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15章

 そしてとうとう最終日。俺だけ若干卒業式の気分だ。
 仕事内容はいつもと変わらない。ただ子供の診察をして、裏で検査結果などから対応を決めて、それから後半から追加された、発散治療を始めるために入院している子供の回診に付き添うという流れである。
 みんな仕事が始まる時間も終わる時間も違うので、仕事を終えた後も研修生全員が集まって挨拶……みたいなことはないようだった。最後に部署ごとに集まって挨拶はできたのだが、それもたった数人だ。なんて味気ないんだろう……。
 昼ご飯も食堂で食べ修めしたかったが、でもなんだか最後にやるのが食事っていうのも締まらない気がしたので、やめておくことにした。颯爽と去りたいじゃないか。
 他の部署でお世話になった人にも挨拶に回って、最後に伊藤先生には別で少し時間を貰った。

「あの、色々ご迷惑をおかけしたのに、熱心に指導してくださってありがとうございました!」
「……君が私の元で働いてくれないのは少し惜しい気持ちだよ」

 えっ、先生がデレた……。

「まだどんな仕事につけるかはわかりませんが、先生の教えは忘れません。立場は変わりますが、これからは息子共々よろしくお願いします」

 そういうと先生は苦笑していた。自分でも、なんだか自分に似合わない言葉だと思う。優等生ぶろうとしているというか……こういう改まった挨拶はどうにも苦手なのだ。
 そういえば社会人としての立ち回りとか、話し方ってきちんと学んでこなかったな……。さすがに謙譲語とか尊敬語みたいなものはわかるけど、とっさにはなかなか出てこないものだ。いいのかな、これで来年から社会に出て。
 そう思っていると先生は手を伸ばして、引き出しから何枚かのパンフレットみたいなものを取り出した。

「この病院がね、まだ枠が空いているそうだよ。それほど離れてもいないし、古い友人がここに勤めているんだ。検討してみてはどうかな」
「えっあっ! い、いいんですか……!? ありがとうございます……!」

 思わぬところで就職先の紹介をして貰ってしまった。これが人脈ってやつか……!?
 迷惑をかけたのに、友人の勤めている病院を勧められる人間だと評価してもらえたのが嬉しい。にまにましながら先生と別れた。
 あれ、でも瞬くんの担当は別に伊藤先生に変わったってわけじゃないんだよな。もしかしたら今のが今生の別れになる可能性もあるのか? それにしてはちょっとあっさりしすぎたかな。
 うーん、でももしかしたら俺が通ってる間に顔を合わせるかもしれないし、まあいいか。
 キッズスペースに軽く立ち寄ると、見慣れた子たちが遊んでいた。相変わらず、この時間帯は人が少ない。この子たちは俺が今日で最後だなんて知る由もないし、そして俺の姿を見なくなっても気にすることもないんだろう。でも今は先生ばいばいと手を振ってくれる。
 ともかく俺はもうこのセンターに職員として入ることはなくなるのである。名札も処分されてしまう。次からは利用者の一人として新しく発行されるだろう。そう思うと感慨深い。
 さて、おなかすいたし、どこかで食べてから帰るか。
 と、センターを出て、大通りに向かっているとき、かすかに後ろから声が聞こえた。といっても挨拶だなんだとしているうちに午後の診療の時間が迫っていたので、あたりには親子連れが増えてきていた。そりゃあ子供の声くらいいくらでも聞こえる。
 それでもなんとなく気になって、あたりを見回す。
 ほとんどが親と手を繋ぎながら入り口へ向かう子供たちだ。たまに小学生くらいの子が一人で歩いている。
 ふいに、小さい影が人の流れから外れるように動いていることに気づいた。みんながバス停や駐車場から入り口に向かっているのに、一人逆走している。そしてそれを諫めるような大人の姿もない。
 親に駆け寄っているのかと思うが、手前にはそれらしき人もいない、というかこちらに向かっているようだった。

「パパ!」
「……瞬くん?」

 目を疑った。口をいっぱい広げて、大きな声でこちらに向かって叫びながら走っていた。そこまで確認すると、もう見間違えるはずはなかった。
 えっ、……なんで!? 佐伯は!?
 いやそれより瞬くんはこちらに向かってまっすぐに走ってきている。センターの前はバスや車が行き交うため、入口の前でUターンできるように道路があるのだ。途中から駐車場から出入りするための道に分かれており、他にもタクシーだって停まっているし、人の流れが最優先とはいえそれなりに車も行き交う。そして瞬くんはぐるっと歩道を回ってくるというほど周りが見えてないのか、そのまま道路を突っ切ろうとしていた。まったく左右が見えていない。俺しか見てない。

