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14章

「と、いうわけだから、遠慮しなくていいよ」
「……そ、そう言われてもね……」

 俺の報告に、佐伯は明らかに困惑していた。
 家族会議から数日後、というか週末。再び河合さんのお店に集合させて貰っていた。
 元々はどこかのお店で話をするつもりだったのだが、河合さんに経過報告すると定休日であればお店の座敷を自由に使ってよいと言われたのだ。持つべきものは友達だよ。
 そして河合さん本人は気を遣って自宅の方に引っ込んでくれていた。話し合いが一区切りついたらまた四人で食事をとる予定である。そのときはもう最大限に感謝を示させて貰うつもりだ。奢りまくっちゃうぞ。
 河合さんがいなくなるやいなや、自分の縄張りだというように気を大きくして、絵本を広げながらごろごろしはじめた瞬くんの動きを押さえつつ、佐伯は俺の家族会議の内容を聞いてくれていた。

「……やっぱり、いくらなんでも厚かましいっていうか……。治療に協力して貰うだけでもありがたい話なのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないよ……」

 やっぱりな。またその話だ。どうしてもここがうまく解消できない。迷惑でもなんでもないのだということを理解してくれない。

「それさ、瞬くんが佐伯にこれ以上ご飯作って貰うなんて申し訳ないよ~なんて言ったら、そうか、じゃあ手は出さないよ、なんて言うのと同じじゃない?」
「な、何言ってんのさ。子供にご飯食べさせるのは親の義務じゃない。それに私が瞬に生まれてきてほしいって望んだんだもん。勝手によそで子供を産んで勝手に出戻ってきたのとはわけが違うよ」
「お前それは……」
「ねえママせんそうってなにー?」

 最後の方は小声だったとはいえ、さすがに聞き逃せない。
 しかし瞬くんの前では声を荒らげるわけにはいかなかった。

「……たくさんの大人の人たちがいっぱい喧嘩すること」
「へー」

 瞬くんは再び絵本の世界に戻っていった。
 一文字ずつ音読している様はまるで暗号を解読しているようだ。

「勝手にとかいうのやめろって。結果的にそうだっただけで、もし打ち明けてくれてたら俺だって産んでほしいって思ってたよ。もちろん親の援助は絶対不可欠だったけどさ、そういうことが今に繰り上がっただけじゃないか。厚かましいわけないよ。当然の権利だと思ってよ」

 第一、厚かましいからと断って、他にあてはあるのか。……そう問いただしたいが、そうなるとどうしても脅しめいてしまう。あてがないということはわかりきっていることだからだ。

「……俺には頼ってくれないとして、そうしたら佐伯の中ではどうするつもりでいるの?」
「佐伯はやめてよ……」
「あ、ごめん」
「とりあえず、来月から瞬は保育園に預けてパートはじめるつもりだよ。貯金があるから、一応引っ越しは物件さえ見つかればすぐできるし……」
「……そんなに簡単に保育園って預けられるものなの? この時期に? 待機児童とかよく聞くよね?」
「わ、わかんないけど……でもそうしなきゃ、シングルマザーは殆ど働けないじゃん」
「それはそうだけどさ……」

 まあ、佐伯の状況なら優先度は高くなるのかもしれないが……。わかんないって、ちゃんと調べてないのか。なんとかしようという意気込みはあるのだが、どうにも行き当りばったりだ。それもやっぱり追い詰めるようでわざわざ口には出さないが。
 どうやら携帯の契約も最低限のプランで、Wi-Fiもないためネット環境もあまり整ってはいないらしい。情報を得る手段が非常に少ないのだ。

「でも俺、何かできる立場なのに、何もしないのは嫌だよ。さえ……間宮さんや瞬くんに苦労かけて、俺はぬくぬくと自由に過ごすって絶対おかしい。ねえ、立場を入れ替えてよく考えてみてよ」

