15章
一週間も経てば佐伯はもうすっかり元気になっていた。
痛々しい咳はなくなり、会話もしやすくなった。
動けるようになると佐伯はすぐうちの母に家事を手伝わせて欲しいと申し出ていた。
病み上がりの人を働かせはできないと説得したのだが、動けるのにじっと世話を焼かれているのは落ち着かないらしい。ううーん、俺にはわからない感覚だ。結局洗濯物を畳むのを手伝ったりしていた。それを見ると瞬くんもやりたがり、俺一人だけ瞬くんの遊び道具を持って瞬くんが一仕事終えるのを待つ羽目になる。一人だけアホのようである。
「ママ! おうちあんないしてあげる! きてきて!」
瞬くんはようやく普段通りにしていいらしいという空気を感じ取ると、興奮した様子で佐伯の手をとり連れ回した。
心配なので俺もうしろをついて回ったのだが、あんまり相手にしてくれなくてすこし……かなり寂しい。そうか、佐伯がいれば俺の扱いなんてこんなもんか……。いいけどさ……そりゃ嬉しいもんな……。
午前中己のふがいなさを学び、お昼を食べたあと俺は気持ちを切り替えた。
「ちょっと午後は学校に行ってくるよ」
「え、あ。うん」
瞬くんに手を引かれていた佐伯はきょとんとした顔をしていた。
……やっぱりこの二人が仲良くしてるのに俺一人だけ外出なんて……寂しすぎないか……?
い、いやいや、この数日、瞬くんにつきっきりで就活もバイト探しもろくにできていなかったのだ。履歴書を書いたりネットで申し込みをしたりなどはできていたけど、それすら驚くほど時間がかかってしまった。お盆も過ぎたことだし、早く行動するに限る。
「そんなにかからないと思うから、瞬くんと待っててね」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
ようやく部屋の外に出てきたばかりでほったらかしなんて……さぞ心細いだろうと思っていたのだが、瞬くんと触れ合える喜びからだろうか、思ったより平気そうだ……。ま、いいけど……。俺は断腸の思いで二人を家に残し、ひたすら溜まった用事をすませて回る。銀行、証明写真の撮影、郵便局。
もうすこし佐伯が元気になったら外にも連れていけるんだけどな。さすがに連れ回してぶり返してもよくないし、バスで移動するより車の方が瞬くんも気が楽だろうし、チャイルドシートを買ってからの方がいいだろう。
大学で研修と進路についての報告と相談をする。本当はセンター側から就職をやんわり断られた形なのだが、大学では俺が辞退する必要があった。センターから断れる条件には微妙に満たないかららしい。現在進行系で子供ができましたとか利用者と恋愛関係になりましただったら規則で即刻アウトだったらしいけど、それとは状況が違う。俺のような状況に対する文言はないらしい。つまり俺がここで辞めますと言わなければそのまま就職できてしまうわけだ。そんな気まずいことしないけど。
申請だの書類の受け取りだのを終えてさあて帰るわよ! と意気揚々と帰路につこうとする。
「先輩久しぶりじゃんっ!!!」
筒井さんに見つかった……。
今どきの女子が全力疾走して近づいてくる様は結構怖い……。
「ひ、久しぶり……元気だねえ……」
「研修終わったらまた図書館来ると思ったのに全然見ないんだもん! 死んだかと思ってさー」
真夏だぞ。そんな中でよく走れるな……。
おでこに張り付いた前髪を掻き分けてこちらを見上げる。そう言われてみれば、これだけの間大学に出向かなかったのは今までなかったかもしれない。長期休暇中も図書館は頻繁に利用していたし。
「ちょっと家の事情で」
「ああ。田舎帰ってたとか? お墓参りする系?」
する系ってなに……。まあ、今年はしてないんだけど……。
「そんな感じ。筒井さんは休みなし? 目の下くまできてるよ」
「げっ。頑張って隠したつもりなんだけどな~。ほらあ、センターで治療はじまったじゃん? それ関係で出ずっぱで」
「ああ……」
なるほど。研修が終わった八月は本格的な発散治療が始まる子供が一番多い。
それにしてもあのハードな治療を目にしていてこの明るさだとすると、結構な精神力だな……。人体実験とか解剖とか興味あるっていってたのは伊達ではないのか。ここだけ聞くとマッドサイエンティストっぽいけど。
いつもの流れ……というほど習慣化してはいないが、なんとなくカフェに寄ろうみたいな雰囲気になりつつあるのを察して、いやいやちょっと待てと立ち止まる。
「ごめん、今日はこのまま帰らなきゃいけなくてさ。また今度話そう」
「えーっまじ? 忙しいの? バイトとか?」
あ、あまり追及しないでほしいんだが……!