「あ、ま、待って」

 声が全く出ていない。もっと叫ばなきゃいけないのに。頭の中で、だめだだめだと思っているのに、それが全く言葉にできない。
 ふと、センター前の門を通って車が曲がってくるのがわかった。そしてどう考えても瞬くんが道路に飛び出す瞬間に、そこを通るのが手に取るようにわかる。気づいてくれるだろうか、子供が多い場所なのはわかってるんだ。いつ飛び出してくるかと注意しているはずだ。でも、曲がってすぐ、気づいて反応できるか? 死角なんじゃないか?
 ほんの一瞬の出来事だったのに、時間が止まったように色んな可能性が頭の中を駆けめぐった。
 そして体が固まっていることに、ようやく気付いた。
 こんなときまで頭ばかり動かして、何してんだと思ったとき、弾かれるように足が勝手に動いた。
 俺も、左右の安全確認なんてもはや出来ていなかったと思う。後先だって考えなかった。瞬くんしか見てなかった。
 生まれて初めて道路に飛び出して、ちょうど反対側から出てきた瞬くんを抱えた。潰してはいけないと思いながらも低い姿勢を保っていられず、瞬くんを抱えたまま向こう側の歩道に転がった。習ったこともないのに肩から背中へ受け身を取るように順番に地面に触れて、俺が下側になり、瞬くんは俺の胴体の上に、両腕で包まれるように収まっていた。咄嗟の動きでも、人って子供の頭を守るように抱えるものなのかと感心する。

「だ、大丈夫ですか!?」

 急ブレーキをかけた車は、ちょうど俺が走ってきたところで停まっていた。

「大丈夫です……すみません……!」

 当たってない。大丈夫だ。瞬くんはぽかんとしたあと、すぐに声をあげて泣いて俺の胸に引っ付いていた。まあ、怪我はなさそうだ。
 いや、まあ、びっくりした。一分も経ってないのに、ものすごく長く感じた。
 何度も頭を下げあって、車が過ぎ去っていくのを見て、ふと今の状況を思い出す。

「瞬くん、大丈夫? 痛いとこない?」

 見たところは無事である。相変わらずこちらの声が聞こえてないのではというような声で泣いて、顔を俺の体に押し付けていた。息が詰まってしまうのではと心配になる。……が、今はそれどころではない。

「……瞬くん、ママは?」

 そうだ。瞬くんが一人でいるなんておかしい。迷子にでもなったんだろうか? でもしばらく通院の予定はなかったはずだ。それにあんなにぴったりと引っ付いていたのに、何度か通ったこの場所ではぐれるなんてことあるだろうか。
 とにかくさすがに歩道の真ん中でひっついてるのは邪魔なので、少し隅に移動させる。こんな光景は日常茶飯事らしく、ただの街中に比べると変な注目は集めてはいないようである。本人は動く気がないのか俺にしがみついたまま運ばれていた。とりあえず壁際までやってきて、そっと引きはがして目線を同じ高さにした。

「瞬くん、ママどうしたの? 迷子になったの?」
「ママ、ママ……」

 瞬くんはしゃくりをあげていて言葉になっていない。
 ハンカチを渡して、背中をさする。瞬くんも必死に泣きやもうとしていて、真っ赤な顔で呼吸している。痛々しい。

「瞬くん、ママどこにいるかわかる?」
「わか、わかる、おうち……」
「おうち……? 瞬くんどうやってきたの?」
「バスのってきた……」

 ……ちょっと待てよ。たしか佐伯が借りているアパートは、バス停のすぐそばで通いやすいようになっているとは聞いていたし、乗り継ぎも必要ないらしいけど……、でも三歳の子が一人で来る距離ではない。

「……ママはどうしてるの?」
「ママ……ママ、おきない……」

 その言葉に、一気に冷や汗が吹き出す。どういうことだ? 起きないって?
 それで瞬くんは一人で俺に助けを求めにここにきたのか?
 まず、まずだ。佐伯に連絡を取らないと。瞬くんの勘違いかもしれないし、それなら佐伯は心配しているはずだ。
 佐伯に電話をかける。が、出ない。じわじわと焦りが湧いてくる。念のためメールに瞬くんを保護していることを送っておく。

