12章
「事故よ。右手と左足。だめねやっぱり、利き手は自然と体を庇おうとしちゃって、地面についたら折れちゃった。左腕だったらまだよかったんだけど」
「じ、事故って! いつ、どこで?」
久しぶりの河合さんは、態度だけはいつも通りだった。
しかし見た目は見るに耐えない。
髪は今までで一番短くなっていた。洗うのが面倒で、ということらしいが……。
河合さんは玄関の段差ひとつを踏ん張りながら登って、よちよちと廊下を先導して居間に案内してくれた。
初めて河合さんの住む家に入った。初めての家は初めての匂いがする。しかしまったく満喫できる雰囲気ではない。
長い時間をかけ、ようやく河合さんは椅子に座った。俺は自分で座布団を出して床に座る。
「あ、ごめんなさい、お茶……」
「い、いいっていいって! やめてよ、別にいらないよ。あ、河合さん飲む? 俺いれようか」
「あら。あなたお茶の支度できるの?」
「で、できるよ……」
河合さんの受け応えはびっくりするほど平静で、調子が掴めない。
まあ、とりあえず話はできるのだからこれからじっくり聞けばいい。口頭でどこの何を使えとか指示を受けながらお茶を入れた。緑茶だった。結局手順がよくわからず細かく教えて貰った。
「一分ほど茶葉が開くのを待つの」
「そ、そっか」
家ではコーヒーやココアばかりだったから、てっきり似たようなものかと思っていた。が、笑われそうなので黙っておく。恥ずかしい……。
ちゃぶ台の中心に置いておいて、俺は河合さんに向き直る。手足がぐるぐる巻きでなんとも痛ましい。
「ご、ごめん、最近ちっとも顔出せなくて……」
「いいわよ、忙しかったんでしょ?」
「まあ……」
しかし様子を見に来る余裕がないほどではなかった。
「それで……その怪我……」
「ああ……、歩いてたらね、車が突っ込んできたのよ。避けきれなくて左足を踏まれて、転んで手を突いてそっちも折れちゃったの」
「い、いつ?」
「えーっと、先月の16日ね」
けろっとした顔でこちらを見ている。
「そんな、どうして教えてくれなかったのさ。そんな大怪我……大変だった……っていうか今も大変でしょ」
「そりゃあ大変だけど……。長いこと連絡とってなかったのに、困ったときだけわざわざ心配させることだけ伝えるなんてできないわよ」
そう言われてみると、たしかに気持ちはわかるのだが……。自分に置き換えてみても、やっぱり心配をかけたくないという気持ちが出てくるのは理解できる。でも、そんな重大な状態になっていたことを伝えられずにあとからそのことを知ったら、悔しいような気持ちになるのだって想像つく。
……でも、河合さんの状況を見るにそこまでの余裕はなかったのだろうとも思う。
そうだよなあ……助けを求めるとかできる人じゃないよなあ……。
「スマホの操作もわたし、手小さいし、片手じゃ大変だからやる気起きなくて。最初の内は入院もしてたしね。お見舞いに来てもらう勇気でなかったし」
河合さんの気持ちは、察しがつく。人に構われるのが得意じゃない人だ。
それでも俺は個人的に、重大な状況になっているのに黙っておられるのは非常に嫌なのだ。そしてなによりそれを打ち明けてもらえる関係性を築いてこれなかった自分がとてつもなく嫌なのだ。
別に怒ってはいないのだが、俺があまり気分を良くしていないのを感じ取ったのか河合さんは気まずそうな顔をしている。
「……ごめん、もっと河合さんのこと気にかけておくべきだった。後悔してるよ」
「何いってるのよ。それでわたしにかまけてる間に学校の友達が怪我や病気してるのに気付かなかったら、また同じこというの?」
「そ、それとこれとは話が違うよ……」
俺はあまり顔が広いわけでもないし、マメな性格でもない。結局どこかに集中していると別のどこかが疎かになるのだ。
河合さんに指摘されてお茶のことを思い出し、湯飲みに注いでいく。
「……そうだ、和泉は知ってるの?」
河合さんはお茶を飲みながらわかりやすく目を逸らした。
……やっぱりな……。
「連絡自体は?」
「週に一回、取ってるわよ。たまに忙しいみたいでメールだけとか、一週抜けるときはあるけど」
「……なのに何も言っていないと……」
「言ってどうするのよ。心配かけるだけだし、治るわけじゃないし。余計な心配かけたくない気持ちはわかるでしょ」
「そりゃあ、わかるけど……。大事な人が大変な思いをしているのに、全く知らずにいたなんて絶対辛いよ」
和泉のことだから心配しすぎて帰ってくるかもしれない。それが嫌なのかな。
いやいや、でもやっぱりもっと大騒ぎすべきだ。河合さんは。
何も知らずに適切ではないことを言ってしまったら、知らなかったとはいえ後悔するもんだ。そんなことは俺も和泉もしたくないのだ。
「よし、和泉に言おう」
「ええっ、な、なんでよ。関係ないじゃない」
「関係あるって。これで俺、あいつに河合さんのこと黙ってたってあとでバレたらぶっとばされるよ」
河合さんは黙る。たしかにと思ったのだろうか。和泉は今まで誰も殴ってないのにな。
「電話しなさい」
「ええ……? 今ぁ……?」
河合さんはらしくない弱気な子供のような声を上げた。
「スマホの操作しにくいなら俺がするから。あ、他に家事とか困ってることない?」
「あー……、じゃあちょっと洗濯物の取り込みを……、二階のベランダだからちょっと危なっかしくて」
「二階? 俺上がって平気?」
