな態度だった。まるで反抗期の子供みたいにふてぶてしい態度で、俺は少し笑いそうになった。
まさか、こんな状況になるなんて、あの頃の俺たちに想像できただろうか。