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15章

「ママいつげんきになるの〜?」
「いつかなあ。一週間くらいはかかると思うけど……、早く会いたいよねえ」
「あいたい」

 俺の部屋のベッドの中。瞬くんは見るからにしょんぼりとした顔で呟く。そんな顔をされるとどうにか笑顔にさせたくなってしまう。
 俺だけ会ってごめんね、と心の中で謝る。
 咳が収まるのは二、三週間かかるらしい。さすがにそこまで引き離すのはちょっとな……。今でも相当我慢してくれているのに、瞬くんのストレスが心配だ。だから佐伯が動けるくらいになれば、マスクをしていれば一緒にいても問題ないかな、と考えている。瞬くんも病み上がりで免疫力の低下が心配だったけれど、今のところ移ってはいないようだし……。ワクチンだって打っているようだし。
 でも、どっちにしたってあの精神状態の佐伯には会わせていいとは思えない。……いや、むしろ瞬くんがいた方が佐伯の気持ちも安定するのだろうか……。

「今日は何を読んでほしいのかな?」
「おしいれのぼうけん」
「おっいいチョイスだねえ」
「そうだよっ」

 あとは睡眠欲さえ我慢できればいくらでも読めるだろうけど、瞬くんいつも最後まで残れない。
 やはり今日も半分程度で反応がなくなり、念のためと最後まで読んでみて、おしまいと本を閉じるが次をせがむ声はなかった。
 寝顔を確認してそっとベッドを抜け出す。ここまではいつも通りだ。さすがに寝るのが好きな俺も、八時や九時に寝てしまうなんてことはもうないのだ。十二時頃にこっそり戻ってきて一緒に寝るという段取りであった。
 ただし今日は母に任せる。……さすがにパパが朝起きたらばあばに変わってたら驚くと思うし、母親にベッドを使われるのもなんだか嫌なので、今日は俺と同じく布団を床に敷いて寝てもらうのである。
 まあ、最初は夜に起きて泣いてしまった瞬くんだけど、最近は朝まで爆睡。起こすまで起きない。あくまでも母はお目付役なのだ。絶対に夜泣きしないとも限らないわけだし。

 そうして、昼間にできなかった書類の書き込みやメールのチェックなどを済ませると、予備の布団を引っ張り出して客間に向かう。ちょっと埃っぽいけど、仕方ない。虫がわいていないことを祈ろう。
 客間の電気はついていた。でもわざわざ消してないだけだろうな。
 ドアをあけると、やっぱり佐伯はいた。それだけでほっとする。床に布団を敷きながら話しかける。

「瞬くん、今日も読み聞かせの途中でぐっすり寝ちゃったよ」

 反応はない。
 枕と掛け布団もセットして、佐伯のベッドのそばで座り、ふちに腕を乗せる。寝てはいなかった。

「さっきも言ったけど、今日は俺ここで寝るからね」
「……移る……よ」
「そしたら今度は佐伯が看病してよ。……まあ、感染経路は飛沫感染らしいから、咳をそのまま浴びない限りは多分平気だよ。多分ね」

 これでがっつり感染したら笑えないな。

「咳、だいぶ落ち着いたね。痰が絡んだ感じが減った。咳自体はまだ続くだろうけど、もう少し収まったらマスクして出ておいでよ。手洗いもちゃんとすれば大丈夫だよ」

 昨日の佐伯だったらきっと喜んだろうけど、反応はよくない。

「あわせる顔ないよ……」
「なんでさ」
「だって……こんな……母親……なんて……」
「またそんなこと言って。一度失敗しただけで母親の資格がなくなったりなんかしないよ」
「その一度……で、死んじゃってたかも、しれないんだよ……?」

 咳のしすぎか、喉がかすれていたが、近頃の佐伯で一番大きな声だ。
 たしかに、一度のミスで取り返しのつかないことになるかもしれない。今回はかなり危なかったのは確かだ。

「でももう同じミスはしないだろ? 再発防止のためにはどうする?」
「……そんなの……」

 佐伯は言葉を失ってしまった。

「佐伯に母親の資格がないというのなら、じゃあ瞬くんの母親はいなくなってしまうということ? 瞬くんには必要なのに? 佐伯はどうするつもりなの?」
「……」
「今回の反省は、佐伯が頑張りすぎてしまったことだよ。そして俺が連絡を怠った。これに尽きる。お互いもっと連絡を取り合っていれば異変に気づけたし、そうしてすぐに対応すべきだった。あと……瞬くんに電話の使い方を教えておけばよかったのかもね。でもこんなこと、一度失敗しないとなかなか思いつかないよ」
「全部……私のせい……」
「違う。認識を誤ると適切な改善もできないよ。佐伯は自分が悪いと思いこもうとしてる。それは根本的な解決にはならない」

