13章
大学四年になった。いよいよ夏には研修が始まる。
三年の間に無事資格と免許を取得し、面接も終わり希望の部署での合格が出た。実質これが就職活動みたいなものだ。髪もさっぱり短くしたし。このまま品行方正に真面目にして研修を終えれば、そのまま来年にはセンターで働けるはずだ。
研修の期間は約二ヶ月。六月の半ばから八月の上旬までだ。
これは小学校の長期休暇に入院中の子供の治療が本格的にはじまり繁忙期となるため、その時期と研修生への指導を被せないためらしい。週五日、時間は大体正午過ぎまで。午後からは予約の診療が始まるから、それまでに帰宅して課題をこなす。
しかし四年ともなるとゼミがあるとはいえ暇だった。なんというか、することはあるのだが、脳が暇なのだ。
馬場のアホは留年したので別行動が増えた。少し反省したのか彼女との熱もやや落ち着いたようだから、いい薬になったのかもしれない。他の連中はバイトに精を出したり、就職活動中だったり、相手をしてくれる人は少ない。早々に内定が出た奴は気が楽なんだろうけど。
とはいえ卒論というものがなくてよかった。俺は広く浅く手当たり次第に調べて学ぶことは得意だし好きだが、一つの題材を見つけて追及するのがとても苦手だ。専門家には向かないのだ。
しょうがないので今までとは路線の違う資格の取得を目指していると、お前は病気だから休めと説得された。何が病気か。勉強して何が悪い。
社会人になっても昇級のためだとかで資格の勉強はできるそうだが、無関係の資格を興味本位でとるための時間はやはり確実に減ってしまうだろう。それがここではいくらでも授業を受けられる上時間は腐るほどあるのだ。やらない手はない。
しかしそういわれてみると周りの人よりも取得している資格の幅は広いかもしれない。
とりあえず看護師の免許は春の間に取得できた。一年の頃から隙間を縫って勉強していたものだが、ようやくだ。もちろん特殊脳理学専門のだけど。センターの一部の部署や総合病院の特殊脳理科以外で働くにはかなり条件付きでしか役にたたない。むしろ看護師に見えるのにこれはできるけどこれはやってはいけない、なんて制限がややこしくて扱いづらいとされるらしい。
それでも一般的な准看護師としての資格を得るときには一から学校に通って学ぶ必要はなくなるらしいし、取っておいて損はない。逆に一般人用の看護師がセンターで働くための免許を取るのも同様だそうだ。一から大学や専門学校に通う必要はなく、一定期間教室に通って試験をパスすればグレードアップする形になるようだ。
大学を卒業してから目指そうとしたらまた学校に通い直さないといけないんだぞ? それならどう考えたってお得じゃないか。他の職よりも募集の枠も多いようだし。
そう訴えているのだが、みんなは片手間で取得できるほど余裕はないのだと苦言を呈された。なんなんだ寄ってたかって、人をとんでもない暇人みたいに。
そんな調子で、俺は夏までの数ヶ月だいぶ気楽に過ごしたと思う。趣味に近い勉強をして、たまにだけど友人たちと飲みにも行ったし。河合さんが長いこと自由に身動きを取れなかった反動か、体を動かしたがったのでボーリングにいったり、色々とスポーツを体験してみたりもした。やはり体育とは違って、うまくできなくても仲のいい相手とするスポーツは楽しいものだった。
そして、研修が始まった。
まずやることは去年の実習でもやったように診察を同じ部屋で見学することだ。ただその頃とは違って、先生の診察を聞いて自分なりの記録をつける。子供や保護者に説明するための道具や資料を用意したりといった雑用もこなす。
診察だけではなく検査内容や問診などを元に、現在の状態やこれからの進行速度、予測される問題、治療方針を診断する場にも参加する。ここはもちろん実際は学生が出る幕はほぼないのだが、はじめにきちんと俺たちの意見も聞いてアドバイスをくれる。