 佐伯は渋い表情をしている。恐らく、他人に置き換えればもっと損得勘定が働くのだ。元々、佐伯は人の立場でものを考えられる奴である。

「間宮さん言ってたでしょ、自分が失敗したら瞬くんを巻き込んじゃうって。逆だってそうだろ、間宮さんが幸せだったら瞬くんも幸せだよね? あ、いや、俺といるのが幸せだなんて言うつもりは一切ないんだけど……、経済的な余裕は合った方がより幸せに近いと思う」

 佐伯は押し黙っている。瞬くんはちらっとこちらの様子を伺ったようだ。しかし大人同士の会話の早さにはついていけないのか、雰囲気で感じ取ろうとしている。あまり子供に聞かせていい話の雰囲気ではないな……。
 かといって河合さんにこの子を頼む、なんていうのはさすがに無茶だろう。今日だって相変わらず二人はお互いの存在を認識しているのかすら危うい距離感だったし。

「……間宮さんが俺とやり直すのが嫌で渋っているなら、そんなこと考えなくていいからさ。……せめてある程度生活基盤が整うまでだけでも金銭面の負担くらいは……」
「そ、そんなの……」
「ねえ!」

 一気に俺と佐伯の視線は仰向けに転がり俺たちを見上げる瞬くんに向く。俺と佐伯の膝の間で、読んでいたはずの本はそっちのけで真剣な目をしていた。

「ママいじめてる」
「ええっ? いじめてない、いじめてないよ!」

 慌てて弁解する。できるだけ軽いような、なんてことないような雰囲気を出して。
 佐伯は慣れた様子ですぐに優しい笑顔になって同調する。

「そうだよ、真面目なお話してるから怖かったかな、勘違いしちゃった?」

 佐伯が瞬くんの顔を包み込むように撫でると、じわじわと涙が出てきてしまい、最後には佐伯に抱き上げられて正面から抱きついて顔を押しつけている。

「ごめんね~、心配してくれたの? ありがとね。大丈夫だからね。お兄ちゃんはね、ママのこといじめたりしないよ、大丈夫」

 何度も佐伯は背中をさすって、優しく声をかけてあげている。俺はそれを見ているだけしかできない。
 たっぷり十分くらいかかっただろうか。ようやく瞬くんが離れたとき、佐伯の服には濡れたあとがしっかりついていて罪悪感が湧いてくる。

「ごめんね瞬くん、お兄ちゃん怖かった?」

 まだうるんでいる目のまま瞬くんは口をへの字にしてコクンと頷いた。

「そっか、ごめんね……。大丈夫だよ、お兄ちゃんもママ大事だからね。瞬くんママを守ろうとしてくれたんだね、ありがとね」
「いいけど……」

 そっと佐伯と目配せする。

「……ママおトイレ行きたいな。瞬もついてくる?」
「……んーん、いかない」
「わかった、じゃあお兄ちゃんと一緒に待っててね」

 佐伯はゆっくり立ち上がって、河合さんに教えて貰っていた奥のトイレへと向かった。
 瞬くんと二人きりだ。微妙な空気が流れる。

「瞬くん、お兄ちゃんの喋り方、怖かった?」

 瞬くんは悩むように首を傾げる。気まずいのか視線を合わせてはくれないが、怯えた様子はない。

「わかんない」
「わかんないか。じゃあママが困ってるなーって思った?」
「おもった」

 そっかあ……。そうだよな……ママを困らせているようにしか見えないよな。しかし事細かに現状を説明するわけにもいかない。

「わかった、気をつけるね。お兄ちゃんも瞬くんのママのこと大好きだから、困らせたくはないんだ。でもちょっと喋り方を間違えちゃったみたいだね」

 これで納得したのかどうか、ふんふんと瞬くんは頷いた。

「しゅんもママだいすきだけど、おこられちゃうことあるよ」
「どういうことして怒られたの?」
「んーと、ママとてーつながなくてはしったとき、おこられるんだよ」
「そっか。それは危ないもんね」
「そう。でもごめんなさいしたらぎゅーってしてくれるから、おにいちゃんもごめんなさいしたらだいじょうぶだからね」

