15章
夕食を終え、瞬くんをお風呂に入れて寝る準備を始める。
瞬くんは当然のように佐伯と一緒に入りたがったが、まだ病み上がりだしと説得して俺と一緒だ。瞬くんは長風呂派である。プリンのカップだけを手に、放っておいたら一時間は潰せてしまうポテンシャルの持ち主だ。それに体を拭いたりなんなりで、大人は服もろくに着れないまま翻弄されるのだ。
名案というように三人で一緒に入ろうとせがまれたが、それはそれで俺が正直耐えられる自信が全くないので勘弁して貰った……。佐伯は動揺していなかったが、平気なんだろうか……。あ、元男だから男の体にどうこうはないのかな……。
ただそれなら寝るときはパパもママも一緒がいいと訴えられて、俺はドキドキしながら、ど、どうする~? 困ったね~ははは……と言っていたのだが、さっくりと結局俺の部屋に二人分の布団を敷いて川の字になって寝る事に決まってしまった。
……いや、そりゃあ、佐伯とはこの前同じ部屋で寝たばかりだけどさ! それとこれとは違うだろ……! あれは見張りとか看病みたいな感じだし、距離もあったし! 間に瞬くんを挟むとはいえ……そんな……いいんですか……!?!?
……ま、まあ、あんまり意識しすぎるのもおかしいよな……。
必死に平静を装い、瞬くんの寝かしつけのため部屋を暗くして、電気スタンドを持ってきて川の字になる。瞬くんは佐伯にひっつき、俺が本を読み聞かせる形だ。しかし少し興奮していたのか、瞬くんは珍しく本を一冊読み終えても起きていた。
話の感想から瞬くんの体験談が始まった。
佐伯が寝込んでいた間の思い出話の披露である。
「それでね、ばあばがだんごむしみてね、ぎゃ! ていったの」
「あれは驚くよ~、俺もビビったし。20匹くらいいたでしょ。腰抜かしちゃうよ、おばあちゃん虫苦手だもん」
「でもママはへいきなんだよ。ごきぶりもさー、ぱしーんってたおすもん」
「え。すご」
佐伯は聞き手に周り、散々笑ってよいリアクションをしてみせて、それからエキサイトして立ち上がった瞬くんをだっこしてなだめる。
「もー瞬、夜更かししたら怖い夢見ちゃうよ?」
「えー? みないもーん」
口では気にしてないようだが、少し表情に緊張が走ったような気がしないでもない。
俺の子供だけあって瞬くんはよく寝る子だ。今も楽しくなって眠りたくないようだが、睡魔はしっかりやってきているらしい。声がまったりしてきた。
「ママぎゅーして?」
「ぎゅーっ大好きだよー」
佐伯は口に出しながら、正面から目一杯瞬くんを抱きしめてあげる。理想的な親子の姿だった。
「瞬くんパパもぎゅーしてあげよっか」
「うーん……」
「えっ」
なんで苦笑するんだ!? しかもその顔が佐伯がよくする顔にそっくりで余計ショックだ。なんとなく。
結局佐伯に促されて俺にもぎゅーさせてくれたけど。
だ、大丈夫だよな、俺ちゃんとパパとして認められてるよな……? やっぱりまだちょっと距離があるんだろうか……。切ない……。
「ママいいこいいこー」
「え、褒めてくれるのー? ありがとーっ」
「こんこんがんばってなおしたからねえ~」
抱きしめられた安心感から眠気がきたのか、もにゃもにゃとした口調になりつつ、瞬くんは佐伯の頭を小さな手で撫でた。
---
「さっきメールあったんだけど、このあとうちの親時間とれるってさ。十一時くらいになりそうだけど、起きてられる?」
「うん、大丈夫」