メインとなるのはこういった仕事だった。日によっては近い部署の仕事を手伝わされることもあったけど。
実習のときにもあったが、保護者から相談を受けるときや説明をするとき子供を外に連れ出すのも俺の役目らしい。話しが長くなるときは子供をキッズスペースに預けに行って俺は戻って、また手伝い、という調子だ。
キッズスペースはロビーの窓際に設置されている。病院やデパートなどでよくあるクッションでできたスペースに、柔らかい素材の積み木なんかが置いてある。そしてそこを庭のようにしてすぐ隣にひとつ部屋があって、そちらでは長時間預かるための託児所となっているのだ。表側に一人、と研修生が一人、中には複数人の保育士がいる。
なんせ施設そのものが子供を対象としているわけだから、キッズスペースといえど普通より規模は大きい。広いスペースの中にテレビのあるコーナーや絵本コーナーがある。
暇なときなどには積極的に子供たちと交流を持つようにと言われている。もちろん強制ではないのだが、俺は帰る前に一人で遊んでいる子がいると声をかけてみることにした。……こうして言葉にするとまるで犯罪者の手口みたいだな……。帰宅時は白衣も着ていないから、一見するとただの一般人だし……。
しかし職員、子供、その両親などそれぞれデザインの違う顔写真付きの名札をみんな下げているから、いくら俺の挙動がおかしくても通報されることはないのである。
これはバイト時代に使っていたカードキーみたいなものだ。ちゃんと出るときは返却する。入るときは毎回きちんと本人確認した上で貸し出される大事な身分証明なのだ。
早朝家を出て、いつものバスに乗り大学を通り過ぎてセンターに出勤。着替えて朝礼に出たあと担当の先生と割り振られた診察室に向かい、九時から診察が始まる。
そこから入れ代わり立ち代わりやってくる子供と保護者に検査結果や治療方針を伝える。症状によって五分かからない子もいれば、説明だけで三十分近くかかることもある。
十二時を過ぎてきりがいい頃にと後ろに引っ込んで、出てきた検査結果の分析に加わり、雑務を終えると終わりだ。着替えて昼食をとったあと正面玄関で名札を返却。大学に向かい前日の課題の提出、その日の課題の受け取り、日によっては午後の授業を受けて帰宅、というのが一日の流れとなっていた。
数日そんな生活が続いた。体力的にはそれほど負担はない。ただ精神的には少しくたびれるな。
やっぱり小さな子供たちと円滑にコミュニケーションがとれているかというとかなり課題が残っている。子供たちの人なつっこさにだいぶ助けられているところがあるだろう。
待合室にいた小学生とか、しっかり会話が成立する相手にはそれなりに懐かれやすい気はするのだが。しかし俺が主に診ることになるのは3才から6才までの初診の子ばかりだから、やっぱりこのままではいけないのだ……。
目下の悩みはこれだった。それなりに失敗して叱られたり、失敗してないのに何故か叱られたりしていたのだが、そんなことは取るに足らないことだ。誰でも経験することだろう。
しかし子供が相手となると、失敗してもこんなこともあるさとは言えない。もしも俺が何か間違えて傷つけてしまったら、それはその子の中で一生残ってしまうかもしれないのだ。そう思うとどうしてもうまく喋れなくなるんだよな……。
「せんせ、これよんでー」
「いいよ、これお気に入りだねえ」
「おきにいりって?」
「大好きってことだよ」
はらぺこあおむしを持ってきたレナちゃんは、ふふふーと体をよじった。たまにこうして物怖じせず俺にも構って貰おうとしてくれる子がいる。