 うーん、それはあまり期待しないほうが良さそうだけどな。

「あのね、しゅんがあかちゃんのときね、ママ、えーんえーんてないてたの。だからね、いじめちゃだめなんだよ」
「……泣いてたの? それってどのくらい前?」
「うーとね、まえのまえのおうちのとき」
「…………じゃあ今はもうおうちで泣いてないかな?」
「うーん、うん、たぶん」
「そっか……。瞬くんがママを守ってるからだね」

 そういうとふふんと瞬くんは誇らしげに胸を張った。
 そっか……泣いてたのか……。そりゃあ、佐伯から聞いた話だけでも、しんどい状況だったのだろうというのは察せられたけど。
 たしか嫁いだ先には瞬くんが二歳頃まで住んでいたんだっけ。瞬くんのいう赤ちゃんの時というのがどのくらいのときのことを差しているのかはわからないけど……彼の記憶には強く刻まれているらしい。
 俺はある程度大きくなるまで、大人というものは泣かないものなんだと思っていた。今考えると母はむしろ涙腺が緩い人なのだが、泣き方が朗らかというか、表情は笑っていることが多かったので俺が泣いていると認識していなかっただけの可能性もある。父の死も予め覚悟できていたせいか、それほど悲壮感がなかったおかげもあるかもしれない。
 親の涙って子供が動揺するよな。いくつになっても。
 奥のトイレで水が流れる音が聞こえて、佐伯が戻ってくるのを察して話は打ち止めにする。

「お待たせー」

 その表情は普段通りの佐伯だ。
 瞬くんが安心する、無理のない笑顔。
 そこからは見事なものだった。雰囲気は和やかなまま、瞬くんは机の上にお絵かきセットを広げて、たまに俺にも何か書かせたりしつつ、できる限り明るい口調で話し合いは続けた。佐伯の穏やかで明るい喋り方に俺も必死で合わせた。
 優しい雰囲気のせいか、佐伯の頑なな様子も少し和らいだ気もする……けど、これは本心なのだろうか。

「とりあえずさ、うちの親はきっと全面的に協力してくれるつもりでいるよ。何でも甘えようなんてもちろん思ってないけど、でも強がったってしょうがないでしょ?」
「うん……。それはね、わかるんだけど……」
「しゅんさあ、ねこちゃんまんかけるようになったよ」
「わっすごい、ほんとだ。上手に描けてるね。練習したの?」
「おにいちゃんもここかいて」
「いいよ~」

 瞬くんに言われると話の腰を折らざるを得ない。
 手渡された緑のクレヨンで、変わった色の猫を描く。
 佐伯はお絵かきはあまり得意ではないらしい。それを察しているのかは知らないが、瞬くんは佐伯には感想を求めるばかりで一緒に描こうとは誘わなかった。

「……たしかに、私がただ強がってるだけかもって……思うよ。それで瞬に苦労かけちゃだめだとも思ってるよ」
「うん……俺もね、わかるよ、なんとかできるなら一人でなんとかしようとか思う気持ち。それに人に生活預けるのってやっぱり不安もあるだろうって思う。再会してまだ二週間くらいしか経ってないんだし……あ、緑使う? いいよ。じゃあ黒色使うね」

 瞬くんが描いているのはお花畑だろうか。一輪一輪がとても巨大な花がねこちゃんまんを取り囲んでいる。

「でも今はさ、力をあわせようよ。お互いの気持ちがどうとか、そういうことはあとで考えようよ。なあなあにしたりはしないから。親同士として協力しよう」
「……うん」

 ちゃんと伝わっているのだろうか。ちゃんとわかって頷いてくれているんだろうか。
 不安だ。

「桐谷、喋り方優しくなったよねえ……」
「え、そ、そうかな……」
「前はもっと淡々としてるっていうか……、質問とかはしてくれてたけど……全部話さないと許してくれないみたいな感じて……。でも今は同調っていうか……自分の話もしてくれるでしょ? あと表情も柔らかくなったし……」
「そ、それはどうも……。人当たりよくなろうと少しは努力したおかげかな」

