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15章

 昼間瞬くんが遊んでいるときには考えられないほど、暗く重たい空気だった。
 リビングの机を挟んで両親と、俺と佐伯が向かい合って座っている。母は相変わらずおっとりした表情ではあるが、それでもいつものような気の抜けた発言はしない。
 一番に口を開いたのは父だった。

「なんにしても、大事にならなくてよかった。軽い肺炎ですんでよかったじゃないか」
「すみません、ご心配をおかけしました……。どうお礼すればいいのか……」
「お礼なんて気にしないでいいのよ、瞬くんと千紗ちゃんの元気なお顔が見れただけでお釣りがくるんだから」

 すかさず母がフォローするが、佐伯のこわばった表情は崩れそうにない。
 佐伯は必死に大人として礼を欠くことのないように振る舞おうとしているのがよくわかった。しかしかしこまったやり取りなど俺だってろくに経験がないし、知識としてもないのだろう。おどおどと不安そうに喋るのが余計幼さを引き立てている気もする。

「……それで、今後二人はどうするつもりかな。私たちとしては、少なくともこのまま息子が安定して稼げるようになるまではここにいてもらっても構わないんだが……」
「千紗ちゃんがよければね。私達との同居は気を遣うだろうし……どこかの部屋を借りて三人でっていうのも……」
「あっあの!」

 二人の話を遮って、佐伯は立ち上がっていた。全員の視線が佐伯に集まる。
 堅く拳を作って、二、三荒い呼吸を繰り返したあと二歩ほど横にずれ、床に膝を着いた。
 あっと思った。見覚えのある光景だった。

「まっまずは謝罪させてください、む、息子さんの人生を、壊してしまい、申し訳ございませんでした」

 震える声で佐伯は床に頭をつけて土下座していた。
 慌てて両親は腰を浮かして制止する。俺もすぐにソファを降りて近寄った。

「や、やめなよ、壊された覚えなんて俺ないよ」

 そう肩に触れると佐伯はぎくりと跳ねた。

「そうよ、謝るのはこちらの方だわ。あなた一人苦労をかけて……。千紗ちゃん、顔を上げて、座ってお話しましょう」
「い、いえ、わ、私が誘ったんです。流さんに何も伝えず、勝手に産んだのも、全部私が軽率だったせいなんです、全部……。取り返しのつかないことを、全部間違えてしまって……」
「さ、佐伯……大丈夫だから落ち着いて……」

 腕を掴んでこちらを向かせると、佐伯は口をへの字にして泣くのをこらえるような顔で俺を見上げた。

「間違えてなんかないよ、瞬くんをあんないい子に育ててくれたじゃないか」
「そうよ~、あんなしっかりした子なかなかいないわよ~」

 励まそうとしてか、間延びした母の口調がこの場では浮いていておかしかった。
 しかしそれで少し落ち着いたらしい、佐伯は再度「本当にご迷惑をおかけしました」と謝罪して、いいのいいのと笑う母に釣られるようにしてぎこちなく口を歪めて笑った。

「ほら、座ろう?」
「……うん……」

 気まずそうな佐伯をソファに戻し、隣に座る。
 父はこういうとき、多分気遣いたい気持ちはあるのだろうが、それがうまく表現できない人だ。「えー」と言葉を選びながら仕切り直した。

「……それで、二人はどうしたいのかな」

 ちらりと佐伯を見る。佐伯もこちらを見る。

「許してもらえるなら、俺が学生である間ここに住まわせてもらいたい……です」
「わ、私、なんでも家事、やります。瞬が預けられるようになったらパートもはじめますし、それまでも貯金があるので、きちんと生活費もお渡ししますので……」

 相変わらず自信なさげに佐伯は横で勝手なことを言う。

「それはちゃんと俺が払うから、気にしなくていいよ」
「でも……」
「そうよ~私だって一銭も払ってないのよ~」

 そ、それとこれとは話がまた違うのだが……。
 佐伯の金銭感覚は正直怪しい。昔は自分の小遣いで三食どうにかしていたが、外食やジャンクフードばかりだったし、結婚して自炊するようになっても財布は持たしてもらえず、ずっと買い物をすることがなかったのだという。
 病院代も、気にするなというと十万円で足りる? と言ってきたしな……。
 俺たちが悪いやつだったらいくらでも毟りとれていただろう。まったく。

「流くんは、二人を養ってあげられるだけの蓄えはあるのかな?」
「え、ええと、どのくらいかかるのかが正直わかっていないので……なんとも言えないんですけど、これからバイトも始めるつもりだし……十分足りると思います」
「そんなに肩肘張らなくても大丈夫だよ。僕たちも二人に苦労をかけたい気持ちなんて一切ないんだから。細かい事はあとで決めよう。家計のことは家内に任せているしね」

 その言葉に、佐伯はいまだに緊張しているようだが、俺は少しほっとしていた。金を払いたくないという話ではない。父の穏やかな喋り方に安心したのだ。正直今まで父の心情みたいなものは見えていなかった。瞬くんに対してはかなり優しい目を向けてくれてはいたけど……佐伯については他人行儀というか……他人なんだけど。どう思っているのかずっと気になっていた。
 でも多分、この話し方を見ると、大丈夫なような気がした。

「……ということは、二人は夫婦になると思っていいのかな?」
「えっ!」

 急に舵を切られて思わず声を上げ、そして佐伯と目を合わせる。
 顔が熱くなった気がする。

「え、ええと……も、もちろん最終的にそうなれればいいなと思っているけど……、で、でもまだお互い再会して間もないし……せめて就職できてから……」
「あら、そうなの?」

 えっ。大人的にはさっさと籍入れちゃえよ! って感じなのか……!?
 普通逆じゃないのか!? 先走る子供を諌めるのが大人じゃないのか……?