瞬くんが眠ったのを見届けて、外で食べて帰ってくるという父を待つためリビングでくつろぐことにした。
冷たい飲み物を淹れてきて、ソファの向かいに座る。佐伯は未だに少し緊張しているように体を小さくさせてソファに腰掛けている。何をするでもなく、拳を膝の上に置いて、ちらちらと内装を見ていた。
このあとの話し合いに緊張しているのか、ただ今までずっと客間にいたから落ち着かないのか……。
「佐伯、えっと、これからの方針の確認をしよう」
「え? あ、うん」
ぴた、と佐伯の目が俺を映して止まる。
母は自室に戻っているし、二人きりだ。ちょっとドキドキして、こちらから視線を逸してしまう。
「え、ええと……、その、このまま佐伯の体調が元に戻っても、うちにいてくれる……ってことで、いいのかな……? 人と暮らすの、大丈夫? 二世帯住宅みたいに生活を分けることはできないけど……ストレスになったりしない?」
「ん……、桐谷のおうちの人がいいなら……。私は大丈夫だよ。だって全然優しくない人たちと結婚生活二年以上やってたんだし。そのあとも、住み込みっていうか居候って感じだったし、余裕余裕」
「あっ、そ、そうか」
比較対象が悪すぎる気もするが……。
「……でも、おばさんは大丈夫なのかな。ずっと一人でおうちのことしてきたんでしょ? 瞬のことも考えたら、やっぱり一番負担がかかるのはおばさんだと思うし……」
「ああー……どうだろう。さすがに俺が勝手に推測することはできないけど……でも母は二人に来てもらうことに大賛成だったよ。佐伯が退院するときも、絶対連れて来いって言ってたし」
「……そう?」
俺からは息子視点からしか母のことを語れないので、本音はわからないけど……面倒くさい性格の祖母の家にも泊まってうまいことやってたし、それが人好きする佐伯相手ならまったく問題ないんじゃないかと思うんだけど。
「元々三人暮らしには広すぎる家だったから、ちょうどいいよ。もし同居するのが合わなかったら、俺が就職して安定するまでお世話になって、お金が貯まってからどこかアパートを借りるとかもありだろうし……」
えっ? という佐伯の呟きにはっとなる。
「あっご、ごごごめん、勝手にもう夫婦面というか家族面しちゃってたね! まだそんな話はひとつもしてないのに……!」
「う、ううん。わ、私たちのせいで、桐谷がおうちを出なきゃいけなくなるのはなって、思って……。でも、そういうことだもんね……瞬の……父親に……なってくれるって……ことでしょ?」
「なるっていうか……ずっとそのつもりなんだけど……うん……」
な、なんだろう、無性にきまずい。
先日きちんと俺の気持ちとかどうしたいとかという意思は伝えられた。しかしそれに対して佐伯はでもでもというばかりで、佐伯自身、俺と一緒に暮らすのがいいとも嫌だとも言っていないのだ。
しかし冷静に考えるとこんな状況になって、やっぱり一緒に暮らすのは嫌です……なんて言えるやつがいるだろうか。
俺たちは受け入れる気満々で、瞬くんも気に入ってくれていて、佐伯は自分ひとりで頑張りすぎてこんなことになってしまったという状況で……。
もはや一番俺が避けたいと思っていた展開じゃないか……。
俺の計画では、ここから数ヶ月や数年かけて親交を深めていって、佐伯とも普通に笑って話せるようになって、そこからふとしたときに相手への二度目の恋心の訪れを自覚して……みたいな、そんなのが理想だろうと思っていたのに!