 そ、そんな感じだったんですか……。ちょっとショックだ。
 そりゃあもっと話しやすい人になろうとここ数年気をつけてはいたけど。
 正直、俺の詰問のようになってしまう話し方は佐伯とは相性が悪いと思っている。意見を聞き出そうとしている、というのは単純に佐伯が言葉を濁してあまり本音を口に出してくれないからだけど。でも負担をかける言い方になってないというのなら、まあよかった。

「私だけなにも成長してなくって、恥ずかしいよ」
「そんなことないでしょ、いいお母さんしてるじゃない。変わってないとしたら成長しなくても十分だったってことだよ。いいことじゃない」

 佐伯はやっぱり眉尻を下げて、控えめに笑った。

「ねえママみて、できた」
「わあ、ほんとだ! カラフルー! 綺麗に塗れたねえ。こっちは瞬?」
「そう! しゅんがーねこちゃんまんになったの。こっちはおにいちゃんね」

 佐伯は優しく相槌を打ちながら、結局ねこちゃんまんとは? という目線をこっちに送ってくるが、答えようがなく目を逸らす。俺のオリジナルキャラクターです……。同名のキャラクターの作品はいくらでもいそうだけど……。

「とにかく、桐谷のご両親に挨拶にいかないとね。都合のいい日が決まったら教えてよ。こっちはしばらく予定らしい予定はないから、いつでも合わせるよ」
「わ、わかった! ありがとう!」
「……お礼を言うのはこっちだよ……」

 しかし、佐伯の様子は感謝しているという表情ではない。言わせてるみたいで、少し心が苦しくなった。
 でもとりあえず、まったく人の手を借りずに一人で瞬くんと生きていく、というのは多少諦めてくれたようである。しかしどの程度手を出すかというのは難しい話だ。人の家庭の経済状況を突っ込んで聞くのは憚られるし、佐伯側からじゃあこのくらいください、なんて絶対言えるわけないだろう。どういった形態で手を貸すのが適当なのか、俺にも佐伯にもよくわからないというのが問題だった。
 住む場所も今すぐに出なければならないというわけではないし、別の場所に引っ越すのか、それとも我が家の一室を使ってもらうかも含めて、やっぱり二人で決めるのは忍びないということで、うちの両親も交えたときに決めることにした。
 父にはある程度の方針を……と言われていたけど……、でもはなからそんな申し訳ないことできない、という状態はなんとか脱せたのだから、少しは前進したと思おう。

 そのあとは河合さんを呼んで、俺が瞬くんの相手をしている間二人で昼食を作ってくれて、四人で食べた。甘口のカレーライスとサラダだった。
 新聞紙を丸めて剣に見立てたものを作ってやると瞬くんは興奮して、すっかりチャンバラごっこの虜になってしまったらしい。俺はこういった活動的な遊びは全く通ってこなかったが、やはり活発に遊ぶ姿を見ると微笑ましく思ってしまう。元気が一番、なんていう大人は、なんて残酷なんだろうと思ってきたのに。
 俺は特殊能力の体質以外でも、体が弱くすぐ寝込む子だったと思う。けれどそこは佐伯に似たのだろうか。佐伯から聞いた話でもあまり病弱そうな様子は感じられなかった。いいことだ。うちの家系の男は早死にするなんて呪いは俺の代で終わりになりそうだ。
 瞬くんは、はじめて会ったときとは比べ物にならないくらい元気で明るい。河合さんが寄り付くとぴたっと大人しくなるのが面白いけど。外でもやはり、無口で佐伯のそばを離れないらしい。
 つまり俺にはものすごく懐いてくれているようなのだ。それはやっぱり、父親だと気付いているということなのだろうか……。以前俺をパパだと言ったときの真意は結局聞けずじまいだ。佐伯はやっぱり俺のことは教えていないというし、不思議だった。

