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16章

 朝目が覚めると、隣には瞬くんが大の字になって寝ているだけだった。
 その向こうには誰も居ない。もぬけの殻となっていた。

「……!」

 一気に血の気が引く。
 さ……いや違う、千紗は!? も、もしかして、もしかして、実は昨日納得してみせたのは建前で、本当はやっぱり気持ちを変えられなかったのだろうか、なんて考えが思わず脳裏を過る。
 慌てて飛び起きて、身支度もしないまま部屋を出て階段を駆け下りた。
 エントランスで、立ち止まる。まずどうするか、客間を見てみようか。いや、母はすでに起きているはずだし、聞いてみようか。でもまずは自分で確認すべきか。ああ、そうだ、携帯でまずは連絡を……。

「流、おはよー」

 リビングのドアが開いたと思うと、間の抜けた声が響いた。

「あ……お、おは……よう……」

 千紗はすっかりいつもどおりの動きやすい格好になって、霧吹きを手に持っていた。何かの手伝いの途中、といった様子で、一気に気が抜けた。
 それと同時に慌てふためいた自分が恥ずかしくなり、取り繕う。

「は、早いんだね、朝……」
「そう? もう八時だよ? おば……おかあさんは六時くらいに起きてたし……」
「……家事手伝ってくれてたの?」
「うん、えっと、今日は家事の段取り教わっただけで全然手伝えてないけど……今観葉植物にお水上げて回ってるの」
「そっか……ありがとう」

 千紗は「?」を浮かべて、笑いながら首を傾げた。
 よ、よかった……。
 我が家に馴染もうとしてくれているのに、どこかへ逃亡したのではと疑ったなんてさすがに言えない。感謝を述べるしかできなかった。

「朝ごはん、トースト焼いたらすぐ準備できるからね」
「あっ、うん。着替えてくるよ」

 あっ……すごくいい……この感じ……! ものすごく家族だ……。
 平静を装い、自室に戻る。
 自分に都合のいい夢でも見ているのかという気持ちにさせられる。でも現実なのだ……。

---

 その日一日はまったりと家の中で過ごした。これからはこんな日が日常になるのだと確認するように。
 千紗はまだ本調子じゃないというのに夜ふかしをしたせいか、少しぼーっとしていた。でも不穏な雰囲気は消えていたのでそれも微笑ましいものだ。
 瞬くんは昨夜の話し合いのことなど何も知らず、ママにべったりである。

「ママ! おそとにねーばあばのねーじゃんぐーあるんだよー」
「ええ? うそー。こんなとこにジャングルなんてあるかなあ~」
「あるよ!! きて!! きて!! パパ! いってもいーい?」
「あ、う、うん、いいよ」

 パパも来て、と言ってくれるのかと期待していたのに……。
 しかし外に出るときはちゃんと大人と一緒に、それから家にいる人に声をかけてから、という約束をしたのだが、きちんと覚えているらしい。さすが我が息子……賢い……。
 千紗は休み休み、そして瞬くんの相手をメインにしながら暇を見つけては自主的に母に手伝いを申し出ていた。
 俺はその間の瞬くんの相手をしつつ聞き耳を立てていた。
 食事の準備は大体この時間くらいから、洗濯機を回すのは朝一番。夕方に植物の水撒き、みたいな断片的な情報を手に入れる。俺は部分部分を手伝ったことはあるしひとつずつならできるのだが、やはり都合のいい流れというものがあるらしい……。

「パパさあ、おしごといかないの?」
「えっ!? い、行ってほしいの……?」
「そーじゃないけどおー」

 たしかに俺一人だけ暇してるような気はするけどさ!

「……パパも頑張るから……瞬くんの見てないところで頑張るから、応援しててほしい」
「いいよー」

 俺のやるべきことは就活とバイトなのだ。
 瞬くんの顔を見ていたら俄然やる気が湧いてきた!
 ……まあ、今日は日曜なので、ゆっくりするんだけどな。

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 そして翌日。徐々に状況を整えていくことにした。
 とにもかくにも元々住んでいたアパートを引き払わなくてはいけない。
 千紗もだいぶ元気になったしな。管理人に連絡をとったらしく、俺が遅めの朝食を食べたあとに教えてくれた。

