14章
午後、佐伯たちと別れた俺はそのまま素直に家に戻った。
忘れかけていたけど和泉に暇できたら連絡よこせとメールして、あとは、うーん……、いまいち勉強なんかはやる気が出そうにないな。
ああそうだ、子供の頃俺がプレゼントしてもらった本がどこかにあるはずだ。確認してみようかな。状態がよければ瞬くんにプレゼントするのもいいよな。
たしか書庫にあるはずなんだよな。うちは父と俺と、それから実の父の本がまるまる残っているから膨大な量の本がある。本を売ったり捨てたりという文化はない。借りた本でなければ、読んだ記憶のある本は必ずあるという素敵な家なのだ。
「あー、あったあった」
大きいせいかすぐに見つかった。
アンデルセン、グリム童話、イソップ童話、日本昔話がそれぞれの装丁でまとめられたデザインで、数十冊ある。一冊一冊は薄い、わかりやすく子供向けの本だ。しかし、瞬くんが読むにはちょっと内容が幼すぎるかな……。
対象年齢のはずなんだけど……やっぱりうちの子は天才なのか……!?
まあでも知識としてはこういった連綿と受け継がれている話は頭に入れていて損はないよな。色んな作品の基盤になっていたりするし……。
しかし、俺はあまり物語の本を読まなかったんだよな。一般的な子よりは読んでいる方だとは思うが、読書家の河合さんや和泉なんかに比べるとエンタメへの知識は格段に低い。図鑑の割合がかなり多いのだが、果たして喜んでもらえるだろうか……。
まあ、突然数十冊の量を渡されても佐伯だってスペースに困るよな。とりあえず在り処は確認できたし、要相談だ。
自分で選んで渡すより我が家に来て貰って欲しい本を選んで貰うという方がよさそうだ。
そうなると、まずはうちの親をクリアしなくてはいけないけど……。
それにはまず今後どうするかを決めて、俺が話を先にしてから佐伯たちを連れてくるべきだよな。
……でもなあ、親からしたらそこまでしたら当然結婚するんだと思う……よなあ。そういうプレッシャーを佐伯に与えたくはない……。
そりゃあ俺は結婚したい。仕事もしてないのに言えることじゃないけど……。
くそ~、自分で自分が嫌になってくるな。きちんと自分が納得できる行動をできる力が未だにないのだ。情けない。
せめて高卒で働いていれば……いや、それなら佐伯と再会できなかったわけだし……。だめだだめだ、今更何を後悔したって何も変わらないんだ。
あれこれ考えつつ、目に付いた児童書をまとめて取りやすい位置に整理していると、ポケットに入れていたスマホが震えているのに気付いた。
「あっ……電話……」
センターからだ。こんな早くに連絡がくるとは思わなかった! てっきり、夜か明日になるだろうと踏んでいたのだ。
書庫は電波が悪い、慌てて廊下に出て、自室に戻りながら電話に出た。今後の俺の進退が決まる。気楽に構えていたつもりなのに、緊張で心臓の音がうるさく聞こえた。
---
結果、センターでの就職はやはり難しいだろうと、やんわりした口調で断られた。
そりゃあなあ……検査技師とかもっと内側の仕事ならともかく、いやそれならよかったというわけではないだろうけど……、直接子供や保護者と接する役割なのだ。隠しきれないし、伊藤先生みたいな人の子供が通ってるっていうならまだしも、若い研修生の子供ってなると、まあ、あまりいい目で見られるとは思いにくい。
当然身内だからって治療を優先するとかありえないことなのだが、そう勘ぐる人は絶対いるだろうし、かといってそれをいちいち訂正して回ることなんてできない。トラブルになることは目に見えているよなあ……。