よく考えると普通は研修を終えて就活も必要ないしみんな暇をしている頃なのか。夏休みを満喫しているはずだ。最近SNSのチェックすらしていないから周囲の動向は全くわからないけど……。いかんな。このままではすっかり置いてけぼりになる。それ自体はいいにしても、久しぶりに顔を合わせたときなんとなく気まずい。
まだ佐伯とのこととか何も決定していないから、誰かに話すわけにもいかないし……。ま、夏休みでよかったけど。
「うん、まあ、色々と片付けないといけなくてね。じゃあ研究頑張ってね」
あからさまに煙に巻くと言うか……誤魔化すというか……そんな対応になってしまったが、筒井さんは大人しく……というかやっぱり少し疲れているのかもしれないが、すぐに引き下がってくれた。
元々愛想なんてない俺ですら自分の素っ気なさを感じる対応をしてしまった……。
いつか全て話す……いや……タイミングが合えば……いい感じにことが運んだら……きっと……多分……恐らく……。
夕飯前になんとか帰宅すると、ただいまーと言うと瞬くんがおかえりなさーいと駆けてきて……はくれなかった。
切ない思いをしながらリビングに行くと瞬くんはテレビの前に座り込んでいた。子供向けアニメに夢中だったらしい。そういえばこの時間はいつもテレビを見ていたな。
すると奥のキッチンから佐伯がとことこと現れた。
「おかえりなさい」
「た、ただいま!」
あ、すごい! 今新婚さんっぽい!
感動する……!
「瞬、パパ帰ってきたよ?」
「あ、おかえり~」
「た、ただいま……」
「なあに流ちゃん、にやにやして……」
……母親の顔を見たら一気に現実に引き戻された。
「て、手伝いしてくれてたの?」
「うん、あんまり上手じゃないから、ほんのちょっとだけだけど……」
佐伯は控えめな表情で肩を竦める。
やっぱりまだ本調子というほど元気ではないけど、見た感じではもう大丈夫そうだ。
「千紗ちゃんのお陰で早めに支度が終わっちゃったわ。まだご飯には早いし、しばらく三人でゆっくりしてなさいな」
「あ、うんありがとう」
さん呼びからちゃん呼びにグレードアップしてる! さすが佐伯……。
瞬くんの後ろのソファに二人で座る。隣り合って座るだけでちょっとドキドキしてしまう。だって、こんなのいつぶりだろう。
「この人形劇、瞬くんお気に入りだよね」
「うん。子供向けだと思って見てたらたまにすごく良い話あるんだ」
へえ……と相槌を打つ。今の所大人が見るには物足りない、わかりやすすぎる台詞とストーリーだ。すぐに先の展開が予測できる。いつまでこういった話を夢中で見てたんだろう。もう思い出せない。
「……さえ……ま、間宮さん、は体の調子はどう?」
あぶねえ。すっかり佐伯と言うのが馴染んでしまっている。
「うん。もう全然平気。瞬も楽しそうにしてて、ほんと至れり尽くせりって感じ。どうやってお礼したらいいのかわかんないよ……」
「お礼なんて考えないでいいよ。俺もうちの両親も家族として接してるつもりだからさ」
そう言うと佐伯は目を伏せた。
「……あのさ、私のせいでせっかくご挨拶の約束してもらったのに、だめになっちゃったでしょ? もう私は大丈夫だから、その、改めて……」
「ああ! そうだね。ちゃんと話をしないと居心地悪いよね」
確かに、予定していた日はとうに過ぎてしまった。今日の夜帰ってきたら時間を割いてもらえないか聞いてみよう。遅くなるようならまた明日でもいいし、今は同じ家にいるんだし、すぐに話せるはずだ。
「……大丈夫? 間宮さん、そんなに他人行儀にならないでよ。あとで……瞬くんが寝たらゆっくり話そう?」
「……他人行儀はどっち~?」
「あ……ああー……そ、そうだねえ……苗字呼びは変だよね……」
瞬くんにパパだよ~と言いつつこれではさすがに……おかしいか。
しかしまさか佐伯から指摘されるとは。
「な、名前で呼んで……いいの……?」
「……まあ、呼びやすい呼び方でいいけどさ」
あっ! 一歩引かれてしまった!
