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16章

 そして今日は引っ越しにまつわるあれこれや、今まで受けていた支援に関する手続きを終え、帰りにジュニアシートというのを買った。瞬くんはもうチャイルドではないそうだ。俺たちにとって1、2歳の違いなんて誤差でしかないのに、瞬くんはもう赤ちゃんではないそうです。
 それをさっそく車に設置して、帰る頃にはすっかりお昼を過ぎていた。お腹は空いているものの、恐らく俺たちの分のご飯も準備されているはずなので、寄り道はせず家に向かう。

「あ、ママーおかえり~」

 泣いて飛びついてくるだろうと思っていた瞬くんはなんてことないようにソファでくつろいでいて、拍子抜けした。

「ええー? 瞬寂しくなかったの? すごいじゃん」
「そうだよ!」

 プラスチックのストローが刺さった蓋付きのカップを抱え、テレビを見ていたらしい。悠々自適に過ごしていたようだ。
 すると瞬くんが見える位置で家事をやっていたらしい母もやや高いテンションで会話に加わった。

「そうなのよ~偉いのこの子! はじめ三十分くらいは泣いてたんだけどね、気晴らしにお庭を散歩したら落ち着いたみたいで。……ほら瞬くん、ママに渡すものあったんじゃないかしら」
「あ! そうだ!」

 母に促され、瞬くんはぴょんとソファから飛び降りて窓の方へ走っていくとまたすぐ戻ってきた。

「ママあげる!」
「わっすごい花冠? 上手ー! これどうしたの?」
「しゅんがおはなつんでーばあばがはんぶんくらいくつってくれたー」

 クオリティ的にほぼ母作のように見えるが瞬くんは誇らしげだ。瞬くんはたまに「つくる」が「くつる」になる。
 それにしても千紗のリアクションはさすがである。

「ママの頭に乗せてくれる?」
「はーいどうぞー」
「ありがとー! 似合う?」
「にあう! ママかわいーよ」

 ……おかしいな。パパもまだママとそういういちゃいちゃしたやりとりできてないのにな……。
 そしてパパは……パパには……?

「瞬くんパパ寂しいって言ってるよ?」
「あ! そっかー」

 母に声をかけられ、瞬くんはまた立ち上がって窓際に向かう。なんだなんだ、一体窓際になにがあるんだ。

「パパはこれあげるー」
「おおっ四つ葉のクローバーじゃん。いいの? これすごい珍しいやつだよ」
「いいよー?」
「へえー、よく見つけたねえ瞬」

 絶対珍しさを理解していないな。瞬くんは照れ隠しなのかいつもより素っ気ない態度だ。

「パパ、しゅんにありがとうは?」
「あっすみません、ありがとうございます」
「どーいたまして」

 手厳しい。
 少し大きめの四つ葉のクローバーはちゃんと水で洗われたあとらしく、少ししっとりしている。ああ、窓際で日に当てて乾かしていたのか。
 あまりこういうものには感動しないたちだと思っていたが、思ったより嬉しい。押し花にして、ラミネートすればしおりにできるかな。ラミネーター、買おう。
 そうして瞬くんの今日の出来事についての話を聞きながら二人で昼食を食べる。
 ある程度満足したところで千紗が瞬くんに優しい声で説明をし始めた。

「だからね、もう前のおうちには戻らないの。ここが瞬のおうちになったんだよ。勝手に決めてごめんね?」
「あ、そーなんだー」

 千紗のサラダからトマトを分けてもらいながら瞬くんはあまり気にしていない様子で相槌を打つ。大丈夫かな? 気にしていないように見えてホームシックになったりしないかな? ……そこまで愛着のある住まいでもないか。
 すっかりこの家に馴染んでいるからわざわざ説明もいらないのではと思ったのだが、幼いくせに人に質問するとき意外と気を遣ってタイミングを伺う子なので、最初からちゃんと話しておきたい、という千紗の考えだった。
 瞬くんは俺のそばに寄ってくると、内緒話をするポーズをとったので耳を寄せる。

「もうここしゅんのおうちだとおもってた」
「あ、そういうこと」

 思ったよりリアクションが薄いと思っていたが、やっぱり本人は完全にここに馴染んでいたらしい。でもよかった、一時的な居場所としては楽しめたけど、住むなら前の暮らしがいいと言われたらどうしようかと思ったのだ。

