13章
飯島は一日休んで、土日を挟み、次の月曜には姿を現した。よかった、あれっきりだったらどうしようかと思ったのだ。
彼の話だと、一緒に働いていた研修生の女の子は結局一人やめてしまったらしい。
「正直僕も揺らいだけど……その子には平気で働けるなんて冷血だって言われちゃって、なにくそ! って、逆に覚悟決まっちゃったよ」
「と、とんでもない八つ当たりだなあ……」
「本当にね」と飯島は苦笑して肩を竦める。
他人事ながら、ムカつくなあ……。飯島はめちゃくちゃ凹んでいたし、表に出さずに働いている人だって何も思っていないわけではないはずなのに……。そんなことも慮れない自分を温かい心の持ち主だと思っていられるなんて、おめでたいな。
よかった、その場にいなくて。泣かせてたかもしれん。
まあ、もう会うことはないだろう。大学では学部が違うし、誰かもわからない。おそらく普通の保育園とか幼稚園とか、そういうところに切り替えて就活を始めるのだろう。
「別の部署でもやめてるやついるよ、一人二人だけどさ。肉体的には残業も少ないしホワイトだけど、精神的にはきついとこ多いよね」
あ、しまった。これは部署によるか。俺はただ立って話を聞いているか、座って話し合ったり事務的な仕事をするだけだが、保育士の仕事は全く違うよな。体力仕事だ。
それでも飯島は俺に話を合わせてくれた。
こいつがやめなくてよかった。話し相手が減る。
「ああそうだ、話は変わるんだけどさ、飯島って保護者とも顔合わせるよな。俺らくらいの若いお母さんって見たことある?」
不躾にそう聞くと、飯島はあからさまに訝しげな顔をした。
「そりゃあ若そうな人はいるけど……なんで?」
まあ、そうなるか。
子供が幼いというのもあるが、能力者は寿命の関係から非常に若い段階で子供を作る場合が多い。
学生結婚だってできるわけだし。まあでも、実際子供を産むのは短命でもない女性側だから、飛び抜けて若い人はやっぱり少ないけど。
きちんと今後の人生や生活について計画の上で、二十歳前後で子供を作るというのが一番多い。うちの親もそうだったし。
そんな早いうちに相手を見つけてしまえるのがすごいことだよな……。都市伝説の短命特有のフェロモンがある、みたいな話を認めたくなる。
とはいえ、俺たちのように高校生で出産というパターンはかなり少ない。妊娠しても、そのまま出産するというケースはやっぱり下がる。たった数年の差だが、この年代の数年は大きいのだ。
まあ、今は佐伯も22だしな……。二十歳越えてくると見た目の個人差が大きいから、人の実年齢なんてわかりっこないか。
「……いや……、深い理由はないんだけど……」
「あまり家庭の事情は詮索してはいけないから……」
「あ、ああ、そうだよな。ごめん」
興味本位で聞いたと思われたのだろうか。ちょっと心外だ。弁解はできないけど。
ううーん、やっぱり自力で見つけるしかないよなあ……。
それにキッズスペースや託児施設を利用しているとは限らない。人見知りが激しい子なんかは説明時や待ち時間中も母親にべったりだし……。
困ったな……。年齢的にはそろそろセンターに訪れていてもおかしくはないはずだ。もちろん素直にこのセンターを選んでくれていればの話だが……。
悩みつつ、しかし解決法が出てくるとも思えない。最近食堂のご飯も飽きてきたので、そこで飯島と別れた。たまには別の店に入って食べるのもいい。
そのあとは大学に寄ろう。今日は授業はないけど、どうせ今日も研究室に籠もっているであろう長門たちの様子でも見るか。
長門はというとすでにセンターの研究所に所属することが決まったらしい。そちらは治療に携わる職とは全くシステムが違う。研修などもない。お前のやってる研究、いいね! うちでやりな! ということらしい。すばらしいことだ。さすが天才。人間性には問題があるが、人生なんとかなるもんだな。
ロビーに出てきて、出入り口には直行せずキッズスペースの様子を眺める。昼時というのもあってだいぶ人の波は落ち着いているようだ。遊んでいるのは三人ほどしかいない。
お昼の時間は当然診察も休憩となるのだが、検査や説明が長引くことはよくあるのでそんな時間も全く人がいなくなるわけではないのだ。
三人のうち二人は研修生の子と一緒に積み木で家を作っているらしい。もう一人の子は少しだけ距離を置いてクッションでできた縁の部分にスケッチブックを開いて、クレヨンで絵を描いている。私物だろうか。
研修生はその子のこともきちんと視界に入れてチェックしているものの、孤立しているのが気になるらしい。積み木遊びに誘ってみてはぶんぶんと首を振って断られていた。
