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14章

 父は忙しい人だ。休みの日だってあるけど、そういう日は大抵他の人と会う予定なんかがすでに入っている。
 どうにか時間を捻出して貰って、佐伯とうちの両親の顔合わせの日は三週間後の八月中旬に決まった。かなり間が空いてしまうが、俺と佐伯もまだ足並みが揃っているとは言い難いし、その頃には研修も終わっているので却って都合がいいと思うことにした。
 まあ、役所での支援だとか手当だとかの手続きのことを考えると、早く決着をつけるに越したことはないんだが……。最悪佐伯がやっぱり俺たちには一切頼らない、となるのであれば、今すぐにでも申請に行ったほうがいいわけだし……。
 しかしどうやら佐伯もそのあたりについてよくわかっていないようだった。書類とか、手続きとか、そういうものは苦手らしい。そういう人たまにいるよなあ……河合さんも苦手なんだよな。確定申告とか。
 俺だってあまりわかってないのに言えることではないが、いくらなんでもこれではさすがに頼りないと思ってしまう。まあ、瞬くんのためなら頑張れるんだろうけどさ。

 とにかく、まだ時間はある。もっと佐伯と瞬くんとコミュニケーションを取るべきだ。佐伯は暇だって言ってたし、多分大丈夫なはずだ。
 折角夏なんだし、やっぱり出掛けるのがいいだろう。ずっと屋内に居てもつい真面目な話をしてしまうし。遊びに行くなら瞬くんの面倒を見れる保護者は多い方がいいはずだ。
 あれこれうんうん考えて、嫌だったら気軽に断れる文面を考え、メールを送った。

『ヘイ彼女、海でも行ってみない?』

 そこから半日放置されたのは辛かった……。
 ただ携帯を見ていなかっただけかもしれないけど……。
 やっぱり俺とは距離を置きたいのかな……と落ち込みかけていた夜、電話があった。

『海って……どうやっていくの?』
「電車で行けるよ、ほら、昔遠出したことあるじゃん」
『ああ、そうか……』

 車も出せるっちゃ出せるのだが、瞬くんは確かチャイルドシートが必要な年齢だろうし、さすがに親に車借りてそこまで勝手なことはできない。
 それとも電車移動は小さい子には厳しいのだろうか。赤ん坊は泣いてしまったりと大変だろうと思ったけど……。

「ほ、ほら、プールだと水着必須だったりするけど、海ならそこまでがっつり泳がなくても、足だけ浸かるとかさ、砂遊びとかもできるし、いいかなって思ったんだけど……」
『……そうだね……、遠くに遊びに行ったことが今までなかったから……、瞬も喜ぶかも……』

 眠いのだろうか。声がぼんやりしている。
 しかし思ったより好感触だ。

『瞬、次いつ桐谷に会えるのかって楽しみにしてるから……』
「ほ、ほんと!? さ、佐伯はどうかな? 負担じゃない?」
『うん……、大丈夫。じゃあ……、えっと、日にちとか決まったらメールくれる?』

 やはり相変わらず、取り立てて用事があるわけではないらしい。
 先日河合さんのところで顔を合わせたとき、バイトを探しているもののなかなか見つからない、という話は聞いていた。
 瞬くんの預け先の確保ができていないのが大きいんだよな。センターの託児所だったり、許可証がでれば普通の保育所などに預けることもできるようになるのだが、その費用を引けばバイト代がほとんど残らないそうだ。住み込みや託児所付きのバイトなどを探してもやっぱりそううまくは見つからないらしい。佐伯は車や自転車もないから、通える場所も限られてくるし……。
 その話をしていた佐伯はさすがに少し泣きそうになっていた。こんな話したら余計桐谷に心配かけちゃうのにね、と笑って。でもそんな弱音を吐いてしまうくらいの状況なのだろう。
 それでも手当だとか援助をきちんと受けるようになったら、多少は楽になるはずだ。なんとかならないわけではない。が、なんとかしなきゃいけないのに自分では何もできない、というのは神経をすり減らすのだろうと想像ついた。
 よくない。それは非常によくない。気を病んでいたら、体まで何か病気になってしまいそうだ。
 やっぱり遊びに出るに限るのだ。もちろん瞬くんに海を見せたいという気持ちだってあるけど。