「荷物を取りに行って、管理人さんにお部屋確認して貰って鍵を返すだけでいいみたい。そのあと郵便局に行って何個か手続きしなきゃいけないみたいなんだけど……」
「あ、そっか。じゃあこのあと行く?」
「うん、つれてって貰って良いかな」

 バスで荷物を運ぶのはさすがに無理だと悟ったらしい。かといって郵送して貰うほどの量でもないみたいだ。やっぱり車の免許取っておいてよかった……。
 しかし、普通のアパートなんかだったらこうすぐに出ていくということはできなかっただろう。お金を払って契約しているのとも違い、殆どセンターのご厚意で住まわせてもらっている、みたいな立場だったそうだし、だいぶ都合が違うらしい。
 役所とかの手続きっていいのかなあ、市は同じだもんね? とか、ネットで調べた画面を二人で見ながら相談する。俺は当然引っ越しの経験なんて記憶にはないのでわからない。まあ、聞いてみればわかるだろ。

「しゅんは?」

 にょきっと千紗の後ろからひっつくように顔を出して瞬くんも話題に加わる。

「あー……ごめん、瞬はおばあちゃんと待っててくれる? すっごく退屈しちゃうと思うからさ」
「えー! へいきなんだけど?」
「あのね、瞬くんが車に乗るには専用の椅子がないとだめなんだよ。パパたちそれ買ってくるからさ、そしたら次からは瞬くんも一緒にいけるから、今日はばあばと我慢できるかな」
「え! しゅんせんよう?」

 おっ、食いついたな。よしよし。
 と思ったのだがそれとこれとは別らしく、やっぱり一緒がいいと駄々をこねられて結局振り切るように出て行ってしまった。
 すさまじい罪悪感……。
 絶対シート買って帰るから、次からは絶対一緒だからねと伝えはしたのだが、多分瞬くんの耳には届いてない気がする……。

「センターに預けるときはいつも聞き分けがよかったんだけど、ほんとはあのくらい嫌だったのかな……」

 助手席に乗り込みながら、千紗も同じように瞬くんへの罪悪感を募らせているようだった。

「そういえば、はじめてあったときはすごく大人しかったもんね」
「照れくさかったんだって。あのね、再会してすぐのときに、瞬の気持ちを聞いてみるって話したでしょ? そのときにあの人がパパでしょって言われたんだよねえ……」
「え、そ、そうなんだ?」

 そ、その情報は早めに聞いておきたかった……。

「そのときははっきりとそうだよとは言えなかったんだけど……根拠もなんにもないみたいだし、なんでわかったんだろうね」

 うーむ、本当に謎だ……。子供にだけわかる何かがあるんだろうか……。
 見た目は大分千紗に似ていると思うしなあ……。

「……そういえば、なんで千紗っていう名前にしたの?」

 急に話が変わったせいだろうか、千紗は「え?」と声を上げる。
 元の名前にちなんだ名前にするのかなとか思ったのだが。自分に新しい名前がつくなんて経験、一般人はそうないからその由来が気になっていたのだ。

「ああ、親父がつけてくれたんだよ。私お姉ちゃんと双子だったでしょ? 生まれるまで女の子同士の双子だと思ってたんだって」
「ああ、なるほど……」
「それで理紗と千紗って名前つけるつもりだったのに、生まれたら片方男でしょ? なんの準備もしてなかったんだって。で、そのときテレビに出てた俳優さんだか、ドラマの役名だか忘れちゃったけど、そこからとって友也って名付けたんだってさ。ひどいよね」
「ひ、ひどいね、ちょっと」

 なんの思い入れもない名付けだったのか。俺は結構友也って名前好きなんだけどな。止め字があるとやっぱり名前らしくて憧れるのだ。

「俺、もし生まれた子が男の子だったら友也って名付けてるんじゃないかなーってうっすら思ってたんだよね」
「あはは、全然違う名前だったでしょ? さすがに自分の名前のおさがりはつけらんないよ~」

 考えてみればそれもそうか。憧れの人物の名前を貰うのとはわけが違う。
 それにしても、たしかに千紗の性別が変わって、親父さんは心配するよりむしろ喜んでいた、みたいなことを言っていたのを思い出した。
 子供の性別なんてどっちでもいいと思うのに。そりゃあ、俺の場合男の子だったら治療をさせなくてはいけないので苦労をかけるという部分はある。女の子だったら再会できなかったしなあというのもある。
 でもそれだけだ。子供が生まれてきた性別で後悔するってことはないだろう。お家柄とか、そういうのもあるのかもしれないが。