うーん、孤独が好きなタイプのようだ。仲間に入りたそうにしていたり、親がいなくて固まってるだけの子なら声をかけるんだが、絵を描いているときに邪魔はされたくないんじゃないかな……。そしてそういう大人しいタイプの子は俺みたいな大人に怯えがちなのである。
そのまま通り過ぎようかと迷っていると、その子がクレヨンを持ち替えようとした瞬間、手が当たって箱ごとひっくり返ってしまった。何色ものクレヨンが床に散らばる。
「あっ」
ちょうどいい距離にいた俺はそっと駆け寄って、男の子が一本を掴んでいる間に全部拾い上げてひとつずつ箱の中に戻した。反射神経と手の大きさなら子供にはまだ負けないぞ。
「はい、どうぞ」
「……」
固まってこっちに釘付けになっている男の子に、できる限り精一杯優しい声色で話しかけた。
やはり引っ込み思案な子らしい。感情が表に出ていない。このまま去っていくのはどうにも気が引けて、大人らしくない気がした。つい話題を探す。ふと、その子の前に置かれたスケッチブックが目に入る。
「これ、全部自分で描いたの?」
男の子は恥ずかしそうに唇を尖らせて、視線を床かどこかに移しながらコクンと頷いた。
わかるわかる。大人に急に話しかけられると恥ずかしいよな。しかもにこやかに子供向けのテンションで話かける大人ばかりなのに、このお兄さん、なんか暗いしな。
大きな目とふわふわした髪の毛が特徴的な子だ。多分髪がもう少し長ければ女の子と間違えていたかも知れない。
「そっかあ、すごいね、絵好きなんだね。これはなあに?」
「ねこちゃん……」
「茶色のねこちゃんなんだね、可愛いね。ねこちゃん好きなの? おうちにいるのかな」
「いないの……」
「じゃあお外で会うねこちゃんなのかな?」
コクコクと頷く。あまり積極的に語りたがらないが、少なくとも怖がられてはいないようだ。孤独を愛しているわけではなく、ただ恥ずかしがり屋さんらしい。
あまり歓迎されていないような反応だが、でもこういう子は離れたら離れたで傷ついてしまうような気がする。待ってとも言えず、ついていくこともできない控えめな子だ。……まあ、全く読み間違えている可能性は十分あるけど。
さりげなく名札を確認する。瞬くんか。大人も子供も名札は子供でも読めるよう大きくふりがなが振ってある。
「じゃあこっちは瞬くんで、こっちはママ?」
髪の長さで判断しただけだが、当たっていたらしい。またコクコクと頷く。
「そっかそっか、よく描けてるねえ」
すると瞬くんはひっそりと笑うように口を曲げた。
それから突然スケッチブックのページを、紙がよれるのも気にせず小さな手でめくって真っ白いページを開いた。
「せんせえもかいていいよ」
空気に溶け込むような小さな声だった。俺は少しだけ出会ったばかりのときの河合さんのことを思い出した。はっきり喋るととても綺麗な声をしているのに、普段喋らないせいで、たまに小さく掠れるような声をしていたのだ。学校の喧噪の中で聞き取るのは大変なことだった。
人の少ない時間で良かった。この声を聞き逃して聞き返したら、きっと彼の心を深く傷つけていたことだろう。
「いいの? 先生あんまり上手に描けないかもしれないけど」
「いいよ」
そう言われて断るのは野暮ってもんだ。抱えていたファイルを置いて、代わりに一番長さの残っている黒いクレヨンをとった。
うーん。何を描こうか。やっぱりアンパンマンが鉄板だろうか。ちらりと瞬くんの持ち物を横目で確認する。特にキャラクターもののアイテムは身につけていないようだ。
「瞬くんなにか描いて欲しいものある?」
「ママ」
「あー、ママは……先生わかんないなあ……」
「じゃあねこちゃんかいて」
「お、いいよ。任せて」
スケッチブックの右端のスペースをくれて、瞬くんはその隣に新たな絵を描き始めた。
幼い頃、俺も母親をお絵かきや工作に付き合わせたものだが、大人の描く線はどれも綺麗でそれが正解なのだと感じた。自分で描くのとは全く違っていて、工作だって、どうやったって歪んでしまうのに母や先生らがやると魔法のように綺麗に作られてしまうのだ。
そして大人になってみると、ふむ。案外悪くはないかもしれない。決して上手い絵ではないが、ある程度は大人の描く絵、みたいな調子になっている気がする。
「描けたよ。どうかな? 先生上手かな?」
瞬くんは手を止め、視線を移すと、またコクコクと頷いた。
「ありがとうごじゃいます……」
「どういたしまして」
「これ、なに?」
「えっ!」