---

「こんにちは瞬くん、海っぽい格好だねえ」
「こんにちは……」

 な、何故か瞬くんは佐伯の後ろに隠れて控えめな挨拶を寄越す。

「な、なんで……? 記憶リセットされた……?」
「ごめん、多分人が多いから緊張してるんだと思う……」

 佐伯は相変わらずのシンプルな格好で、瞬くんの帽子を直しながら「お兄ちゃんだよ、もっと元気にご挨拶しよう?」と促している。
 瞬くんは襟が少しだけ大きくてラインの入った水兵さんを意識したような服を着ていた。可愛い。こりゃあいくらでも服買い与えたくなる。
 それにしても、思ったより人が多い! 失念していた。そうだ、世間は夏休みが始まったばかりなのだ。
 駅の中は結構な人の群れだった。なるほど、これは子供の視点なら怯えるかもな。改札のあたりは人の流れも少し早い。

「瞬くんだっこしようか」
「あ、だ、大丈夫? 結構重たいよ?」
「平気だよ、俺も結構鍛えてるんだから」

 ……それはちょっと嘘だけど。筋トレとかがっつりしてるわけじゃないけどさ。
 まあ、昔の俺と同じように思って貰っちゃ困る。
 自分から瞬くんにしっかりと触れることなんてないから、少し緊張しつつもそれを悟られないよう、別に普通のことであるかのようにしれっとした顔で瞬くんだっこするよーと声をかけ、脇の下に手を入れて持ち上げる。
 だ、大丈夫だよな、ちょっと汗はかいてるけど、昨日ちゃんと体洗ったし……!

「たかーい! ママよりたかい!」
「ほんとだー、いいねえ瞬」

 よ、よし……! 拒否はされなかった!
 とりあえずほっとする。

「あ、ごめん、私切符買ってこないと。瞬、お兄ちゃんとちょっと待ってて」
「え! しゅんもいく!」
「ええっ」

 腕の中でもぞもぞしながら佐伯の腕に移動しようと思っているのか瞬くんはわたわたと手を伸ばす。そんな自由な行き来できる構造じゃないんですよ! お客さん!
 佐伯の細腕ではさすがに危なっかしい気がしてとりあえず瞬くんを地面に降ろす。するとぴとっと磁石のように佐伯の足にひっついた。

「俺が買ってくるよ。ここで待ってて」
「ごめん……」

 ちょっとだけ切ない気持ちになりながら、片時も離れられない佐伯にちょっと同情しながら、でも羨ましくもなりながら俺は一人券売機に向かった……。いいんだ、電車賃奢りたかったしな!

 瞬くんはやはり人の多い場所は苦手らしい。これは俺譲りなのか、それともあまり外に出た経験がないからなのか。
 佐伯のそばから片時も離れたがらないのは、まあこの年ならむしろ安心か。電車内でも騒ぐということもなく、機嫌もそれなりにいい。

「瞬くんは電車好き?」
「んーと、はんぶん」
「半分……」
「おもちゃは好きなんだけど、実物はそこまで興味ないみたいなんだよね」
「へえー」

 ボックス席で向かい合うように座り、佐伯の通訳を挟みつつ交流していく。

「おにいちゃんってさーあのさーねこすき?」
「猫? 好きだよ」
「おうちねこいる?」
「ううん、魚ならいるけど、猫はいないなあ」
「ニモ?」
「うん? 芋?」

 少しかみ合わない会話が面白かったのか、佐伯がくすりと笑った。すると瞬くんは恐らく佐伯が笑った意味などわかっていないだろうが、釣られるようにえへへと笑う。

「ママたのしいねー」
「そうだねえ、わくわくするねえ」

 少なくとも瞬くんに向ける佐伯の表情は、本当の笑顔なのだろうと思う。その顔を見ると安心できる。

---

「瞬! ほらおいでー、怖くないよ」

 浜辺で、素足になって波打ち際で呼びかける佐伯に、瞬くんは目で見てわかるほど葛藤していた。
 恐らく怖いというほどではないのだろうが、始めてみる海に対する警戒心と、大好きなママのそばに行きたいという思いが頭でいっぱいになってるのだろう。