な、名前呼びって……千紗って呼ぶのか……? 女の人を呼び捨てしたことも名前呼びしたこともない。
千紗ちゃん? ううん……俺と佐伯の距離感だとそれもおかしい気がする……やっぱり呼び捨てか……。でもそれって偉そうじゃないかな……。
「あれ。よく考えたらさえ……間宮さんだって、俺のこと苗字で呼んでるじゃん。人のことは言えないよ」
「あ、バレた?」
へへへ、と佐伯は誤魔化すように笑う。
ああ~……元気そうだ……。体だけでなく精神的にも。瞬くんがいるから、というだけではないだろう。
あれから、少しずつ咳が落ち着いていったのもあり、食事の時などに話をするようになったのだ。段々と声が明るくなったと思うし、少しずつ笑ってくれるようにもなった。高校時代のように……とまではいかなくとも、変に思い悩んだり気まずそうに申し訳無さそうにすることがなくなったようで、安心する。
番組が終わった瞬くんが俺たちの間に座った。
「ふふふー、パパ~、ママなおってよかったね~」
「そうだねえ、よかったねえ。瞬くんも頑張って我慢したもんね」
「そお!」
佐伯が愛おしそうに瞬くんの丸い頭を撫でた。猫だったらぐるぐると喉を鳴らしそうな顔で瞬くんは甘えている。
優しい母親の声で佐伯が話しかける。
「瞬、パパや、おばあちゃんやおじいちゃんのこと、好き?」
「えー? ふふふ、すき。ママもすき」
「そっかあ、前住んでたとこにママと二人で戻るより、今のおうちの方がいいよね。おっきいし、本もいっぱいあるし、ご飯もおいしいしねえ……」
「んー……」
佐伯の言葉に、瞬くんは少し悩む顔をして、ちょっと笑って、それからすぐに不安そうな顔になった。俺はその感情の動きがよくわからない。
佐伯のお腹に顔を押しつけるようにして伏せてしまった。
それにしても、佐伯からそんな話題を瞬くんに振ってくれるなんて。正式な家族会議はまだできていないが、リップサービスとかでなく両親からこのまま家にいてくれてもいいという許可は貰っているし、そのことも話していた。しかし数日前の佐伯の様子からは考えられないことだ。
まあ、俺から瞬くんにうちの方がいいよねーなんて言えないから、気を遣ってくれたんだろうけど。
……でも瞬くんの反応は芳しくないな。気に入ってくれていると思ったのだが……やっぱり無理させてしまってたんだろうか。
「どうしたのー? 瞬、大丈夫だよ~」
それは二人にしか通じ合えない何かがあるようで、俺は置いてけぼりをくらっていた。
「ママもいっしょ?」
くぐもった瞬くんの言葉を聞いて、思わず佐伯と顔を見合わせる。
佐伯の顔は少し真剣なものになっていた。
数日前、瞬くんをうちに託して佐伯は……瞬くんの前から姿を消そうと思っていたのだから。瞬くんにはお見通しだったということなのだろうか。
「一緒だよ? ママが瞬と離れ離れになるわけないじゃーん」
明るく、なんてことないように。当然のことのように佐伯は瞬くんを励ます。わさわさと瞬くんの頭を大雑把に撫でて、くすぐったいのか瞬くんが笑いながら顔を上げた。
「ママもいっしょならいーよ!」
佐伯は嬉しそうに瞬くんを抱きしめて顔を寄せた。その間に加わりたかったけど、眩しすぎて俺には無理だった。そんな良き父良き旦那みたいな振る舞いはまだできない。
しかし、こんな子と自ら離れようとしてたなんて。そこまで思いつめてしまうなんて、と言いようのない気持ちになる。だって、まだ一ヶ月と少しくらいの付き合いしかない俺だって瞬くんと離れたくないんだぞ……。帰ってほしくなくて必死なんだぞ……。
本当にまるきり解決、といっていいのかはまだわからない。そういう簡単な問題ではないのかもしれない。でも、佐伯からこちらの話をまったく受け付けてくれない頑固な部分が消えているように感じて、ほっとした。ちょっとだけ泣きそうになるくらいに。
痛々しい咳はなくなり、会話もしやすくなった。
動けるようになると佐伯はすぐうちの母に家事を手伝わせて欲しいと申し出ていた。
病み上がりの人を働かせはできないと説得したのだが、動けるのにじっと世話を焼かれているのは落ち着かないらしい。ううーん、俺にはわからない感覚だ。結局洗濯物を畳むのを手伝ったりしていた。それを見ると瞬くんもやりたがり、俺一人だけ瞬くんの遊び道具を持って瞬くんが一仕事終えるのを待つ羽目になる。一人だけアホのようである。