……まあ、そんな距離感じゃ、佐伯の生活やピンチを支えるっていうことはうまくできなさそうだけどさ……。
「ううう~……ごめん……なんか佐伯に選択肢があるようで全くない状況になってしまっている……ほんとごめん……」
「えっ、いやっ、何っ? 突然どうしたの?」
俺が思わず項垂れると佐伯は慌てた様子で深く腰掛けていた体を起こした。
「そんな自信なさそうなの、桐谷らしくないよ?」
「俺そんなに自信満々に見えてた!?」
「うーん……ていうか、もっと冷静っていうか……いつも落ち着いてるでしょ」
そ、そうだろうか……。だいぶ佐伯の方で補正されているんじゃないだろうか。
頭ではうじうじ考えているのだが、それは伝わっていないのだろうか……。昔に比べると表現できるようになってきたと思っているのだが。
佐伯は再びソファに座り直し、ふう、と息をついた。
それから言葉を選ぶように喋り始める。
「私一人じゃ……瞬を大切に育ててあげられないってことは、よくわかったから……。二人で暮らし始めて、たった二ヶ月くらいでこれだもん。こういうこと言うと、打算的で、すごく嫌になっちゃうけど……」
まさに。まさにそのとおりだ。それが嫌なのだ。
打算で付き合われるのが嫌なのではない。打算で付き合ってしまっているという負い目を感じさせたくない。
「でも」と佐伯は続けるので、俺は苦い気持ちで続きに耳を傾ける。
「でもね……あのね……あのね、別に……私、桐谷のこと……嫌いじゃ、ないよ。好きかって言われるとわかんない……っていうか、えっと……、そういう風に考えるの、今難しくって……どれが自分の気持ちか、わかんないから……」
「……う、うん……」
好きかどうかはわからない。言葉にされてしまった。
覚悟はしていたとはいえ、ショックはあるものの、しかし思ったほどではなかった。ここでほんとは好きなのっなんて言われても信じられなかったろうし。嫌いじゃない。嫌われてはいないのか。苦労をかけたのに。
「でも、でも、あの、し……信用は……してる……。私たちのこと……考えてくれてるって……」
「そ、それはもう! むしろそれ以外考えていないからね!」
「ふふ……うそばっかり」
信用はしてくれている。それさえ不安だったのだから、十分に思えた。
佐伯は飲み物を飲む。
「ほんとは私……、こっちに越してきたとき、桐谷はどうしてるかなって……、探そうかなって、思ったよ」
「えっ?」
急に話が変わった。
俺は飲み物に伸ばしかけた手を止め、座り直して佐伯の目を見つめる。気まずそうな顔だった。
「私のことは、絶対わからないと思ったんだ……。雰囲気変わってる自覚あるし……。くたびれておばさん臭いでしょ?」
「えっ、ど、どこが……!?」
むしろ幼く見えるんだが……? 十代にしか見えないんだが……?
えっ? もしかしてそう思うのは俺だけ? いやそんなまさか。四年間あれこれ考えてきたのだ。むしろ脳内で勝手に美化していてもおかしくはないのに、がっかりとか、拍子抜けみたいな感覚は一切なかった。
「全然変わってないよ。むしろ佐伯の方がびっくりしたでしょ。実際全然気付いてくれなかったし」
「……うん……。予想と全然違ってた。不思議。もし街で桐谷のことを見つけれて、そこで楽しそうにしてたら、そしたらいいなって、思ってたんだ。私のしたこと、間違ってなかったんだって思える気がしたから」
「なるほど……」
一応、瞬くんの体質などを鑑みて一番都合がいいセンターはここの地域ではあった。しかし必ずしもそこでないと治療ができないわけではない。
昔の知り合いに会うリスクを考えたら、佐伯が他の地域を選ぶ可能性は十分にあったのだが……、確認したいという気持ちがあったのか。一応、離れたあとも俺たちのことを考えてくれる瞬間があったのだと思うとほっとする。俺とのことは全くの黒歴史で、忘れたいことだったんじゃないかという不安は未だにあった。
「実際会ってみたら中身は全然変わってなくてびっくりしたろ」
「ほんとだよ……、普通四年もあれば彼女の一人や二人作るでしょ?」
「……言っておくけど、佐伯とのことがなくたって、そうほいほい彼女作れるような人間ではないからね」
「またまたあ」
言ってくれる……。
こいつ、付き合う前までの俺のこと覚えていないのか……?
