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2章

 夕日を眺めながら俺は歩いていた。
 時刻的に学校帰りだろうか。
 うん、きっとそうだ。……いや、遊びに行ったんだっけな。
 だって学校帰りにこんな道は通らない。ほとんどバスに揺られてるんだし。
 あ、そうだ、佐伯がいるはずだ。
 あいつは足が長いからいつも少し先を歩くのだ。
 目を向けようとして、太陽を直に見てしまって思わず目を閉じた。
 目を閉じると眩しくなんてなかった。
 でも開けないと、何も見えない。
 多分佐伯は呆れながら俺の目が慣れるのを待っていることだろう。
 そんな姿を想像して、あれ? でも思い描く姿は間違っているような気がした。
 あ、そうか。
 これ夢か。
 夢の中の佐伯はどんな姿をしているんだろう。気になってしょうがないのに確認できない。
 だって眩しいんだ。

---

 ふと、夢の中で母が話していた。
 父親は仕事中だし、俺は寝てるし、電話の時とは雰囲気が違う気がする。というか、ちゃんと話し相手もいるみたいだし……誰かお客がいるんだろうか。珍しいことだ。
 ノックの音で目が覚めた。

「流ちゃん、起きれる? お友達がお見舞いに来てくださったのよ」
「えっ!? あ、は、はい! どうぞ!」

 現実だったのか!
 完全に夢の中だと思い込んでいた。時計を見るとすでに夕方の時間を指している。
 今日俺は久しぶりに体調を崩し、一日休んでいたのである。
 大した状態ではない。念の為みたいなものだ。

「きたよ〜」

 いつもの能天気な喋り方をして部屋に入ってきたのは、今時っぽい女子高生だった。
 いや、佐伯なんだけど。

「ど、どど、どうしたんだよ。一人で来たの?」
「そうだよ? 和泉とか連れてきたほうがよかった?」

 いや、まあ今までほとんど一人でお見舞い来てたけどさ!
 女子が一人でお見舞いにきたことを母親に知られるのがものすごく嫌だ!
 そりゃあ佐伯は俺の後ろの席だし、俺の家を知ってる奴は少ないし、これまでだってよくプリントとか届けにきてはくれていた。
 バス代かかると思うんだけどな……いつもそこが気になっている。家の近さでいうと河合さんの方がよっぽど近いのだ。
 俺は佐伯が休んでもお見舞いにいくことなんてまずないし。
 今回もいつもの調子で来てくれたんだろうけど……、今更になって申し訳ない気持ちが出てきた。

「マ……母親にはなんて……?」
「ちゃんと説明したよー。最初は全然信じてくれなかったけど、喋ってたらわかってくれたみたい!」

 何でもないことのようにさらりと言って、俺が寝ているベッドの縁にとすんと座った。
 咄嗟に足を引っ込めて、俺も座る。

「こないだこっそりおうちに泊めてもらっちゃったでしょ? そのこと謝りたくて……」

 ギクリとする。いくら元男とはいえ、女子を親に黙って部屋に泊めるなんて、完全にアウトだ。
 邪な心があるんじゃないかと母親に疑われるのはいくらなんでもきつい。いや、そりゃあちょっとあったけどさ。
 あのときだって異常事態とはいえちゃんと説明すればいい話で、黙ってる時点で下心がありますというようなもんじゃないか。どう言い訳すれば、と内心パニックになっていたが、佐伯は肩をすくめた。

「でもやめたよ。知らない間に他人が泊まってたってあとから聞いても気分悪いだけだろうし。桐谷も気まずいでしょ」
「あ、はい……ありがとう……」

 よ、よかった……。
 ホッとしていると佐伯はニッコリと笑った。ちゃんとわかってるでしょ、というような顔だ。
 そして床に腰を下ろし、鞄を漁る。

「これ、今日でた宿題ね。ちっちゃい方は明日すぐ答え合わせだから。あとのは修学旅行から帰ったあと提出だから、忘れちゃだめだよ?」
「ああ、わかった、ありがとう」
「でー、こっちが返却されたノート。あと進路相談のプリントね」

 1つ1つ手渡されるのを確認していく。
 こういうやりとりは今までも何度かあった。
 慣れた光景のはずなのに、鞄を探ってる佐伯の顔にかかる髪が長いこととか、佐伯が女の子座りしてて、スカートが丸く広がってることとか、今までとの違いがひどく目につく。
 なんだか、ひどく異質だった。
 姿が変わってから半月以上経ち、すでに馴染んでしまいつつある姿を今になって不思議に思うのはおかしな話だ。
 でも何故だか浮き彫りになったように感じた。
 普段から意識してないわけじゃなかったけど、それでも周りに人がいることで気が紛れてたんだ。
 こんなの、もうすっかり別人じゃないか?
 まだ頭が寝ぼけているんだろうか。ふわふわと異世界にでもいるような感覚が続いていた。でもやっぱりそれは、寝起きだからと言うより、やっぱり佐伯の姿のせいなような気がする。
 俺が黙っているせいか、佐伯は所在なさげだった。それでもすぐ帰るという気持ちにはならなかったらしい。