「ママ! おうちあんないしてあげる! きてきて!」
瞬くんはようやく普段通りにしていいらしいという空気を感じ取ると、興奮した様子で佐伯の手をとり連れ回した。
心配なので俺もうしろをついて回ったのだが、あんまり相手にしてくれなくてすこし……かなり寂しい。そうか、佐伯がいれば俺の扱いなんてこんなもんか……。いいけどさ……そりゃ嬉しいもんな……。
午前中己のふがいなさを学び、お昼を食べたあと俺は気持ちを切り替えた。
「ちょっと午後は学校に行ってくるよ」
「え、あ。うん」
瞬くんに手を引かれていた佐伯はきょとんとした顔をしていた。
……やっぱりこの二人が仲良くしてるのに俺一人だけ外出なんて……寂しすぎないか……?
い、いやいや、この数日、瞬くんにつきっきりで就活もバイト探しもろくにできていなかったのだ。履歴書を書いたりネットで申し込みをしたりなどはできていたけど、それすら驚くほど時間がかかってしまった。お盆も過ぎたことだし、早く行動するに限る。
「そんなにかからないと思うから、瞬くんと待っててね」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
ようやく部屋の外に出てきたばかりでほったらかしなんて……さぞ心細いだろうと思っていたのだが、瞬くんと触れ合える喜びからだろうか、思ったより平気そうだ……。ま、いいけど……。俺は断腸の思いで二人を家に残し、ひたすら溜まった用事をすませて回る。銀行、証明写真の撮影、郵便局。
もうすこし佐伯が元気になったら外にも連れていけるんだけどな。さすがに連れ回してぶり返してもよくないし、バスで移動するより車の方が瞬くんも気が楽だろうし、チャイルドシートを買ってからの方がいいだろう。
大学で研修と進路についての報告と相談をする。本当はセンター側から就職をやんわり断られた形なのだが、大学では俺が辞退する必要があった。センターから断れる条件には微妙に満たないかららしい。現在進行系で子供ができましたとか利用者と恋愛関係になりましただったら規則で即刻アウトだったらしいけど、それとは状況が違う。俺のような状況に対する文言はないらしい。つまり俺がここで辞めますと言わなければそのまま就職できてしまうわけだ。そんな気まずいことしないけど。
申請だの書類の受け取りだのを終えてさあて帰るわよ! と意気揚々と帰路につこうとする。
「先輩久しぶりじゃんっ!!!」
筒井さんに見つかった……。
今どきの女子が全力疾走して近づいてくる様は結構怖い……。
「ひ、久しぶり……元気だねえ……」
「研修終わったらまた図書館来ると思ったのに全然見ないんだもん! 死んだかと思ってさー」
真夏だぞ。そんな中でよく走れるな……。
おでこに張り付いた前髪を掻き分けてこちらを見上げる。そう言われてみれば、これだけの間大学に出向かなかったのは今までなかったかもしれない。長期休暇中も図書館は頻繁に利用していたし。
「ちょっと家の事情で」
「ああ。田舎帰ってたとか? お墓参りする系?」
する系ってなに……。まあ、今年はしてないんだけど……。
「そんな感じ。筒井さんは休みなし? 目の下くまできてるよ」
「げっ。頑張って隠したつもりなんだけどな~。ほらあ、センターで治療はじまったじゃん? それ関係で出ずっぱで」
「ああ……」
なるほど。研修が終わった八月は本格的な発散治療が始まる子供が一番多い。
それにしてもあのハードな治療を目にしていてこの明るさだとすると、結構な精神力だな……。人体実験とか解剖とか興味あるっていってたのは伊達ではないのか。ここだけ聞くとマッドサイエンティストっぽいけど。
いつもの流れ……というほど習慣化してはいないが、なんとなくカフェに寄ろうみたいな雰囲気になりつつあるのを察して、いやいやちょっと待てと立ち止まる。
「ごめん、今日はこのまま帰らなきゃいけなくてさ。また今度話そう」
「えーっまじ? 忙しいの? バイトとか?」
あ、あまり追及しないでほしいんだが……!
