このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

15章

 瞬くんは当然佐伯と離れるのを嫌がった。客間に移る前、リビングで母が入れてくれたお茶を飲んで改めて軽く挨拶と、瞬くんの様子だったり、ひとまず咳が落ち着くまでゆっくりしてていいだとか、そういう話をして、その間瞬くんは佐伯の上半身にしがみついて顔を埋めていた。

「瞬……、また風邪移っちゃうから……」
「やあだあ」

 ぐりぐりと胸元に顔を擦り付ける瞬くんを、佐伯はぎゅうっと抱きしめた。咳が少しでて、タオルで口を覆う。
 ウイルス性の肺炎ではないにしろ、子供の免疫力は頼りないし瞬くんだって病み上がりなのだ。それに佐伯だって瞬くんがそばにいるとゆっくりできないだろうし、可哀想だけどしばらくは距離を置くべきだ。
 合間合間に咳をしながら、佐伯は優しい声で瞬くんを宥める。

「ママも瞬と離れて寂しかったよ。寂しいけど、もうちょっと頑張ろう? ママも頑張って早く治すから、応援しててほしいな」
「んう……」
「わかった?」
「……わかった」
「ありがとう、ごめんね……」

 そうして瞬くんの頭を撫でながら、俺と母に、よろしくお願いします、とゆるゆると頭を下げた。
 そんなことする必要ないのに。
 客間に連れて行くと、大人しくベッドに収まってくれる。

「……いいの? こんな、大きな部屋……」
「もちろんだよ。好きに使っていいからね。冷房も好きな温度にして、暇だったらテレビもあるから、リモコンこれね。ほしい物とか食べたいものがあったらなんでも言ってよ」
「……ありがと……」

 こちらを見上げる佐伯の顔は、熱のせいかぼんやりしている。
 その顔を見たせいか、瞬くんがそばにいないせいか、一気に緊張がとけたような気がした。緊張していたことすら自覚していなかった。
 はあ、とため息をついて、考える前に手が佐伯の頭に伸びていた。きゅっと閉じた瞼に、ああやっぱり、怯えているんだろうかと考えて、でも手を引っ込めるほど頭は働かず、そのまま指の先で佐伯の髪を撫でた。うっすらと触れたおでこは、少し熱い気がする。

「よかった、取り返しのつかないことに、ならなくて……」

 ゆっくり佐伯の目が開き、こちらの顔を伺うようにじっと見上げていた。
 不思議そうな顔をしているように見えた。

「ほんとに……よかった……、佐伯が、死んじゃったんじゃないかって……怖かった……」

 瞬くんの面倒を見るのに必死で、その時の緊張感なんて忘れていた。でも本当に恐ろしかったのだ。じわじわ涙が出てきてしまって、服の袖で拭う。
 佐伯はきっとどう声をかけていいのかわからないんだろう。そりゃそうだ。熱でしんどいだろうに、人を慰める言葉なんて出てこないだろう、病人の前で何をやってるんだか。気恥ずかしくなってきて、なんでもないことのように笑って誤魔化す。

「はは、ごめんちょっと感極まって。ほんと、あんまり気を遣わないでいいからね、元気になることだけ考えてたらいいから。また、様子見にくるからね」
「うん……」

 よかった。よかった、本当に。

ーーー

 佐伯は自分からは喉が乾いただとかお腹がすいただとかは何も言わないが、こちらが差し出すと大人しく従ってくれる。食欲はないようだが、食べれないわけではないようだ。これなら大丈夫だろう。