「大丈夫、変なもの置いてないし。階段上がって左の部屋よ」
「わかった。……その前に電話ね」
「やっぱり……?」
河合さんは面倒くさそうな顔をするが、それでも頑なに拒絶しているわけではないようだ。
それ、と机の上のスマホを指さした。
「パスワードは0128だから。多分今の時間なら出ると思う」
「誕生日をパスワードにするのはやめたほうが良いらしいよ」
「うるさいわね」
別に俺のスマホからでもいいと思うのだが、まあ和泉も河合さんからの連絡の方が優先して出てくれそうだからいいか。
人にスマホを操作させてもなんの抵抗もないらしい。変な写真とか、サイトとか、後ろめたいことはなにひとつないんだろうか。こんな人に俺もなりたい。無理だけど。
世代が違うとはいえ同じ機種なので戸惑うことなく和泉に連絡をかける。そのためにアプリのフレンドリストを見たのだが、登録されているのは俺と和泉だけだった。なんだか、申し訳ないような気持ちになる。見てはいけない物を見てしまったような……。当の河合さんは何も気にしていないようだけど。
「じゃあかけるよ」
「わかった。……あ、ちょっと、恥ずかしいから、聞かないで」
「えっ、わ、わかった。じゃあ洗濯物やっとくね。……あ、おばあさんとかいるのかな?」
「ううん。今誰もいないから気を遣わなくて良いわ」
俺も久しぶりに和泉と話したかったんだけど……。それはいつでもできるか。
スマホを河合さんに渡して、俺はそろそろと階段へ向かう。
うん、懐かしの家庭という感じだ。階段はやや急。まだ外は明るいのに、少し暗い印象を受ける。足を骨折した状態じゃこの家での生活は厳しいだろうに。おじいさんおばあさんと暮らしているんだから、バリアフリーにしているのかと思っていたけど……。
二階にあがって言われた部屋に入る。片づいた寝室だった。色合い的に河合さんの部屋だろう。乙女チックとまではいかないが、カーテンや家具にそれとなく子供らしさや可愛らしさがある。そういう家具を自ら選んでいるというより、最初にこういうレイアウトにされたからそのまま保っている、というような印象だが。……いやいや、何を分析しているんだ。
ベランダと聞いていたが、実際は手すりのある窓だった。外には出られず、身を乗り出すしかない。これはさすがに危ないな。
手すりには布団が干してあり、物干し竿に服とタオルが何枚か。下着と靴下もあったので丸ごと取り込む。
……冷静に考えると、同い年の女の子の家に上がり込んで平然と下着だのを目にしてるのってヤバいのでは……。
まあ、下着はとりあえず入れておくだけにして、服とタオルを畳んでおいた。
それにしても洗濯物の量が少ない。あの腕だとため込んでいてもおかしくないと思ったのだが、河合さんの分とおそらくお父さんの分だけだろう。高校時代にお父さんは単身赴任していると聞いていたけど、帰ってきているんだろうか。それなら生活も多少頼れるのかな。
雰囲気的に、今は一階で生活しているのかな。あの階段はしんどいだろうし。
勝手に人の部屋を物色して暇をつぶすわけにも行かないし、そろそろと下に降りてみる。喧嘩してたら仲裁しないといけないし。
「だから謝ってるじゃない。もう、次は死んでも教えないから」
『あ! またそういうことを! 謝るならちゃんと反省しろよ!』
声がでかすぎて廊下まで電話の声が漏れている。
「あ、あのー……落ち着いて……」
「……」
河合さんは仏頂面でこちらを睨む。お前のせいで面倒なことになったぞと責める目だ。
そんな目をされても困る。間違ったことを勧めたつもりはない。けど連絡をとらせたからにはそれなりの結果に導かないとな……。
どうやらテレビ通話にしていたらしい。河合さんの後ろに回って画面をのぞき込む。
「和泉久しぶり」
『おーっ流! いつぶりだよ! なんかすまねえな、気ぃ遣わせちまって』
「河合さんの悪いところが出たよね」
河合さんはふくれっ面に変わっていた。
『いやもう、全然気付かなかったわ。ちょっとへこむ』
「和泉でも?」
『さすがのおれでもへこむぜ~』
「ほらあ、河合さん」
「……」
『すぐそっち行って介助してやりてえとこだけど、さすがに今抜けらんねえんだよな……新学期はじまったばっかだし』
「ああ、そっちはそうだよね。仕方ないよ。代わりに俺顔出すようにするからさ」
『悪ィな。頼むわ。……っとごめん、おれ明日早くてよお、もう寝なきゃやべえんだわ』
「あ。そうなんだ。急にかけてごめんな」
いやいやいやと和泉は手を振る。それから河合さんの方へ向けて、少しだけ怒ったような表情を作った。それでも声色は優しい。
『河合~お前もうちょい甘えろよな。寂しいだろ』
「知らないわよ……。わたしは甘えたくないんだもの」
『はいはい……。明日また電話すっから、絶対出ろよな! 出なかったら色々投げ出してそっち行くからな!』
どういう脅し方だ。
でもそれが一番河合さんは嫌なのだと和泉もよくわかっているようだ。河合さんはとにかく人の邪魔をしたくないのだ。
通話が終わると、河合さんはこれで文句はないだろうとふんぞり返った。
「あ。洗濯物、畳んでおいたよ。ベッドの上に置いておいたけど、仕舞った方がいいかな?」
「ああ、どうもありがとう。いいわよそのままで」
「……家事はともかくとして、食事とかは大丈夫なの? きちんと食べれてる? 左手じゃ準備も食べるのも大変だよね」