だけど思わぬフォローがあった。
センター勤めがダメだとして、今後どうするのか聞かれたのだ。
もちろん大学で得た資格を生かせる仕事を優先的に当たってみるが、平行して一般の企業も視野に入れて就活するつもりだった。普通センター以外を狙うなら、今頃病院などでも研修が行われているはずだ。それに参加できない分俺は応募できる職種も限られてくるのだ。どこかまだ枠が余っていれば冬の研修に入れる可能性はあるが、正直それをあてにはできない。
そう伝えると、なんと、研修は最後まで参加しなさいと言ってもらえたのだ。
俺はてっきり早々に打ち切られると思っていた。はなからセンターで採用できない相手に手間を割く必要性はない。むしろリスクがあるくらいなのに。積極的にクビ、みたいなことできなくても、辞退を勧められるみたいな状況になるのかなと漠然と覚悟していたのだ。
きちんと最後まで研修を修めていると、他の病院などに就職希望したとしてそこで事前に研修を受ける必要はない。実際は自分で言うのも何だが、いわゆるエリートコースであるセンター勤めを蹴ってまでわざわざそんな遠回りをする奴はまずいないのだが。
社交辞令かもしれないが、優秀な人材を逃しては惜しい、みたいなことを言ってくれた。もちろんこれで就職はもう不安はない! なんて言えないが、絶望視するほどではないだろう。
あとはきちんと最後まで研修を終えなければ。
研修中はやはり周囲の目を気にして瞬くんの診察の時間は俺がいない午後に調整されるらしい。俺一人のためだけに、色々とり計られているのだ。これ以上迷惑はかけられない。
電話を追え、とりあえず佐伯に研修は続けられそうだから大丈夫、などの内容をメールで伝える。明るい感じで。
よし、明日からまた研修だ。研修期間はまだ半分近く残っている。だいぶ気は楽になった。ちゃんと成果を出さなければ。
そう思って机に向かうと、再びスマホがブーブー鳴り始めた。佐伯からだろうか。返信や電話があるなら瞬くんが寝てからだと思ってたけど……と画面を見ると、違った。
和泉昭彦――。
……長くなりそうだな、と腹をくくって開きかけたノートを閉じた。
---
『で?』
「……でって、なんだよ、態度悪いなあ……」
もしもし、の前に、少し平坦な和泉の声が耳に響いた。
なんだこいつ、機嫌悪いのか? かけ直そうかな……。せっかくの大ニュースなのに、つれない反応されたら怒ってしまいそうだ。
しかし、さすがに自分から連絡寄越せと言っておいて切るわけにもいかない。さあてどういう風に切り出してやろうか。驚くだろうなあ。日本に飛んで帰ってくるんじゃないか?
「ふっふっふー、なんだと思う?」
『……なんだよ、さっさと言えよ』
「聞いて驚け! なんと、佐伯が、見つかったんだよー!!」
イエーイ! 俺の人生でも数回しかないぞ、こんなハイテンション!
電話越しにも関わらず、ふふーんと胸を張り和泉の狂喜乱舞する声を待ったが、なぜだかスマホの向こうでは沈黙が続いた。
「あ、あれ? 聞こえてる?」
『……るわ……』
「えっ? なに? ごめんなんか電波悪いみた」
『知っとるわバカ!!!!』
耳持ってかれるかと思った。
電話で怒鳴られたのってはじめてだ。
「えっ……な、ななななんで!? あっ、か、河合さんからもう連絡あった?」
『先週姉ちゃんから電話あったんだよ! いつこっちにも連絡くんのかずっと待ってたのによおー、待てど暮らせどメール一通来やしねえ! どういう了見だ? オイ』
あ、やばい、ヤンキーだ。
怖。なんかキレてるんですけど。