「ママ! かえったらまたしゅんのけんつくってね!」
「いいけど、あんまりおうちの中で暴れちゃだめなんだよ。お外で遊ぶときにしようよ」
「えーっなんでなんで?」

 ……もしかしてよくない遊びを教えてしまったんだろうか……。すまん佐伯……。
 遊び疲れたのか昼過ぎに少し瞬くんは昼寝をした。その間はまた河合さんも一緒に三人で和やかに雑談して、和泉の話なんかもしつつ、瞬くんが目を覚ますと佐伯たちは帰って行った。

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「どう、ちゃんと話はできたかしら」
「なんとかお陰様で。ごめんね、場所借りちゃってさ」
「いいわよ。わたしだってたまには友達とお昼食べたいし、また使ってくれていいのよ。しばらくは人目に気を遣った方がいいんでしょ」

 あ、なんか嬉しい……。河合さんがとても優しく感じる。
 でも次は最初から河合さん込みで楽しみたいよな。俺と佐伯のごたごたした話に巻き込みたくはないが、かといってのけ者にもしたくない。そういうポジションの人なのだ。

「結局どうすることになったのよ」
「今度親に紹介するってことは決まったよ。他はそれからかなあ……。俺はこのまま実家に住んで、金銭面だけサポートするのか、それとも家を出て一緒に暮らすのか、二人にうちに住んでもらうのか……。就職できたらどうするかとか……」
「瞬くんはもうすっかり桐谷に懐いてるんだから、もう堂々と家族として手を取り合って生きていけばいいと思うけどねえ」
「そうできたら話は早いんだけどね……、でも、河合さんだって外堀埋められて好きでもない相手と結婚するなんて嫌でしょ」

 はっきりと、お前のことはもう恋愛対象ではない、みたいに振ってくれれいいのだが、それもやはり息子の治療に協力させている、みたいな負い目を感じて言えないんだろう。

「でもあなたもよくあそこまで必死に佐伯に食いついていけるわよね」
「え、そ、そう?」
「まあ、あっさり責任放棄するような人だとは思わないけど……。でもあなたが別の人と恋愛したって誰も文句言えないと思うわ」
「はあ? 子供いるのに? そんなの誰に対しても不誠実じゃないか」

 そりゃあ、まあ、まったく相手の足取りがわからない状態でもなお再会を信じて待ち続けろとは、俺が他人だったとしたら言えないとは思う。どこかで折り合いをつけてもしょうがないことだとも思う。

「なんていうかね、すごく勝手な話かもしれないけどね、なんていうのかしら。人によっては、桐谷みたいな人って本当に素敵な人だと思うのよ」
「すごい。人によってはと言われると全然嬉しくない」
「いや、別に少数派にしか受け入れられないという意味ではないのよ。でも、まあ、うーん……。桐谷みたいに、音信不通だったのに長年思いを募らせて自分を探し求めてくれた人にね、まあ嬉しい! 運命の王子様だわ! って素直に喜べる人は、もちろんいるとは思うのよ」

 まあ、世界は広いからね。……なんて言い方されても、普通はきもいと言われてるようにしか思えないんだけど。

「わ、わかってるよ、押しつけがましいというか、重いみたいな風に思われる自覚はあるよ……」
「そこまで言ってないじゃない。桐谷には佐伯を探す道理がきちんとあるんだから、別にストーカーとか片思いこじらせ男みたいなのとは違うわよ」

 それって道理を知らない人から見たらそう映るってことじゃないか? 今日の河合さんはなんだか言葉が刺々しい。あ、いつもか。

「でも……佐伯はそういうのに素直に感動できるタイプじゃないでしょ」
「……まあ、そうだねえ」
「むしろ、自分はなんてことしてしまったんだ~って思い詰めるタイプでしょ」

 河合さんにはすでに佐伯の変なネガティブ思考はお見通しのようだ。

「自分の価値をすごく下にして考えてるのよ。だからやってくれてありがとうじゃなくて迷惑かけてごめんなさいになるの。桐谷のことを信じてるとか疑ってるとか、好きとか嫌いとか、それ以前の問題だと思うわ。桐谷に好かれる自分を信じられないのよ」
「……じゃあ、それはどうしたらいいんだろう」
「知らないわよ。殴って記憶喪失にでもさせれば早いでしょうけど」