よく考えると普通は研修を終えて就活も必要ないしみんな暇をしている頃なのか。夏休みを満喫しているはずだ。最近SNSのチェックすらしていないから周囲の動向は全くわからないけど……。いかんな。このままではすっかり置いてけぼりになる。それ自体はいいにしても、久しぶりに顔を合わせたときなんとなく気まずい。
まだ佐伯とのこととか何も決定していないから、誰かに話すわけにもいかないし……。ま、夏休みでよかったけど。
「うん、まあ、色々と片付けないといけなくてね。じゃあ研究頑張ってね」
あからさまに煙に巻くと言うか……誤魔化すというか……そんな対応になってしまったが、筒井さんは大人しく……というかやっぱり少し疲れているのかもしれないが、すぐに引き下がってくれた。
元々愛想なんてない俺ですら自分の素っ気なさを感じる対応をしてしまった……。
いつか全て話す……いや……タイミングが合えば……いい感じにことが運んだら……きっと……多分……恐らく……。
夕飯前になんとか帰宅すると、ただいまーと言うと瞬くんがおかえりなさーいと駆けてきて……はくれなかった。
切ない思いをしながらリビングに行くと瞬くんはテレビの前に座り込んでいた。子供向けアニメに夢中だったらしい。そういえばこの時間はいつもテレビを見ていたな。
すると奥のキッチンから佐伯がとことこと現れた。
「おかえりなさい」
「た、ただいま!」
あ、すごい! 今新婚さんっぽい!
感動する……!
「瞬、パパ帰ってきたよ?」
「あ、おかえり~」
「た、ただいま……」
「なあに流ちゃん、にやにやして……」
……母親の顔を見たら一気に現実に引き戻された。
「て、手伝いしてくれてたの?」
「うん、あんまり上手じゃないから、ほんのちょっとだけだけど……」
佐伯は控えめな表情で肩を竦める。
やっぱりまだ本調子というほど元気ではないけど、見た感じではもう大丈夫そうだ。
「千紗ちゃんのお陰で早めに支度が終わっちゃったわ。まだご飯には早いし、しばらく三人でゆっくりしてなさいな」
「あ、うんありがとう」
さん呼びからちゃん呼びにグレードアップしてる! さすが佐伯……。
瞬くんの後ろのソファに二人で座る。隣り合って座るだけでちょっとドキドキしてしまう。だって、こんなのいつぶりだろう。
「この人形劇、瞬くんお気に入りだよね」
「うん。子供向けだと思って見てたらたまにすごく良い話あるんだ」
へえ……と相槌を打つ。今の所大人が見るには物足りない、わかりやすすぎる台詞とストーリーだ。すぐに先の展開が予測できる。いつまでこういった話を夢中で見てたんだろう。もう思い出せない。
「……さえ……ま、間宮さん、は体の調子はどう?」
あぶねえ。すっかり佐伯と言うのが馴染んでしまっている。
「うん。もう全然平気。瞬も楽しそうにしてて、ほんと至れり尽くせりって感じ。どうやってお礼したらいいのかわかんないよ……」
「お礼なんて考えないでいいよ。俺もうちの両親も家族として接してるつもりだからさ」
そう言うと佐伯は目を伏せた。
「……あのさ、私のせいでせっかくご挨拶の約束してもらったのに、だめになっちゃったでしょ? もう私は大丈夫だから、その、改めて……」
「ああ! そうだね。ちゃんと話をしないと居心地悪いよね」
確かに、予定していた日はとうに過ぎてしまった。今日の夜帰ってきたら時間を割いてもらえないか聞いてみよう。遅くなるようならまた明日でもいいし、今は同じ家にいるんだし、すぐに話せるはずだ。
「……大丈夫? 間宮さん、そんなに他人行儀にならないでよ。あとで……瞬くんが寝たらゆっくり話そう?」
「……他人行儀はどっち~?」
「あ……ああー……そ、そうだねえ……苗字呼びは変だよね……」
瞬くんにパパだよ~と言いつつこれではさすがに……おかしいか。
しかしまさか佐伯から指摘されるとは。
「な、名前で呼んで……いいの……?」
「……まあ、呼びやすい呼び方でいいけどさ」
あっ! 一歩引かれてしまった!