読んでとせがまれるものの、読むほどの文章はない絵本が多くて驚いた。簡単な擬音ばかりだったりして、それを声色や表情を使って楽しませるように読むのは相当な技術が必要だと思える。他の先生方や、保育士志望の研修生の子たちを見るとみな上手にやっているし、絶対そちらにお願いした方が楽しめると思うが、だからって頼まれたのにやらないわけにもいかない。
子供たちは無邪気に俺のことを先生と呼ぶ。子供にとってセンターの職員は全員先生なのだ。
そして大人は大人だと信じている。子供に優しくて、しっかりしていて、守ってくれる存在だと。実際の俺はまだまだ子供で、わからないこともたくさんあるし、上手に優しくすることができない。それがすごく恥ずかしいし申し訳ないのだった。
それでも最近は子供たちの顔ぶれもわかってきた。むこうも俺のことをちゃんと認識してくれていて、こちらで遊んだ子の診察を担当したときは大層喜ばれてくすぐったかった。
……しかし自分と子供と一対一でなら気にならなくとも、その子のお母さんや普段仕事を教えてくれている先生なんかに子供とのやりとりを見られるのはものすごく恥ずかしいんだよな。いずれ慣れるんだろうか……。
---
「桐谷くん今日もう上がり? お昼食べようよ」
ロッカールームで声をかけられた。相手は同じ研修生の飯島という男子だ。俺とは部署が違うので、彼はスケジュールが違っていて、昼休憩のあとまだ仕事があるらしい。たまに俺の終わり時間と休憩が合うとこうして声をかけてくるのだ。
研修生同士の仲は良好だ。みんな同じ立ち位置だし、出し抜く必要もない。抜き打ちで小テストを出されることはあるが、これは自分の理解度や弱点を確認するためのものであって成績を競うわけじゃない。
職員や先生と研修生の距離感は部署によって異なるようだ。研修生同士でばかり固まっているところもあれば、立場関係なく和気藹々としたところもある。飯島は保育士志望のようで、やはりそちらは女性の割合が多く、自由時間は少し気まずいようだ。
俺のところは基本的に一人の先生に一人がついて回っているから、男女比とかは関係がない。が、その分同じ研修生ともあまり関わりが持てていなかった。飯島は数少ない研修中にできた友人である。
「どうしても子供相手にオーバーリアクションとかすると嘘っぽくなるんだよなあ……」
「恥を捨てるしかないよ。サービス精神サービス精神」
「俺にそんなものあると思う?」
しばらく黙ったあと、ははは、と誤魔化すように苦笑しながら飯島は焼き魚をつつく。飯島は朗らかな男だ。ややのほほんとしたところがある。
彼曰く、子供がどうこう、というより俺に足りないのは気持ちを表現する能力らしい。そりゃあ感情表現が苦手な自覚は十分あるけど。
「でも桐谷くんの場合は子供受けとか気にしなくていいと思うけどなあ」
「そんなことないだろ。お前ほどじゃないけど、俺だって子供相手にするんだから。怖がられてちゃ問診どころじゃないし」
「むしろ懐かれてるじゃない。これだけ人が多いと、子供に覚えてももらえない人って結構多いよ。サービス精神って言っちゃったけど、多分変に楽しませようとする必死さがないのがいいんじゃないかなあ」
必死に楽しませようとしているんですが……。
なんとなく言い出せなかった。
「僕たちはお母さんお父さんが安心して預けられるように、子供たちが通いたくなるように頑張ってるから、そんな風にはできないんだけどさ。桐谷くんは子供と対等に喋ろうとしてる感じするよ。先生と園児の距離っていうより、近所に住んでるお兄さんみたいな」
「それは本当にいいのかな!?」
「診察って普段の様子とか精神状態がわからないといけないんでしょ? いいと思うけどなあ」
う、ううーん、そう言われてみると悪くない気もしてきたけど、これでは相性が合わない子には対処できないような……。それに俺は全力で子供たちに迎合しにいってるつもりなのだ。下手に出て媚び媚びのつもりなのだ。それで対等に相手しているように見えるって、どうなんだ……?