「まあ、元々あまり食べない方だからそれは別に。朝と夜はパパが準備してくれるの。だから平気よ」
それは昼を抜いているという意味じゃないだろうか……。
かといって食べさせてあげようか? なんて言う勇気はさすがにない。異性の友達というのはこういうとき不便だな。
いくら恋愛感情がないとはいえ、よくない気がする。もしもお父さんに見られたらさすがに、こう……責任とらないといけないんじゃないかとか、そんな気持ちになる。
「じいちゃんもばあちゃんももういないし、自分一人の世話ならなんとかなるわよ」
「えっ……、亡くなられたの……?」
「ばあちゃんは去年ね。じいちゃんは今年の春」
「ええ、そ、それは……ご愁傷様です……」
それも聞いてないぞ……。
俺は座布団にきちんと座り直して、河合さんに向き直る。
「河合さん、河合さんにはもっと、俺や和泉が河合さんに関心をもっていることをわかってほしい」
「はあ……」
「こちらから連絡を取ってないくせに偉そうなことは言えないけど、やっぱり河合さんが大変な思いをしているのに気づけないのはとてもふがいなく思うよ」
「……あなたたちがふがいない気持ちをしないために、わたしは身内が亡くなったり怪我をしたら二人に報告しなくてはいけないの? わたし、自分のことでいっぱいいっぱいなんだけど……」
「し、しなくてはいけない、というんではなくて、何か少しでも困ったら、手助けさせて欲しいんだよ。怪我したから買い物してくれないか、とかさ。本当になんにも困ってないのなら余計なお世話だろうけど、そんなわけないよね?」
河合さんは左手でぽりぽりと頬を掻いた。
俺だって人を頼るのが苦手な気持ちはよくわかる。ちょっと無理して自分でできることならやるだろう。頑張ればできる範囲はやるだろう。どうしてもできなければあきらめると思う。そこで他人を頼ろうという発想はなかなか出てこない。家族だっているし。
それでも河合さんのは限度が過ぎていると思うのだ。ちょっと捻挫した程度じゃない。スポーツもしないインドアな人間からすると人生で一番くらいじゃないかってくらいの大怪我だ。
さすがにそれは心配したいじゃないか。
それに俺はともかくとして、和泉とは定期的に連絡をとっている中わざと隠していたんだから、そりゃあ傷つくさ。
「桐谷だって隠し事するくせに……」
「えっ? あ、ああー……隠し事っていうか……、人に甘えるのが苦手だっていうのはよくわかるんだよ? でもいくらなんでも……」
「そうじゃなくて……」
河合さんは手持ちぶさたそうに腕のギプスをなぞる。もし、学校での人気者だったらあそこに色んな人がメッセージを書いてくれるんだ。ドラマとかで見たことがある。でも河合さんのは真っ白だ。
「桐谷だって、なんでも話すわけじゃないでしょ?」
「そ、そりゃあ……そうだけど……。なんでも話せって言ってるんじゃないよ。心配をかけるからって一人で大変なことを背負い込もうとするのはやめて欲しいと言っているんだよ」
河合さんはぶっすりとしている。
「……納得がいかないのならちゃんと話そう。河合さんの言い分も聞かせて?」
俺の聞き方は多分あまり上手ではない。高校のとき和泉が河合さんと膝を交えて話しあっていたのはきちんと歩み寄りに見えていたのに、俺がやろうとすると、まるでこれからひとつずつ俺が言い負かしていくかのような雰囲気になってしまうのだ。
「……わたし、あんまり人に色んなこと聞かれるの好きじゃないわ。だからわたしもあまり聞かないようにしてた。話さないってことは、話したくないことなのかもって思って。でも、そうじゃないならわたしも聞きたい」
「……わかった、いいよ、なんでも聞いてよ」
引き替えに、みたいなやり方をしても根本的な解決にはならない気がするが、気を遣ってくれていたところがあったのなら、そこは解消しないと河合さんも気分は良くないだろう。
嫌な予感がしつつも頷いた。
「佐伯のこと。わたしには何も話してくれてないわよね?」
やっぱり、と少し苦い気持ちになった。
そりゃあ、河合さんは察しのいい人だから、気付いていないわけはないと思っていたけど……。
「……いつか河合さんにもきちんと話さなくてはと思っていたんだよ?」
「いつか、なんてそんなのわたしには関係のない話だわ」
おっしゃるとおりで……。
わかってる。四人で仲良くやってきて、一人抜けて、その事情を俺も和泉も知っているのに河合さんだけ蚊帳の外なんて、納得行くはずがない。そして、俺たちが佐伯のことについて知っている、という情報すら河合さんにはないのだから、河合さんからこちらに質問してくるということもない。うん、知らないのだから聞きようがない、というのは今河合さんに俺が訴えている状況と同じだ。
それでもなんとなく河合さんは勘づいたんだろう。しかし俺たちが自分に話さないということは何か理由があるのかも、と汲んで黙っていてくれたということか。
「……ごめん。タイミングを逃して、ずっと言いそびれてたんだ」
「ふうん。いつでも話せる時間はあったと思うけど……」
まったくその通りだ……。
いつの間にか構図が変わっていた。椅子に座った河合さんの正面で正座をするのはまるで叱られているようだ。
「その……時間がどうっていうより……内容が……ちょっと……」
「……別に、話したくないならいいのよ」
「いや! 言う……っていうか、言うべきだとずっと思っていたから……」