「い、いやいや、そりゃあ和泉にも連絡するつもりだったけどさ、したところで日本に来るわけにもいかないんだしさ、もうちょっと佐伯の状況とか確認したあとの方がいいかなって、佐伯も嫌がってたしさ」
『嫌がるだあ~? あんの野郎ふざけやがって』
あいつはもう野郎じゃないぞ。
しかし和泉はひとしきり文句を言って、少し落ち着いたらしい。よかった、さっぱりしたやつで。
『……で? どんな感じよ、あいつ』
「あ、うん。今は間宮千紗っていうんだって」
『まみやちさあ? 似合わねえな』
「そ、そうかな? ぱっと見女の人らしくなってたけど。まあ、元気にはしてるっぽかったよ。痩せててちょっと心配だけど。子供は瞬くんっていう男の子でさ、ちゃんとお母さんしてた。ママ大好きっ子って感じ」
『へえー……』
「なんだよ、……連絡遅れたのは悪かったよ。向こうも俺らに会わせる顔がないとか、色々気にしてたみたいなんだ、多目に見てよ」
『……いや、別にもう怒ってねえけどさ……』
うーんと考えるような声が聞こえる。
『なんか、実感わかなくて……』
「ああ……、それもそうだ。今度いつこっち帰ってこれるんだよ。今休みじゃないの?」
『まあ休みは休みだけどよ、色々締め切りとかあるからなあ……。金もねえし……。冬になったら考えてみるけど』
「あ、そうなんだ……」
冬か……。遠い話だ。
その頃にはもうちょっと佐伯との関係もよくなっていたら……いいんだけどな……。
『写真とか送ってくんね? あー、あとあいつにおれの電話番号教えといてくれや。出れるかわかんねえけど。あいつ時差とかわかんねえだろうし』
佐伯のことバカだと思ってないか……?
まあ、そうだ。会えなくたって会話はできるんだ。いい時代になったもんだ。
「わかった。……あ、裕子さん次いつこっちに帰るとか言ってた?」
『当分無理なんじゃね? なんかロケ長引いてるつってたし』
「そっか……、一番付き合い長い二人がなかなか会えないのは歯がゆいね」
『まあ帰るまでまた逃げねえように見張っといてくれや』
「頑張るよ」
瞬くんの治療があるのだから大丈夫だろうけど……。
でも、もし瞬くんのことがなければ、佐伯はそもそも地元に寄りつきもしなかったのだろう。
……そう考えるとやっぱ、へこむなあ……。
『なんだよ、お前意外と元気ねえじゃん』
「え、うそ。和泉でもわかる?」
電話の向こうでふんと偉そうに鼻を鳴らすのが聞こえた。
そうだな……たまには和泉に相談してみるって言うのもありかもしれない。唯一佐伯との事情を知っている男友達なんだし。
高校時代だって、和泉に打ち明けていればもっと結果は変わっていたはずなのだ。
「実はさ……俺、佐伯に警戒されてるみたいで……」
『はー? なにしでかしたんだよ』
「なにもしてないよ! 佐伯は自分の気持ちを話したりしてくれないから、推測でしかないけど……、男自体を怖がってるのか、それか昔俺に事情を隠して逃げたことによる負い目みたいなのがあるのか……多分そんなところだと思う。とにかく壁があるっていうか、逃げ腰って感じでさ……」
はー。と、頷くような声が聞こえる。
人に佐伯のことを相談するなんで、不思議な感じだ。
「瞬くんの治療のことがあるから、無理して一緒にいてくれてるだけで、本当は嫌なのかなって思うと……。俺は父親としてやっていきたいと思うし、瞬くんも懐いてくれたんだけど、それも佐伯にとっては重荷だったら……」
『なるほどな。確かにあいつ、そういうとこあるかもな』
……そんなダメ押しみたいなこと聞きたくなかった……。