ね、猫描いてって言われたから……猫を描いたんですが……。
たしかに二足歩行ではあるが……。だって、四足歩行させると足の奥行きの描き方がわからないのだ。途端に無様になるから、こうするほかないのである。
「ね、猫だよ。猫に見えないかなあ?」
「なまえなに?」
「えっ……と……ね、ねこ……ねこちゃんまん……」
「ふーん」
積み木の相手をしている研修生がにやにやとこっちを見ている。やめてくれ。そっとしておいてくれ。
……さて、そろそろ俺も帰るか。お腹もぺこぺこだし。
「じゃあ先生行くね。ママ、もうすぐ来るからね。いい子に待っててね」
もう昼の休憩時間に差し掛かってだいぶ経つ。午前から説明なんかを受けてるんだとすればそろそろ終わるだろうし、数時間待つようなら奥の託児施設の方で預かるだろうから、それほど長引く用事ではないのだろう。
クレヨンを元に戻し、ぽんぽんと軽く肩を叩いて瞬くんが頷くのを確認してから立ち上がる。
ううーむ、やっぱり大人しくて物わかりのいい子だな。俺も結構育てやすい子供だったと聞いているが、母親から離れると泣き叫んだみたいだし、4、5才までべったりだったらしい。でも割とそんなもんだよな。
ああいう大人しい子も家に帰ったら母親に甘えたり元気に遊んだりしてるんだろうか。いいよなあ、家族の特権って感じで……。
出入り口の方に向かってゆったり歩いていると若い女性とすれ違い、会釈する。会計を終えて子供を迎えにきたんだろう。
「瞬ー、お待たせ」
ああ、瞬くんのお母さんかちょうどのタイミングだったんだな。
なんとなく、後ろ髪を引かれるような気持ちでそちらを振り返った。
「ママおそいよー!」
「ごめんね~思ったより時間かかっちゃった。寂しかった?」
「うん……ママもさみしかった?」
「寂しかったよー! 待っててくれてありがとね。あっ、すみません、ありがとうございました」
母親と思われる女性は軽く瞬くんを抱きしめたあと、手早くお絵かきセットを鞄に詰め込み、瞬くんに靴を履かせる。子供たちを見ていた研修生と挨拶を交わして、二人で手を繋いでこちらへ歩いてきた。
「ねえママ、またくるの?」
「うん、来週来てくださいって。どう? 楽しかった?」
「んー、んー、うん。まあまあくらい。でもママもいっしょがいー」
瞬くんは先ほどとは打って変わって饒舌になっていた。そうか。母親の前ではあんなに喋るのか。そうか。
やがて親子は俺が立ち止まっているところまでたどり着き、きょとんとしながらも再び会釈して、通り過ぎる。
その不思議そうな顔と言ったら!
動きやすそうなズボンにTシャツ姿で、髪を後ろにまとめていた。小柄だが、手足がすらっと長いのがわかる。ちょっと痩せてる。母親でなく年の離れた姉といっても疑わないだろう。そして、あの大きな猫目。
ゆっくり振り返る。もう一度顔が見たいと思った。時間がひどくゆっくり動いている気がした。
それからその二人がどんどん遠ざかっているのに気付いて、そうだ、呼び止めないとと思い出した。
「……佐伯?」
数年ぶりに口に出したような気がした。そんなはずないのに。実際全然声は出ていなかった。もし大勢の子供が騒いでいる時間だったら、絶対届いていないくらい。
しかし親子は少しだけ歩いたあと、ぴたりと足を止める。
母親がゆっくり、こちらを振り向いた。
目をまん丸くして、その目とぱちんと視線が合う音が聞こえるようだった。
その瞳が揺れて、おそらく俺の名札を確認したのだとわかった。
「あ……」
声が上手く出ない。喉が乾いてしまった。お腹だってすいてるのに。
「ママ? あのね、あのせんせえね」
瞬くんが喋り初めて、急に我に返ったように女性は子供を見下ろし、そのまま手を引いて足早に出口へ向かう。
「あっ、えっま、待って」
一瞬呆気にとられてしまった。人違いなら逃げる理由なんてないはずだ。そうだ、人違いなんかじゃない! 間違えるわけない!
まだロビーには人がいる。早めに来て午後の診察を待っている人もいる。大声も上げられず走ることもできない。それでも小さな子供を連れているよりうんと早く動ける。
名札を警備員に返しているのが見えた。ああ、そうだ! 忘れていた。慌てて首から下げていた名札を外して、いやに長く感じる指紋認証を終えて開いた研修生用のポストの中に突っ込む。
あとはもう外だ。走れば追いつく距離。
「ま、待ってよ佐伯!」
入り口を出ると、すぐにタクシー乗り場やバスの停留所があり、駐車場が広がっている。タイミングよく乗り込まれたら見失うだろう。それとも前の車を追ってくださいってやつ、やってみるか?