「僕年の離れた弟たちの面倒見てたから、子供と接する仕事を選んだんだけどね、やっぱりここの子たちは精神的に落ち着いた子が多いよね。だからやっぱりあってると思うよ。年齢相応のおもちゃとか見せるとすごく冷めた反応する子が多い感じする」
「年相応の子には?」
「そこはサービス精神だって。遊園地のスタッフになったつもりで」
サービス精神ね……。佐伯はそういうのが得意だった。本人は苦に思わずにできるんだから、俺とは真逆だ。
小さい子供と接しているところは見たことないけど、きっとなんの抵抗もなく仲良くなれるだろうと思う。
「とりあえず笑顔ができればそんなに喋らなくたって伝わるよ」
「笑顔……」
俺だって決して笑えないキャラというわけではない。ただ、多分笑顔を出すための喜びのハードルが人より高いのだ。満面の笑みともなると、本当に最大限意識しないとできない。
やって見せてみると飯島は突然むせて顔を伏せてしまった。その向こうの席でこちらを向いてご飯を食べていた女子も肩をふるわせている。
なんだよ。見せ物じゃないぞ。
その後、何故か両肩を掴んで、そのままでいい、無理するなと説得されたのでひとまず営業スマイルは封印される運びとなった。
複雑だ。
三年の間に無事資格と免許を取得し、面接も終わり希望の部署での合格が出た。実質これが就職活動みたいなものだ。髪もさっぱり短くしたし。このまま品行方正に真面目にして研修を終えれば、そのまま来年にはセンターで働けるはずだ。
研修の期間は約二ヶ月。六月の半ばから八月の上旬までだ。
これは小学校の長期休暇に入院中の子供の治療が本格的にはじまり繁忙期となるため、その時期と研修生への指導を被せないためらしい。週五日、時間は大体正午過ぎまで。午後からは予約の診療が始まるから、それまでに帰宅して課題をこなす。
しかし四年ともなるとゼミがあるとはいえ暇だった。なんというか、することはあるのだが、脳が暇なのだ。
馬場のアホは留年したので別行動が増えた。少し反省したのか彼女との熱もやや落ち着いたようだから、いい薬になったのかもしれない。他の連中はバイトに精を出したり、就職活動中だったり、相手をしてくれる人は少ない。早々に内定が出た奴は気が楽なんだろうけど。
とはいえ卒論というものがなくてよかった。俺は広く浅く手当たり次第に調べて学ぶことは得意だし好きだが、一つの題材を見つけて追及するのがとても苦手だ。専門家には向かないのだ。
しょうがないので今までとは路線の違う資格の取得を目指していると、お前は病気だから休めと説得された。何が病気か。勉強して何が悪い。
社会人になっても昇級のためだとかで資格の勉強はできるそうだが、無関係の資格を興味本位でとるための時間はやはり確実に減ってしまうだろう。それがここではいくらでも授業を受けられる上時間は腐るほどあるのだ。やらない手はない。
しかしそういわれてみると周りの人よりも取得している資格の幅は広いかもしれない。
とりあえず看護師の免許は春の間に取得できた。一年の頃から隙間を縫って勉強していたものだが、ようやくだ。もちろん特殊脳理学専門のだけど。センターの一部の部署や総合病院の特殊脳理科以外で働くにはかなり条件付きでしか役にたたない。むしろ看護師に見えるのにこれはできるけどこれはやってはいけない、なんて制限がややこしくて扱いづらいとされるらしい。
それでも一般的な准看護師としての資格を得るときには一から学校に通って学ぶ必要はなくなるらしいし、取っておいて損はない。逆に一般人用の看護師がセンターで働くための免許を取るのも同様だそうだ。一から大学や専門学校に通う必要はなく、一定期間教室に通って試験をパスすればグレードアップする形になるようだ。
大学を卒業してから目指そうとしたらまた学校に通い直さないといけないんだぞ? それならどう考えたってお得じゃないか。他の職よりも募集の枠も多いようだし。
そう訴えているのだが、みんなは片手間で取得できるほど余裕はないのだと苦言を呈された。なんなんだ寄ってたかって、人をとんでもない暇人みたいに。
そんな調子で、俺は夏までの数ヶ月だいぶ気楽に過ごしたと思う。趣味に近い勉強をして、たまにだけど友人たちと飲みにも行ったし。河合さんが長いこと自由に身動きを取れなかった反動か、体を動かしたがったのでボーリングにいったり、色々とスポーツを体験してみたりもした。やはり体育とは違って、うまくできなくても仲のいい相手とするスポーツは楽しいものだった。
そして、研修が始まった。