 か、河合さん……和泉みたいなこと言い出しちゃって……。

「そういえば高校時代、嬉しいけど不安になるとか、俺と河合さんが一緒にいるほうが似合うしほっとするとか、言ってたなあ……」
「また勝手なことを言ってくれるわね」
「でもそのときは自分でも言ってることおかしいという自覚はあったみたいなんだよね」

 今はその自覚すらないくらい歪んだ考え方を正しいと思いこんでしまっているんだろうか。うーん。まあ、誰だって自分の思考を客観視するなんてうまくできないだろうけど。
 人の考えを歪んでる、なんて安易にいいたくはないけど。でも何度も繰り返し、俺に迷惑かけるだとか、申し訳ないだとか繰り返すのはやっぱり健全な状態ではない気がする。父親なんだから金を寄越せくらい言ったって罰なんか当たらないのに。

「そのときは解決したの?」
「うん、まあ……なんか、お、俺じゃないとだめだとか言ってくれて」
「あー……はいはい……」

 友達同士ののろけなんか聞きたくもないだろう。俺もはじめて言ったがちょっと自分が不気味だ。
 そして過去の恋人時代ののろけなんて話すだけむなしい。

「まあ、そうね、開き直るしかないわよね。桐谷じゃなきゃだめなんだし、こいつで諦めよう、みたいに」
「酷いな!」

 ……でもまあ、その方が現状より何倍もマシなことは確かだろう。
 俺で諦める……いや、佐伯のことだから他にいくらでもいい男は現れるだろうから、申し訳ないことだと思うけどさ。でもいつか現れるかもしれないその人は、今佐伯を助けてはくれないのだ。
 どうすれば佐伯は開き直ってくれるのか。過去の佐伯と今の佐伯の違いは、……色々あるだろうけど、そこをちゃんと見つめていかないと、進まない気がする。
 多分じっと待ってたって、勝手に佐伯が俺に都合よく変わってくれることなんてない。
 人に変わってくれなんて、おこがましいにもほどがあるけど。
 でも昔から佐伯は、ずっと自分を追いつめる方にものを考えていた。それは繰り返してはいけない。だって、そんなの瞬くんが悲しまないわけないだろ。そして瞬くんの父親である以上、もっとも佐伯に関与していい権利は、俺が持っていると自負しているのだ。


 その日の晩、俺はずっと心になにか引っかかるようなものがあって、お風呂に入っているとき「あっ」と思い出したのだ。
 裕子さんから聞いた話だ。小さい頃の佐伯の話。
 悲しいことがあるとこっそり家出して、どこかに隠れてしまう子だったという話だ。いつの間にか帰ってきてけろっとした顔をしているくせに、隠れているところを見つけると、いつも泣いているのだという。
 それはそんな悲しみに耐えてる本人も、その悲しみに寄り添えない周りも寂しいことだ。
 そんな姿を、瞬くんに見せたのだろうか。隠し通せなかったのか、それともバレていないと思っていたのかわからないけど、多分誰よりも瞬くんには泣いてるところなんて見せたくないはずだ。
 でも、見られてしまった。そのくらいの思いをしたんだろう。
 俺からずっと離れた土地に隠れてしまって。
 小さい頃から、なんで佐伯はそんな癖ができてしまったんだろう。
 裕子さんだって、和泉だって周りにはいたはずなのに。隠さなくたっていいはずなのに。言葉にできずとも、泣いていたらきっと優しくしてもらえたはずなのに。
 ……裕子さんだったら、どうするんだろう。
 俺は少し、和泉や裕子さんをなんでもできる人だと思いすぎなのかな。いつでも考えてしまうのだ。あいつなら、あの人ならどうするだろうかと。
 きっとどんなときだって、俺より良い選択をするんだろう。
 こんなのはただの幻想だけどさ。勝手にそんな夢を持たれて、二人にはいい迷惑だろうけど、そう考えずにはいられないのだ。
 そこに佐伯が救われる何かがあるような気がして。
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