『直接あいつの様子見ねえとわかんねえけど、お前が変に気ィ回しても余計あいつは申し訳なく思うだけなんじゃね?』
「……そ、そうかな? 気を遣わなければ俺の我儘に合わせてもらうだけになる気がするんだけど」
『あいつは主導権握るのストレスなタイプだし、我儘いうより人に振り回される方が楽な奴っているぜ。……まあ、男性恐怖症つーのがマジなら逆効果かもしれんが』
女性恐怖症であった和泉がいうのだから説得力がある。
そう、それなんだよ。
瞬くんといる間は問題なかった。俺が不用意に距離を詰めることがなかったせいもあるだろうけど、カラオケ屋での距離の取り方とか、怯え方を思うと……。
ああ、今思い出した。高校時代だって、しっかり男を怖がっていたじゃないか。男を怯える理由は佐伯にはいくらだってある。
俺のことは平気だと言ってくれていた。その信頼だって四年経って、相手がすっかり体格なんかが変わっていたとすると、リセットされてもおかしくない。
「恐怖症だった場合……どうしたら治せるんだろうか」
『治せったって無理じゃね。好きで怖がってんじゃねえし。カウンセリングとか?』
カウンセリング。まあそうなるか。でも俺と仲良くするためにカウンセリング受けて治してね、なんてのは無茶苦茶だ。
……まあ、男性恐怖症かどうかもわからないのだが。ただ俺のことが嫌いで距離を取りたいだけって可能性も十分あるわけだし……。
「……どうすればいいんだよ~」
『本人に聞くしかねえだろ。本人が言いたくないってんならそれまでってこった』
そんなご無体な……。
……結局、和泉との相談で果たしてみのりはあったと言えるのだろうか。よくわからないまま通話を終えた。
まあ、ひとまずこれで和泉にも河合さんにも報告できたのだからすっきりした。
長門やしのぶちゃんは……どうだろう? 特にしのぶちゃんは協力して貰ったし、きちんと報告したいのだが、あまり佐伯について吹聴してまわるのもなあ……。
佐伯家でどういった判断が下ったのか、詳細は聞いていないが、もし巡り巡って佐伯家の面々に佐伯が帰ってきたという話が伝わったらどうなるのか想像つかない。それでまた佐伯がここにはいられないってことになったらいけないし……。
まあ急いで報告しなきゃいけないってことはないよな。時期を見て佐伯の反応を伺いつつメールしよう。
とにかく、高校時代、佐伯を含めて仲良くしていた和泉と河合さんには伝えられたんだ。
こそこそと付き合っていた頃から、自覚はしていなかったが少し引け目とか罪悪感は持っていたらしい。それがなくなった。
今日はなんだかいいことづくめじゃないか? 今夜はよく寝れそうだ。いつもよく寝てるけど。
忘れかけていたけど和泉に暇できたら連絡よこせとメールして、あとは、うーん……、いまいち勉強なんかはやる気が出そうにないな。
ああそうだ、子供の頃俺がプレゼントしてもらった本がどこかにあるはずだ。確認してみようかな。状態がよければ瞬くんにプレゼントするのもいいよな。
たしか書庫にあるはずなんだよな。うちは父と俺と、それから実の父の本がまるまる残っているから膨大な量の本がある。本を売ったり捨てたりという文化はない。借りた本でなければ、読んだ記憶のある本は必ずあるという素敵な家なのだ。
「あー、あったあった」
大きいせいかすぐに見つかった。
アンデルセン、グリム童話、イソップ童話、日本昔話がそれぞれの装丁でまとめられたデザインで、数十冊ある。一冊一冊は薄い、わかりやすく子供向けの本だ。しかし、瞬くんが読むにはちょっと内容が幼すぎるかな……。
対象年齢のはずなんだけど……やっぱりうちの子は天才なのか……!?
