2章
翌日、ここしばらくの不安定な天気が嘘のようにすっかり晴れていた。
風も少なくて過ごしやすい気候だ。
俺は学校に向かうため河合さんと二人、バスに揺られていた。
「桐谷がいないと、行きも帰りも少し寂しいわ」
「少しかあ」
茶化すように言ったが、実際は照れ臭い。
お互い話好きってわけではないから、和泉や佐伯がいるときより沈黙が多いんだけど、気まずさを感じていないのならありがたかった。
「みんな一緒にバス通学だったらよかったのにね」
「そう?」
「話したいことがある時、たくさん話せるでしょ?」
話したいこと。何かあるんだろうか。
車内であまり込み入った話はできないと思うけど。
何かあるのか、と待ってはみたが、河合さんの話はそこで終わったらしい。
俺じゃなくて、和泉や佐伯と話したいことがあるんだろうか。俺じゃダメなんだろうか。
ここで何か悩みがあるなら聞くよ、とか、言えるやつがモテるんだろうな。
俺はそういう勇気は持てない。悩みはあるけどあなたには別に聞いてもらわなくていいです、と言われたら恥ずかしさと情けなさで立ち直れない。
想像して勝手に落ち込みそうになった。
「そういえば昨日佐伯がお見舞いに行ったでしょ」
心臓が掴まれたような気がした。
「き、来たよ。マメだよねあいつ。無理してこなくていいのにさ……」
河合さんは察しがいい。俺の気まずい気持ちを勘付かれたくなかった。
あのあと、帰る頃にはいつもの明るい佐伯になっていた。佐伯はそういうやつだった。
これから学校で会うのがちょっと気まずくはあるけど、多分会ってしまえばいつも通りに話せるはずだ。
とてもあんなことがあったなんて河合さんには言えないが、でもちょっと懺悔を聞いてもらいたいような気持ちもある。
「さ、さすがに部屋で二人きりになるとさ、女子だなーって実感させられたよ」
「そりゃあ女の子ですもの」
さらりと河合さんは言ってのける。
佐伯はまだ抗ってるのに。
でもきっと他の佐伯の女友達だって同じように思っているのだ。
俺だって、口には出せないだけで昨日散々実感してしまったし……。
まるでどんどん佐伯が女として生きていく準備を整えられていっているようにも感じて、チリチリと焦りのような感覚が付き纏っている。
いや、だめだ。本人だって男に戻りたいと言っていた。
女の格好するのだって理由があったし、苦肉の策なんだ。
そう思っていると、隣で河合さんがふふと声にならないような小ささで笑った。
「桐谷、最近佐伯の話ばっかりね」
「え! ……それ、佐伯にも似たようなこと言われたよ。実感ないんだけどな……。それに今のは河合さんが振ったんじゃん」
「そうだけど、前は振るような話題がなかったじゃない」
「それは俺じゃなくて佐伯の問題だよ」
納得がいかないな……。
みんなが異様に順応しすぎなんだ。
だって前代未聞の大事件だぞ。そりゃあ気になるじゃないか。
「だって、佐伯はわたしよりうんと友達も多いし、しっかりしてるから、きっとなんとかなるんだろうなって思ってたの」
もちろん、佐伯が困ってたら絶対力になるつもりでいるけどね、と付け足す。
珍しく河合さんが柔らかい顔をしていたので、一瞬だけ目を向けた。
その一瞬だけで目があってしまって、慌てて顔を背ける。
「でも桐谷は佐伯のこと、ずっと心配そうに見守ってるみたいで、なんだか新鮮よ」
そりゃあ確かに、ずっと気になってはいるけど、そんなにあからさまだっただろうか……。
「俺だけじゃなくて、和泉だって心配してると思うんだけどな」
「和泉は、そうねえ……。和泉は佐伯が上手くやっていけてるかなんてことは心配してないわよ。ただ問題は犯人探しの方ね」
犯人探し?