 瞬くんの方は佐伯と約束した手前、口ではわがままなど言わなかったが、やはりママのことが気になるらしい。少しは気が逸れればと書庫に案内した。窓一つないせいで昼間も電気をつけなくてはいけない暗い部屋にびくびくとしていたが、絵本の山を見ると案の定目の色を変え、こちらが説明せずとも、本能がそうさせるんだと言わんばかりにすーっと移動して黙々と物色し、抱えられるだけ抱えてリビングに向かうと床に広げて読み始めた。
 恐ろしいな……本好きの血……。これには母も感動していた。
 いくら大人しくしているからといっても目を離すわけにもいかないし、俺もリビングに書類や勉強道具を持ってきた。たまに瞬くんとお話したり、言葉を教えてあげたりしつつ作業を進める。佐伯への心配もあり、あまり捗りはしないが、悪くない時間だと思う。少なくとも昨日と比べると驚くほど穏やかな時間だった。
 瞬くんも母と少しだけ打ち解けてきたらしく、受け答えはきちんとできるようになったが、やはり俺と二人でいるときとはテンションが違う。優越感。
 今までは心の中では息子だと実感しつつも、本人との距離感はできるだけ近づきすぎないように努めてきたつもりだ。俺からすると可愛い我が子だが、瞬くんからすれば突然現れた男にすぎないから、怖がるだろうと思っていたのだ。
 それが瞬くんも俺をパパだと思ってくれてたということがわかってから、もう可愛くてしょうがないというのを隠す必要がなくなったわけだ。

「パパ~、これつづきよんで~」
「え~? 大丈夫? 寝ちゃわない?」
「ねない!」
「昨日どこまで読んだの覚えてる?」
「くまさんがーあなにおちるところ」

 当然のように俺の膝に座って本のページをめくっていくのだ。もうメロメロにもなるだろ、そりゃ。ただ親というだけで無条件に信頼して体を預けてくれるのだ。応えないわけにはいかない。
 うちの父親だって、朝目を覚ました瞬くんとはじめて顔をあわせて、瞬くんの舌っ足らずな自己紹介を聞いて、少し頬を緩ませていたし!
 母なんか今だってずっとカメラを構えているし!
 佐伯とそういう関係になるまで、俺は一生子供どころか結婚できるかすら危ういとずっと思っていた。それがこんな幸せを味わえていいのだろうか……。これで佐伯が元気でいてくれたら、俺はもうそれ以上に望むことはない。……まあ、佐伯からしたら知ったこっちゃないだろうけど。
 そして案の定瞬くんは俺の読み聞かせで瞬く間に眠ってしまった。自分の声帯が怖いぜ……。


 翌日、佐伯は未だ咳は続いているし痰も出てつらそうだが、解熱剤が効くとだいぶ楽になったらしい。ご飯も大した量ではないとはいえ完食してくれるようになった。

「あ、そうだ。そろそろシャワー浴びたいでしょ」

 綺麗に空いた器を受け取りそう聞くと、はっと思い出したように佐伯は体を起こした。

「私今臭いよね……!? 人のおうちのベッド借りておいて汗だくで……ごめんなさい」
「えっいやそういう意味じゃなくて。臭くないよ全然。あっ、いやっ臭いを嗅いだわけじゃないから、わからないけど! でも全然こっち風下だけど無臭だし!」
「そ、そう……?」

 一体俺は何のフォローをしてるんだ。
 昨日は母親が塗れたタオルを渡して体を拭いたらしいし、服だって着替えているけど、さすがに夏に三日もお風呂に入れていないのは本人も気持ちが悪いだろう。ただ入浴は体力を使うし、昨日まではフラフラだったから倒れて頭でもぶつけたらと心配だったけど、でも今日の様子だと大丈夫そうだ。

「調子良さそうだし、お湯わかすよ。夕方になったらまた熱上がっちゃうかもしれないし、今のうちに入った方がいいんじゃないかな」
「……ごめん、ありがと……」

 思わず、そういえば、昔ラブホで一緒にお風呂入ったこと会ったよね~と言いそうになった。さ、さすがに今の関係でそういう話題を出すのはデリカシーがないよな……。一応元恋人であって今は違うんだもんな……。
 この数年間、俺は何百回も佐伯との思い出を反芻しては悦に浸っているのだが、相手は消したい過去かもしれないのだ。
 ……結局、佐伯は俺のことどう思ってるんだろうなあ……。全然好きでもない相手に借りを作るのって、やっぱ嫌だろうな……。
 今の佐伯はすべての行動原理が瞬くんを中心にしているから、佐伯自身の考えや気持ちは相変わらず見えてこない。
 もう少し元気になったらそういったことも聞けるかな……。