「ま、似合うかどうかはさておき、ちゃんと考えてつけてくれたんだって思うと千紗って名前、気に入ってるんだ」

 少し嬉しそうに話す千紗に、なんだか……なんとも言えない……頭を撫でてやりたいような気持ちになった。子供扱いのようで、よくないのだろうけど。
 家の前の坂を下り、門が開くのを待つ間、ずっとどうしようか悩んで結局、ハンドルから手を離せなかった。また怯えられたら、やっぱり気まずいし。

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 住居を移動するための荷物の運び出しに、一介のミニバンでは分不相応なのではないかと思ったのだが、千紗の荷物というのは本当にごく僅かなものだった。こちらに引っ越してきてまだ二ヶ月だったせいだろうけど、それにしても少ない。
 俺も降りて手伝おうかと言ったのだが、あまり男が出入りするのは周りの目が気になるらしく断られた。一人で十分だというので運転席で待っていたが、本当に千紗の細腕だけでも十分だったようだ。
 家具はどれも備え付けだったらしく、私物というのは服と靴、食器や料理道具、調味料、洗剤類……おかずはどれも日にちが経っていたのでゴミ袋にまとめて、あとは瞬くんのおもちゃや本、少しの文房具、ファイルにまとめられた郵便物や書類、これだけだった。一番幅を取ったのはトイレットペーパーかもしれない。掃除機買う前でよかったーとのことだ。
 とにかく私物のどれもが量も少なく、かさばるのは瞬くんのものばかりだ。そしてそれすらまだサイズがどれも小さいのでやはり大した積載量にはならなかった。

「よし、夜逃げの支度完成!」

 思いっきり日中なんだが、たしかにこの準備の早さは夜逃げ同然だ。
 千紗は手続きと報告のためにまたすぐアパートの中に戻っていった。俺は少し暇になってしまう。
 ぼんやり窓から外の景色を眺めた。
 閑散とした住宅街。向こうにビニールプールで遊ぶ子供たちの姿があったが、そのくらいだ。
 もし誘拐犯がここに住んでいる子供に目を付けたら、どうしようもないだろう、と考える。女性や子供ばかりが住んでいて、そしてその子供は言い方は悪いが、世界でも非常に価値が高いとされている力を持っている子ばかりだ。
 一般に公開されている情報では、ただの社宅とか寮とか、そういう扱いになっているらしいが、もしどこかで嗅ぎつけられたらと思うと恐ろしくて住まわせたくはない。
 かといって、千紗のような状況の人はどうしようもなくここに住まわざるを得ない。
 色々と考えてしまう。
 俺は本当に恵まれていたんだと思う。当時最新の治療を受けられて、ここまで成長できたのは、いくつもの人間の協力や努力のお陰なのだ。自分の力ではないのだとまざまざと感じさせられた。
 そして、運良く千紗たちと再会できたことも。努力だけでどうにかできることではなかっただろう。
 本当に、恵まれていた。

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 二十分ほど待って、お待たせ~と千紗は助手席に帰ってきた。

「次は郵便局と……市役所だっけ。印鑑とかちゃんと持ってきた?」
「うん、多分大丈夫なはず! 多分ね」

 今日の俺は完全に運転手だ。
 免許は取ったものの、一人で行動する分にはわざわざ車に乗る機会というのは殆どなかった。たまに母親の買い物に付き合わされたりしたくらいか。河合さんを病院へ送り迎えするときは役に立ったけど、それ以降は己の出不精が祟ってすっかり宝の持ち腐れとなっていたのだ。かといって通学に使っては母が困るし。
 しかし家族で行動するとなるとやっぱり車がいいな。話もしやすいし。

「あ、役所にいくんだったらそこで婚姻届も貰えるよね」

 なーんつって。と笑った……が、しかし千紗の顔は緊張するように少し固まっていた。

「そ、う、だね……」
「あっご、ごめん、冗談だよ? 一昨日話したばかりだし」
「あはは……うん……ううん、いいんだけど……。それを目指していけたら理想……だもんね」
「う、うん……。だ、だめならだめでいいしさ! っていうか、一番頑張らないといけないのは俺だし! 最低限就職しないとね」