こ、これじゃまるで言わされてるみたいじゃないか。
当然、ずっと河合さんにも全部話さなくてはと思っていたのだ。でも、勇気がでなかった。軽蔑されるんじゃないかというのが恐ろしくて。
俺のことだけじゃなくて佐伯のことも、河合さんがどう思うのか想像つかなくて恐ろしかった。だって、もし俺が河合さんの立場で、和泉と河合さんが俺たちのような状況になっていたら、俺は和泉のことを罵っていたと思う。河合さんには、どうだろう、幻滅はするかもしれない。
そんな俺が人には自分を許して受け入れて欲しいなんて思って良いはずがないじゃないか。
一度河合さんを改めて見る。
「ふっ」
「なによ」
「いや、まさか満身創痍の相手にこんな話をすることになるとは思わなくて」
「それはわたしの勝手でしょ」
ふん、と河合さんは鼻をならして口をへの字にした。
今日は河合さんの不機嫌そうな顔しかみていない。前はよく笑うようになってきたと思っていたのに、和泉がいなくなるとこの有様だ。
「高校時代佐伯と付き合ってたんだ」
河合さんの表情を伺う。
「……だと思った」
「あ、やっぱり気付いてた?」
「いい感じなんだろうとは思ったわよ。実際に付き合ってるかは確信持ってなかったけど。あなたの態度はわかりやすいもの。佐伯は全然変わりなかったけど」
河合さんは察しがいいからな……。何も喋らないからどこまでわかっていて何をわかっていないのか把握できない。
どう切り出すか、そこからしばらく迷った。
結局、絞り出すように、なんのてらいもない言葉しか出てこなかった。
「こ、子供が……できたんだ」
「……」
「俺はそのことを教えて貰えなくて……佐伯は俺のことを誰にも言わなくて……、それで……子供を産むのを許してもらうために親が見つけてきた相手と結婚したんだって、全部あとから和泉に教えて貰ったんだ……」
いつの間にか俺はじっと畳を見つめていた。そろそろと視線を上げて河合さんの表情を伺う。
河合さんは少しだけ目を見開いているようで、いつもの無表情のようでもあった。
どう感じているのかわからない。
「か、河合さんにも言わなきゃとは思ったんだけど、どんな風に思われるのか考えたら怖くて、言い出せなくて……ご、ごめん……」
河合さんは背もたれに寄りかかり、腕を組もうとして片腕が思ったように動かなかったのか途中で諦めた。そのまま視線は俺より上を向いている。
心情が全く読みとれない。
ただじっと正座で、判決を待った。
「わたしも大概だけど、佐伯も困った人ね」
機嫌を伺うように、はは、と笑って返す。河合さんも少しだけ眉尻を下げて笑っていた。
「もう、真面目な振りして何してるのよ。ダメじゃない、不純異性交遊」
「お、おっしゃる通りで……」
河合さんの声色は優しかった。
さっきまで仏頂面を続けていたのに、今は穏やかな表情だ。怒られたってしょうがない内容なのに。
「わたしが佐伯だったら、絶対桐谷に責任とらせて、大学なんて絶対行かせなかったわよ」
「……そうだよねえ……。俺も、責任取らせて欲しかったよ」
「いざとなったら言えないものなのかしらね。下手したらあなた、ストレスで潰れちゃいそうだし」
ぐうの音もでない。
言い訳なんてできない。
「それで、佐伯探しはなんとかなりそうなの? 結婚してるんでしょ?」
「うん、最初はなんの手がかりもなかったんだけど……俺の子供だったら、遠からずセンターにくると思うんだ。それに賭けるしかないかなって」
「なるほどね……」
口に出してみると、どうにも消極的な案だな……。
しかし今のところ俺にできることはない。
「わかった。話してくれてありがとう。胸のつかえがとれたわ」
「す、すみませんでした……」
「わたしもこれからは困ったら頼るように努力してみるから、あなたもそうして」
「……わ、わかった」
そうか、河合さんだってそうだよな。俺も当時、結構落ち込んだり参ったりしていたのに、そこで河合さんに相談するという発想はなかった。内容が内容だったというのもあるけど。
少し反省していると、河合さんはもじもじと少し言いにくそうに口を開いた。
「さっそくなんだけど……」
「うん? 何?」
「…………トイレ……漏れそう……」
「えっ!? ど、どうしたらいい!?」
「お、おんぶして……左手で掴まるから……」
「だ、大丈夫!? 足とか、痛くないのかな?」
「平気だから、は、早く……!」
……危ないところだった。
本当の本当にギリギリだったと感謝された。
その日はそれから、ちょっとした雑用をこなしたあとお暇した。
また明日くるし、何かあったら連絡くれと伝えて、河合さんは了承した。ほっとする。
それにしても、ようやく佐伯のことを伝えられて肩の荷が下りた気分だ。もっと怒られるかと思った。それでも仕方ないと思っていた。
でも河合さんは、それを隠していたことに対して怒っただけだった。
よかった……。次は佐伯を見つけたときだな。
佐伯がどんな状況なのかはわからない。ただ子供を育ててるってことがわかっただけだ。旦那さんとうまくやってるのかもわからないから、状況によっては再会できても色々ややこしいことになるかもしれない。
そうなっても河合さんに巻き込みたくないから、とか、自分たちの事情だから、という理由でシャットアウトするのはやめよう。なんでもかんでも話すというわけにはいかないだろうけど、少なくとも、平静を装うのはやめよう。