確かにそこが進まないと、今のところどうしようもないことではある。
でもこればかりは向こうの接触を待つ以外手の出しようもないのだ。
容姿も何も情報はないわけだし。
「わたしは直接佐伯に聞いたわけじゃないけど、電車で痴漢の人に女の人と間違われた、っていうのが手がかりなんでしょ?」
手がかりというには心許なさすぎる推測だ。
しかし悲しいことにその全く確証が持てない情報が現在の最有力候補なのだ。
佐伯は顔が広いけどバイトなんかはしていないし、よそに決まった溜まり場があるわけでもない。人に個人的な感情を抱かれる暇はないように思う。
友人以外の人間と接触するとすれば、通学時が一番可能性が高いと思う。そういった推測はみんなには一応伝えていた。もちろん全く的外れの可能性だって十分ある。
「和泉ね、時間がある時は佐伯と一緒に電車乗って帰ったり、学校来たりしてるのよ」
「えっ」
「佐伯が一人で電車に乗ってる時、接触してきそうな人がいないか監視してるみたい」
「それ佐伯は知ってるの?」
「当たり前じゃない。言ってなくたって、和泉は目立つから丸わかりよ」
それは確かに。
でもそんなの知らなかった。
和泉がそんなしっかり行動に移してたなんて。
「だから最近和泉はちょっと、ピリピリしてるのよね。本当にちょっと。わたしには優しいんだけど、もし犯人を見つけたらどうする気なのか、少し心配なの」
「どうするったって……」
……まあ、警察に突き出したって何も解決しないだろうな。該当する罪がぱっと思いつかない。
痴漢だって現行犯とかDNAとか決定的な証拠がないとダメそうだし。
そもそも怪しいからって犯人かどうかはわからないし……、犯人だったとしても自白させないといけないわけで。
そしてその上で元に戻してもらわなきゃいけないわけで。
……かなりハードル高くないか?
「……もし怪しい人物を見つけたら、俺を呼ぶように和泉に頼んどくよ」
「いいの?」
「そりゃあ、いいよ」
当然だ。気になるし。
痴漢犯人説を唱えたのは俺だし。
もし和泉が脅して吐かせようとして何か法に触れることをしたら困るし。
和泉は普段、俺よりよっぽど穏やかなやつだけど、たまに物騒なことをいうことがある。それが口だけのようには映らない迫力みたいなものがあるから厄介だ。
「佐伯、戻れるといいわよね」
「そうだね」
「でも、戻れなくても大丈夫よね」
「……そうかな?」
本人の気持ち的にもそうだけど、戸籍とか、色々問題あると思うんだけど。
本当にどうなるんだろうな。そのあたり。それは大人がなんとかしてくれることなんだろうけど。
というか、子供には何もできないことなんだけどさ。
「戻れなきゃおかしいよ。いくらなんでも」
哀れなんてもんじゃない。納得がいかない。
「戻っても残念がったりしちゃだめよ」
「し、しないよ……」
するわけないだろ……失礼な……。
……でももしかしたら、河合さんに注意されていなければ、惜しいことしたなーなんてこと言ってまた怒らせていたかもしれない。
河合さんには全て筒抜けらしい。
風も少なくて過ごしやすい気候だ。
俺は学校に向かうため河合さんと二人、バスに揺られていた。
「桐谷がいないと、行きも帰りも少し寂しいわ」
「少しかあ」
茶化すように言ったが、実際は照れ臭い。
お互い話好きってわけではないから、和泉や佐伯がいるときより沈黙が多いんだけど、気まずさを感じていないのならありがたかった。
「みんな一緒にバス通学だったらよかったのにね」
「そう?」
「話したいことがある時、たくさん話せるでしょ?」
話したいこと。何かあるんだろうか。
車内であまり込み入った話はできないと思うけど。
何かあるのか、と待ってはみたが、河合さんの話はそこで終わったらしい。
俺じゃなくて、和泉や佐伯と話したいことがあるんだろうか。俺じゃダメなんだろうか。
ここで何か悩みがあるなら聞くよ、とか、言えるやつがモテるんだろうな。
俺はそういう勇気は持てない。悩みはあるけどあなたには別に聞いてもらわなくていいです、と言われたら恥ずかしさと情けなさで立ち直れない。
想像して勝手に落ち込みそうになった。
「そういえば昨日佐伯がお見舞いに行ったでしょ」
心臓が掴まれたような気がした。
「き、来たよ。マメだよねあいつ。無理してこなくていいのにさ……」
河合さんは察しがいい。俺の気まずい気持ちを勘付かれたくなかった。
あのあと、帰る頃にはいつもの明るい佐伯になっていた。佐伯はそういうやつだった。
これから学校で会うのがちょっと気まずくはあるけど、多分会ってしまえばいつも通りに話せるはずだ。
とてもあんなことがあったなんて河合さんには言えないが、でもちょっと懺悔を聞いてもらいたいような気持ちもある。
「さ、さすがに部屋で二人きりになるとさ、女子だなーって実感させられたよ」
「そりゃあ女の子ですもの」