「ママきてー」
「瞬がおいでよ、気持ちいいよ」
「ママがきてっ!」

 お互い譲らない……。
 俺はどうしたもんかと、とりあえず瞬くんの後ろに待機してるのである。正直俺も海はあまり得意ではないし……。
 少し離れたところで、ありがちなカップルみたいに水をかけあってはしゃいでいる親子の姿がある。佐伯はじっとそれを見たあと、くるっと振り返っていたずらっぽい顔をした。

「瞬、あれやろ!」
「やだっ」
「ほらほらー」
「やだー!」

 ぴちゃぴちゃとしぶきとも言えない控えめさで佐伯に海水を膝あたりにかけられ、瞬くんは俺の後ろに隠れた。口ではいやがっているがちょっと嬉しそうである。このへんの見極めが俺にはとてもできそうにない。

「瞬くん隠れてないで、やり返さないと」
「だってえ~ころんしたらぬれちゃうもん……」
「濡れてもいいよー、替えの服も下着も持ってきたから」
「はじゅかしいでしょっ!」

 へえ……外で着替えるのは恥ずかしいという羞恥心があるのか……。
 結局瞬くんは、足首までなんとか海水に浸かることができたものの、もういいもういいと訴えるので三人で砂遊びを満喫した。他のもっと小さい子はパンツ一丁になって遊んでいたのだが、千差万別である。
 小さなおもちゃのスコップでひたすら山を作り、溝を作り、穴を作る。

「砂遊びなんていつぶりだろう。子供のときだってほとんどしたことないからなあ」
「ああ、そっか。たしかに桐谷ってどろんこ遊びとかしなさそうかも」
「ママ! きれいのあったけど!」
「あ、きれいな貝殻~! いいの見つけたじゃーん。持って帰る?」
「いいの~!? もっとさがしてもいい~?」

 瞬くんは新たな喜びを見つけたようである。砂遊びはもう時代遅れだ!

「瞬くんこれはどう? 綺麗じゃない?」
「あーでもーながいからー、まんまるくないとー。ねっママ!」
「瞬は丸いのがいいんだ? 長いのも良くない~?」
「えー! かいはまるいだよー」

 佐伯と比べて、瞬くんとの付き合いの差はしっかりとあるのだから当然なのかもしれないが、俺はすっかり瞬くんのご機嫌伺いをしてしまっているのに対し、佐伯の瞬くんへの扱いは比較的対等である。あ、そういう対応していいんだ!? と俺は目から鱗なのである。もちろん二人の信頼関係がなせるやりとりなんだろうけど。

「ママちょっとトイレ行きたいな。瞬も行っとこうよ」
「しゅんさっきいったもん」
「じゃあお兄ちゃんと待っててくれる?」
「うん」

 おや。切符を買うときはダメだったのに。

「ごめん、お願いしてもいい? 桐谷はトイレ大丈夫?」
「いいよいいよ! 俺は今は大丈夫。ここで待ってるから行っておいで」

 佐伯にお願いされたぞ! やったあ!
 佐伯の大きな鞄を預かり、大船に乗ったつもりでお任せください、と盛大に送り出す。
 そして俺と待っててくれると行った瞬くんをへへへと見守る。……多分貝殻集めを中断したくなかっただけなんだろうなあ……。

「これさー、しゅんのたからものなんだー」

 厳選された貝殻たちを並べながらご満悦だ。
 一段落ついたようなので佐伯が持ってきた水筒を取り出し、瞬くんにお茶を飲ませた。

「かいがらどうやってもってかえったらいいんだろうー、はこがあればいいのになあ」
「あ、そうだね……、せっかく綺麗なの選んだんだしね。フルーツ入れてた容器を洗って使う?」
「え! いいの? ママおこるよ?」
「怒るかなあ……。ママ帰ってきたら聞いてみよう。とりあえず今はバケツにいれておこっか」