「あーっ、これしゅんのおもちゃなんですけど~」

 ふとみると車から降ろしたままの荷物を勝手に覗いて瞬くんはあれこれ漁っていた。
 瞬くんのおもちゃは色んなパーツを組み合わせて作品が作れる知育玩具がかさばっていたが、あとは砂場遊び用のバケツや手のひらサイズのショベルカーなんかだけで、おもちゃの種類自体はかなり少ないようだった。……まあ誕生日だってまだ三回しか迎えてないんだし、おかしくはないか。殆どねだるのは本だったそうだし。
 瞬くんはその中から力任せにテディベアを引っ張り出した。

「しゅんのくまちゃん」

 いいでしょ、というように俺に見せびらかす。
 それは生地や縫合の具合から、恐らく手作りだろうというのがわかった。すぐにピンとくる。

「それママに作ってもらったの? パパも昔貰ったんだよ」
「やっぱりー? しゅんパパのおへやでみつけたもん。ばあばがパパのだいじだいじっていうからさわらなかったんですけどー」
「えっまだ持ってたんだ……」

 瞬くんが饒舌に説明する後ろで千紗が驚愕の表情を浮かべている。
 そうなのだ、持っているのだよ。そしてそいつは千紗を探している間密かに大活躍したのだが、なんとなくしのぶちゃんに頼んだときのことは内緒にしている。盗撮みたいで気まずいし。

「あ、私も持ってるんだよ」

 千紗は別の袋を漁って何か取り出した。

「ママのコップー」
「うわっな、懐かしいね……」

 何かと思えばクリスマスプレゼントに渡した猫柄のマグカップだった。すっかり忘れてたけどちゃんと大事に使ってくれてたのか……。
 え、これ、思ったより嬉しいな……。
 瞬くんも見慣れていたくらい普段使いしてくれていたらしい。

「これねえ、瞬が生まれる前に、パパからプレゼントして貰ったものなんだよ」
「ふーん」

 瞬くんはあまり興味なさげだが、視界の端で母が黙して興味津々そうな顔で見てくるのでものすごく気が散る。

「しゅんさあもうすこしでたんじょうびなんじゃないの?」
「そうだよ、来月の終わりだからね。あと一ヶ月くらいかな」
「いっかげちゅ」
「あら! そうだったの? ベストタイミングじゃない~! 瞬くんなにか欲しいものあるの?」
「えー!? うーんとうーんと」

 うちの母はお祝い事はとことん張り切るスタイルなのだ。しかしここは千紗のやり方を優先すべきだと思うのだが……。
 瞬くんは欲しいものを聞かれてわざとらしく驚いた顔をしたが、あまり思い浮かばないらしい。物欲がないのか、ただおもちゃの存在を知らないだけか。テレビもそんなにみないもんなあ……。
 一瞬千紗と目があって、それから瞬くんに助け船を出すのを見守った。

「瞬、プレゼントは本がいいって言ってたけど、パパの本がいっぱいあるもんねえ。おもちゃ屋さんに行って考える? ……この子あんまりおもちゃに興味がないみたいで、買ってあげたら喜んで遊んでくれるんですけど……」
「あらそうなの~、わがまま言わない偉い子ねえ」

 瞬くんはあまり話についていけていないようで、それでも自分の話をしているのはわかるからかきょろきょろと二人の顔を伺うばかりだ。
 ふむ、誕生日か……。要相談だな。俺にとってははじめての息子の誕生日だし、できるだけ全力で臨みたいものだ。
 でも俺だって今は収入ゼロなんだよな……。貯金はある。けど安定した収入がないのだから、そうほいほいと使えはしない。一応バイトの予定は入っているけど、就活がなんとかなるまでは一日だけの短期のバイトしかできなさそうだ。一応学校から専門的な資格が必要なバイトが多く紹介されているので、時給はいいし、仕事がなくて困るってことはないだろうけど……。
 やっぱり安定はしてないよな。これで怪我でもしたらイチコロだ。
 瞬くんへのお祝いでケチるつもりは一切ないが、立場上慎ましやかに生きなければな。

 もう少しこの暮らしに慣れてきたら、千紗は瞬くんを母に任せられるのであればパートに出たいと言ってくれてるし……、今はまだ不安定なのも仕方ないよな。
 少しずつ整えていくのだ。なんだかわくわくした。
 状況は不安定はずなのに、ここ数年間、ずっと焦りみたいなものが常にあったから今の時間がすごく心地良かった。

「あ。そうだ。河合さんに報告に行かないとね」

 突然思い出してそう口にすると、千紗も「あっ」と思い出したように声をあげた。
 いや、違うよ河合さん、忘れてたわけじゃないんだよ……。
 千紗の入院のときなんかにメールはしたけど……また怒られるかな、これ。
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