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14章

 翌日からまたいつも通りの研修がはじまった。
 朝、真っ先に伊藤先生のところにこそこそと近寄って、先生あたしがんばるみたいなことを言ったのだが、他の同期や職員の目を気にしてか、はいはいと流されてしまった。
 今まで手を抜いていたわけではないのだが、その日の俺は有能な動きができていたと思う。休憩中に次の診察に必要なデータを確認をして、使われそうな資料をすぐ出せるようにして、説明しようとする先生がえーとと言う前にスッと手渡す。あれ? 俺の仕事って先生の秘書だったっけ……。
 どうですか!? 俺! 役に立ってますよね! と先生に目で訴えていたらいきなり、じゃあここからの説明は彼が……と突然投げ出されててんやわんやしながら頑張った。なんでよ、先生……! やっぱりちょっと怒ってるのかな……。
 途中、飯島に会ったが、しっかり会話するほどの時間はなかった。しかしどうやら昨日俺が休んだことは知らないらしい。下手な言い訳をしないですんでよかった。
 もしかしたら飯島には今後瞬くんが世話になるかもしれないよな、と思い、心の中で頼んだぞ、と手を合わせた。
 午後は大学のキャリアセンターに相談、それから研修が一通り終わったらバイトも再開したいのでチェックしておこう。そのあとは課題を進めて、最後に今日レポートと予習だ。これが大学生の忙しさってやつか……。
 そんな中でもちょっとした隙間時間を見つけては、佐伯にメールしたら迷惑かな、とか考えて、結局できずにいた。本当は何しているのかとかもっと話したいけど……向こうからしたらそんな暇があれば他にやりたいことがあるだろうし……。

 翌日、その日の仕事を終えたあと、俺は食堂で時間を潰していた。
 そろそろかな、という頃合いで、指定されていた採血室を訪れる。入り口のカウンターで声をかけると、一人の看護師さんが素早く対応してくれて中へ案内してくれた。
 午前中なんかは朝早くから結構な人数が利用する場所だ。
 しかしこの時間帯は休憩なんだろうか。ガランとしていた。一人二人結果待ちかなにかなのか、廊下の椅子に座って飲み物を飲んでいる人がいるくらいだ。
 一番奥のカーテンで仕切られたスペースに案内され、名札のバーコードを読みとり、本人確認の後さくっと血を抜かれた。この辺は普段からやってることなのでもう慣れっこだ。
 そのあとはまたしばらく待機。センター内のカフェでアイスココアを飲んだ。
 たっぷり一時間ほどなんとか待つ。廊下に一定間隔で配置されている画面に採血時に発行された自分の番号が表示されたのを確認し、指定されていた応接室に向かった。今まで一度も利用したことのない部屋だ。手前の廊下も全く人気がなくて、本当に立ち入っていい場所なのか不安になりながら中に入った。

「あ、桐谷」

 中では椅子に座って小さくなっていた佐伯がいた。こちらの姿を見るなり、少しほっとしたような表情にこちらも安心する。

「お待たせ。瞬くんは?」
「お話長くなるから預けた方がいいって言われて」
「そっか。平気そう? 離れるのやっぱり嫌がるでしょ」
「うん、出かけるまではちょっと愚図ってたけど……、ここについたら自分から靴脱いで言うこと聞いてくれたよ」

 佐伯の隣の椅子に座る。座り心地のいいふかふかの椅子だ。
 二人きり、すぐ隣に佐伯がいる。なんだか変に緊張してしまう。
 佐伯は多分俺に対してというよりこの空間に怖気づいているようで誤魔化すように少し笑った。

「……なんか、静かで緊張するね」
「物々しい感じあるよね。校長室みたい」

 普段利用する診察室なんかが子供向けの明るい色味の部屋ばかりだから、余計に落ち着いた雰囲気に却ってそわそわしてしまうのだろう。
 五分もしないうちに、正面のドアが開いて伊藤先生が入ってきた。

「お待たせしてすみませんね」
「あっいえ、はじめまして、お、お世話になります……」

 佐伯は慌てて立ち上がってお辞儀する。俺も釣られて腰をあげた。が、すぐに着席を促されて二人で元通り椅子に座る。こういうとき、俺はぼーっとしているのしれない……ちょっと情けない。
 さっそくですが……、といくつもの項目と数値が書かれた紙が差し出された。
 佐伯の顔には「?」が浮かんでいるが、俺からすると見慣れた表示だ。