「桐谷、体調どう?」
「ああ、大丈夫。多分明日は学校行けると思う」
「そっか。よかったねえ、修学旅行と被んなくて」

 なんでもないやりとりだ。俺が旅行に行こうと行くまいと佐伯には関係ないことなのに、ほっとしたようにと笑うのが不思議だった。

 ふと、不安になった。
 ちゃんとこの佐伯は、この半年ずっと友達としてやってきたあの佐伯なんだろうか。
 いつの間にか、佐伯のふりをした別人がすり替わってるんじゃないだろうか。
 そんなわけない。
 だって、喋り方だって、俺との接し方だってなにひとつ変わらず、佐伯は佐伯のままなのだ。
 ただ、見た目が変わっただけ。
 それなのに俺はぎこちない。
 俺は腰をずらして、ベッドの前に座った。
 目線が同じ高さになる。
 猫っぽい目だと思う。でも前より少し柔らかい目つきのような気がする。
 佐伯とじっくり見つめ合うなんてしたことなかったから、多分だけど。
 少しだけ困ったような顔で、黙ってこっちを見つめ返している。俺の感情を必死に読み取ろうとしているように思えた。
 困ってるけど、いつものように困り笑いはしていない。

「あ、あのさあ……さ、触ってみても、いい?」
「えっ?」

 つっかえながら言ってしまった俺の言葉に、佐伯は肩を跳ねさせて驚いた声を上げた。
 それから佐伯は静かに戸惑っていた。いや、不安がっているんだろうか。
 がっかりされたくないなと、今更思った。きっともう手遅れだろう。
 視線を落として、口を一度きゅっと結んでから小さく頷いた。
 さっきまで笑ってくれていたのに、俺がこんな顔にさせてしまったのだと思うととてつもなく悪いことをしたような気がする。

「いいよ」

 その声には感情が乗ってなかった。
 怯えながら、ゆっくりと床で握られていた手に触れると、力が緩んだ。
 冷たい手だった。
 手を繋ぐのでも、握手とも違う、形を確かめるように触る。冷たくて、さらさらで、手も爪も俺より小さかった。
 多分、体全部、そうなんだ。
 前の佐伯の手なんてこうしてじっくりと触ったことなんてない。
 でも大きな手だと思った記憶がある。骨ばっていて、でも無骨ってほどじゃなかったと思う。

「手だけでいいの?」

 反射的に顔を上げる。
 表情の見えない顔でこちらを見ていた。佐伯はいつも笑ってるのに。

「い、や……悪いよ……。気持ち悪いだろ、男に触られるの」
「いいよって言ってるのに?」

 ひゅっと息を呑み込む。
 やっぱり、佐伯らしくない。
 いつもおどけて、ヘラヘラ笑ったり、怒ったふりをして俺のバカな発言を流すのに。
 佐伯はいつも、人を振り回したりなんかしない。
 困らせたりしない。
 でも、俺にプリントを届けてくれて、すぐにうちの母親と打ち解けて、遠慮もなくベッドや床に腰掛けるのは佐伯だけだ。
 もっと、いつも通り笑ったり、冗談っぽく嗜めたりして欲しいのに、なんでそうしないんだろう。
 俺が触りたがったせいで、怒ってるんだろうか。それならなぜ触ってもいいと言うんだろうか。
 佐伯が何を考えてるのか、全くわからない。佐伯だって、俺が考えてることなんかわからないだろうけど。

 どこを触って良いのかわからなかった。どこも触っちゃいけないと思った。なんであんなことを言ってしまったのか、後悔した。
 何度か、躊躇して、手を開いて握ってを繰り返して、うまく話を逸らして、なかったことにする方法を模索しているうちに、俺の手をそっと佐伯が掴んで、自分の胸に手を当てさせた。反射的に手を引っ込めそうになって、それでもわかった。
 厚手の服の感触と、下着の感触と、それから少し膨らんでるのがわかった。隠しようがなかった。
 生まれて始めて触ったっていうのに、何度も妄想したくせに、嬉しいとか興奮するとかそんなのひとつもなかった。ただ、人の体を触って、形を確認したのだという感覚しか頭に残らなかった。
 佐伯が俺の手を離したあとも、すぐに手を引いたらまるで気味悪がっているように思われそうで、かといってどのくらいの強さで触れていいのかわからなくて、本当に、ただゆっくり、手を下ろした。
 佐伯は無表情だった。
 裕子さんとは手が触れるだけで真っ赤だったのに。
 もう、これ以上は触れられないと思った。
 湧き上がったのは罪悪感だった。
 俺が触りたがったから、佐伯は触らせたのだ。それ以上の感情はないのだ。

「ご、ごめん……」

 消えてなくなりそうな声を、絞り出すしかなかった。
 佐伯の顔が少しだけ歪んで、でも、泣いたり、怒ったり、不快感を表したりはしない。
 ただそのままの姿勢で、少しだけ上目遣いで、こちらを見て言った。

「桐谷、オレが男だったら、こんな風にじっと見たり、触ったりなんか、しなかったでしょ」
「それは……当たり前じゃん」

 だって、女じゃなければ、佐伯は最初から男で、そこにいて、何も確かめることなんてなかった。
 ずっと見たままの佐伯だ。
 それなのに、佐伯は一瞬で失望するような、何かを諦めるような、そんな目をした。
 すぐに俯いて、表情が見えなくなる。
 床に下ろした佐伯の手は拳を握って、真っ白になっていた。

「……男に戻りたいなあ……」

 震える声で、それだけ呟いた。
 声だけは誤魔化すようにちょっと笑ったような喋り方だったけど。
 俺は、何も言えなかった。
 佐伯が望んでいる答えが何も思いつかなかった。
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