「とにかく、そうと決まればお引越しの準備をはじめないといけないわね! お部屋はどうする? 今使ってる客間でいいかしら? 手狭じゃない?」
「そ、そんな、とんでもないです、あんなに広いお部屋、使ってしまっていいんですか……?」
「いいのよ~泊まるようなお客さんなんて滅多にこないもの」

 元々父の親戚が利用していた家らしい。その頃は法事だかなんだかで人が泊まることもあったらしいが、俺たちが使うようになってからは和泉や佐伯が泊まりにきたときくらいにしか出番がなかった。むしろ有効活用だ。

「す、すいません……ありがとうございます……」
「一緒に暮らすんだから、本当の家族と思って接してくれていいのよ。今すぐには無理かもしれないけど、文句だって言っていいし、怒ったって良いんだから」

 母の言葉に、佐伯の表情は少しだけ緩んだような気がする。
 その雰囲気を汲み取ったのか、父も少し柔らかい表情で口を開いた。

「……うちの息子はまだまだ頼りないが、その分我々もできる限りのサポートはするよ。どうか一人前になるまで支えてやってほしい」

 佐伯はもじもじとして、こくんと頷いた。やはり小さな子どものようだと思う。

「頑張り……ます。よろしくおねがいします……」

 母はすぐに佐伯の手を掴んだ。

「嬉しい……ありがとう、千紗さん……! 至らない息子だけどどうかよろしくね……!」
「あ、う……」
「マ、ママ! 佐伯にプレッシャーかけないで!」

 せっかく嬉しい言葉が聞けたのに、圧倒してしまってもし萎縮させたらどうするんだ! 慌てて止めに入ると母はじっとりと俺を睨んだ。

「流ちゃん、さっきからずっと佐伯佐伯ってなんなの! 彼女にはちゃんとした名前があるのよ!?」
「うっ……ご、ごめん……間宮さん……つい……」
「間宮さんじゃないでしょ!」

 母の追撃に思わずびくんと肩が跳ねる。
 なんで俺は叱られているんだ……? そんなに悪いことですか……?

「そんな他人行儀な呼び方して、家族もなにもないじゃないの。一人だけ苗字で呼ばれるなんて疎外感を感じるに決まってるわ」
「あ、そ、そうか……」

 いや、俺も普段は桐谷って呼ばれてるんですけど……。
 ちょっと俺に当たりが強いのが納得いかないが、少しだけ和やかな雰囲気になって、話し合いは終了した。
 とりあえず、俺が就職してある程度生活基盤が整うまでは我が家で様子見という感じだ。順調であればこのままでもいいし、順調であっても仕事や学校の通いやすさからよそに移るのもありだろう。
 時間はとっくに十二時を回っていて、全員夜に弱いのでもう限界だとなりお開きとなった。
 俺と佐伯は部屋に戻る。

「……佐伯、ありがとう、ほんとに……」

 ドアの前、そう声をかけると佐伯は振り返ってなんとも言えないような、笑っているような困っているような、泣きそうなような表情をこちらに向けた。

「佐伯は無理してないよね……? ほんとに、俺、その……仮とはいえ、お、夫面……? してもいいのかな……」

 籍を入れるのはまだ先だとしても、瞬くんの親として暮らすならきちんとそういうつもりで向き合ったほうがいい、という話になったのだ。はじめから夫婦として結婚して子供を作ったとしてもうまくいかないことなんていくらでもあるのだから、まずはごっこでもやってみないことにははじまらない。どうしても無理だとなれば、また対応は変わってくるし傷は浅いうちがいい。
 母は佐伯にはかなり、無理だったらすぐに言うのよ! いくらでも逃げて良いんだからね! と念押ししていて、俺はとても複雑だったのだが……。