昔に比べて異性の友人と話すことも増えたが、それも佐伯と付き合う経験がなければ難しかっただろう。筒井さんだって、佐伯と別れて荒んでたところを影があるーなんて解釈して気にしてくれたようだし。
女性というだけで意識して冷静なコミュニケーションが取れず、運良く彼女できたら反動のようにハマって日常生活に支障をきたしかねない。うん、身近にそういう例があるんだけどな。馬場っていうアホがいるんだけど。
「…………ほんとに桐谷はいいの? 私や瞬と暮らすってことは他の女の子と遊んだり、できなくなるんだよ? 私はできることはしたいけど……でも……一番優先するのは瞬だから……」
「今更だよ。そりゃあ佐伯と瞬くんみたいにずっと一緒にいたわけじゃないけど、俺だって瞬くんが大事だし、可愛くて仕方ないんだから。信用してるっていうなら、そこも信じてよ」
「……うん……、そうだよね……」
佐伯は神妙な顔をしていたが、視線があうと頬を緩めた。
全て絶対大丈夫だ、なんて言えない。俺一人の心意気とか誓いとか、そんなものでは片付けられない不確定な部分が多すぎる。働いたことだってないんだし。
でも、みんなが少しでも良い方へ向かおうと努力するのだとしたら、きっと大抵のことは大丈夫だろうと、そう思える。佐伯も、俺の両親も、そういう人たちだとわかっているから、大丈夫じゃなかったとしても、平気だと思えた。
相手の気持ちを慮ろうと必死になったって、わからないものはわからない。疑おうと思えば際限はない。相手が正直に話してくれていると信じるほかないのだ。
信用はできても、信頼まではいかない。根本的に時間が足りていないから、それはこれから作り上げていくしかない。お互い、腹を括らないとな。
それから、ぽつりぽつりとこれからどうしていくかという具体的な方針をお互いすり合わせた。
一時間経っただろうか。そこで玄関のドアが開いた。
父が帰ってきたのだ。
佐伯と顔を見合わせた。ちょっとだけ……いや、結構、緊張していた。俺も佐伯も。
瞬くんは当然のように佐伯と一緒に入りたがったが、まだ病み上がりだしと説得して俺と一緒だ。瞬くんは長風呂派である。プリンのカップだけを手に、放っておいたら一時間は潰せてしまうポテンシャルの持ち主だ。それに体を拭いたりなんなりで、大人は服もろくに着れないまま翻弄されるのだ。
名案というように三人で一緒に入ろうとせがまれたが、それはそれで俺が正直耐えられる自信が全くないので勘弁して貰った……。佐伯は動揺していなかったが、平気なんだろうか……。あ、元男だから男の体にどうこうはないのかな……。
ただそれなら寝るときはパパもママも一緒がいいと訴えられて、俺はドキドキしながら、ど、どうする~? 困ったね~ははは……と言っていたのだが、さっくりと結局俺の部屋に二人分の布団を敷いて川の字になって寝る事に決まってしまった。
……いや、そりゃあ、佐伯とはこの前同じ部屋で寝たばかりだけどさ! それとこれとは違うだろ……! あれは見張りとか看病みたいな感じだし、距離もあったし! 間に瞬くんを挟むとはいえ……そんな……いいんですか……!?!?