ちゃんと弱いところも、見て貰おう。佐伯にだって、そうしてほしかったんだから。
「じ、事故って! いつ、どこで?」
久しぶりの河合さんは、態度だけはいつも通りだった。
しかし見た目は見るに耐えない。
髪は今までで一番短くなっていた。洗うのが面倒で、ということらしいが……。
河合さんは玄関の段差ひとつを踏ん張りながら登って、よちよちと廊下を先導して居間に案内してくれた。
初めて河合さんの住む家に入った。初めての家は初めての匂いがする。しかしまったく満喫できる雰囲気ではない。
長い時間をかけ、ようやく河合さんは椅子に座った。俺は自分で座布団を出して床に座る。
「あ、ごめんなさい、お茶……」
「い、いいっていいって! やめてよ、別にいらないよ。あ、河合さん飲む? 俺いれようか」
「あら。あなたお茶の支度できるの?」
「で、できるよ……」
河合さんの受け応えはびっくりするほど平静で、調子が掴めない。
まあ、とりあえず話はできるのだからこれからじっくり聞けばいい。口頭でどこの何を使えとか指示を受けながらお茶を入れた。緑茶だった。結局手順がよくわからず細かく教えて貰った。
「一分ほど茶葉が開くのを待つの」
「そ、そっか」
家ではコーヒーやココアばかりだったから、てっきり似たようなものかと思っていた。が、笑われそうなので黙っておく。恥ずかしい……。
ちゃぶ台の中心に置いておいて、俺は河合さんに向き直る。手足がぐるぐる巻きでなんとも痛ましい。
「ご、ごめん、最近ちっとも顔出せなくて……」
「いいわよ、忙しかったんでしょ?」
「まあ……」
しかし様子を見に来る余裕がないほどではなかった。
「それで……その怪我……」
「ああ……、歩いてたらね、車が突っ込んできたのよ。避けきれなくて左足を踏まれて、転んで手を突いてそっちも折れちゃったの」
「い、いつ?」
「えーっと、先月の16日ね」
けろっとした顔でこちらを見ている。
「そんな、どうして教えてくれなかったのさ。そんな大怪我……大変だった……っていうか今も大変でしょ」
「そりゃあ大変だけど……。長いこと連絡とってなかったのに、困ったときだけわざわざ心配させることだけ伝えるなんてできないわよ」
そう言われてみると、たしかに気持ちはわかるのだが……。自分に置き換えてみても、やっぱり心配をかけたくないという気持ちが出てくるのは理解できる。でも、そんな重大な状態になっていたことを伝えられずにあとからそのことを知ったら、悔しいような気持ちになるのだって想像つく。
……でも、河合さんの状況を見るにそこまでの余裕はなかったのだろうとも思う。
そうだよなあ……助けを求めるとかできる人じゃないよなあ……。
「スマホの操作もわたし、手小さいし、片手じゃ大変だからやる気起きなくて。最初の内は入院もしてたしね。お見舞いに来てもらう勇気でなかったし」
河合さんの気持ちは、察しがつく。人に構われるのが得意じゃない人だ。
それでも俺は個人的に、重大な状況になっているのに黙っておられるのは非常に嫌なのだ。そしてなによりそれを打ち明けてもらえる関係性を築いてこれなかった自分がとてつもなく嫌なのだ。
別に怒ってはいないのだが、俺があまり気分を良くしていないのを感じ取ったのか河合さんは気まずそうな顔をしている。
「……ごめん、もっと河合さんのこと気にかけておくべきだった。後悔してるよ」
「何いってるのよ。それでわたしにかまけてる間に学校の友達が怪我や病気してるのに気付かなかったら、また同じこというの?」
「そ、それとこれとは話が違うよ……」
俺はあまり顔が広いわけでもないし、マメな性格でもない。結局どこかに集中していると別のどこかが疎かになるのだ。
河合さんに指摘されてお茶のことを思い出し、湯飲みに注いでいく。
「……そうだ、和泉は知ってるの?」
河合さんはお茶を飲みながらわかりやすく目を逸らした。
……やっぱりな……。
「連絡自体は?」
「週に一回、取ってるわよ。たまに忙しいみたいでメールだけとか、一週抜けるときはあるけど」
「……なのに何も言っていないと……」
「言ってどうするのよ。心配かけるだけだし、治るわけじゃないし。余計な心配かけたくない気持ちはわかるでしょ」
「そりゃあ、わかるけど……。大事な人が大変な思いをしているのに、全く知らずにいたなんて絶対辛いよ」
和泉のことだから心配しすぎて帰ってくるかもしれない。それが嫌なのかな。
いやいや、でもやっぱりもっと大騒ぎすべきだ。河合さんは。
何も知らずに適切ではないことを言ってしまったら、知らなかったとはいえ後悔するもんだ。そんなことは俺も和泉もしたくないのだ。
「よし、和泉に言おう」
「ええっ、な、なんでよ。関係ないじゃない」
「関係あるって。これで俺、あいつに河合さんのこと黙ってたってあとでバレたらぶっとばされるよ」
河合さんは黙る。たしかにと思ったのだろうか。和泉は今まで誰も殴ってないのにな。
「電話しなさい」
「ええ……? 今ぁ……?」
河合さんはらしくない弱気な子供のような声を上げた。
「スマホの操作しにくいなら俺がするから。あ、他に家事とか困ってることない?」
「あー……、じゃあちょっと洗濯物の取り込みを……、二階のベランダだからちょっと危なっかしくて」
「二階? 俺上がって平気?」
「大丈夫、変なもの置いてないし。階段上がって左の部屋よ」
「わかった。……その前に電話ね」