 あまり、佐伯の心をくじきたくはない。はっきりした物言いは、攻撃と思われかねないからやりたくなかった。昔の俺がよくやっていたことだ。佐伯はストレスを感じるだろうと思う。でも、そうでないとうまく伝えられないのだ。

「佐伯の気持ちもわかるよ。俺もすごく後悔してる。でも、結果大丈夫だったんだから、喜ぼうよ。瞬くんだって、頑張ったのを責められたら可哀想でしょ?」

 瞬くんには、あまり厳しい言い方にならないように注意はした。それに、きっと瞬くんは言われなくたって外には出ないだろう。本当に緊急事態だと判断しての行動なのだ。慎重で怖がりな性格だから、一度上手く行ったからって一人で大胆な行動をすることはまずないはずだ。現に今だって、初めての部屋に入るときは必ず俺に伺いを立てているくらいだし。
 佐伯はずっと表情が消えていたのに、瞬くんのことを言うと少し顔をつらそうにゆがめた。
 また同じことをしないために、俺ができることはもっと連絡をとること……だが、それよりもいいのは……一緒にすぐそばで支えられることだと思う。ただそれは俺にとっては都合がいいけど、佐伯は……どうだろう。相変わらず佐伯の気持ちはわからない。
 佐伯が元気になったら、また二人であのアパートに帰るのだろうか。心配で勉強に手がつかなくなりそうだ。

「佐伯が動けるようになったら、うちの両親とも改めて今後の話をすべきだと思う。元々その予定だったし。俺は、このまま二人にうちにいて欲しいな……」

 どきどきとした。でも、愛の告白をするときのようなどきどきとはまた違うと思う。
 佐伯は目を伏せ、顔をそらして咳をした。

「どうして……そんなに……」

 小さな声だった。俺の問いかけの答えにはなっていない。

「なんでだろうね……、理由なんてないのかも。考えたことなかったなあ……」

 本当に、改めて聞かれると自分でもよくわからない。執着……とは違う気がする。佐伯が別のどこかで誰かに大事にされていれば、幸せでいられるなら、それでいいとも思うから。でもそうでないなら、ずっと自分がそばにいたい。
 付き合ったり結婚して、どうしてほしいというわけでもない。そりゃあ、それっぽいことできたら嬉しいけど……できなくてもいいな、と思う。

「……なんだろうな……すっごい重いこと言ってるかもしれないけど……、大事な家族が外で苦労してるみたいな、そんな感覚かもしれない。そんなの、何もせずに見てろって方が無理だろ? ……て、実際はただの他人なんだけどさ……」

 そうだ。子供を作ったとはいえ、交際期間は短くて、お互い知らないことだってたくさんあるのに、家族面なんておかしいと、頭では思う。でも、他にどう言っていいのかわからなかった。他の人間だったら、もっと適切な言葉が浮かんだのだろうか。

「よく……わからない……だって、私……何もしてない……昔から……迷惑かけるばっかり……」
「迷惑と思ったこと一度もないよ。何かして欲しくてそばにいたいわけでもない。瞬くんへの気持ちを思い出してみてよ。瞬くんのこと迷惑だと思ったり、何かしてくれないから嫌になったりなんてしないだろ?」
「だって……瞬は特別だから……」
「……だから、佐伯も特別だってこと。瞬くんにとっても佐伯は特別だろ?」

 小さな子供の疑問に一つずつ答えていくようだと思った。
 佐伯の中にはまだ小さな子供がいて、その部分はどうやればうまく生きていけるのか、まだ知らないのだ。きっと佐伯もそのことに気付いていない。
 佐伯の瞳は潤んでいるようだった。きらきらとしていて弱々しくて、やっぱり、大事にしなくてはいけないものなのだと思う。
 俺の話は、ちゃんと伝わっているのだろうか。悪い受け取り方はしていないだろうか。不安に思いながらも、佐伯が口を閉じ、じっと布団の上に出した自分の手を見ているので、きっと何か考えているのだろう。
 そろそろ寝ようと声をかけて電気を消し、布団に入る。
 いつもは布団に入ればすぐに眠れてしまうのだが、さすがに今日は同じようにはいかない。緊張しているというか……、考えずにはいられないのだ。どうすれば、佐伯が幸せに過ごせるか。
 笑ってほしいと思う。昔はニコニコと、いつも笑っていた。それが本当の笑顔なのかどうかはその頃の俺にはわからなかったけど……。うん、そうだ。笑いたい時に笑って、怒りたい時に怒ってほしい。そうした上で笑っていてほしいのだ。無理してほしくない。
 こうして改めて考えると、佐伯は自分への考え方が酷く歪んでいる。昔からだけど。でも、その歪んだ考え方が瞬くんにはひとつも向いていない。誰よりも近い存在に、優しく公平に接してあげられるのだ。だったら、自分へも、同じようにできるんじゃないだろうか。違いは一体なんなのか。なにより、自分が辛い思いをしていたら瞬くんだって辛い気持ちになると、佐伯はちゃんとわかっているはずなのに。