「あっ!」
そう考えていると、階段の存在を忘れていて盛大にずっこけた。
抱えていたファイルの中身が滑り落ちて広がってしまう。
やってしまった! いくらなんでもこの惨状を放置して追いかけるわけには行かない。慌ててかき集める。この年で転ぶなんて! あとから羞恥心が湧き上がってじわじわ顔が熱くなるのを感じた。
「瞬!」
高い声が響いて、反射的に顔を上げた。母親の子供を咎める声というのは鋭く聞こえるものなのだ。まさか慌てたせいで車道に飛び出しでもしたんじゃないかと悪い想像をして、背中がひやりとした。
すると、そんな肝の冷えるような光景ではなく、目の前には俺がばらまいてしまった書類を小さな手で一枚ずつ拾っていく瞬くんの姿があった。
「あ……ありがとう……」
「どーいたまして」
母親の手をふりほどいて、戻ってきたのだろうか。ただ拾うのを手伝うために。
「瞬! 急に走っちゃだめっていつも言ってるでしょ!」
「だって……」
雑に集めたファイルに紙を戻し終えたのと、窘める声が聞こえたのはほぼ同時だった。
観念したのだろうか、気まずそうな顔をして、瞬くんを引き寄せつつ俺を見下ろしていた。今度はちゃんと向き合って顔を見れた。
「……さ、佐伯……だよね……」
大人二人の間に挟まれ、瞬くんは不安そうな顔で母親の顔を伺っている。いけない。ただならぬ雰囲気になってしまっては、怖がらせてしまう。
「……ひ、人違い……だと思います……」
「佐伯だよ!」
思った以上に大きな声が出てしまい、瞬くんが反射的に母親の腰にしがみついた。
佐伯はその子供を庇うように身を捩る。
やばい。警備員さんがやってきそうな雰囲気だ。通報されそうだ。
「……だ、だって、だって、さ、佐伯だよ……」
「だから、ち、違うってば!」
笑えてきた。
何一つ取り繕えていない。嘘が上手いくせに、演技は下手みたいだ。
もっと逆ギレして子供抱えて逃げるくらいしないと。そんなんじゃ全然振り払えないのに。
「ママ、おこったらかわいそうだよ……」
「えっ?」
母親の服の裾を、皺になるくらい強く掴みながらも、それでも瞬くんは俺を気遣うようにそう言って、それではじめて自分が泣いていることに気付いた。ああ、これはさすがに子供も同情するか。
ちょっと涙がこぼれたどころではない。顔中べしゃべしゃになるくらい、何時間も泣き続けていたみたいな有様だった。何故今まで気づかなかったのか。
「あ、ごめん……大丈夫だよ、怒られて泣いてるんじゃないんだよ」
大人が泣くところなんて見ることはないだろう。
慌ててハンカチを探していると、先にフェイスタオルを差し出される。
佐伯が眉尻を下げて、口元に力を入れるようにへの字にして、それでも俺にタオルを差し出していた。
「……今、間宮だから」
「間宮……?」
受け取ったタオルで顔を拭いながら反芻する。
……ああ、名前か。瞬くんの名札を思い出す。確かに間宮瞬と記載されていた。
「だから佐伯っていうのはやめて」
「わ、わかった。ごめん」
話してくれた。ちゃんと会話してる。
「さ、佐伯~……!」
「だから間宮だって……!」
「だって、だって……」
なんかよだれも出てきた。やばい。顔の機能が麻痺している。
だって今まで何年も何年も頭の中で呼んできたんだ。何度も何度も佐伯とのやりとりを思い返してきたんだ。
「ゆ、夢じゃない? これ、夢じゃないよな?」
「う……、うん……」
おそるおそる、佐伯の両肩を、そっと掴む。
「うわあ、ちょ、ちょっと……」
「よかった、よかったあ~……」
もう、顔中の穴から汁が垂れ流しだ。さっき拭いたはずなのに。
さっきは瞬くんに優しいお兄さんぶって見せたのに、至近距離で情けない顔を見せてしまっているが、取り繕ってなどいられない。
「生きててよかった……よかったよ……」
ろくな言葉が出てこなかった。ただ、よかったんだ。ほんとに。俺は、てんで間違ったことをしていたわけじゃなかった。明後日の方向に進んでいたわけではなかった。
もう佐伯も逃げる素振りとか、文句を言ったりもしなかった。ただ、渋い顔を浮かべて瞬くんを抱えていた。
「桐谷くん大丈夫?」
後ろから女性に声をかけられ振り向いた。そうしてみると、周りの注目を集めていることに気付く。通行人は俺たちの周りを距離をとって避けるように、避けつつちらっと一瞥しつつ通りすぎていっているようだった。その数がだいぶ少なかったのが幸いだ。
声をかけてきたのは受付を担当している藤原さんだった。うちの母親くらいの年で、気さくで話しやすい人だ。
「あ、す、すみません」
「なにかあったの?」
「い、いや、その、数年ぶりに知人と再会しまして……」
全くうまい言い逃れが思いつかず、そのまんまのことを説明する。藤原さんは俺と佐伯とを見る。