さらりと河合さんは言ってのける。
佐伯はまだ抗ってるのに。
でもきっと他の佐伯の女友達だって同じように思っているのだ。
俺だって、口には出せないだけで昨日散々実感してしまったし……。
まるでどんどん佐伯が女として生きていく準備を整えられていっているようにも感じて、チリチリと焦りのような感覚が付き纏っている。
いや、だめだ。本人だって男に戻りたいと言っていた。
女の格好するのだって理由があったし、苦肉の策なんだ。
そう思っていると、隣で河合さんがふふと声にならないような小ささで笑った。
「桐谷、最近佐伯の話ばっかりね」
「え! ……それ、佐伯にも似たようなこと言われたよ。実感ないんだけどな……。それに今のは河合さんが振ったんじゃん」
「そうだけど、前は振るような話題がなかったじゃない」
「それは俺じゃなくて佐伯の問題だよ」
納得がいかないな……。
みんなが異様に順応しすぎなんだ。
だって前代未聞の大事件だぞ。そりゃあ気になるじゃないか。
「だって、佐伯はわたしよりうんと友達も多いし、しっかりしてるから、きっとなんとかなるんだろうなって思ってたの」
もちろん、佐伯が困ってたら絶対力になるつもりでいるけどね、と付け足す。
珍しく河合さんが柔らかい顔をしていたので、一瞬だけ目を向けた。
その一瞬だけで目があってしまって、慌てて顔を背ける。
「でも桐谷は佐伯のこと、ずっと心配そうに見守ってるみたいで、なんだか新鮮よ」
そりゃあ確かに、ずっと気になってはいるけど、そんなにあからさまだっただろうか……。
「俺だけじゃなくて、和泉だって心配してると思うんだけどな」
「和泉は、そうねえ……。和泉は佐伯が上手くやっていけてるかなんてことは心配してないわよ。ただ問題は犯人探しの方ね」
犯人探し?
確かにそこが進まないと、今のところどうしようもないことではある。
でもこればかりは向こうの接触を待つ以外手の出しようもないのだ。
容姿も何も情報はないわけだし。
「わたしは直接佐伯に聞いたわけじゃないけど、電車で痴漢の人に女の人と間違われた、っていうのが手がかりなんでしょ?」
手がかりというには心許なさすぎる推測だ。
しかし悲しいことにその全く確証が持てない情報が現在の最有力候補なのだ。
佐伯は顔が広いけどバイトなんかはしていないし、よそに決まった溜まり場があるわけでもない。人に個人的な感情を抱かれる暇はないように思う。
友人以外の人間と接触するとすれば、通学時が一番可能性が高いと思う。そういった推測はみんなには一応伝えていた。もちろん全く的外れの可能性だって十分ある。
「和泉ね、時間がある時は佐伯と一緒に電車乗って帰ったり、学校来たりしてるのよ」
「えっ」
「佐伯が一人で電車に乗ってる時、接触してきそうな人がいないか監視してるみたい」
「それ佐伯は知ってるの?」
「当たり前じゃない。言ってなくたって、和泉は目立つから丸わかりよ」
それは確かに。
でもそんなの知らなかった。
和泉がそんなしっかり行動に移してたなんて。
「だから最近和泉はちょっと、ピリピリしてるのよね。本当にちょっと。わたしには優しいんだけど、もし犯人を見つけたらどうする気なのか、少し心配なの」
「どうするったって……」
……まあ、警察に突き出したって何も解決しないだろうな。該当する罪がぱっと思いつかない。
痴漢だって現行犯とかDNAとか決定的な証拠がないとダメそうだし。
そもそも怪しいからって犯人かどうかはわからないし……、犯人だったとしても自白させないといけないわけで。
そしてその上で元に戻してもらわなきゃいけないわけで。
……かなりハードル高くないか?
「……もし怪しい人物を見つけたら、俺を呼ぶように和泉に頼んどくよ」
「いいの?」
「そりゃあ、いいよ」
当然だ。気になるし。
痴漢犯人説を唱えたのは俺だし。
もし和泉が脅して吐かせようとして何か法に触れることをしたら困るし。
和泉は普段、俺よりよっぽど穏やかなやつだけど、たまに物騒なことをいうことがある。それが口だけのようには映らない迫力みたいなものがあるから厄介だ。
「佐伯、戻れるといいわよね」
「そうだね」
「でも、戻れなくても大丈夫よね」
「……そうかな?」
本人の気持ち的にもそうだけど、戸籍とか、色々問題あると思うんだけど。
本当にどうなるんだろうな。そのあたり。それは大人がなんとかしてくれることなんだろうけど。
というか、子供には何もできないことなんだけどさ。
「戻れなきゃおかしいよ。いくらなんでも」
哀れなんてもんじゃない。納得がいかない。
「戻っても残念がったりしちゃだめよ」
「し、しないよ……」
するわけないだろ……失礼な……。
……でももしかしたら、河合さんに注意されていなければ、惜しいことしたなーなんてこと言ってまた怒らせていたかもしれない。
河合さんには全て筒抜けらしい。