「……瞬くんおうちまでの道ってわかる?」
「……わかる」

 瞬くんはセンター行きのバスの定期だけ持っていた。これを使ってバスに乗る、ということだけ知っていたらしい。しかし住所がわかるものはない。
 センターにいけば情報はあるだろうが、俺はもう部外者だし、例え研修生であっても利用者の住所なんて教えてはくれないだろう。このまま瞬くんの保護をセンターにお願いしたらどういう段取りになるかはわからないけど……、佐伯の無事を確認するのには時間がかかるはずだ。
 スマホでセンターが管理しているアパートについて検索する。以前も気になってなんとなく調べたことはあるのだ。少なくとも、まったく見当違いの場所に行くことはないだろう。どの部屋に住んでいるかは瞬くんの記憶を頼るか、総当たりするしかないな。

「よし、じゃあおうち行こう」

 コクンと瞬くんは頷いて、バス停の方へ俺の手を引いて歩きだした。


「よく一人でバス乗れたね」
「わかんないけど……」

 他の保護者を親と勘違いして見逃されたんだろうか。
 この時間帯はバスもかなりの本数がでている。駅に向かうのと、郊外へ向かうのとが別れていて、瞬くんは迷わず郊外の方のバス停に向かった。ちゃんとどちらに向かうか把握しているらしい。ちょうどバスが来たところなので乗り込む。

「どこで降りるかわかる?」
「まどのそとみたらわかるよ」

 ざっくりした場所はわかっているけど、降りる場所が一個ずれるだけで瞬くんが普段見ている光景と全然変わってしまうだろうし、間違えたら思ったより手間取りそうだ。

「瞬くん、今日の朝からママ起きないの?」
「……わかんない、ねるへやくらーくしてたから。まえおきたときすりりんごくれたの。でもそのあとおきたらねてて、おこしてもおきないの……」

 瞬くんは段々と心細そうな声になっていく。

「……それで……一人でお外に出たの?」

 こくんと頷く。
 汗でじっとりしている頭を撫でた。

「あら、先生? どうしたの、バスで会うなんてはじめてじゃない」
「あ、ど、どうも……」

 不意に反対側の座席から声をかけられる。
 何度か研修中伊藤先生が診察を担当した親子だった。
 お、おーっと……あまり見られたくないところだぞ……。

「え、ええと、今日は個人的な事情で……はは……。研修期間ももう今日で終わってしまったんですよ」
「あら、そうなの? 残念ね……、この子もようやく打ち解けてきたのに」

 やんわり話を逸らす。息子さんはは窓の外に夢中でこっちを見向きもしてくれませんけどね……。

「じゃあやっぱり先生も卒業後はセンターに勤められるのかしら」
「そ、そうですねー……一応そのつもりなんですけどどうなるか……」

 まあ嘘なんですけども……。

「あら、弟さん?」
「あっ……はは……に、似てます?」

 あれ、俺嘘下手?
 どうみても誤魔化しているようにしかみえない。

「パパ、つぎのつぎでおりるよ」
「あっ……うん、ありがとね」

 いや、あの、違うんですよ。違くないんですけど。は、ははーこいつ、ははー困っちゃうなーみたいな笑いでごまかしてみたつもりだけど、まさか瞬くんの目の前で嘘をつくこともできないし。
 聞き間違いだとでも思ってくれたのだろうか、相手の表情的に不審がるようなものは見えなかったけど、俺は瞬くんを連れ、そそくさと逃げるようにバスを降りた。
 こんなことに気を回している暇はないのだ。

「こっち」

 瞬くんは俺の手をふりほどこうとしたが、絶対離さない。いくら大人しいいい子でも危ないということを思い知ったばかりだ。
 バス停から少し進んだ後角を曲がると、一気に閑静な住宅街の景色になる。車ひとつぶんの道路をいくつか曲がると、同じ形のアパートが並びはじめた。瞬くんはぐいぐいと俺の手をひっぱってその中のひとつに入り、階段を登る。
 想像よりも古いアパートだった。高校時代和泉が住んでいたところよりはしっかりしているが、大人の男がいない家庭が住む場所だと思えば安心できるセキュリティとは思えない。
 瞬くんが駆け込んだのは二階の角の部屋だ。当然のように鍵がかかっていない。最後に出たのが瞬くんなら、鍵をかけるなんてするわけないだろう。