「そ、そうなの……、でも、ここは他の利用者の方の邪魔になるから……」
「あっす、すみません……移動します……」
おっしゃるとおりだった。へこへこと頭を下げて、戻っていく藤原さんを見送る。やばい。クレーム入ったのかな。やばいな。
思わず佐伯と顔を見合わせていた。
あ、だめだ。これだけでじわじわと涙のおかわりが出てくる。
「と、とりあえず、お昼食べに行かない……?」
鼻を啜りながらそう提案すると、佐伯はとても難しい顔をした。
彼の話だと、一緒に働いていた研修生の女の子は結局一人やめてしまったらしい。
「正直僕も揺らいだけど……その子には平気で働けるなんて冷血だって言われちゃって、なにくそ! って、逆に覚悟決まっちゃったよ」
「と、とんでもない八つ当たりだなあ……」
「本当にね」と飯島は苦笑して肩を竦める。
他人事ながら、ムカつくなあ……。飯島はめちゃくちゃ凹んでいたし、表に出さずに働いている人だって何も思っていないわけではないはずなのに……。そんなことも慮れない自分を温かい心の持ち主だと思っていられるなんて、おめでたいな。
よかった、その場にいなくて。泣かせてたかもしれん。
まあ、もう会うことはないだろう。大学では学部が違うし、誰かもわからない。おそらく普通の保育園とか幼稚園とか、そういうところに切り替えて就活を始めるのだろう。
「別の部署でもやめてるやついるよ、一人二人だけどさ。肉体的には残業も少ないしホワイトだけど、精神的にはきついとこ多いよね」
あ、しまった。これは部署によるか。俺はただ立って話を聞いているか、座って話し合ったり事務的な仕事をするだけだが、保育士の仕事は全く違うよな。体力仕事だ。
それでも飯島は俺に話を合わせてくれた。
こいつがやめなくてよかった。話し相手が減る。
「ああそうだ、話は変わるんだけどさ、飯島って保護者とも顔合わせるよな。俺らくらいの若いお母さんって見たことある?」
不躾にそう聞くと、飯島はあからさまに訝しげな顔をした。
「そりゃあ若そうな人はいるけど……なんで?」
まあ、そうなるか。
子供が幼いというのもあるが、能力者は寿命の関係から非常に若い段階で子供を作る場合が多い。
学生結婚だってできるわけだし。まあでも、実際子供を産むのは短命でもない女性側だから、飛び抜けて若い人はやっぱり少ないけど。
きちんと今後の人生や生活について計画の上で、二十歳前後で子供を作るというのが一番多い。うちの親もそうだったし。
そんな早いうちに相手を見つけてしまえるのがすごいことだよな……。都市伝説の短命特有のフェロモンがある、みたいな話を認めたくなる。
とはいえ、俺たちのように高校生で出産というパターンはかなり少ない。妊娠しても、そのまま出産するというケースはやっぱり下がる。たった数年の差だが、この年代の数年は大きいのだ。
まあ、今は佐伯も22だしな……。二十歳越えてくると見た目の個人差が大きいから、人の実年齢なんてわかりっこないか。
「……いや……、深い理由はないんだけど……」
「あまり家庭の事情は詮索してはいけないから……」
「あ、ああ、そうだよな。ごめん」
興味本位で聞いたと思われたのだろうか。ちょっと心外だ。弁解はできないけど。
ううーん、やっぱり自力で見つけるしかないよなあ……。
それにキッズスペースや託児施設を利用しているとは限らない。人見知りが激しい子なんかは説明時や待ち時間中も母親にべったりだし……。
困ったな……。年齢的にはそろそろセンターに訪れていてもおかしくはないはずだ。もちろん素直にこのセンターを選んでくれていればの話だが……。
悩みつつ、しかし解決法が出てくるとも思えない。最近食堂のご飯も飽きてきたので、そこで飯島と別れた。たまには別の店に入って食べるのもいい。
そのあとは大学に寄ろう。今日は授業はないけど、どうせ今日も研究室に籠もっているであろう長門たちの様子でも見るか。
長門はというとすでにセンターの研究所に所属することが決まったらしい。そちらは治療に携わる職とは全くシステムが違う。研修などもない。お前のやってる研究、いいね! うちでやりな! ということらしい。すばらしいことだ。さすが天才。人間性には問題があるが、人生なんとかなるもんだな。
ロビーに出てきて、出入り口には直行せずキッズスペースの様子を眺める。昼時というのもあってだいぶ人の波は落ち着いているようだ。遊んでいるのは三人ほどしかいない。
お昼の時間は当然診察も休憩となるのだが、検査や説明が長引くことはよくあるのでそんな時間も全く人がいなくなるわけではないのだ。