「やっぱり……?」
河合さんは面倒くさそうな顔をするが、それでも頑なに拒絶しているわけではないようだ。
それ、と机の上のスマホを指さした。
「パスワードは0128だから。多分今の時間なら出ると思う」
「誕生日をパスワードにするのはやめたほうが良いらしいよ」
「うるさいわね」
別に俺のスマホからでもいいと思うのだが、まあ和泉も河合さんからの連絡の方が優先して出てくれそうだからいいか。
人にスマホを操作させてもなんの抵抗もないらしい。変な写真とか、サイトとか、後ろめたいことはなにひとつないんだろうか。こんな人に俺もなりたい。無理だけど。
世代が違うとはいえ同じ機種なので戸惑うことなく和泉に連絡をかける。そのためにアプリのフレンドリストを見たのだが、登録されているのは俺と和泉だけだった。なんだか、申し訳ないような気持ちになる。見てはいけない物を見てしまったような……。当の河合さんは何も気にしていないようだけど。
「じゃあかけるよ」
「わかった。……あ、ちょっと、恥ずかしいから、聞かないで」
「えっ、わ、わかった。じゃあ洗濯物やっとくね。……あ、おばあさんとかいるのかな?」
「ううん。今誰もいないから気を遣わなくて良いわ」
俺も久しぶりに和泉と話したかったんだけど……。それはいつでもできるか。
スマホを河合さんに渡して、俺はそろそろと階段へ向かう。
うん、懐かしの家庭という感じだ。階段はやや急。まだ外は明るいのに、少し暗い印象を受ける。足を骨折した状態じゃこの家での生活は厳しいだろうに。おじいさんおばあさんと暮らしているんだから、バリアフリーにしているのかと思っていたけど……。
二階にあがって言われた部屋に入る。片づいた寝室だった。色合い的に河合さんの部屋だろう。乙女チックとまではいかないが、カーテンや家具にそれとなく子供らしさや可愛らしさがある。そういう家具を自ら選んでいるというより、最初にこういうレイアウトにされたからそのまま保っている、というような印象だが。……いやいや、何を分析しているんだ。
ベランダと聞いていたが、実際は手すりのある窓だった。外には出られず、身を乗り出すしかない。これはさすがに危ないな。
手すりには布団が干してあり、物干し竿に服とタオルが何枚か。下着と靴下もあったので丸ごと取り込む。
……冷静に考えると、同い年の女の子の家に上がり込んで平然と下着だのを目にしてるのってヤバいのでは……。
まあ、下着はとりあえず入れておくだけにして、服とタオルを畳んでおいた。
それにしても洗濯物の量が少ない。あの腕だとため込んでいてもおかしくないと思ったのだが、河合さんの分とおそらくお父さんの分だけだろう。高校時代にお父さんは単身赴任していると聞いていたけど、帰ってきているんだろうか。それなら生活も多少頼れるのかな。
雰囲気的に、今は一階で生活しているのかな。あの階段はしんどいだろうし。
勝手に人の部屋を物色して暇をつぶすわけにも行かないし、そろそろと下に降りてみる。喧嘩してたら仲裁しないといけないし。
「だから謝ってるじゃない。もう、次は死んでも教えないから」
『あ! またそういうことを! 謝るならちゃんと反省しろよ!』
声がでかすぎて廊下まで電話の声が漏れている。
「あ、あのー……落ち着いて……」
「……」
河合さんは仏頂面でこちらを睨む。お前のせいで面倒なことになったぞと責める目だ。
そんな目をされても困る。間違ったことを勧めたつもりはない。けど連絡をとらせたからにはそれなりの結果に導かないとな……。
どうやらテレビ通話にしていたらしい。河合さんの後ろに回って画面をのぞき込む。
「和泉久しぶり」
『おーっ流! いつぶりだよ! なんかすまねえな、気ぃ遣わせちまって』
「河合さんの悪いところが出たよね」
河合さんはふくれっ面に変わっていた。
『いやもう、全然気付かなかったわ。ちょっとへこむ』
「和泉でも?」
『さすがのおれでもへこむぜ~』
「ほらあ、河合さん」
「……」
『すぐそっち行って介助してやりてえとこだけど、さすがに今抜けらんねえんだよな……新学期はじまったばっかだし』
「ああ、そっちはそうだよね。仕方ないよ。代わりに俺顔出すようにするからさ」
『悪ィな。頼むわ。……っとごめん、おれ明日早くてよお、もう寝なきゃやべえんだわ』
「あ。そうなんだ。急にかけてごめんな」
いやいやいやと和泉は手を振る。それから河合さんの方へ向けて、少しだけ怒ったような表情を作った。それでも声色は優しい。
『河合~お前もうちょい甘えろよな。寂しいだろ』
「知らないわよ……。わたしは甘えたくないんだもの」
『はいはい……。明日また電話すっから、絶対出ろよな! 出なかったら色々投げ出してそっち行くからな!』
どういう脅し方だ。
でもそれが一番河合さんは嫌なのだと和泉もよくわかっているようだ。河合さんはとにかく人の邪魔をしたくないのだ。
通話が終わると、河合さんはこれで文句はないだろうとふんぞり返った。
「あ。洗濯物、畳んでおいたよ。ベッドの上に置いておいたけど、仕舞った方がいいかな?」
「ああ、どうもありがとう。いいわよそのままで」
「……家事はともかくとして、食事とかは大丈夫なの? きちんと食べれてる? 左手じゃ準備も食べるのも大変だよね」
「まあ、元々あまり食べない方だからそれは別に。朝と夜はパパが準備してくれるの。だから平気よ」