 今日はお弁当ではなく適当に焼きそばでも買って食べようということになっていたのだが、瞬くん用のおやつとして佐伯はこまごまとした食べ物を持ってきていたのだ。さすが大きな鞄を持っているだけある。俺は財布と携帯しか持ってこなかったというのに……。
 瞬くんは貝殻集めを終え、浮き輪を持って海に入っていく子供たちを眺める。

「瞬くんも浮き輪があったら泳いでみたかった?」
「しゅんおみずこわいから……」
「そっかあ。俺……お兄ちゃんと一緒だね」
「じいじもそうだよ」
「じいじ?」

 はて。誰のことだろう。たしか佐伯の嫁ぎ先も義理の父にあたる人は亡くなってたと聞いたけど……。住み込みで働いてたお店の旦那さんだろうか。
 俺たちの水嫌いというのは恐らく、俺たちの能力が空気の影響を強く受けているからだと思われる。実際は例え全身水に浸かっていたからといって直接的に能力に影響はない。ただ入浴のような慣れ親しんだ状況ではない中、急に空気が制限される状況になるとなんとも言いようのない不安感というか不快感というか、どうもざわざわした落ち着かない感覚になるのだ。思いこみとか、そんなレベルだとは思うのだが、子供に思いこみだから気にするなというのは無茶な話だ。
 水に怯えるその気持ちはよくわかるので、安易に入ってみなよ~なんて誘うことはできない。

「……ん?」

 なんとなく、呼ばれたような気がして振り返る。
 あちらこちらに向かって歩いたり、走っていたり、座って食事を取っていたり、数え切れない人がいる。
 佐伯が向かったであろうトイレの方向をぼんやり見ると、ぴたっと視点が一カ所に定まった。

「……んん? 瞬くん、ママ迎えに行こうか」
「えー?」

 人の流れの中に佐伯はいた。こちらをちらちらと見ながら誰かと話しているようだった。
 砂遊びの道具をまとめ、鞄を肩に掛けて反対側に瞬くんを抱き上げる。

「ママいた?」
「うん、あそこいるよ。見える?」

 まっすぐ佐伯の方に向かって歩いて距離を詰めていく。
 佐伯の方もそれに気付いて、ほとんどこちらに視線を向けつつ何かを喋って、こちらに向かって駆け出す。何かあったのかとこちらも小走りのペースをあげるとあっという間に合流できた。

「どうしたの?」

 大した距離ではないのだが、佐伯は少し息が切れて肩が揺れていた。

「うん、ちょっと、一人だと勘違いされたみたいで声かけられて……」
「ママまいごになっちゃったの?」

 胸に手をあて、呼吸を整えているのを見守る。
 もしかしてナンパされてたんだろうか。すでにそのような人物の姿はない。
 佐伯は瞬くんに安心させるように、もしくは瞬くんを見て安心するように微笑んで頭をぽんと撫でた。

「うん、ちょっとね、迎えにきてくれてよかったあ」
「ごめん、もっと早めに気付けば良かったね」
「ううん、携帯も持ってってなかったし……、むしろよく気付いたね、絶対声届いてないと思ったよ」

 やっぱり俺のこと呼んでくれてた……のか!?
 よかった気づけて。聴覚としては認識してなかったけど、なんとなく名前を呼ばれたような気がしたのだ。
 あまり心配した様子を出しても、瞬くんを不安にさせるだけだろう。

「……じゃあ、せっかくだしこのままご飯買いにいく?」
「そうだね、あ、ごめん鞄、ありがと」

 瞬くんを降ろし、鞄も佐伯に返……そうとして、やめる。

「お、重たいし、俺持つよ」
「……え、でも……いいの?」
「いいよ!」

 まるで瞬くんみたいな受け答えをしてしまった。男として荷物を持つのは当然である。普通に思いし。俺手ぶらだし。

「しゅんきいろのかきごおり!」
「ご飯のあとねー」

 佐伯の様子はすっかり落ち着いていた。瞬くんを窘めつつ手をとって、俺にも「行こ」と微笑みを向けてくれた。

---

 昼ご飯を終え、また少し砂遊びを再開しているうちに瞬くんの電池が切れてきた。二時過ぎ、普通ならまだまだこれからという時間ではあるけれど、早めに引き上げることになった。砂まみれになっていたズボンだけなんとか履き替えさせて、おんぶをして電車に乗り込む。
 電車の中は空いていた。行きと同様にボックス席に座る。俺の隣は佐伯の鞄である。