……ま、まあ、あんまり意識しすぎるのもおかしいよな……。
必死に平静を装い、瞬くんの寝かしつけのため部屋を暗くして、電気スタンドを持ってきて川の字になる。瞬くんは佐伯にひっつき、俺が本を読み聞かせる形だ。しかし少し興奮していたのか、瞬くんは珍しく本を一冊読み終えても起きていた。
話の感想から瞬くんの体験談が始まった。
佐伯が寝込んでいた間の思い出話の披露である。
「それでね、ばあばがだんごむしみてね、ぎゃ! ていったの」
「あれは驚くよ~、俺もビビったし。20匹くらいいたでしょ。腰抜かしちゃうよ、おばあちゃん虫苦手だもん」
「でもママはへいきなんだよ。ごきぶりもさー、ぱしーんってたおすもん」
「え。すご」
佐伯は聞き手に周り、散々笑ってよいリアクションをしてみせて、それからエキサイトして立ち上がった瞬くんをだっこしてなだめる。
「もー瞬、夜更かししたら怖い夢見ちゃうよ?」
「えー? みないもーん」
口では気にしてないようだが、少し表情に緊張が走ったような気がしないでもない。
俺の子供だけあって瞬くんはよく寝る子だ。今も楽しくなって眠りたくないようだが、睡魔はしっかりやってきているらしい。声がまったりしてきた。
「ママぎゅーして?」
「ぎゅーっ大好きだよー」
佐伯は口に出しながら、正面から目一杯瞬くんを抱きしめてあげる。理想的な親子の姿だった。
「瞬くんパパもぎゅーしてあげよっか」
「うーん……」
「えっ」
なんで苦笑するんだ!? しかもその顔が佐伯がよくする顔にそっくりで余計ショックだ。なんとなく。
結局佐伯に促されて俺にもぎゅーさせてくれたけど。
だ、大丈夫だよな、俺ちゃんとパパとして認められてるよな……? やっぱりまだちょっと距離があるんだろうか……。切ない……。
「ママいいこいいこー」
「え、褒めてくれるのー? ありがとーっ」
「こんこんがんばってなおしたからねえ~」
抱きしめられた安心感から眠気がきたのか、もにゃもにゃとした口調になりつつ、瞬くんは佐伯の頭を小さな手で撫でた。
---
「さっきメールあったんだけど、このあとうちの親時間とれるってさ。十一時くらいになりそうだけど、起きてられる?」
「うん、大丈夫」
瞬くんが眠ったのを見届けて、外で食べて帰ってくるという父を待つためリビングでくつろぐことにした。
冷たい飲み物を淹れてきて、ソファの向かいに座る。佐伯は未だに少し緊張しているように体を小さくさせてソファに腰掛けている。何をするでもなく、拳を膝の上に置いて、ちらちらと内装を見ていた。
このあとの話し合いに緊張しているのか、ただ今までずっと客間にいたから落ち着かないのか……。
「佐伯、えっと、これからの方針の確認をしよう」
「え? あ、うん」
ぴた、と佐伯の目が俺を映して止まる。
母は自室に戻っているし、二人きりだ。ちょっとドキドキして、こちらから視線を逸してしまう。
「え、ええと……、その、このまま佐伯の体調が元に戻っても、うちにいてくれる……ってことで、いいのかな……? 人と暮らすの、大丈夫? 二世帯住宅みたいに生活を分けることはできないけど……ストレスになったりしない?」
「ん……、桐谷のおうちの人がいいなら……。私は大丈夫だよ。だって全然優しくない人たちと結婚生活二年以上やってたんだし。そのあとも、住み込みっていうか居候って感じだったし、余裕余裕」
「あっ、そ、そうか」
比較対象が悪すぎる気もするが……。
「……でも、おばさんは大丈夫なのかな。ずっと一人でおうちのことしてきたんでしょ? 瞬のことも考えたら、やっぱり一番負担がかかるのはおばさんだと思うし……」
「ああー……どうだろう。さすがに俺が勝手に推測することはできないけど……でも母は二人に来てもらうことに大賛成だったよ。佐伯が退院するときも、絶対連れて来いって言ってたし」
「……そう?」
俺からは息子視点からしか母のことを語れないので、本音はわからないけど……面倒くさい性格の祖母の家にも泊まってうまいことやってたし、それが人好きする佐伯相手ならまったく問題ないんじゃないかと思うんだけど。
「元々三人暮らしには広すぎる家だったから、ちょうどいいよ。もし同居するのが合わなかったら、俺が就職して安定するまでお世話になって、お金が貯まってからどこかアパートを借りるとかもありだろうし……」
