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14章

「いらっしゃいまー……せ」

 小さな店主は目をまんまるにして口を開けていた。
 店に入るなり、瞬くんは店主の異様な反応には目もくれず、俺と佐伯の手をふりほどいて低めの机に並べられた絵本コーナーに走った。ああそうか、瞬くんの目の高さだと棚が邪魔で、レジの方が見えなかったのかもしれない。

「ひ、久しぶり……、瞬、お店の中では歩こうね」

 緊張のせいか、少しひきつった顔で佐伯は、それでも息子に声をかけることを忘れない。

「久しぶりなんてもんじゃないわよ、あなた……。き、桐谷まで……」
「ご、ごめん、なんていうか、サプライズ……みたいな……」

 本屋の店主である河合さんはレジから出てくると、瞬くんに目を向け、それから佐伯と、俺とを順繰りにみた。俺には責めるようなじっとりとした目を向けていて、ちょっと気まずい。
 昨日の間に河合さんにはゆっくり話したいので訪ねても良いか、という連絡はしていたのだ。
 ただ佐伯のことを伏せていたのはちょっといたずら心が沸いたというか……なんといいますか……。

「瞬、ちょっと待って。店員さんにご挨拶しよ。ママのお友達なの」

 本棚の前にひっついていた瞬くんの肩を叩いて、佐伯が示すとようやく瞬くんはその状況に気付いたようで、佐伯に引っ付いて店主の顔を見上げる。

「……はじめまして、まみやしゅんです」
「は、はじめまして、河合雪葉です」

 河合さんは礼儀正しくお辞儀した瞬くんにあわせてお辞儀して、それから助けを求めるようにこちらに視線を送ってくる。

「ママ、もう本みてもいい?」
「いいよ、大事に触ろうね」
「あ、じゃあ二人でゆっくり話してなよ」

 俺がそう進言すると、佐伯は目をぱちぱちとさせて「いいの? 大丈夫?」とちらりと瞬くんに視線を落とす。
 大人の会話なんてつまらないだろうし、今日は俺が瞬くんと打ち解けるために設けられたのである。

「瞬、お兄ちゃんに好きな本教えてあげて? ママはすぐそこにいるからね」

 瞬くんの興味は本に注がれているらしい。わかったわかったというように頷いている。ママにべったりだったのに、そこはいいんだ……。
 佐伯はその姿に苦笑して、俺にお願いねと言うとそろそろと河合さんのそばによる。

「……河合さん、急に来てごめんね?」
「さ、佐伯、あの……」
「今は間宮千紗なんだ。……お仕事中だったんだよね、お客さんきたらすぐに退散するから……」
「ああ……、いいのよそれは。元々桐谷から時間あけとくように言われてたし。この時間はいつも暇だから。ほら、日が高いでしょ? 暑い中わざわざこんなとこまでこないのよ。ちょっとお休みの看板出してくるわね」

 ぱたぱたと河合さんは表へ出て行った。ご、ごめん、変なサプライズして……。

「すごい、ほんとにお店継いだんだ。立派だねえ……」

 佐伯は物珍しげに店内を見回している。
 ふと、瞬くんがこちらを見ているのに気付いて、慌てて身をかがめる。

「おにいちゃんあの本とって」
「え、どれだろ。これ? エルマーかな?」

 小学校低学年が読む本じゃないだろうか……。読み聞かせしてもらうならこのくらいがいいのかな。でもまだ三歳だろ。もうじき四歳とはいえ……。ちょっと早熟なんじゃないだろうか。うちの子天才なのかな。なんつって。
 来年二年制の幼稚園に入るという年だとすれば、まだ桃太郎なんかが現役じゃないかと思っていたんだが、この厚さの本を毎晩読み聞かせるとなると佐伯も大変だな。
 瞬くんは手に取った本をふんふんと眺めている。意味がわかってるんだか、わかってないんだか。俺は紙を折ったりしないか冷や冷やしているのだが。
 一方佐伯は、戻ってきた河合さんに促されて奥の座敷に通されていた。河合さんが気を利かせてのれんを外して、佐伯は座敷に腰掛けつつ足は下ろしたまま、いつでもこちら側を確認できて駆け寄れる体勢となっていた。河合さんは奥に座ったので、壁に遮られて姿は見えない。
 しかし他に人はいないし、広い店というわけでもないので会話は自然と耳に入ってきた。

「急にどうしたのよ、びっくりしたじゃない」
「ごめんね、ほんと……。えっと、私の……その、学校やめた事情って、桐谷から話聞いてる?」
「ざっくりとだけ……。あ、麦茶でいいかしら。息子さんにジュース出す?」
「ありがと。今は本に夢中だから、あとでお願いしようかな。あ、これ、えっと、あんまりあれなものですが……」
「ふふっなにそれ。つまらないものですが……でしょ。あら、ゼリー? いいわね。あとでみんなで食べましょうか」