三人のうち二人は研修生の子と一緒に積み木で家を作っているらしい。もう一人の子は少しだけ距離を置いてクッションでできた縁の部分にスケッチブックを開いて、クレヨンで絵を描いている。私物だろうか。
研修生はその子のこともきちんと視界に入れてチェックしているものの、孤立しているのが気になるらしい。積み木遊びに誘ってみてはぶんぶんと首を振って断られていた。
うーん、孤独が好きなタイプのようだ。仲間に入りたそうにしていたり、親がいなくて固まってるだけの子なら声をかけるんだが、絵を描いているときに邪魔はされたくないんじゃないかな……。そしてそういう大人しいタイプの子は俺みたいな大人に怯えがちなのである。
そのまま通り過ぎようかと迷っていると、その子がクレヨンを持ち替えようとした瞬間、手が当たって箱ごとひっくり返ってしまった。何色ものクレヨンが床に散らばる。
「あっ」
ちょうどいい距離にいた俺はそっと駆け寄って、男の子が一本を掴んでいる間に全部拾い上げてひとつずつ箱の中に戻した。反射神経と手の大きさなら子供にはまだ負けないぞ。
「はい、どうぞ」
「……」
固まってこっちに釘付けになっている男の子に、できる限り精一杯優しい声色で話しかけた。
やはり引っ込み思案な子らしい。感情が表に出ていない。このまま去っていくのはどうにも気が引けて、大人らしくない気がした。つい話題を探す。ふと、その子の前に置かれたスケッチブックが目に入る。
「これ、全部自分で描いたの?」
男の子は恥ずかしそうに唇を尖らせて、視線を床かどこかに移しながらコクンと頷いた。
わかるわかる。大人に急に話しかけられると恥ずかしいよな。しかもにこやかに子供向けのテンションで話かける大人ばかりなのに、このお兄さん、なんか暗いしな。
大きな目とふわふわした髪の毛が特徴的な子だ。多分髪がもう少し長ければ女の子と間違えていたかも知れない。
「そっかあ、すごいね、絵好きなんだね。これはなあに?」
「ねこちゃん……」
「茶色のねこちゃんなんだね、可愛いね。ねこちゃん好きなの? おうちにいるのかな」
「いないの……」
「じゃあお外で会うねこちゃんなのかな?」
コクコクと頷く。あまり積極的に語りたがらないが、少なくとも怖がられてはいないようだ。孤独を愛しているわけではなく、ただ恥ずかしがり屋さんらしい。
あまり歓迎されていないような反応だが、でもこういう子は離れたら離れたで傷ついてしまうような気がする。待ってとも言えず、ついていくこともできない控えめな子だ。……まあ、全く読み間違えている可能性は十分あるけど。
さりげなく名札を確認する。瞬くんか。大人も子供も名札は子供でも読めるよう大きくふりがなが振ってある。
「じゃあこっちは瞬くんで、こっちはママ?」
髪の長さで判断しただけだが、当たっていたらしい。またコクコクと頷く。
「そっかそっか、よく描けてるねえ」
すると瞬くんはひっそりと笑うように口を曲げた。
それから突然スケッチブックのページを、紙がよれるのも気にせず小さな手でめくって真っ白いページを開いた。
「せんせえもかいていいよ」
空気に溶け込むような小さな声だった。俺は少しだけ出会ったばかりのときの河合さんのことを思い出した。はっきり喋るととても綺麗な声をしているのに、普段喋らないせいで、たまに小さく掠れるような声をしていたのだ。学校の喧噪の中で聞き取るのは大変なことだった。
人の少ない時間で良かった。この声を聞き逃して聞き返したら、きっと彼の心を深く傷つけていたことだろう。
「いいの? 先生あんまり上手に描けないかもしれないけど」
「いいよ」
そう言われて断るのは野暮ってもんだ。抱えていたファイルを置いて、代わりに一番長さの残っている黒いクレヨンをとった。
うーん。何を描こうか。やっぱりアンパンマンが鉄板だろうか。ちらりと瞬くんの持ち物を横目で確認する。特にキャラクターもののアイテムは身につけていないようだ。
「瞬くんなにか描いて欲しいものある?」
「ママ」
「あー、ママは……先生わかんないなあ……」
「じゃあねこちゃんかいて」
「お、いいよ。任せて」
スケッチブックの右端のスペースをくれて、瞬くんはその隣に新たな絵を描き始めた。
幼い頃、俺も母親をお絵かきや工作に付き合わせたものだが、大人の描く線はどれも綺麗でそれが正解なのだと感じた。自分で描くのとは全く違っていて、工作だって、どうやったって歪んでしまうのに母や先生らがやると魔法のように綺麗に作られてしまうのだ。
そして大人になってみると、ふむ。案外悪くはないかもしれない。決して上手い絵ではないが、ある程度は大人の描く絵、みたいな調子になっている気がする。
「描けたよ。どうかな? 先生上手かな?」
瞬くんは手を止め、視線を移すと、またコクコクと頷いた。