な、名前呼びって……千紗って呼ぶのか……? 女の人を呼び捨てしたことも名前呼びしたこともない。
千紗ちゃん? ううん……俺と佐伯の距離感だとそれもおかしい気がする……やっぱり呼び捨てか……。でもそれって偉そうじゃないかな……。
「あれ。よく考えたらさえ……間宮さんだって、俺のこと苗字で呼んでるじゃん。人のことは言えないよ」
「あ、バレた?」
へへへ、と佐伯は誤魔化すように笑う。
ああ~……元気そうだ……。体だけでなく精神的にも。瞬くんがいるから、というだけではないだろう。
あれから、少しずつ咳が落ち着いていったのもあり、食事の時などに話をするようになったのだ。段々と声が明るくなったと思うし、少しずつ笑ってくれるようにもなった。高校時代のように……とまではいかなくとも、変に思い悩んだり気まずそうに申し訳無さそうにすることがなくなったようで、安心する。
番組が終わった瞬くんが俺たちの間に座った。
「ふふふー、パパ~、ママなおってよかったね~」
「そうだねえ、よかったねえ。瞬くんも頑張って我慢したもんね」
「そお!」
佐伯が愛おしそうに瞬くんの丸い頭を撫でた。猫だったらぐるぐると喉を鳴らしそうな顔で瞬くんは甘えている。
優しい母親の声で佐伯が話しかける。
「瞬、パパや、おばあちゃんやおじいちゃんのこと、好き?」
「えー? ふふふ、すき。ママもすき」
「そっかあ、前住んでたとこにママと二人で戻るより、今のおうちの方がいいよね。おっきいし、本もいっぱいあるし、ご飯もおいしいしねえ……」
「んー……」
佐伯の言葉に、瞬くんは少し悩む顔をして、ちょっと笑って、それからすぐに不安そうな顔になった。俺はその感情の動きがよくわからない。
佐伯のお腹に顔を押しつけるようにして伏せてしまった。
それにしても、佐伯からそんな話題を瞬くんに振ってくれるなんて。正式な家族会議はまだできていないが、リップサービスとかでなく両親からこのまま家にいてくれてもいいという許可は貰っているし、そのことも話していた。しかし数日前の佐伯の様子からは考えられないことだ。
まあ、俺から瞬くんにうちの方がいいよねーなんて言えないから、気を遣ってくれたんだろうけど。
……でも瞬くんの反応は芳しくないな。気に入ってくれていると思ったのだが……やっぱり無理させてしまってたんだろうか。
「どうしたのー? 瞬、大丈夫だよ~」
それは二人にしか通じ合えない何かがあるようで、俺は置いてけぼりをくらっていた。
「ママもいっしょ?」
くぐもった瞬くんの言葉を聞いて、思わず佐伯と顔を見合わせる。
佐伯の顔は少し真剣なものになっていた。
数日前、瞬くんをうちに託して佐伯は……瞬くんの前から姿を消そうと思っていたのだから。瞬くんにはお見通しだったということなのだろうか。
「一緒だよ? ママが瞬と離れ離れになるわけないじゃーん」
明るく、なんてことないように。当然のことのように佐伯は瞬くんを励ます。わさわさと瞬くんの頭を大雑把に撫でて、くすぐったいのか瞬くんが笑いながら顔を上げた。
「ママもいっしょならいーよ!」
佐伯は嬉しそうに瞬くんを抱きしめて顔を寄せた。その間に加わりたかったけど、眩しすぎて俺には無理だった。そんな良き父良き旦那みたいな振る舞いはまだできない。
しかし、こんな子と自ら離れようとしてたなんて。そこまで思いつめてしまうなんて、と言いようのない気持ちになる。だって、まだ一ヶ月と少しくらいの付き合いしかない俺だって瞬くんと離れたくないんだぞ……。帰ってほしくなくて必死なんだぞ……。
本当にまるきり解決、といっていいのかはまだわからない。そういう簡単な問題ではないのかもしれない。でも、佐伯からこちらの話をまったく受け付けてくれない頑固な部分が消えているように感じて、ほっとした。ちょっとだけ泣きそうになるくらいに。