まずやることは去年の実習でもやったように診察を同じ部屋で見学することだ。ただその頃とは違って、先生の診察を聞いて自分なりの記録をつける。子供や保護者に説明するための道具や資料を用意したりといった雑用もこなす。
診察だけではなく検査内容や問診などを元に、現在の状態やこれからの進行速度、予測される問題、治療方針を診断する場にも参加する。ここはもちろん実際は学生が出る幕はほぼないのだが、はじめにきちんと俺たちの意見も聞いてアドバイスをくれる。
メインとなるのはこういった仕事だった。日によっては近い部署の仕事を手伝わされることもあったけど。
実習のときにもあったが、保護者から相談を受けるときや説明をするとき子供を外に連れ出すのも俺の役目らしい。話しが長くなるときは子供をキッズスペースに預けに行って俺は戻って、また手伝い、という調子だ。
キッズスペースはロビーの窓際に設置されている。病院やデパートなどでよくあるクッションでできたスペースに、柔らかい素材の積み木なんかが置いてある。そしてそこを庭のようにしてすぐ隣にひとつ部屋があって、そちらでは長時間預かるための託児所となっているのだ。表側に一人、と研修生が一人、中には複数人の保育士がいる。
なんせ施設そのものが子供を対象としているわけだから、キッズスペースといえど普通より規模は大きい。広いスペースの中にテレビのあるコーナーや絵本コーナーがある。
暇なときなどには積極的に子供たちと交流を持つようにと言われている。もちろん強制ではないのだが、俺は帰る前に一人で遊んでいる子がいると声をかけてみることにした。……こうして言葉にするとまるで犯罪者の手口みたいだな……。帰宅時は白衣も着ていないから、一見するとただの一般人だし……。
しかし職員、子供、その両親などそれぞれデザインの違う顔写真付きの名札をみんな下げているから、いくら俺の挙動がおかしくても通報されることはないのである。
これはバイト時代に使っていたカードキーみたいなものだ。ちゃんと出るときは返却する。入るときは毎回きちんと本人確認した上で貸し出される大事な身分証明なのだ。
早朝家を出て、いつものバスに乗り大学を通り過ぎてセンターに出勤。着替えて朝礼に出たあと担当の先生と割り振られた診察室に向かい、九時から診察が始まる。
そこから入れ代わり立ち代わりやってくる子供と保護者に検査結果や治療方針を伝える。症状によって五分かからない子もいれば、説明だけで三十分近くかかることもある。
十二時を過ぎてきりがいい頃にと後ろに引っ込んで、出てきた検査結果の分析に加わり、雑務を終えると終わりだ。着替えて昼食をとったあと正面玄関で名札を返却。大学に向かい前日の課題の提出、その日の課題の受け取り、日によっては午後の授業を受けて帰宅、というのが一日の流れとなっていた。
数日そんな生活が続いた。体力的にはそれほど負担はない。ただ精神的には少しくたびれるな。
やっぱり小さな子供たちと円滑にコミュニケーションがとれているかというとかなり課題が残っている。子供たちの人なつっこさにだいぶ助けられているところがあるだろう。
待合室にいた小学生とか、しっかり会話が成立する相手にはそれなりに懐かれやすい気はするのだが。しかし俺が主に診ることになるのは3才から6才までの初診の子ばかりだから、やっぱりこのままではいけないのだ……。
目下の悩みはこれだった。それなりに失敗して叱られたり、失敗してないのに何故か叱られたりしていたのだが、そんなことは取るに足らないことだ。誰でも経験することだろう。
しかし子供が相手となると、失敗してもこんなこともあるさとは言えない。もしも俺が何か間違えて傷つけてしまったら、それはその子の中で一生残ってしまうかもしれないのだ。そう思うとどうしてもうまく喋れなくなるんだよな……。
「せんせ、これよんでー」
「いいよ、これお気に入りだねえ」
「おきにいりって?」
「大好きってことだよ」
はらぺこあおむしを持ってきたレナちゃんは、ふふふーと体をよじった。たまにこうして物怖じせず俺にも構って貰おうとしてくれる子がいる。
読んでとせがまれるものの、読むほどの文章はない絵本が多くて驚いた。簡単な擬音ばかりだったりして、それを声色や表情を使って楽しませるように読むのは相当な技術が必要だと思える。他の先生方や、保育士志望の研修生の子たちを見るとみな上手にやっているし、絶対そちらにお願いした方が楽しめると思うが、だからって頼まれたのにやらないわけにもいかない。
子供たちは無邪気に俺のことを先生と呼ぶ。子供にとってセンターの職員は全員先生なのだ。