「ありがとうごじゃいます……」
「どういたしまして」
「これ、なに?」
「えっ!」
ね、猫描いてって言われたから……猫を描いたんですが……。
たしかに二足歩行ではあるが……。だって、四足歩行させると足の奥行きの描き方がわからないのだ。途端に無様になるから、こうするほかないのである。
「ね、猫だよ。猫に見えないかなあ?」
「なまえなに?」
「えっ……と……ね、ねこ……ねこちゃんまん……」
「ふーん」
積み木の相手をしている研修生がにやにやとこっちを見ている。やめてくれ。そっとしておいてくれ。
……さて、そろそろ俺も帰るか。お腹もぺこぺこだし。
「じゃあ先生行くね。ママ、もうすぐ来るからね。いい子に待っててね」
もう昼の休憩時間に差し掛かってだいぶ経つ。午前から説明なんかを受けてるんだとすればそろそろ終わるだろうし、数時間待つようなら奥の託児施設の方で預かるだろうから、それほど長引く用事ではないのだろう。
クレヨンを元に戻し、ぽんぽんと軽く肩を叩いて瞬くんが頷くのを確認してから立ち上がる。
ううーむ、やっぱり大人しくて物わかりのいい子だな。俺も結構育てやすい子供だったと聞いているが、母親から離れると泣き叫んだみたいだし、4、5才までべったりだったらしい。でも割とそんなもんだよな。
ああいう大人しい子も家に帰ったら母親に甘えたり元気に遊んだりしてるんだろうか。いいよなあ、家族の特権って感じで……。
出入り口の方に向かってゆったり歩いていると若い女性とすれ違い、会釈する。会計を終えて子供を迎えにきたんだろう。
「瞬ー、お待たせ」
ああ、瞬くんのお母さんかちょうどのタイミングだったんだな。
なんとなく、後ろ髪を引かれるような気持ちでそちらを振り返った。
「ママおそいよー!」
「ごめんね~思ったより時間かかっちゃった。寂しかった?」
「うん……ママもさみしかった?」
「寂しかったよー! 待っててくれてありがとね。あっ、すみません、ありがとうございました」
母親と思われる女性は軽く瞬くんを抱きしめたあと、手早くお絵かきセットを鞄に詰め込み、瞬くんに靴を履かせる。子供たちを見ていた研修生と挨拶を交わして、二人で手を繋いでこちらへ歩いてきた。
「ねえママ、またくるの?」
「うん、来週来てくださいって。どう? 楽しかった?」
「んー、んー、うん。まあまあくらい。でもママもいっしょがいー」
瞬くんは先ほどとは打って変わって饒舌になっていた。そうか。母親の前ではあんなに喋るのか。そうか。
やがて親子は俺が立ち止まっているところまでたどり着き、きょとんとしながらも再び会釈して、通り過ぎる。
その不思議そうな顔と言ったら!
動きやすそうなズボンにTシャツ姿で、髪を後ろにまとめていた。小柄だが、手足がすらっと長いのがわかる。ちょっと痩せてる。母親でなく年の離れた姉といっても疑わないだろう。そして、あの大きな猫目。
ゆっくり振り返る。もう一度顔が見たいと思った。時間がひどくゆっくり動いている気がした。
それからその二人がどんどん遠ざかっているのに気付いて、そうだ、呼び止めないとと思い出した。
「……佐伯?」
数年ぶりに口に出したような気がした。そんなはずないのに。実際全然声は出ていなかった。もし大勢の子供が騒いでいる時間だったら、絶対届いていないくらい。
しかし親子は少しだけ歩いたあと、ぴたりと足を止める。
母親がゆっくり、こちらを振り向いた。
目をまん丸くして、その目とぱちんと視線が合う音が聞こえるようだった。
その瞳が揺れて、おそらく俺の名札を確認したのだとわかった。
「あ……」
声が上手く出ない。喉が乾いてしまった。お腹だってすいてるのに。
「ママ? あのね、あのせんせえね」
瞬くんが喋り初めて、急に我に返ったように女性は子供を見下ろし、そのまま手を引いて足早に出口へ向かう。
「あっ、えっま、待って」
一瞬呆気にとられてしまった。人違いなら逃げる理由なんてないはずだ。そうだ、人違いなんかじゃない! 間違えるわけない!
まだロビーには人がいる。早めに来て午後の診察を待っている人もいる。大声も上げられず走ることもできない。それでも小さな子供を連れているよりうんと早く動ける。
名札を警備員に返しているのが見えた。ああ、そうだ! 忘れていた。慌てて首から下げていた名札を外して、いやに長く感じる指紋認証を終えて開いた研修生用のポストの中に突っ込む。
あとはもう外だ。走れば追いつく距離。
「ま、待ってよ佐伯!」
入り口を出ると、すぐにタクシー乗り場やバスの停留所があり、駐車場が広がっている。タイミングよく乗り込まれたら見失うだろう。それとも前の車を追ってくださいってやつ、やってみるか?