まあでも知識としてはこういった連綿と受け継がれている話は頭に入れていて損はないよな。色んな作品の基盤になっていたりするし……。
しかし、俺はあまり物語の本を読まなかったんだよな。一般的な子よりは読んでいる方だとは思うが、読書家の河合さんや和泉なんかに比べるとエンタメへの知識は格段に低い。図鑑の割合がかなり多いのだが、果たして喜んでもらえるだろうか……。
まあ、突然数十冊の量を渡されても佐伯だってスペースに困るよな。とりあえず在り処は確認できたし、要相談だ。
自分で選んで渡すより我が家に来て貰って欲しい本を選んで貰うという方がよさそうだ。
そうなると、まずはうちの親をクリアしなくてはいけないけど……。
それにはまず今後どうするかを決めて、俺が話を先にしてから佐伯たちを連れてくるべきだよな。
……でもなあ、親からしたらそこまでしたら当然結婚するんだと思う……よなあ。そういうプレッシャーを佐伯に与えたくはない……。
そりゃあ俺は結婚したい。仕事もしてないのに言えることじゃないけど……。
くそ~、自分で自分が嫌になってくるな。きちんと自分が納得できる行動をできる力が未だにないのだ。情けない。
せめて高卒で働いていれば……いや、それなら佐伯と再会できなかったわけだし……。だめだだめだ、今更何を後悔したって何も変わらないんだ。
あれこれ考えつつ、目に付いた児童書をまとめて取りやすい位置に整理していると、ポケットに入れていたスマホが震えているのに気付いた。
「あっ……電話……」
センターからだ。こんな早くに連絡がくるとは思わなかった! てっきり、夜か明日になるだろうと踏んでいたのだ。
書庫は電波が悪い、慌てて廊下に出て、自室に戻りながら電話に出た。今後の俺の進退が決まる。気楽に構えていたつもりなのに、緊張で心臓の音がうるさく聞こえた。
---
結果、センターでの就職はやはり難しいだろうと、やんわりした口調で断られた。
そりゃあなあ……検査技師とかもっと内側の仕事ならともかく、いやそれならよかったというわけではないだろうけど……、直接子供や保護者と接する役割なのだ。隠しきれないし、伊藤先生みたいな人の子供が通ってるっていうならまだしも、若い研修生の子供ってなると、まあ、あまりいい目で見られるとは思いにくい。
当然身内だからって治療を優先するとかありえないことなのだが、そう勘ぐる人は絶対いるだろうし、かといってそれをいちいち訂正して回ることなんてできない。トラブルになることは目に見えているよなあ……。
だけど思わぬフォローがあった。
センター勤めがダメだとして、今後どうするのか聞かれたのだ。
もちろん大学で得た資格を生かせる仕事を優先的に当たってみるが、平行して一般の企業も視野に入れて就活するつもりだった。普通センター以外を狙うなら、今頃病院などでも研修が行われているはずだ。それに参加できない分俺は応募できる職種も限られてくるのだ。どこかまだ枠が余っていれば冬の研修に入れる可能性はあるが、正直それをあてにはできない。
そう伝えると、なんと、研修は最後まで参加しなさいと言ってもらえたのだ。
俺はてっきり早々に打ち切られると思っていた。はなからセンターで採用できない相手に手間を割く必要性はない。むしろリスクがあるくらいなのに。積極的にクビ、みたいなことできなくても、辞退を勧められるみたいな状況になるのかなと漠然と覚悟していたのだ。
きちんと最後まで研修を修めていると、他の病院などに就職希望したとしてそこで事前に研修を受ける必要はない。実際は自分で言うのも何だが、いわゆるエリートコースであるセンター勤めを蹴ってまでわざわざそんな遠回りをする奴はまずいないのだが。
社交辞令かもしれないが、優秀な人材を逃しては惜しい、みたいなことを言ってくれた。もちろんこれで就職はもう不安はない! なんて言えないが、絶望視するほどではないだろう。
あとはきちんと最後まで研修を終えなければ。
研修中はやはり周囲の目を気にして瞬くんの診察の時間は俺がいない午後に調整されるらしい。俺一人のためだけに、色々とり計られているのだ。これ以上迷惑はかけられない。
電話を追え、とりあえず佐伯に研修は続けられそうだから大丈夫、などの内容をメールで伝える。明るい感じで。
よし、明日からまた研修だ。研修期間はまだ半分近く残っている。だいぶ気は楽になった。ちゃんと成果を出さなければ。
そう思って机に向かうと、再びスマホがブーブー鳴り始めた。佐伯からだろうか。返信や電話があるなら瞬くんが寝てからだと思ってたけど……と画面を見ると、違った。
和泉昭彦――。
……長くなりそうだな、と腹をくくって開きかけたノートを閉じた。
---
『で?』
「……でって、なんだよ、態度悪いなあ……」
もしもし、の前に、少し平坦な和泉の声が耳に響いた。
なんだこいつ、機嫌悪いのか? かけ直そうかな……。せっかくの大ニュースなのに、つれない反応されたら怒ってしまいそうだ。
しかし、さすがに自分から連絡寄越せと言っておいて切るわけにもいかない。さあてどういう風に切り出してやろうか。驚くだろうなあ。日本に飛んで帰ってくるんじゃないか?