えっ? という佐伯の呟きにはっとなる。
「あっご、ごごごめん、勝手にもう夫婦面というか家族面しちゃってたね! まだそんな話はひとつもしてないのに……!」
「う、ううん。わ、私たちのせいで、桐谷がおうちを出なきゃいけなくなるのはなって、思って……。でも、そういうことだもんね……瞬の……父親に……なってくれるって……ことでしょ?」
「なるっていうか……ずっとそのつもりなんだけど……うん……」
な、なんだろう、無性にきまずい。
先日きちんと俺の気持ちとかどうしたいとかという意思は伝えられた。しかしそれに対して佐伯はでもでもというばかりで、佐伯自身、俺と一緒に暮らすのがいいとも嫌だとも言っていないのだ。
しかし冷静に考えるとこんな状況になって、やっぱり一緒に暮らすのは嫌です……なんて言えるやつがいるだろうか。
俺たちは受け入れる気満々で、瞬くんも気に入ってくれていて、佐伯は自分ひとりで頑張りすぎてこんなことになってしまったという状況で……。
もはや一番俺が避けたいと思っていた展開じゃないか……。
俺の計画では、ここから数ヶ月や数年かけて親交を深めていって、佐伯とも普通に笑って話せるようになって、そこからふとしたときに相手への二度目の恋心の訪れを自覚して……みたいな、そんなのが理想だろうと思っていたのに!
……まあ、そんな距離感じゃ、佐伯の生活やピンチを支えるっていうことはうまくできなさそうだけどさ……。
「ううう~……ごめん……なんか佐伯に選択肢があるようで全くない状況になってしまっている……ほんとごめん……」
「えっ、いやっ、何っ? 突然どうしたの?」
俺が思わず項垂れると佐伯は慌てた様子で深く腰掛けていた体を起こした。
「そんな自信なさそうなの、桐谷らしくないよ?」
「俺そんなに自信満々に見えてた!?」
「うーん……ていうか、もっと冷静っていうか……いつも落ち着いてるでしょ」
そ、そうだろうか……。だいぶ佐伯の方で補正されているんじゃないだろうか。
頭ではうじうじ考えているのだが、それは伝わっていないのだろうか……。昔に比べると表現できるようになってきたと思っているのだが。
佐伯は再びソファに座り直し、ふう、と息をついた。
それから言葉を選ぶように喋り始める。
「私一人じゃ……瞬を大切に育ててあげられないってことは、よくわかったから……。二人で暮らし始めて、たった二ヶ月くらいでこれだもん。こういうこと言うと、打算的で、すごく嫌になっちゃうけど……」
まさに。まさにそのとおりだ。それが嫌なのだ。
打算で付き合われるのが嫌なのではない。打算で付き合ってしまっているという負い目を感じさせたくない。
「でも」と佐伯は続けるので、俺は苦い気持ちで続きに耳を傾ける。
「でもね……あのね……あのね、別に……私、桐谷のこと……嫌いじゃ、ないよ。好きかって言われるとわかんない……っていうか、えっと……、そういう風に考えるの、今難しくって……どれが自分の気持ちか、わかんないから……」
「……う、うん……」
好きかどうかはわからない。言葉にされてしまった。
覚悟はしていたとはいえ、ショックはあるものの、しかし思ったほどではなかった。ここでほんとは好きなのっなんて言われても信じられなかったろうし。嫌いじゃない。嫌われてはいないのか。苦労をかけたのに。
「でも、でも、あの、し……信用は……してる……。私たちのこと……考えてくれてるって……」
「そ、それはもう! むしろそれ以外考えていないからね!」
「ふふ……うそばっかり」
信用はしてくれている。それさえ不安だったのだから、十分に思えた。
佐伯は飲み物を飲む。
「ほんとは私……、こっちに越してきたとき、桐谷はどうしてるかなって……、探そうかなって、思ったよ」
「えっ?」
急に話が変わった。
俺は飲み物に伸ばしかけた手を止め、座り直して佐伯の目を見つめる。気まずそうな顔だった。
「私のことは、絶対わからないと思ったんだ……。雰囲気変わってる自覚あるし……。くたびれておばさん臭いでしょ?」
「えっ、ど、どこが……!?」
むしろ幼く見えるんだが……? 十代にしか見えないんだが……?