それは昼を抜いているという意味じゃないだろうか……。
かといって食べさせてあげようか? なんて言う勇気はさすがにない。異性の友達というのはこういうとき不便だな。
いくら恋愛感情がないとはいえ、よくない気がする。もしもお父さんに見られたらさすがに、こう……責任とらないといけないんじゃないかとか、そんな気持ちになる。
「じいちゃんもばあちゃんももういないし、自分一人の世話ならなんとかなるわよ」
「えっ……、亡くなられたの……?」
「ばあちゃんは去年ね。じいちゃんは今年の春」
「ええ、そ、それは……ご愁傷様です……」
それも聞いてないぞ……。
俺は座布団にきちんと座り直して、河合さんに向き直る。
「河合さん、河合さんにはもっと、俺や和泉が河合さんに関心をもっていることをわかってほしい」
「はあ……」
「こちらから連絡を取ってないくせに偉そうなことは言えないけど、やっぱり河合さんが大変な思いをしているのに気づけないのはとてもふがいなく思うよ」
「……あなたたちがふがいない気持ちをしないために、わたしは身内が亡くなったり怪我をしたら二人に報告しなくてはいけないの? わたし、自分のことでいっぱいいっぱいなんだけど……」
「し、しなくてはいけない、というんではなくて、何か少しでも困ったら、手助けさせて欲しいんだよ。怪我したから買い物してくれないか、とかさ。本当になんにも困ってないのなら余計なお世話だろうけど、そんなわけないよね?」
河合さんは左手でぽりぽりと頬を掻いた。
俺だって人を頼るのが苦手な気持ちはよくわかる。ちょっと無理して自分でできることならやるだろう。頑張ればできる範囲はやるだろう。どうしてもできなければあきらめると思う。そこで他人を頼ろうという発想はなかなか出てこない。家族だっているし。
それでも河合さんのは限度が過ぎていると思うのだ。ちょっと捻挫した程度じゃない。スポーツもしないインドアな人間からすると人生で一番くらいじゃないかってくらいの大怪我だ。
さすがにそれは心配したいじゃないか。
それに俺はともかくとして、和泉とは定期的に連絡をとっている中わざと隠していたんだから、そりゃあ傷つくさ。
「桐谷だって隠し事するくせに……」
「えっ? あ、ああー……隠し事っていうか……、人に甘えるのが苦手だっていうのはよくわかるんだよ? でもいくらなんでも……」
「そうじゃなくて……」
河合さんは手持ちぶさたそうに腕のギプスをなぞる。もし、学校での人気者だったらあそこに色んな人がメッセージを書いてくれるんだ。ドラマとかで見たことがある。でも河合さんのは真っ白だ。
「桐谷だって、なんでも話すわけじゃないでしょ?」
「そ、そりゃあ……そうだけど……。なんでも話せって言ってるんじゃないよ。心配をかけるからって一人で大変なことを背負い込もうとするのはやめて欲しいと言っているんだよ」
河合さんはぶっすりとしている。
「……納得がいかないのならちゃんと話そう。河合さんの言い分も聞かせて?」
俺の聞き方は多分あまり上手ではない。高校のとき和泉が河合さんと膝を交えて話しあっていたのはきちんと歩み寄りに見えていたのに、俺がやろうとすると、まるでこれからひとつずつ俺が言い負かしていくかのような雰囲気になってしまうのだ。
「……わたし、あんまり人に色んなこと聞かれるの好きじゃないわ。だからわたしもあまり聞かないようにしてた。話さないってことは、話したくないことなのかもって思って。でも、そうじゃないならわたしも聞きたい」
「……わかった、いいよ、なんでも聞いてよ」
引き替えに、みたいなやり方をしても根本的な解決にはならない気がするが、気を遣ってくれていたところがあったのなら、そこは解消しないと河合さんも気分は良くないだろう。
嫌な予感がしつつも頷いた。
「佐伯のこと。わたしには何も話してくれてないわよね?」
やっぱり、と少し苦い気持ちになった。
そりゃあ、河合さんは察しのいい人だから、気付いていないわけはないと思っていたけど……。
「……いつか河合さんにもきちんと話さなくてはと思っていたんだよ?」
「いつか、なんてそんなのわたしには関係のない話だわ」
おっしゃるとおりで……。
わかってる。四人で仲良くやってきて、一人抜けて、その事情を俺も和泉も知っているのに河合さんだけ蚊帳の外なんて、納得行くはずがない。そして、俺たちが佐伯のことについて知っている、という情報すら河合さんにはないのだから、河合さんからこちらに質問してくるということもない。うん、知らないのだから聞きようがない、というのは今河合さんに俺が訴えている状況と同じだ。
それでもなんとなく河合さんは勘づいたんだろう。しかし俺たちが自分に話さないということは何か理由があるのかも、と汲んで黙っていてくれたということか。
「……ごめん。タイミングを逃して、ずっと言いそびれてたんだ」
「ふうん。いつでも話せる時間はあったと思うけど……」
まったくその通りだ……。
いつの間にか構図が変わっていた。椅子に座った河合さんの正面で正座をするのはまるで叱られているようだ。
「その……時間がどうっていうより……内容が……ちょっと……」
「……別に、話したくないならいいのよ」
「いや! 言う……っていうか、言うべきだとずっと思っていたから……」
こ、これじゃまるで言わされてるみたいじゃないか。