「ふっふっふー、なんだと思う?」
『……なんだよ、さっさと言えよ』
「聞いて驚け! なんと、佐伯が、見つかったんだよー!!」
イエーイ! 俺の人生でも数回しかないぞ、こんなハイテンション!
電話越しにも関わらず、ふふーんと胸を張り和泉の狂喜乱舞する声を待ったが、なぜだかスマホの向こうでは沈黙が続いた。
「あ、あれ? 聞こえてる?」
『……るわ……』
「えっ? なに? ごめんなんか電波悪いみた」
『知っとるわバカ!!!!』
耳持ってかれるかと思った。
電話で怒鳴られたのってはじめてだ。
「えっ……な、ななななんで!? あっ、か、河合さんからもう連絡あった?」
『先週姉ちゃんから電話あったんだよ! いつこっちにも連絡くんのかずっと待ってたのによおー、待てど暮らせどメール一通来やしねえ! どういう了見だ? オイ』
あ、やばい、ヤンキーだ。
怖。なんかキレてるんですけど。
「い、いやいや、そりゃあ和泉にも連絡するつもりだったけどさ、したところで日本に来るわけにもいかないんだしさ、もうちょっと佐伯の状況とか確認したあとの方がいいかなって、佐伯も嫌がってたしさ」
『嫌がるだあ~? あんの野郎ふざけやがって』
あいつはもう野郎じゃないぞ。
しかし和泉はひとしきり文句を言って、少し落ち着いたらしい。よかった、さっぱりしたやつで。
『……で? どんな感じよ、あいつ』
「あ、うん。今は間宮千紗っていうんだって」
『まみやちさあ? 似合わねえな』
「そ、そうかな? ぱっと見女の人らしくなってたけど。まあ、元気にはしてるっぽかったよ。痩せててちょっと心配だけど。子供は瞬くんっていう男の子でさ、ちゃんとお母さんしてた。ママ大好きっ子って感じ」
『へえー……』
「なんだよ、……連絡遅れたのは悪かったよ。向こうも俺らに会わせる顔がないとか、色々気にしてたみたいなんだ、多目に見てよ」
『……いや、別にもう怒ってねえけどさ……』
うーんと考えるような声が聞こえる。
『なんか、実感わかなくて……』
「ああ……、それもそうだ。今度いつこっち帰ってこれるんだよ。今休みじゃないの?」
『まあ休みは休みだけどよ、色々締め切りとかあるからなあ……。金もねえし……。冬になったら考えてみるけど』
「あ、そうなんだ……」
冬か……。遠い話だ。
その頃にはもうちょっと佐伯との関係もよくなっていたら……いいんだけどな……。
『写真とか送ってくんね? あー、あとあいつにおれの電話番号教えといてくれや。出れるかわかんねえけど。あいつ時差とかわかんねえだろうし』
佐伯のことバカだと思ってないか……?