「まあまー!!」

 靴を放るように脱いでどたどたと中に入っていく。

「さ、佐伯? 俺だけど、……入るよ」

 靴を脱ぎながら声をかけるが、返事はない。ちょっと、おい。やめろよ。心臓がバクバクと言っている。中はカーテンを閉めているのか薄暗い。
 一歩入るとふたつの部屋に分かれていて、寝室に使っているのであろう部屋に瞬くんが入っていくのが見えた。恐る恐る近づいていく。

「ママおきて、パパきたよ、ねーえー」

 どうしよう。
 確かめるのがすごく怖い。どうしよう。
 でも、瞬くんが助けを求めに来たんだ。俺のところに一人で。お隣さんとか、おまわりさんとかじゃなくて、わざわざ俺を。
 しっかりしないと。怖いからって逃げるわけにはいかない。
 思い切って大股で部屋に入る。
 畳の部屋に布団が敷いてあって、その上で佐伯はぐったりと横になっていた。ただ布団で寝ていると言うより布団の上に倒れ込んだような様子だ。慌てて駆け寄り、肩に触れる。

「……い、生きてる」

 胸が上下しているのを確認して、ほっとして力が抜けそうになった。しかしすぐに持ち直す。冷房が効いているのに汗が浮かんでいて、額に触れるとじっとりと熱を持っていた。
 周りにはティッシュが大量に転がっていて、よく見ると薄っすらと赤色が覗いていた。佐伯の手にも握られている。
 その瞬間佐伯はげほげほとせき込んで、ティッシュを持った手で口を押さえた。痰が絡んでいるのがすぐわかるような咳だった。

「さ、佐伯……」
「…………あっ……?」

 目があった、ような気がする。意識ははっきりとはしていないようだ。

「……ごめ……咳……とまんなくて……」

 またすぐに口元を押さえる。

「痰出てるね。熱は測った?」
「……えっと……」
「救急車呼ぶよ。保険証どこ?」
「…………あ、……瞬のご飯……」
「大丈夫だよ。ごめん、鞄と財布の中見るね」

 熱で朦朧としているらしい。恐らく肺炎だろう。でもかなり熱が高そうだな……。
 勝手に佐伯がいつも抱えている鞄に目星をつけて中を漁ると、すぐに財布は見つかった。よかった、保険証もちゃんとある。この辺り佐伯は無頓着そうだったから心配だったのだ。
 すぐに119に連絡する。5分程度で到着するようだ。救急車で病院にいくときって他に何が必要なんだ? 入院には慣れていても、こんな緊急事態の経験なんてない。学校でも習わなかった。そうだ、靴は? それから、お薬手帳……はなさそうかな。まあ鞄ごと持って行こう。あと佐伯の携帯もいるか。聞こえているのかはわからないが佐伯に断りを入れながら準備をしていく。
 冷房を切って、家の戸締まりと鍵もして出ないと。慣れない部屋をばたばたと行ったりきたりしたあと、ようやく瞬くんのことを思い出した。

「瞬くんもう大丈夫だからね、救急車乗れるよ」

 瞬くんは佐伯にひっついて、不安げに親指をしゃぶっていた。ここまで案内しているときはすっかり落ち着いていたのに、また顔はびしょぬれだ。

「……あ、担架であの階段は降りれないか……下で救急車待とうか。瞬くん、お兄ちゃんママを連れて降りなきゃいけないから、手繋げないけど大丈夫? 歩けるかな?」
「だいじょぶ……」

 背中と膝下に手を差し込んで持ち上げる。その体は驚くほど軽い。昔とは全く違う。俺が成長したからだけではないはずだ。
 片手で鞄を持って、佐伯がずり落ちないよう気をつけながら、瞬くんの様子を確認しながらゆっくりと階段を降りた。体が小さくて軽くて、人一人抱えているのに危なげがなかった。下まで降りると一旦佐伯を階段に座らせて、鍵を閉めてくる。そうしているうちに救急車のサイレンの音が近づいていた。まだまだ暑い時期なのに、そんなことは気にならなかった。
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