「君はこれの意味がわかるね」
「はい。説明します。……あのね、こっちが俺の血液検査の結果。こっちは瞬くん。ここら辺はその時々で振れ幅があるんだけど……ほら、一番下にアルファベットと数字の組み合わせがあるよね。これの、左のみっつのアルファベットと、コンマのあとのよっつの数字、あと最後の括弧の中、ここの組み合わせが同じだから、血縁者であるっていう証明になるんだよ」
「へえー……」

 決して佐伯を疑っていたわけではないが、ようやくきちんと親子関係を証明するものが出てきてほっとした。
 法的に他人の今、俺が勝手に瞬くんを自分の息子だと思いこんでいるだけだと言われたら、それを否定する術はなかったのだ。
 これはDNA検査とは違う、能力の性質の検査だ。これが数値に表れないほどに能力を持たない親子だったらできない方法だった。DNA検査は時間もかかるし費用もかかる。その点においては普段の検査のついでにできるのでお得だ。
 ただ父親も祖父も兄弟も同じ値になるので、そういう検査をしたい場合はやっぱり普通の親子鑑定をしないといけないんだが。一人っ子で父も亡くなっている俺には関係のない話だ。

 で、だ。ここからは先生から今後の計画の説明だった。
 まず、瞬くんの通院は予定よりかなり回数が減ることになる。
 元々はこれから数年かけて瞬くん用の治療用の装置が開発される予定だった。そのために幼いうちから月に何度かセンターに来て、その時々に必要なチェックを行わなければいけない。それらが一気に解消され、当面投薬治療をはじめるまで、……大体十歳になるまでは隔月くらいの頻度の通院で十分だそうだ。親は瞬くんの様子を細かく記録しなくてはいけないけど、これはどの子も同じだ。
 代わりに俺は月に一回くらいの頻度で血液を抜いてもらいにいくことになる。それも献血くらいの量だそうだ。恐ろしい。
 まあそれはいいんだ。
 問題は、治療内容が大幅に代わり、通院する必要も極端に減ったことで、佐伯は今まで受けられる予定だった支援の条件が満たせなくなったということだった。
 ただ、血縁上の父親からの協力は得られるが、結婚していないという状況は他の人だってある。そのためのシングルマザーとして受けられる支援は問題ないらしい。
 現在センターの紹介で借りている部屋も、現在は余裕があるので次の更新までの半年間はとりあえず住めるらしいが、継続は無理とのことだ。もしもその間に満室になってしまったら、早めに退去して貰う可能性もあると言われた。
 それならそれで、センターからではなく国からの補助だとかは受けられるはずだから、と案内の冊子を貰った。
 どちらにせよ、もしも籍を入れずとも俺が事実婚状態で関与している場合は不正受給にあたるからよく考えるようにと注意された。
 多分これ先生の管轄外の助言だよな……。

「今母子手当とかって受けてる?」
「あ、えっと、まだ……。先月越してくるまではなにもやってなかったと思う、から……。ええと、こっちに来てから色々手続きし始めてて、センターの方を優先してたから……」
「……まあ、そのあたりは二人で話し合って、親御さんにも相談して決めなさい」
「は、はい」

 佐伯は見るからに不安そうに冊子に目を通している。
 そうか、計画を一から練り直さなくてはいけなくなったのだ。
 そして仕事もしていない俺の貯金やバイト代に頼るより、一人で援助を受けていた方が恐らく楽なのではないだろうか。
 かといってその方が得だから、なんて理由で俺が離れるなんていうのは嫌だ。……まあ、佐伯からしたらいい迷惑だろうけど。
 その後はあれこれ書類にサインや判子を押して回った。治療の同意書みたいなものだ。俺には今後血液提供の謝礼が振り込まれるらしい。まあ、将来の薬代で相殺というか足りないくらいの額だが。この金の移動、意味あるか?

 それぞれの説明も細かくして貰ったため、大体一時間半くらいかかっただろうか……。ようやく解放され、先生は、俺にはきちんと職員用の通路を使って出るように言ってから、引っ込んでいった。

「……ごめん、俺のせいで色々台無しになっちゃったよね」
「いや……大丈夫……それで瞬がつらい思いしなくて済むなら……平気」

 しかし佐伯の面もちは心ここにあらずといった様子だ。
 今後の生活のことを考えているんだろうか。そりゃそうだ。自分一人ならきっとどうにかなるが、佐伯には瞬くんがいるのだ。ぎりぎり生きていける生活、じゃ足りないのだ。

「……大丈夫だよ。俺、結構貯金あるんだ。ほら、実家暮らしだし趣味とかないから、貯まる一方でさ。大学で紹介されるバイトって時給いいし」
「……そんなの貰うわけにはいかないよ」
「佐伯たちのために使いたいと思ってバイト頑張ったんだよ! だから気にするなって」