当然、ずっと河合さんにも全部話さなくてはと思っていたのだ。でも、勇気がでなかった。軽蔑されるんじゃないかというのが恐ろしくて。
俺のことだけじゃなくて佐伯のことも、河合さんがどう思うのか想像つかなくて恐ろしかった。だって、もし俺が河合さんの立場で、和泉と河合さんが俺たちのような状況になっていたら、俺は和泉のことを罵っていたと思う。河合さんには、どうだろう、幻滅はするかもしれない。
そんな俺が人には自分を許して受け入れて欲しいなんて思って良いはずがないじゃないか。
一度河合さんを改めて見る。
「ふっ」
「なによ」
「いや、まさか満身創痍の相手にこんな話をすることになるとは思わなくて」
「それはわたしの勝手でしょ」
ふん、と河合さんは鼻をならして口をへの字にした。
今日は河合さんの不機嫌そうな顔しかみていない。前はよく笑うようになってきたと思っていたのに、和泉がいなくなるとこの有様だ。
「高校時代佐伯と付き合ってたんだ」
河合さんの表情を伺う。
「……だと思った」
「あ、やっぱり気付いてた?」
「いい感じなんだろうとは思ったわよ。実際に付き合ってるかは確信持ってなかったけど。あなたの態度はわかりやすいもの。佐伯は全然変わりなかったけど」
河合さんは察しがいいからな……。何も喋らないからどこまでわかっていて何をわかっていないのか把握できない。
どう切り出すか、そこからしばらく迷った。
結局、絞り出すように、なんのてらいもない言葉しか出てこなかった。
「こ、子供が……できたんだ」
「……」
「俺はそのことを教えて貰えなくて……佐伯は俺のことを誰にも言わなくて……、それで……子供を産むのを許してもらうために親が見つけてきた相手と結婚したんだって、全部あとから和泉に教えて貰ったんだ……」
いつの間にか俺はじっと畳を見つめていた。そろそろと視線を上げて河合さんの表情を伺う。
河合さんは少しだけ目を見開いているようで、いつもの無表情のようでもあった。
どう感じているのかわからない。
「か、河合さんにも言わなきゃとは思ったんだけど、どんな風に思われるのか考えたら怖くて、言い出せなくて……ご、ごめん……」
河合さんは背もたれに寄りかかり、腕を組もうとして片腕が思ったように動かなかったのか途中で諦めた。そのまま視線は俺より上を向いている。
心情が全く読みとれない。
ただじっと正座で、判決を待った。
「わたしも大概だけど、佐伯も困った人ね」
機嫌を伺うように、はは、と笑って返す。河合さんも少しだけ眉尻を下げて笑っていた。
「もう、真面目な振りして何してるのよ。ダメじゃない、不純異性交遊」
「お、おっしゃる通りで……」
河合さんの声色は優しかった。
さっきまで仏頂面を続けていたのに、今は穏やかな表情だ。怒られたってしょうがない内容なのに。
「わたしが佐伯だったら、絶対桐谷に責任とらせて、大学なんて絶対行かせなかったわよ」
「……そうだよねえ……。俺も、責任取らせて欲しかったよ」
「いざとなったら言えないものなのかしらね。下手したらあなた、ストレスで潰れちゃいそうだし」
ぐうの音もでない。
言い訳なんてできない。
「それで、佐伯探しはなんとかなりそうなの? 結婚してるんでしょ?」
「うん、最初はなんの手がかりもなかったんだけど……俺の子供だったら、遠からずセンターにくると思うんだ。それに賭けるしかないかなって」
「なるほどね……」
口に出してみると、どうにも消極的な案だな……。
しかし今のところ俺にできることはない。
「わかった。話してくれてありがとう。胸のつかえがとれたわ」
「す、すみませんでした……」
「わたしもこれからは困ったら頼るように努力してみるから、あなたもそうして」
「……わ、わかった」
そうか、河合さんだってそうだよな。俺も当時、結構落ち込んだり参ったりしていたのに、そこで河合さんに相談するという発想はなかった。内容が内容だったというのもあるけど。
少し反省していると、河合さんはもじもじと少し言いにくそうに口を開いた。
「さっそくなんだけど……」
「うん? 何?」
「…………トイレ……漏れそう……」
「えっ!? ど、どうしたらいい!?」
「お、おんぶして……左手で掴まるから……」
「だ、大丈夫!? 足とか、痛くないのかな?」
「平気だから、は、早く……!」
……危ないところだった。
本当の本当にギリギリだったと感謝された。
その日はそれから、ちょっとした雑用をこなしたあとお暇した。
また明日くるし、何かあったら連絡くれと伝えて、河合さんは了承した。ほっとする。
それにしても、ようやく佐伯のことを伝えられて肩の荷が下りた気分だ。もっと怒られるかと思った。それでも仕方ないと思っていた。
でも河合さんは、それを隠していたことに対して怒っただけだった。
よかった……。次は佐伯を見つけたときだな。
佐伯がどんな状況なのかはわからない。ただ子供を育ててるってことがわかっただけだ。旦那さんとうまくやってるのかもわからないから、状況によっては再会できても色々ややこしいことになるかもしれない。
そうなっても河合さんに巻き込みたくないから、とか、自分たちの事情だから、という理由でシャットアウトするのはやめよう。なんでもかんでも話すというわけにはいかないだろうけど、少なくとも、平静を装うのはやめよう。
ちゃんと弱いところも、見て貰おう。佐伯にだって、そうしてほしかったんだから。