「ママげんきなった!?」

 佐伯の部屋をでるとすぐさま廊下で待機していた瞬くんが尋ねてくる。

「まだ咳こんこんしてるから、もうちょっとだね。でも少し元気になったみたいだから、お風呂入れるように準備しようと思って」
「しゅんもはいる!」
「瞬くんはこんな時間に入ったら湯冷めしちゃうよ。ママ、まだ疲れてるから、ゆっくりさせてあげよう?」
「しゅんいいこにできるよ?」
「そうだね、瞬くんはいいこだけど、でもママは瞬くん大好きだから、瞬くんがいると嬉しくって頑張っちゃうでしょ? 今は元気になるために頑張って欲しいから、我慢しなきゃ。瞬くんは夜にパパと入ろうね~」

 そう説得すると、瞬くんはぷっとほっぺを膨らませるがそれ以上わがままは言わない。
 お風呂の準備をして、綺麗なタオルも確認しておく。
 リビングで瞬くんの相手をしながらお湯張りを待っていると、父が帰ってきた。たまに日中食事に戻ることはあるから珍しいことではない。しかし瞬くんはびっくりして隠れてしまった。まだ父には打ち解けるほどの接触がないのだ。

「体を動かす遊びにもつきあってあげたらどうだい」

 と、差し出されたのはビニール製のバッドと柔らかいボールだった。

「え、い、いいの?」
「瞬くんにね」

 わかっとるわ。
 くるっと振り返り、ソファの向こうで息を潜めていた瞬くんに声をかける。

「瞬くん、おじいちゃんがプレゼントだって、出てきてお礼しよう」

 そういうと、そろーっと顔をだして、父が持っているおもちゃを目にするととことこと出てくる。俺に半分隠れるようにして、腰は完全に引けている。

「あ、ありがとうごじゃいます……」

 言いながら早く寄越せというように手を差し出すのは、なんだか生意気で可愛い。
 父も、多分瞬くん視点だと怖いおじさんの顔のままなんだろうけど、長年見てきた俺からするとかなり優しそうな顔だ。
 そしてバットとボールはかなり瞬くんにウケた。
 全然ボールに当たらないがそれでも楽しそうにしている。
 待てよ、これってかなりいい感じじゃないか……? すごく家族じゃないか……?
 あとは佐伯がいれば……そして佐伯も喜んでくれれば……。

 ほんわかしたところでお湯張りが終わった通知が鳴ったので、父に佐伯がお風呂を使うと断ってから佐伯を呼びにいった。

「準備できたけど、入れそう?」
「……うん、大丈夫」

 佐伯はすでに着替えを取り出していたようだ。

「手貸そうか?」
「平気」

 のそのそと立ち上がるのを見守る。
 寝間着なのか、半袖に短パン姿なのだが、腕も足もびっくりするほど細いのだ。腕はともかく、足はいつも長ズボンを履いていたからわからなかった。昔スカートを履いていたときはもっと健康的な細さだったはずだ。

「佐伯、体重いくつ……?」
「え。……35」
「ええ!? さっ……えええ? そりゃあ倒れるよ!」

 身長は……多分150ちょいくらい……かな。適正体重はわからないが、さすがに軽すぎないだろうか。モデル体型というレベルじゃない。子供の重さじゃないか。

「通りで軽いと思った……。救急車呼ぶとき抱えたんだけどさ、軽すぎてびっくりしたよ。余裕で瞬くんも一緒に持ち上げられるよ」
「ええ……?」

 そこで戸惑うなよ。俺の筋力の方を疑っているのか……?