 あ、なんかちょっと成長を感じる会話だ……。
 河合さんにしてはまるで四年ぶりの再会とは思えないほどスムーズに会話ができているし、それでも子供同士の会話とも違う。かといって来客や訪問に慣れた大人の会話とも言えないけど、なんだかこういうの、いい。

「ねえおにいちゃん」
「んっ、何?」
「しゃえきってなに?」
「え?」

 急な質問に、反応が遅れてしまった。確かに河合さんは佐伯と言ったけど、本を見ている間もずっと尋ねるタイミングを伺っていたんだろうか。

「ママの前の名前だよ。佐伯って名前だったけど、間宮さんって人と結婚したから、ママも間宮って名前に変わったんだよ。お兄ちゃんたちは結婚する前のときにお友達になったから、間違えて前の名前で呼んじゃったんだよ」
「でもママねえ、りこんしたんだよ」
「そうだね……、でもママが名前変えると、瞬くんも変えなきゃいけなくなるんだよ。あんまり名前が変わったら、困るでしょ? だからそのままなんじゃないかな」
「でもしゅんもまえのなまえほしいんですけど……」
「ですけどって言われても……」

 か、可愛い……。喋ってる……。
 お兄ちゃんとママが結婚したら間宮が前の名前になるよ。ママ次第だけど……。なんて、そんなことは当然言えない。
 しかし瞬くんはそれで納得したようで、立ち読みモードに入ってしまった。
 ……思った以上に会話がしっかりと成立して驚いた。
 ああでも、ママがそばにいると恥ずかしいのか隠れてしまうけど、一人になると案外勇気が出せるという子はいるし、瞬くんもそういうタイプなのかもしれない。
 子供の目線に合わせる体勢に疲れて、床にそのまま正座になる。今日はラフな格好をしているし、多少汚れるくらいなら構わないのだ。
 あ、でも店の中で座り込むなんて教育によくないのかな……。
 椅子を借りようか、でも子供用の椅子はなさそうだよなあ……ダメもとで聞いてみるかな。
 そう思っていると突然瞬くんは100万回生きたねこを開きながらちょこんと俺の足に腰掛けた。そのための場所です、とでも言うように。
 え……なにこれ……。この温もり……。可愛いんですけど……。え……?
 見て! 佐伯! 見て!! と主張したいのだが、瞬くんから目が離せない。だって、目を離して体勢を動かしたら落ちちゃうんじゃないか、座るのをやめちゃうんじゃないか、そんな儚さを感じるのだ……!

「これすき?」
「え? ああ、うん、好きだよ。瞬くんは読んだことある?」
「はんぶんくらい……」
「半分だけ?」
「せんせえがよんでるときにママきたから……」
「……ああー、センターで読んで貰ったのかな。続き気になる?」
「んー」

 俺は必死に平静を保った。
 これにするのかな、と思ったのだが、まだ悩みたいのだろうか。

「ねえきいたにっておにいちゃんのなまえ?」
「そ、そうだよ」
「ふーん」

 話が変わった!
 どういう順番で物事を把握しているのか、思考の流れがよくわからないな。
 喋りながら瞬くんはぺらぺらとページをめくっている。多分文字は追えていない速度だから絵だけを見ているのだろう。

「さっきのおんなのこもまえのなまえある?」
「女の子? 河合さんのこと? 河合さんはまだ結婚したことないから前のお名前はないよ」
「こどもだから?」
「ふっ……」

 いかん、吹き出しそうになった。
 そうか、小さい子からみたらこんな年上はみんな大人に見えるんだろうと思っていたけど、河合さんは子供に見えるのか……。
 たしかに髪型以外殆ど成長が見られないけどさ……。化粧だって殆どしてないみたいだし。

「おにいちゃんもまえのなまえある?」
「いやに前の名前にこだわるね。お兄ちゃんもまだ結婚してないからないよ。それに男の人はあんまり名前変わらないことが多いかなあ……」
「あ、そーなんだー」

 お、今の受け応え、ちょっと大人っぽい。佐伯か誰かの真似だろうか。
 そしてうちの親は再婚だから、俺も一応前の名前というのはあるんだけどな……。……まあ、ややこしくなりそうだし、いいか。
 佐伯なんかすごいぞー、下の名前ももう一個あるんだぞー。
 こっちの話は墓まで持って行くことになるんだろうけど。

「瞬ー、本決まった?」
「ママもこっちきてよー」

 そう言いつつ自分が佐伯の方へ行くことはしない。
 俺も俺で瞬くんが膝に乗っているので動けないし。

「どうする? 100万回生きたねこにする? それともエルマーのぼうけんかな」
「どっちも!」

 いいよ〜と答えようとしたところで佐伯が口を挟む。

「だーめ、どっちか選ぼ。今日の夜どっち読んで欲しい?」

 佐伯はすぐにやってきて、俺の前にしゃがみこんで瞬くんを窘めた。瞬くんはまるで社長のようにこちらに背中を預けて、どんどん下にずれていっている。
 奥から河合さんは身を乗り出してこちらを観察しているのがわかった。向こうも向こうで、こちら側にはやってこない。まるで向こうが河合さんの縄張りで、こっちが瞬くんの縄張りのようだ。