「あっ!」
そう考えていると、階段の存在を忘れていて盛大にずっこけた。
抱えていたファイルの中身が滑り落ちて広がってしまう。
やってしまった! いくらなんでもこの惨状を放置して追いかけるわけには行かない。慌ててかき集める。この年で転ぶなんて! あとから羞恥心が湧き上がってじわじわ顔が熱くなるのを感じた。
「瞬!」
高い声が響いて、反射的に顔を上げた。母親の子供を咎める声というのは鋭く聞こえるものなのだ。まさか慌てたせいで車道に飛び出しでもしたんじゃないかと悪い想像をして、背中がひやりとした。
すると、そんな肝の冷えるような光景ではなく、目の前には俺がばらまいてしまった書類を小さな手で一枚ずつ拾っていく瞬くんの姿があった。
「あ……ありがとう……」
「どーいたまして」
母親の手をふりほどいて、戻ってきたのだろうか。ただ拾うのを手伝うために。
「瞬! 急に走っちゃだめっていつも言ってるでしょ!」
「だって……」
雑に集めたファイルに紙を戻し終えたのと、窘める声が聞こえたのはほぼ同時だった。
観念したのだろうか、気まずそうな顔をして、瞬くんを引き寄せつつ俺を見下ろしていた。今度はちゃんと向き合って顔を見れた。
「……さ、佐伯……だよね……」
大人二人の間に挟まれ、瞬くんは不安そうな顔で母親の顔を伺っている。いけない。ただならぬ雰囲気になってしまっては、怖がらせてしまう。
「……ひ、人違い……だと思います……」
「佐伯だよ!」
思った以上に大きな声が出てしまい、瞬くんが反射的に母親の腰にしがみついた。
佐伯はその子供を庇うように身を捩る。
やばい。警備員さんがやってきそうな雰囲気だ。通報されそうだ。
「……だ、だって、だって、さ、佐伯だよ……」
「だから、ち、違うってば!」
笑えてきた。
何一つ取り繕えていない。嘘が上手いくせに、演技は下手みたいだ。
もっと逆ギレして子供抱えて逃げるくらいしないと。そんなんじゃ全然振り払えないのに。
「ママ、おこったらかわいそうだよ……」
「えっ?」
母親の服の裾を、皺になるくらい強く掴みながらも、それでも瞬くんは俺を気遣うようにそう言って、それではじめて自分が泣いていることに気付いた。ああ、これはさすがに子供も同情するか。
ちょっと涙がこぼれたどころではない。顔中べしゃべしゃになるくらい、何時間も泣き続けていたみたいな有様だった。何故今まで気づかなかったのか。
「あ、ごめん……大丈夫だよ、怒られて泣いてるんじゃないんだよ」
大人が泣くところなんて見ることはないだろう。
慌ててハンカチを探していると、先にフェイスタオルを差し出される。
佐伯が眉尻を下げて、口元に力を入れるようにへの字にして、それでも俺にタオルを差し出していた。
「……今、間宮だから」
「間宮……?」
受け取ったタオルで顔を拭いながら反芻する。
……ああ、名前か。瞬くんの名札を思い出す。確かに間宮瞬と記載されていた。
「だから佐伯っていうのはやめて」
「わ、わかった。ごめん」
話してくれた。ちゃんと会話してる。
「さ、佐伯~……!」
「だから間宮だって……!」
「だって、だって……」
なんかよだれも出てきた。やばい。顔の機能が麻痺している。
だって今まで何年も何年も頭の中で呼んできたんだ。何度も何度も佐伯とのやりとりを思い返してきたんだ。
「ゆ、夢じゃない? これ、夢じゃないよな?」
「う……、うん……」
おそるおそる、佐伯の両肩を、そっと掴む。
「うわあ、ちょ、ちょっと……」
「よかった、よかったあ~……」
もう、顔中の穴から汁が垂れ流しだ。さっき拭いたはずなのに。
さっきは瞬くんに優しいお兄さんぶって見せたのに、至近距離で情けない顔を見せてしまっているが、取り繕ってなどいられない。
「生きててよかった……よかったよ……」
ろくな言葉が出てこなかった。ただ、よかったんだ。ほんとに。俺は、てんで間違ったことをしていたわけじゃなかった。明後日の方向に進んでいたわけではなかった。
もう佐伯も逃げる素振りとか、文句を言ったりもしなかった。ただ、渋い顔を浮かべて瞬くんを抱えていた。
「桐谷くん大丈夫?」
後ろから女性に声をかけられ振り向いた。そうしてみると、周りの注目を集めていることに気付く。通行人は俺たちの周りを距離をとって避けるように、避けつつちらっと一瞥しつつ通りすぎていっているようだった。その数がだいぶ少なかったのが幸いだ。
声をかけてきたのは受付を担当している藤原さんだった。うちの母親くらいの年で、気さくで話しやすい人だ。
「あ、す、すみません」
「なにかあったの?」
「い、いや、その、数年ぶりに知人と再会しまして……」
全くうまい言い逃れが思いつかず、そのまんまのことを説明する。藤原さんは俺と佐伯とを見る。
「そ、そうなの……、でも、ここは他の利用者の方の邪魔になるから……」
「あっす、すみません……移動します……」
おっしゃるとおりだった。へこへこと頭を下げて、戻っていく藤原さんを見送る。やばい。クレーム入ったのかな。やばいな。
思わず佐伯と顔を見合わせていた。
あ、だめだ。これだけでじわじわと涙のおかわりが出てくる。
「と、とりあえず、お昼食べに行かない……?」
鼻を啜りながらそう提案すると、佐伯はとても難しい顔をした。