 そういうと、佐伯はより一層悲しそうな顔をしてしまった。
 しまった、なんでまた恩着せがましいことを……。

「……とにかく、うちの親に相談しよう。今夜俺が話しておくから。ね。俺に気を遣うのやめてよ、俺だって瞬くんに不自由なく過ごしてほしいからさ」
「……うん……」

 それに佐伯のことがなにより心配だ。でも、佐伯は多分そんなこと言われても嬉しくもないんだろう。
 このまま俺は帰らないといけない。普通のちゃんとしたまともな親子なら、ここで一緒に瞬くんを迎えにいって一緒に家に帰れるのに。別々だ。

「じゃあ……、また夜に連絡するよ。大丈夫だからさ、そんなに思い詰めたらだめだよ」
「うん……」

 そうして、入り口に佐伯を促す。
 小さな肩がより一層縮こまって見えた。
 こういうとき、俺より一回り大きかったのにな、とぼんやり考えてしまう。……でも今の俺の体格と比べたら、そんなに差はないのかな。
 すると、先ほど貰った資料がまとめられているファイルを両腕で抱えるようにしながら、佐伯はこちらを振り向いた。

「あ、あの」
「ん? なに?」

 佐伯は何度か視線を逸し、躊躇しながら再び口を開く。

「わ、私にもしも……何かあったら……瞬のこと……」
「……うん」
「……いや、ごめん、大丈夫」
「だ、大丈夫ではないでしょ……。縁起でもないこと言うなって。そりゃあもしも何かあれば、絶対なんとかするよ。当然でしょ。もしもがなくても何もなくても瞬くんのことも佐伯のこともなんとかさせてよ」

 ……どの口が言ってるんだろうか。自分に冷静につっこみを入れるもうひとりの自分がいる。
 実際今この状況でなんとかしろ、と言われると、少なくとも住む場所の確保なんかは親の力を借りざるを得ないだろう。
 俺が大学を卒業して働き始めるまでの生活費は、なんとか貯金とバイト代で賄える……と、思う……。就職先さえ見つかれば時間はいくらでもあるわけだし。……まあ、一人暮らしすらしたことがないのに、断言することなんてできないが。三人分の食費や光熱費なんかがいくらかかるかなんて知らないし……。それでも親のスネをかじろうと借金をしようと、なんとかする。
 佐伯はやっぱり力なく、「ごめん、ありがと」と呟くと少しうなだれるようにして応接室から出て行った。
 追いかけたい気持ちを我慢しながら、反対側のドアから俺も廊下にでる。
 大丈夫かなあ……。
 やっぱり今まで辛い思いをしてきたんだろうか。疲れているような、思いつめたような顔ばかり見ている。それは元々の気質なのか、何か原因があるのか、俺のせいなのか、他の誰かのせいなのか……。
 ……いいや、そもそもの原因なんて、勝手に探ったってどうしようもない。とにかく今の問題は生活の不安定さだ。そこをクリアしなきゃ、安心なんかしていられないだろう。
 佐伯は今身寄りがないのだ。その不安感は、ずっと親に守られて生きてきた俺には計り知れない。
 佐伯に手を貸したい人はきっとたくさんいるだろう。和泉のおじさんおばさんだって、俺は直接関わりがあるわけではないけど、高校時代佐伯を引き取ろうなんて話が持ち上がっていたくらいだ。きっと大喜びで支援してくれると思う。住む場所っていうんだったら河合さんだって、結構大きめの一軒家にお父さんと二人暮らしだから部屋は十分空いているだろう。そしてもちろん俺だって、二人のためならなんだってしたいのだ。
 だけど佐伯は誰にも頼らない。助けてくれなんて言わない。
 河合さんが骨折したときも感じたな。このもやもや感。
 でも河合さんの場合、多分無理すれば自分でなんとかできる範囲のことだったから周りに言わなかっただけなのだ。俺になにかさせてほしい、頼ってほしい、という部分は同じだけど、本人たちの心情はまったく違うものだと思う。
 河合さんは言わなかった。必要ないから。でも佐伯は必要でも言えない人なんじゃないかと、俺は思うのだ。
 確信持って言えるほど、佐伯のことを知っているのかと言われると困るんだけどさ……。
 佐伯は言ってた。自分が失敗したら瞬くんも巻き込むことになるって。
 その通りなのだ。だから佐伯にはなんとか、もっと……なんていうんだろうな……そう、もっとふてぶてしくなってほしい。どうにかそうやって、自分のことも幸せにしようと、そう思ってほしい。
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