「私……」

 びくっと、体が跳ねた。
 小さいが、この静かな部屋の中ではよく響いた。佐伯が喋ったのだと気付いて、体を起こした方がいいのか、でも動いたら、たったそれだけで、せっかく話そうとしてくれた佐伯の気持ちを折ってしまうような気がして、動けなかった。

「私……生きてるのが……もう……嫌になったの……」

 ひゅっと息を呑む。聞きたくはない言葉だった。
 でも正直、なんとなく勘づいていたのも事実だった。

「桐谷と……会ってから、ずっと……思ってた……。瞬は賢い子……だから、大きくなったら……きっと……私が、瞬を生むために……体を売るようなこと……して……他の人と、結婚したって……気づく、でしょ……。瞬の……せいだって、きっと……思っちゃう……」

 それは、俺も考えたことがある。
 大きくなったら、こんな小さい頃のことなんて忘れているかもしれない。でも、覚えている可能性だって十分ある。大きくなれば、俺たちが学生時代に子供を作ったのだと言うことも当然わかる。そして実の父親が俺だってことも当然知ってるのだから、そうなると……瞬くんはどう解釈するだろうか。

「瞬には……私しかいなかったから……頑張ろうって、思えた……。でも……桐谷や、おばさんたちと一緒にいるのを見て……私と二人でいるより……瞬にとって……ずっとこの方が……いい」
「……それは、佐伯がいるからだよ! 佐伯が元気になるのを待つために、瞬くんは頑張ってるんじゃないか!」

 思わず、布団を跳ね除け体を起こしていた。暗い部屋の中、佐伯の顔の輪郭をうっすらとした青い月明かりが照らしている。

「佐伯がここでいなくなったら、瞬くんはずっと心に傷を抱えることになるんだよ? わかるよね? 瞬くんがどれだけママのこと好きか、わかるでしょ……?」
「どんなゴミみたいな母親だって、子供は慕うものなんだよ……! 大きくなってから、気付くの、でもそれじゃ遅いんだよ……」

 ゴミみたい、だなんて、佐伯らしくない言い回しだと思った。それで少しだけ冷静になる。
 聞こえないくらい小さく息をついて、完全に布団から出てベッドに向き直る。

「佐伯、起きてちゃんと話そう」

 佐伯は少し気まずそうな、ばつの悪そうな顔をしたのが暗闇の中でもわかった。しかし逃げ場がないことは明白で、すごすごと体を起こした。よかった、動けるじゃないかと安堵し、俺はサイドテーブルのライトをつけてからベッドのふちに腰を下ろす。

「……きっと、佐伯は、どこかの酷い母親を例に挙げているよね。でもその人と佐伯は別人だろ?」

 佐伯は唇を噛むようにして、少し俯く。

「瞬くんが、将来俺たちのことをどう思うのかはわからないよ。でもそれは佐伯がいても、いなくても変わらない。なかったことにはできないんだよ。そして、もし瞬くんが大きくなっても小さい頃のことを覚えていて、疑問に思ったなら、ちゃんと説明するのが親の務めで、責任なんだと思う。それを放棄して佐伯が瞬くんの前から姿を消すということは、瞬くんの親でいたくなかったと、そう思わせてしまう行動ではない?」
「……」
「その方が、きっと瞬くんは自分を責めるよ」

 佐伯の苦々しい顔は、まだ納得できないだろうかと思わせつつも、それでも先ほどまでのような人形みたいな反応のない顔よりずっといいと思った。

「もしも佐伯が死んでしまったら……、それで幽霊にでもなったら、瞬くんが困ってたり、辛い思いをしても何もしてやれないんだよ? そんなの、嫌だよね?」
「…………やだ……」

 佐伯はやはり小さな子供のように、絞り出すように声を出す。
 これは佐伯が俺に黙って勝手に嫁に行ったことを、後悔したと謝罪してきたときとまるきり同じだ。そして俺が佐伯の異変に気付かず、一人で悩ませてしまった。お互いの失敗だ。
 さすがに、四年経ってまた同じ轍を踏むわけにはいかない。

「でも……私……だって、桐谷たちの……お世話になるだなんて……そんな虫がいいこと……できない……。いろんな人に、迷惑……かけてきたのに……」
「かけてない。もし周りに迷惑かけまくってても、それで何かの権利が失われるわけではないよ。混同しちゃだめだ」