「今日はありがとね、瞬が楽しんでくれてよかった」
「俺も楽しかったよ。海なんてほんとに久しぶりだったし」

 何よりまるで本当に家族みたいだった。
 やっぱり、嬉しい。ずっと夢見ていたことだと思う。明日も明後日もこうして三人で過ごせたらどんなに嬉しいだろうと思う。

「一人じゃやっぱりね、遠くに遊びに行くのは怖いんだ。ちょっと目を離した隙に何かあったらって思うと」
「そうだよね、俺もちょっとびびっちゃったもん。絶対この子を守らなきゃ! って、気が張るというか。一人だけだと楽しむ余裕ないよね」
「そうなの。でも瞬も私が楽しんでないとすぐにわかっちゃうでしょ? 多分ね、普通の親だったらもう慣れてくるんだと思うんだけど、私はずっとお出かけしてなかったから……だからまだどうしていいのかわかんないんだ」

 なるほど。たしか病院以外外にでることがなかったんだったか。住み込みで働くようになってからはそれはそれで遊びに行くほどの余裕はなかったそうだし。
 つまり子連れで遊びにでる経験値としては俺とそれほど変わらないのか。

「まあ、もしどこか行くのに人手が必要になったらいつでも呼んでよ。おんぶやだっこも余裕だし!」
「う、うん、ありがと……。ほんとに逞しくなったよね」
「へ、へへ……」

 思わず笑いが出ると釣られて佐伯も笑った。二人きりのときに、困って誤魔化すようでない笑い方をするのはすっかり珍しくなっている。

「そうだ、トイレ行ったときもしかしてナンパとかされてた? ちょっと焦ってたでしょ」
「あっ……う、うん……」
「ごめん、怖かったよね……」

 やっぱりな! 家族連れが多かったものの、そういう輩もそりゃあ一人二人はいるだろう。
 水着も着ていない普通のTシャツ姿なのに声をかけられるなんて、まあ、昔と違ってボーイッシュさも消えていて女性らしいし、声をかけられてもなんらおかしくない。
 佐伯は不安感か何か思い出したのか、呼吸を落ち着けるときのように胸を押さえて笑った。

「子供と来てるって言ったんだけど、信じてくれなくて……、ああいう人ってなんでしつこいんだろうね、びっくりしちゃった」

 そりゃあ……佐伯を見て子持ちとは思わないだろうよ。俺も人のことは言えないけど。

「あ、あのさ……もしかして、佐伯、男の人が怖かったりする……?」

 ずっと気になっていたことだ。佐伯が一体何に怯えているのか。俺個人に対する感情なのかどうか。

「え……、うんと……どうかな……。あんまり、男の人と関わることないから……。うん、でも女の人より、あんまり得意じゃないかも」

 ……それは元からそうだったよなあ。男時代からそうだ。
 それにしても自分の挙動不審さを自覚していないのか、それとも隠しているのか。

「高校のときさ、クリスマスイブの……掃除時間のあと、俺が佐伯を中庭まで追いかけていったこと、覚えてる?」

 佐伯はきょとんとした顔をして、口に手をあて思い出す仕草をしたあと「ああ」と納得したように頷いた。
 あの頃のことを、俺はきっと言われればすぐに思い出せる。でも佐伯からすると遠い過去なのだ。

「そのとき、入れ違いになって中庭では会えなかったろ? でも本当は俺、中庭で佐伯のこと見つけてて……、その、クラスのやつに告白されてるところを見て……声かけられなかったんだ」