「ママ! ママ!!! 見てっ見てっくれたの!」

 客間のドアが開いたのを敏感に察知した瞬くんは得意げにバットを振り回しながら廊下をかけてきた。あ、危ない……。近いうちに何か壊しそうだ。
 佐伯に飛びつこうとしたので手前で抑える。

「わあ、よかったねえ……かっこいい。お礼言えた?」
「いえたよ! おじいちゃんがくれたの! ママもげんきになったらあそばしてあげるからね!」
「ほんと? ありがとー。ごめんね、早く元気になるからね」

 佐伯は必死に咳をする口を手で覆いながら、瞬くんに微笑んでみせる。
 瞬くんも、走ってくる勢いからちょっと焦ってしまったが、佐伯を前にしても抱きついたり、遊びたいとわがままを言ったりはしない。

「あ……」

 佐伯が廊下の向こうを見て立ち止まる。
 そこには父が立っていた。
 少し佐伯の着替えを持つ腕に力が入ったのがわかった。

「体の調子はどうですか?」
「あ、あ、の、は、はじめまして……、お、お陰様で……」

 しかし最後まで喋れずげほげほと咳でかき消されてしまった。抱えていた着替えで口元を押さえる。

「も、申し訳、ありません……、ご挨拶も……まだなのに……こんな、息子ともども、お、お世話になってしまって……」
「だ、大丈夫? そんなに緊張しなくていいよ、別に怖い人じゃないんだから」

 震える声に咳き込んだ後のぜえぜえという息づかいが痛々しかった。気遣おうと肩に触れるとビクンと怯えるように跳ねる。

「しんどそうだね、肺炎は苦しいでしょう。気にせずゆっくり休んで。瞬くんも頑張って甘えるのを我慢していますから、お母さんも頑張って安静にしていてくださいね」
「は、はい……ありがとうございます……」

 お互いに小さく会釈をして、父は先に部屋に引っ込んでいった。ちょっと医者モード入ってたな。それを見送ると、佐伯は安堵するように深い息を吐く。

「ね、緊張しなくて大丈夫だったでしょ。うちの父も母も佐伯と瞬くんに会えて喜んでるから、気に病まないでよ」
「……うん……優しいね」
「ねえーママ、あのねーパパのねー本いっぱいあるんだよー。しってた? 「しょこ」あるんだよー」
「……そっかあ、すごいね。じゃあ瞬退屈しないねえ」
「瞬くん、ママお風呂行くから、むこうでおばあちゃんと待ってようね」

 瞬くんは一度佐伯の腰に引っ付いた後、はあーい、と返事をしてとててと足音を鳴らしながらリビングへ走っていった。

「……瞬……すっかり馴染んでるね……楽しそう」
「子供の順応性ってすごいよね。あ、シャワーの使い方わかる? シャンプーとかラベルないから教えとくね」

 やっぱり少しぽーっとしている佐伯にあれこれ教えて、浴室から出る……がやっぱり少し心配だ。ぶっ倒れたりしないだろうな……。

「だ、大丈夫? 動けなくなったら床とか叩くんだよ?」
「うん……あの……うん……」

 頷きながら佐伯は脱衣所でしゃがんでしまう。

「大丈夫じゃないね!? うちの母親廊下にでも待機させとこうか」

 しまった、やっぱりまだ立ったりするのはしんどかったのか。お風呂に入ったら血圧にも影響が出るし、負担が大きいよな。まだ早かったか。

「……平気、その……知らないおうちで…………ちょっと……緊張しただけだから……体調は平気だと思う」
「……ああ、そっか。えーと、苦しかったらシャワーだけにするんだよ。俺リビングにいるからさ、上がったらお風呂場はそのままでいいから、声かけてね」
「うん……」

 力なく頷く佐伯を残して脱衣所を出て、ゆっくり扉を閉めた。
 でもやっぱり心配なんだよな……。
 本当は体の調子がよくないのか、それとも精神的にしんどいのが表にでているのか判断つかない。
 しばらく気になって動けずにいたが、そばに人の気配があったら気になって服も脱げないかと気付いて離れる。

「あ、あの」
「えっ!? なに!?」

 振り返ると、佐伯は少しだけ扉を開けてこちらを覗いていた。

「……入ってる間、脱衣所で……待っててくれない……?」
「えっ」

 えっ……!?!?
5/11ページ
スキ