えっ? もしかしてそう思うのは俺だけ? いやそんなまさか。四年間あれこれ考えてきたのだ。むしろ脳内で勝手に美化していてもおかしくはないのに、がっかりとか、拍子抜けみたいな感覚は一切なかった。
「全然変わってないよ。むしろ佐伯の方がびっくりしたでしょ。実際全然気付いてくれなかったし」
「……うん……。予想と全然違ってた。不思議。もし街で桐谷のことを見つけれて、そこで楽しそうにしてたら、そしたらいいなって、思ってたんだ。私のしたこと、間違ってなかったんだって思える気がしたから」
「なるほど……」
一応、瞬くんの体質などを鑑みて一番都合がいいセンターはここの地域ではあった。しかし必ずしもそこでないと治療ができないわけではない。
昔の知り合いに会うリスクを考えたら、佐伯が他の地域を選ぶ可能性は十分にあったのだが……、確認したいという気持ちがあったのか。一応、離れたあとも俺たちのことを考えてくれる瞬間があったのだと思うとほっとする。俺とのことは全くの黒歴史で、忘れたいことだったんじゃないかという不安は未だにあった。
「実際会ってみたら中身は全然変わってなくてびっくりしたろ」
「ほんとだよ……、普通四年もあれば彼女の一人や二人作るでしょ?」
「……言っておくけど、佐伯とのことがなくたって、そうほいほい彼女作れるような人間ではないからね」
「またまたあ」
言ってくれる……。
こいつ、付き合う前までの俺のこと覚えていないのか……?
昔に比べて異性の友人と話すことも増えたが、それも佐伯と付き合う経験がなければ難しかっただろう。筒井さんだって、佐伯と別れて荒んでたところを影があるーなんて解釈して気にしてくれたようだし。
女性というだけで意識して冷静なコミュニケーションが取れず、運良く彼女できたら反動のようにハマって日常生活に支障をきたしかねない。うん、身近にそういう例があるんだけどな。馬場っていうアホがいるんだけど。
「…………ほんとに桐谷はいいの? 私や瞬と暮らすってことは他の女の子と遊んだり、できなくなるんだよ? 私はできることはしたいけど……でも……一番優先するのは瞬だから……」
「今更だよ。そりゃあ佐伯と瞬くんみたいにずっと一緒にいたわけじゃないけど、俺だって瞬くんが大事だし、可愛くて仕方ないんだから。信用してるっていうなら、そこも信じてよ」
「……うん……、そうだよね……」
佐伯は神妙な顔をしていたが、視線があうと頬を緩めた。
全て絶対大丈夫だ、なんて言えない。俺一人の心意気とか誓いとか、そんなものでは片付けられない不確定な部分が多すぎる。働いたことだってないんだし。
でも、みんなが少しでも良い方へ向かおうと努力するのだとしたら、きっと大抵のことは大丈夫だろうと、そう思える。佐伯も、俺の両親も、そういう人たちだとわかっているから、大丈夫じゃなかったとしても、平気だと思えた。
相手の気持ちを慮ろうと必死になったって、わからないものはわからない。疑おうと思えば際限はない。相手が正直に話してくれていると信じるほかないのだ。
信用はできても、信頼まではいかない。根本的に時間が足りていないから、それはこれから作り上げていくしかない。お互い、腹を括らないとな。
それから、ぽつりぽつりとこれからどうしていくかという具体的な方針をお互いすり合わせた。
一時間経っただろうか。そこで玄関のドアが開いた。
父が帰ってきたのだ。
佐伯と顔を見合わせた。ちょっとだけ……いや、結構、緊張していた。俺も佐伯も。