「……うん」
「ほ、ほんとに……!?」
「もう……いいってば。私の方こそ……ごめんね……ずっと意地はってて」

 いいんだ……いいのか……! そうか……!
 じわじわと実感する。それはもうちょっと待って、とか、わからない、とかじゃないのだというのが嬉しかった。

「……だっ……抱きしめてもいい……?」
「え……っ」
「あっごめん」

 やばい。調子に乗りすぎた。

「う、ううん……あの……い、いいよ」

 佐伯は不安げに視線をうろつかせて、ぎゅっと体の前に手を祈るように組んで、コクコクと頷いた。

「ぜ、全然良さそうに見えないんだけど……」
「いいのっ! 気にしないで!」
「は、はい……」

 恐る恐る小さい背中に腕を回す。その中で佐伯はかちこちに身を堅くしていた。怖がっているような姿に思わず解放してしまいたくなったが、頭ではそう思っているのに、体はその僅かな震えを抑えようとしてかむしろ一層腕に力を込めていた。
 腕の中で息をつくのが聞こえて、佐伯の体もほんの少しだけ力が緩んだ気がする。
 抱きかかえることはあったものの、こうして向き合って抱きしめたのは四年ぶりだ。体はやはりずっと細く小さくなっていた。けれどようやく、ずっと空いていた穴が埋まるように感じられた。

「く、苦しい……」
「あっご、ごめん! 佐伯……」
「……また、佐伯って言ってるし……」

 慌てて解放すると佐伯は笑いながらも呆れたように肩を竦める。

「……いや……でも……女の人を下の名前で呼んだことなんてないから……」
「だけどいつまでも佐伯とか間宮さんとか呼んでられないでしょ? 瞬も不思議がってるもん……」
「そ、そうだよね……」

 だって、さあ……。
 今までずっと佐伯というやつと仲良くなって、追い求めてきたのだ。
 そして彼女が佐伯だったという証明はもうどこにもない。じゃあ、誰も佐伯と呼ばなくなったら、佐伯友也という人はもうどこにもいなくなったみたいで、すごく悲しい気持ちになるのだ。
 そんなの、嫌だった。
 俺が躊躇していると佐伯は何か気づいたらしい。

「前の名前は、桐谷が覚えていてくれるだけで十分だよ。昔と色々変わっちゃったところもあるけど……私は昔からずっと同じ私のつもりだもん。名前が変わっただけで消えてなくなったりしないよ」
「う、うん……」

 先ほどとは立場が逆転してしまった。俺の方が歯切れ悪く、佐伯の方があっけらかんとしているように見える。
 ずっとびくびくとしていたのに、ふっきれたようだった。そんな風に振る舞っているだけかもしれないけど。

「……どうせなら照れずにもっと友也って呼んで貰えばよかったね」
「そ、うだね……。もったいなかったよね」

 付き合い始めた頃、一度だけチャレンジしたことを思い出す。
 あのときはなにも将来のこととか、深いことは考えていなかった。なんでもできたのに、何も考えずに漠然と過ごしてしまった気がする。

「ね、オレのこと友也って呼んでみて」
「え……」

 久しぶりに「オレ」っていうのを聞いた気がする。
 似合わないような、しっくりくるような、不思議な感覚だった。再会したばかりの頃は「私」の方がずっと違和感があったはずなのに。

「と、友也……」
「……あはは、やっぱり佐伯の方がしっくりくるなあ」
「せ、せっかく呼んだのに」

 まあ、俺もやっぱりしっくりくるのは佐伯だけどさ。

「……佐伯友也って名前のこと、ずっと覚えててね」
「忘れるわけないよ。今までの人生で一番呼んだ名前だよ」

 当然のことだと思って言ったのだが、佐伯は驚いた顔をして、それからくすぐったそうな、心底嬉しそうな顔をした。
 ああ、そうか。俺にもこんな顔をさせてやることができたのか。
 人に名前を呼んでもらうっていう、ただそれだけのことで、佐伯はこんなに喜んでくれるのだ。

「これから呼ぶ名前は?」
「…………ち……千紗……」
「……うん」

 よくできましたというように腕を伸ばして俺の頭を撫でる。
 佐伯じゃなくて、千紗……千紗。頭の中でも反芻する。

「私も流……? くん? さん? って呼んだ方がいいんだよね」
「……よ、呼び捨てでいいよ……」

 なんだか、今更敬称をつけられても変な感じだ。
 千紗はまた小さく笑うと、そのままドアを開けて部屋に入っていった。俺も足音を立てないようそっとあとに続く。
 瞬くんは少しだけ布団から体が出て、枕から頭もずれてしまっている。
 起こさないように整えてあげて、唯一の光源だった廊下の電気を消してから瞬くんの両サイドに俺たちも寝ころんだ。
 目が慣れてくるとカーテンの隙間からうっすら月明かりが漏れていて、瞬くんの寝顔と、その向こうの千紗の顔の輪郭が見えた。瞬くんの横顔を微笑ましそうに眺めている。

「……おやすみ、千紗」
「おやすみ、流」

 ああ、呼び慣れない。そして聞き慣れない。変な感じだ。胸の奥がぐるぐるする。
 でも自分に言い聞かせる。ただ、呼び名が変わっただけなのだ。何も変わらない。なにも消えない。
 少なくとも、千紗から、少し前まで感じていたまるで別の世界に生きているかのような孤独感がにじみ出るような雰囲気はなくなっていた。まだ隠してるだけかもしれないけど、でも心のどこかが諦めていないのなら、いい。
 だからいいんだ。
 呼び名を変えたのだって、これからずっと一緒に生きていくために必要なことだったのだ。むしろ喜ぶべきじゃないか。
 だって、家族になるんだから。
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