そして大人は大人だと信じている。子供に優しくて、しっかりしていて、守ってくれる存在だと。実際の俺はまだまだ子供で、わからないこともたくさんあるし、上手に優しくすることができない。それがすごく恥ずかしいし申し訳ないのだった。
それでも最近は子供たちの顔ぶれもわかってきた。むこうも俺のことをちゃんと認識してくれていて、こちらで遊んだ子の診察を担当したときは大層喜ばれてくすぐったかった。
……しかし自分と子供と一対一でなら気にならなくとも、その子のお母さんや普段仕事を教えてくれている先生なんかに子供とのやりとりを見られるのはものすごく恥ずかしいんだよな。いずれ慣れるんだろうか……。
---
「桐谷くん今日もう上がり? お昼食べようよ」
ロッカールームで声をかけられた。相手は同じ研修生の飯島という男子だ。俺とは部署が違うので、彼はスケジュールが違っていて、昼休憩のあとまだ仕事があるらしい。たまに俺の終わり時間と休憩が合うとこうして声をかけてくるのだ。
研修生同士の仲は良好だ。みんな同じ立ち位置だし、出し抜く必要もない。抜き打ちで小テストを出されることはあるが、これは自分の理解度や弱点を確認するためのものであって成績を競うわけじゃない。
職員や先生と研修生の距離感は部署によって異なるようだ。研修生同士でばかり固まっているところもあれば、立場関係なく和気藹々としたところもある。飯島は保育士志望のようで、やはりそちらは女性の割合が多く、自由時間は少し気まずいようだ。
俺のところは基本的に一人の先生に一人がついて回っているから、男女比とかは関係がない。が、その分同じ研修生ともあまり関わりが持てていなかった。飯島は数少ない研修中にできた友人である。
「どうしても子供相手にオーバーリアクションとかすると嘘っぽくなるんだよなあ……」
「恥を捨てるしかないよ。サービス精神サービス精神」
「俺にそんなものあると思う?」
しばらく黙ったあと、ははは、と誤魔化すように苦笑しながら飯島は焼き魚をつつく。飯島は朗らかな男だ。ややのほほんとしたところがある。
彼曰く、子供がどうこう、というより俺に足りないのは気持ちを表現する能力らしい。そりゃあ感情表現が苦手な自覚は十分あるけど。
「でも桐谷くんの場合は子供受けとか気にしなくていいと思うけどなあ」
「そんなことないだろ。お前ほどじゃないけど、俺だって子供相手にするんだから。怖がられてちゃ問診どころじゃないし」
「むしろ懐かれてるじゃない。これだけ人が多いと、子供に覚えてももらえない人って結構多いよ。サービス精神って言っちゃったけど、多分変に楽しませようとする必死さがないのがいいんじゃないかなあ」
必死に楽しませようとしているんですが……。
なんとなく言い出せなかった。
「僕たちはお母さんお父さんが安心して預けられるように、子供たちが通いたくなるように頑張ってるから、そんな風にはできないんだけどさ。桐谷くんは子供と対等に喋ろうとしてる感じするよ。先生と園児の距離っていうより、近所に住んでるお兄さんみたいな」
「それは本当にいいのかな!?」
「診察って普段の様子とか精神状態がわからないといけないんでしょ? いいと思うけどなあ」
う、ううーん、そう言われてみると悪くない気もしてきたけど、これでは相性が合わない子には対処できないような……。それに俺は全力で子供たちに迎合しにいってるつもりなのだ。下手に出て媚び媚びのつもりなのだ。それで対等に相手しているように見えるって、どうなんだ……?
「僕年の離れた弟たちの面倒見てたから、子供と接する仕事を選んだんだけどね、やっぱりここの子たちは精神的に落ち着いた子が多いよね。だからやっぱりあってると思うよ。年齢相応のおもちゃとか見せるとすごく冷めた反応する子が多い感じする」
「年相応の子には?」
「そこはサービス精神だって。遊園地のスタッフになったつもりで」
サービス精神ね……。佐伯はそういうのが得意だった。本人は苦に思わずにできるんだから、俺とは真逆だ。
小さい子供と接しているところは見たことないけど、きっとなんの抵抗もなく仲良くなれるだろうと思う。
「とりあえず笑顔ができればそんなに喋らなくたって伝わるよ」
「笑顔……」
俺だって決して笑えないキャラというわけではない。ただ、多分笑顔を出すための喜びのハードルが人より高いのだ。満面の笑みともなると、本当に最大限意識しないとできない。
やって見せてみると飯島は突然むせて顔を伏せてしまった。その向こうの席でこちらを向いてご飯を食べていた女子も肩をふるわせている。
なんだよ。見せ物じゃないぞ。
その後、何故か両肩を掴んで、そのままでいい、無理するなと説得されたのでひとまず営業スマイルは封印される運びとなった。
複雑だ。