まあ、そうだ。会えなくたって会話はできるんだ。いい時代になったもんだ。
「わかった。……あ、裕子さん次いつこっちに帰るとか言ってた?」
『当分無理なんじゃね? なんかロケ長引いてるつってたし』
「そっか……、一番付き合い長い二人がなかなか会えないのは歯がゆいね」
『まあ帰るまでまた逃げねえように見張っといてくれや』
「頑張るよ」
瞬くんの治療があるのだから大丈夫だろうけど……。
でも、もし瞬くんのことがなければ、佐伯はそもそも地元に寄りつきもしなかったのだろう。
……そう考えるとやっぱ、へこむなあ……。
『なんだよ、お前意外と元気ねえじゃん』
「え、うそ。和泉でもわかる?」
電話の向こうでふんと偉そうに鼻を鳴らすのが聞こえた。
そうだな……たまには和泉に相談してみるって言うのもありかもしれない。唯一佐伯との事情を知っている男友達なんだし。
高校時代だって、和泉に打ち明けていればもっと結果は変わっていたはずなのだ。
「実はさ……俺、佐伯に警戒されてるみたいで……」
『はー? なにしでかしたんだよ』
「なにもしてないよ! 佐伯は自分の気持ちを話したりしてくれないから、推測でしかないけど……、男自体を怖がってるのか、それか昔俺に事情を隠して逃げたことによる負い目みたいなのがあるのか……多分そんなところだと思う。とにかく壁があるっていうか、逃げ腰って感じでさ……」
はー。と、頷くような声が聞こえる。
人に佐伯のことを相談するなんで、不思議な感じだ。
「瞬くんの治療のことがあるから、無理して一緒にいてくれてるだけで、本当は嫌なのかなって思うと……。俺は父親としてやっていきたいと思うし、瞬くんも懐いてくれたんだけど、それも佐伯にとっては重荷だったら……」
『なるほどな。確かにあいつ、そういうとこあるかもな』
……そんなダメ押しみたいなこと聞きたくなかった……。
『直接あいつの様子見ねえとわかんねえけど、お前が変に気ィ回しても余計あいつは申し訳なく思うだけなんじゃね?』
「……そ、そうかな? 気を遣わなければ俺の我儘に合わせてもらうだけになる気がするんだけど」
『あいつは主導権握るのストレスなタイプだし、我儘いうより人に振り回される方が楽な奴っているぜ。……まあ、男性恐怖症つーのがマジなら逆効果かもしれんが』
女性恐怖症であった和泉がいうのだから説得力がある。
そう、それなんだよ。
瞬くんといる間は問題なかった。俺が不用意に距離を詰めることがなかったせいもあるだろうけど、カラオケ屋での距離の取り方とか、怯え方を思うと……。
ああ、今思い出した。高校時代だって、しっかり男を怖がっていたじゃないか。男を怯える理由は佐伯にはいくらだってある。
俺のことは平気だと言ってくれていた。その信頼だって四年経って、相手がすっかり体格なんかが変わっていたとすると、リセットされてもおかしくない。
「恐怖症だった場合……どうしたら治せるんだろうか」
『治せったって無理じゃね。好きで怖がってんじゃねえし。カウンセリングとか?』
カウンセリング。まあそうなるか。でも俺と仲良くするためにカウンセリング受けて治してね、なんてのは無茶苦茶だ。
……まあ、男性恐怖症かどうかもわからないのだが。ただ俺のことが嫌いで距離を取りたいだけって可能性も十分あるわけだし……。
「……どうすればいいんだよ~」
『本人に聞くしかねえだろ。本人が言いたくないってんならそれまでってこった』
そんなご無体な……。
……結局、和泉との相談で果たしてみのりはあったと言えるのだろうか。よくわからないまま通話を終えた。
まあ、ひとまずこれで和泉にも河合さんにも報告できたのだからすっきりした。
長門やしのぶちゃんは……どうだろう? 特にしのぶちゃんは協力して貰ったし、きちんと報告したいのだが、あまり佐伯について吹聴してまわるのもなあ……。
佐伯家でどういった判断が下ったのか、詳細は聞いていないが、もし巡り巡って佐伯家の面々に佐伯が帰ってきたという話が伝わったらどうなるのか想像つかない。それでまた佐伯がここにはいられないってことになったらいけないし……。
まあ急いで報告しなきゃいけないってことはないよな。時期を見て佐伯の反応を伺いつつメールしよう。
とにかく、高校時代、佐伯を含めて仲良くしていた和泉と河合さんには伝えられたんだ。
こそこそと付き合っていた頃から、自覚はしていなかったが少し引け目とか罪悪感は持っていたらしい。それがなくなった。
今日はなんだかいいことづくめじゃないか? 今夜はよく寝れそうだ。いつもよく寝てるけど。