 ぱちんぱちんと佐伯は瞬きをする。
 その口からああー……と、声が漏れた。

「そう、うん。された記憶ある。前の日のパーティでね、みんなの前で公開告白みたいなことされて……、それで改めて声かけられたんだったと思う。うん、覚えてるよ」
「そ、そうだったんだ……」
「なんだあ、見てたなら言ってくれれば良かったのに」
「うん……、割って入れば良かったって何度も思ったよ」

 そこまでしろとは言ってないけど……と佐伯は苦笑する。

「……あのとき……、その男子に腕を掴まれて、すごく怯えてたでしょ? 覚えてる? あれを見て俺、すごく後悔したんだ、佐伯が怖がってることに全然気付かなくて、助けもできなかったこと……。ごめん」
「そんな……謝られるようなことじゃないよ」

 それでもやっぱり、彼女が怯えてるのに気づきもせず見てるだけしかしなかったなんて、ふがいないなんてもんじゃない。

「それで、今もやっぱり男に対して恐怖心とかあるのかなって思ってさ……、だとしたら俺、配慮が足らなかったというか……怖がるのは何もおかしいことでも悪いことでもないし……」
「そ、そんなことないよ! 昔は子供だったから、ちょっと神経質だっただけ。今はほら、結婚して子供もいるくらいなんだから、怖がるも何もないでしょ?」

 そういう問題では、ないと思うのだが……。

「私が瞬を守らなきゃって思うから、そういう意味では過敏になっちゃってるかもだけど……、怖がってられるような立場じゃないよ」

 立場ってなんだ? 親として子供を守るために怖がってなんかいられないということだろうか。でも、親だとしても怖いものは怖いだろ。力の弱い女の子であることに代わりはないんだから。

「俺が関わること……負担になってないかな……。佐伯はいつも、俺の気持ちとか立場とか、瞬くんのことを考えて、優先するでしょ。でも、俺はそういうのを抜きにした佐伯が一体どんなことを考えてるのか、全然わからないし、知りたいよ」

 昔の佐伯は、人の機嫌を伺うことはあっても、嫌なことは避けようとしたり控えめでも主張したりしてくれていた。佐伯はあっさり折れるので、見逃してしまうこともあったけど……、でも、なんでもかんでも人に合わせて神経をすり減らすようなタイプではなかった。そういうバランス感覚が上手い奴だと思っていたのだ。
 しかし大人になってからは、そんな主張はなくなった。全部薄い膜が張っているようというか、自分の意見というより他の都合で本心が見えない。
 佐伯はぼんやりするように視線を落とした。
 電車が停まり、親子連れが一組乗り込んでくる。瞬くんよりも大きい女の子と赤ちゃん連れだ。

「……わかんない。自分でも、自分が何を考えてるのかわからないんだ。自分のことなのに……、ごめんね」

 相手の気持ちとか都合とか、そういうものを考えることが染み着いていたら、自分の気持ちに鈍感になるのもおかしくはない。河合さんも言っていた。自分の価値を低く見積もっている。価値の低いものに深く取り合うやつはいない。
 自己評価が低いことが原因だとすると、それを改善すれば状況は変わるのだろうか。そうだ、めいっぱい自分が喜ぶことを選んで、もっと厚かましくなってほしいのだ。
 だとすると、俺にできることは何か。

「……俺といることで、緊張したり怖くなったりはしない?」

 他の乗客の手前、声のトーンを押さえて問いかける。
 佐伯の表情からは相変わらず感情は見えない。一拍おいて、柔らかく微笑む。

「そんなことないよ? 瞬もすっかり心開いてるし……、言葉遣いも優しいから、怖いことなんてないよ」

 相変わらず、本音はわからない。佐伯の言葉を信じていないというより、佐伯自身がわかっていない佐伯のことなんて、俺にわかるわけはないのだ。わかったふりをして間違えてしまう事の方が今は怖かった。

「……俺は……瞬くんといられるのもすごく楽しくて、嬉しいけど、佐伯が近くにいてくれると、すごく安心するし、嬉しい気持ちになるよ」
「……なあに? もう、変なの……」
「伝わってなかったら嫌だと思って」

 佐伯は居心地悪そうに髪を撫でつけて、口だけ笑って見せた。
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