 ……やっぱり、引け目みたいなものがあるらしい。俺からすると、一体佐伯がどんな悪さをしたっていうんだって訴えたくなるくらい、散々苦労をしているように見えるのに、本人はそちらには目が向いていないらしい。……それは、心の痛覚みたいな部分が麻痺してるだけかもしれないけど。わざわざ知らしめることではないか。

「それに、そんな虫のいい話でもないよ。だって普通相手の親と同居なんて、最悪でしょ? しかもこんな不便な家、みんな嫌がるよ。佐伯がいうほど素晴らしい環境ってわけでもないんだ、申し訳ないけど」

 そういうと、佐伯は困った顔をした。少しだけ笑いそうな顔だ。
 うん、そりゃあでかい家だけど、虫も多いし母は一日中家にいるし、父は親やすい人でもないし、結構人を選ぶ家なんだからな。

「……まあ、どれだけ長生きしたって、いつかみんなどうせ死ぬんだよ、それならすぐじゃなくてもいいだろ? あのとき死んでおけば〜……なんてこと、ないよ」

 俺の喋り方が少し演技っぽかったせいか、茶化した言い方になってしまったせいか、佐伯は今度こそほんのりと笑った。殆ど泣きそうな顔だったけど。
 それが嬉しくて俺も笑う。よかった。俺の言葉が、伝わってる。
 正直、俺は死にたいと思う気持ちはわからない。どんなに苦しくても生きたいと思う。
 でも、俺がそう思うのと同じように死にたいと思うのであれば、そんな相手に生きろと強要するのはエゴではないのだろうかとも思った。うん……やっぱり……エゴなんだろうな。

「……昔、私の部屋で……話してくれたときみたい、だね……」
「え?」

 ずっと黙っていた佐伯の呟きに、一瞬頭の処理が遅れる。

「あ、ああ。あの……つ、付き合い始めたときの……? そう、だね、あのときもベッドに座って話したもんね」

 たしかに、そう言われてみると状況は似ていたな。
 佐伯もちゃんと昔のことを覚えてくれていたのだ。

「私はいつも……間違えたこと、ばかり……」
「俺だってそうだよ。多分……俺の方が佐伯に口を出すことが多いから、そう見えるだけだろ。佐伯は怒ったり、文句を言ったりしないじゃん」
「そう……かな……」

 そうだ。多分俺は自分でも知らないうちに佐伯を傷つけることもあったと思う。
 俺は正しいことをしているつもりだ。でも佐伯だって間違ったことをしてるつもりなんてないだろう。相手の行動に文句をつけるかどうかの差だ。これが大きい。

「佐伯の唯一の欠点は、自分に優しくしないことだよ。それさえなくなればもう完璧」
「……うそばっかり」
「嘘じゃないよ。……ちょっとは、俺の言いたいこと、上手に伝わったかな……」

 佐伯の表情からは、思い詰めたような雰囲気は薄らいでいる。安心しても、いいのだろうか。
 結局俺ばかり喋ってしまったけど……。

「…………心配、かけるようなことは……しないよ」
「急に姿を消したり、死んじゃったりしないでよね」
「……あ」

 俺の言葉に、佐伯は突然思い出したかのような顔をして、「そうか……」と呟き、申し訳なさそうな顔をする。
 言葉が重たいので、言い方は比較的軽く聞こえるように言ったつもりだったのだが、ちょっと空気が読めてなかっただろうか。不安に思っていると、佐伯は腕に力を込めて、壁にもたれるようにしていた状態からさらに体を起こす。そうしてゆっくりと手を伸ばして……、俺の頭を優しく撫でた。

「……怖い思い……させて……ごめんね」

 それは、まるで瞬くんを宥めるような優しい声だった。
 さっきまで自分の方が子供みたいな顔してたくせに。小さな子供扱いするなんて。
 そう返してやりたかったのに、代わりに出てきたのは情けない震え声だ。

「そうだよ……また佐伯がいなくなるのが、怖いんだ……。だから……どこにも行かないでよ……」

 ああ、そういえば、こんな当たり前のことも言ってなかったのか……。
 それが伝わっていた。それだけで十分だと思えた。

「……抱きしめてもいい……?」
「移るから、だめ」

 そう言うと佐伯は布団をかぶって、横になってしまった。こういう話し合いのあとは仲直りのハグをするもんなのに。
 佐伯が撫でてくれた頭に、そっと触れる。
 なんだか暖かいような、そんな錯覚を覚えた。
 佐伯と再会して、一ヶ月は経った。たった一ヶ月……だけどたくさん話をしたと思う。
 でも今日ようやく、ちゃんと言葉が通じたような気がした。俺の言葉が届いて、俺を見てくれたような、そんな気がした。
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