「どっちもがいい」
「なんでだよー、ママ二冊も読めないよ。瞬だって寝ちゃうでしょ? どっちか選ぼうよ」

 別におもちゃじゃないんだし、本ならいくらでも買ってあげてもいいんじゃないだろうかと思ってしまうのだが、俺が口出ししていいところではないよな……。
 俺は本は欲しいだけ買って貰ってたような記憶あるんだよな。いや、欲しいという前に読み切れない量の本がどんどん集まってきたんだったか。
 まあ、今はどうでもいいか。瞬くんは物わかりのいい子らしいが、年相応に駄々をこねているみたいで、ちょっと安心する。佐伯からすると困りものなのかな。

「瞬くん、ママ困ってるよ。片方はまた今度にしよう」
「……」

 ずり落ちて完全に膝枕のような形になっている瞬くんと目がぱっちりと合う。

「ねこにする……」
「おっ! えらい! ありがとー!」

 佐伯が大げさに褒めるが、瞬くんは納得いかなさげだ。
 な、なんか心にくるな……。本くらい買ってあげるのに……そしたらきっと笑顔になってくれるのに……。
 口パクとジェスチャーで佐伯に、ほんとに一冊でいいの? と聞くが、当然と言わんばかりに頷かれた。

「あ、河合さん、お会計いいかな」
「はいはい」

 瞬くんが膝から降りたので立ち上がり、エルマーのぼうけんを戻して他の平積みされていた絵本のずれを直してレジに向かう。

「袋いる?」
「あ、大丈夫、すぐ読むから。瞬、ありがとうは?」

 俺がお金を払うと、瞬くんは消えそうな声でお礼を言いつつ、恐る恐る河合さんから本を受け取る。河合さんは通常運転の無表情だ。子供だからって容赦はしない。
 お兄ちゃんにもお礼言おうね、と促され、瞬くんは俺にも頭を下げた。い、いいのに〜! もう、そんな……他人行儀な! と言ってしまいたいのをぐっと堪える。

「ご、ごめんなさい、絵本コーナー作ったはいいものの、わたし、子供への対応は全然できなくて……」
「あはは、いいよいいよ」
「桐谷も上がって。さえ……千紗さんが持ってきてくれたゼリー出しましょう」

 千紗さん。そうか河合さんはそう呼ぶのか。千紗さんね……。もしこれからも交流が続いて、もしも上手いこといって付き合うとか、結婚とかになったら俺もそう呼ぶことになるんだろうか。友也とだってほんの数回しか呼んだことないのに、なんだかおかしいような気がしてしまう。
 座敷に上がって座り込むと、河合さんはお茶の準備をしに立ち上がり、瞬くんは早くも絵本を開いた。

「ママ、よんで、よんで」
「瞬、途中まで読んでもらったんでしょ? そこまでママに読んでよ」
「えーやだ。ママがいい」
「ママがいいの~? お兄ちゃんはだめなの?」
「……んんー?」

 さっきまであんなに甘えてくれて喋ってたのに、なぜか瞬くんは渋る。っていうかまたあんまり目が合わなくなってるし。
 瞬くんはおずおずといった様子でこちらを見て、本を差し出す。

「お兄ちゃん読んでって、言ってごらん?」
「おにいちゃんよんで……」
「い、いいよ。こっちおいで」

 言わされてないか!? ほんとにいいのか……?

「多分私がそばにいると甘えて恥ずかしくなっちゃうんだよ。気にしないで」
「そ、そうすか……?」

 気にはするよ……! 顔合わせ二度目だし、しょうがないけど!
 河合さんが飲み物とゼリーを持ってきて、着席すると、満を持して俺の朗読会がはじまった。
 まったく自信ないんだけどな! まあ、それほど感情を込めて読む話でもないからなんとかなるかな……。


「ね、寝た……」

 それほど長いお話でもないのに、瞬くんはいつのまにか佐伯に寄りかかって寝ていた。

「桐谷の声、眠たくなるのよ。もったりしてるから。寝る前の読み聞かせには最高かもしれないわね」

 褒められているのか……?
 そして瞬くんを横に寝かせた佐伯は何故か涙をぼろぼろ流していた。

「なんで二人ともこの話聞いて泣かずにいられるの……?」
「いや、まあ、いい話だよね」

 大人も楽しめる絵本とはよく聞いたことがあるしね。うん。

「あーだめだ、こういうの弱いや……。オレ、これ毎晩読み聞かせなきゃいけないの……?」
「あ、オレって言ったわね」
「え、言ってた? やばいやばい。四年間ずっと私で通してこれたのに……」

 上京した人が地元の友人と話すと方言が出てくるみたいなもんだろうか。俺はそっちの方がしっくりくるから嬉しいけど。
 河合さんも同じ気持ちのようだ。

「なんだかほっとしたわ。本当に佐伯が帰ってきたのね」

 河合さんの言葉に佐伯は、眩しそうに目を細めて、笑っているような困っているような、そんな顔をした。
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