 や、やばい。調子乗って地雷踏んだかもしれない。
 こういう軽口はプレッシャーになるに決まっているのに。
 一人ヒヤヒヤしていると、千紗が口を開いた。

「……なんかね、保身っていうのかな……。もしも全部夢だったり、勘違いだったり、突然崩れ去ってもショックを受けずにすむように……って思うと……、ついネガティブになっちゃうんだ。それで……ちょっと、うーんって、なっちゃう」

 それは聞き覚えのあることだった。記憶を探る。

「……それは……自己防衛のためってことだよね」
「そう……だと思う。ああー、そっか、これ、高校のときも言ってたよねえ……私、全然成長してないんだなあ……」
「考え方なんてすぐ変わるもんじゃないよ」

 あ、道間違えたかもしれない。全然別の方向に向かってしまっていた。
 車を使って移動なんて普段しないから、どういけばどこに着くっていうのがいまいちわからないんだよな……。カーナビの使い方を習得した方がよさそうだ。

「瞬と二人のときはさ、一日中あの子の相手をしながら洗濯したり掃除したり、献立考えたりお料理したりするでしょ? 頭が忙しくって、悩んでる暇なんてなかったんだよ。夜はすぐ寝ちゃうし」
「そうだね……一人で子供の面倒を見るのはやっぱしんどいよね」
「ね、自分だけだったら適当に済ませちゃうけどさ。でも一週間たっぷりお休みして、そしたら頭は暇でしょ?」
「悪い方にばっかり考えたんだろ」
「……そうなのかも。私はいなくても瞬は楽しそうにしてるし……、きっと色んなことして貰えるし……」

 そうでなくても寝込んでるときって孤独感とか誰でも感じるものだしなあ……。その気持ちはよくわかる。

「今でもやっぱりちょっと……気にせずにはいられないっていうかさ……。私のせいで前の旦那の家庭も壊れちゃったようなものだし……それなのに私だけ幸せになるのって、絶対罰が当たるって思っちゃって……」

 コンビニを見つけて駐車場に停まった。
 千紗は胴体にかかっているシートベルトを握って指でなぞっている。

「不幸な状況に身を置いたら気が楽ってこと?」
「……うん……えへへ、そうかも……。かわいそぶっちゃいたいの。気が楽って時点で大した不幸じゃないよねえ」
「いや……そんなことはないと思うけど……」

 まあ、自分から動くというのは誰だって最初の一歩がしんどいもんだ。大変な環境から脱却するのだって、初動が一番苦しいところだろう。
 同じように苦しむなら、これもう下がない状況でじっと耐えている方が心情的にはマシ……なのかなあ……。
 俺には少しわからない感覚なのだ。でも、考えられないほどのことではない。

「……でも私は瞬と運命共同体……だよね?」
「そうだよ、千紗が不幸だったら絶対瞬くんも傷つく。俺もね」
「ふふ、うん……。そう、なんだよね……。そう思いこむことにした。そしたら頑張れるんだ。妊娠がわかったときも、不幸になんてなるもんか! 家族に迷惑かけたって絶対守るんだ! って燃えてたもん。結局暴走しちゃっただけみたいだけど……」
「それは、まあ、結果論だよ」

 結局、彼女は自分のためには頑張れない人間なんだろう。
 俺からすれば自分のためとか人のためとか、そもそも考えもしないんだけどな。居心地が悪いのは嫌だし解決すべきだと思う。問題が明確にあって、それをそっとしておくというのはそれこそストレスだ。
 ……けど、それと向き合うのがストレスだという人間も、当然いるのだ。それは理解しないと。俺のやり方が誰にとっても正しいわけではないのだ。

「よし、何か飲み物買おうよ」
「あ、いいね。私アイス食べたいや。瞬には悪いけど」

 千紗の表情に、もう諦めや疲労感などは感じられなかった。
 ただちょっとだけ留守番中の瞬くんへの罪悪感を覚えながらも少しわくわくしたような、いたずらっぽそうな顔を向けてくれるのが嬉しい。
 そうだ、俺は彼女を幸せにしたいんだ。この子といると幸せになれるから。笑顔を見ると、無性に嬉しくなるから、俺だってそれを与えたい。
 こうして、ただ日常を過ごして、好きな食べ物を食べて、行きたい方向に進んでくれたら、そしてそのそばに俺もいられたらいいのだと、ずっと思ってきたんだ。
 やっとスタートラインに立てたんだ。あれこれ振り返る暇なんてないよな。
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