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12章

 実習が終わるとあとは勉強三昧だった。
 国家資格を取るための試験勉強だ。試験は年に2回あるが、現実的なのは三年の終わりと四年の夏だ。もちろん四年で落ちたらセンターでは働けないわけで、一年浪人となる。当然そんな暇はない。
 やっぱり試験があると勉強以外のことをやらなくてもいいという理由ができて良い。運動がどうとか、健康がどうとか言われないですむ。今更そんな文句をつけてくる知り合いはいないが、自分に対して言い訳できるのは大きい。
 そしてやっぱり俺はここまで来ても自室に籠もって自分で勉強するのが一番向いていると思うのだった。人から学ぶのももちろん自分にない視点で考えられて楽しいし参考になるのだが、復習や苦手の克服なんかは自分が一番自分のことをわかっている。自分の癖を分析して弱点を潰していくのが楽しいのだ。まあこれは学校を卒業してもできることだから、学生である間は最大限先生を頼りにしたり図書館を活用するように意識しているけどさ。
 しかし1、2年の頃よりも家にいる時間が増えた。まあ、その頃が異常だったんだが。図書館の主だと思われてたし。俺に本の場所聞いてくるやつ結構いたし。

「ママー洗濯機の使い方わかんないんだけど」
「あら、そうなの? ここ押して……、この量なら水はこのくらい、洗剤は……」

 家にいる時間が増えて家事を手伝う時間も増えた。といっても母は専業主婦だから、俺の知らない間にてきぱきと仕事を片づけてしまうし、勉強の邪魔だからと積極的に手伝わせてはくれない。いつの間にか一通り終わっていることが多く、今はまだこれをやらせて欲しい、と提案して手順を教えてもらって仕事を貰っているような状態だ。
 先に動いて片づけておく、みたいなことができればいいんだけど……、今はまだその段階にない。まあ下手に勝手に動いても仕事を増やすだけだろうな。
 さすがに料理や掃除の概要くらいはわかるのだが、洗濯は今まで俺が学校に行っている間に終わらせられていたから、なにひとつわからなかった。
 掃除はまあ人並みに、料理は少し厳しい。レシピ通りに作れるものの、基本的な手際が悪い。これはいくら料理本を見ても身につかないのが弱点だ。致命的に失敗するということはないが、机に並べる頃には味噌汁がぬるくなっていたり、どうにも盛りつけがみすぼらしかったり、ううーん、と唸ってしまう出来である。両親は褒めてはくれるけど……。道のりは遠い。
 ここからさらに節約だの時短だのは夢のまた夢だな。
 和泉はこれを高校時代にやってたんだよな……。部屋はそれなりに片づいていたし、お弁当のおかずも今考えると毎日きちんと作られていた。
 大学生になってから一人暮らしをはじめたという馬場の住むアパートにお邪魔したことがあるが、ひどい有様だった。カップ麺の容器は割り箸とともにいくつも放置されているし、空のペットボトルやお酒の缶は転がっているし、何ヶ月も前に使った資料が散らばっていた。俺はそのまま回れ右して出て行ってファミレスで懇々と説教した。手が回らないという気持ちはわかるし、自活していない俺が言えたことではないが、あれはない。汚部屋の手本じゃないか。健康を害する。住むのは勝手だとしても、人を呼ぶのは絶対ない。結局そのあと二人で舞い戻り、明け方までかけて掃除したのだ。
 今のところ一人暮らしする予定はないが、ああはなるまいと誓った。
 ところで最近その馬場が念願の彼女を作ったらしい。粘土じゃない。人間の彼女だ。
 そして早速同棲をはじめてるそうなのだが、どうも家事の配分が殆ど彼女に偏っているらしい。まだ付き合いたてだから彼女の方が献身的にあれこれ世話を焼いているのをのろけ混じりに語るらしい。彼ったら私がいないとダメなのよ、みたいな調子で。そして巡り巡って友達として調子に乗ったヤツへ忠告してやれと俺に白羽の矢が立ったのだ。いい迷惑だ。
 最近学校にもなかなか出てこないし。相当二人でいちゃついているのが楽しいらしい。いや、そりゃあ楽しいだろうよ。誰にも咎められず家でずっと二人っきりだろ。楽しいでしょうよ。
 そしてそんな浮かれたヤツが忠告なんて貸す耳を持っているはずがないのだ。俺の言うこと全部僻みだと思っていやがる。だめだよあいつはもう。頼むから天罰が下りますように。できるだけ苦しみますように。

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 試験に備え、学校と家の往復の毎日だった。
 考えれば俺は人と会ったり遊んだりすることで息抜きする人間ではないようだ。友人がたまには息抜きでも、と飲みに行ったり遊びに行くのを見て、それをしみじみ感じた。もちろん仲の良いメンバーで集まって遊ぶのは楽しいのだが、それで休まるということはない。遊ぶぞ、といちいち意気込んで取り組んでいることに今更気がついた。
 そう思うと、河合さんたちのようなあまり活動的ではないグループでただ話すというのはとても貴重で気が楽だ。大学の友人らも、決して極めて元気のいいタイプというわけではないのだが、わざわざ集まるとなるとそれなりに元を取ろうとするというか、なんというか……。
 高校時代の、自分から動かなくても強制的に集団で行動させられる空間というのは意外と俺に合っていたのかもしれない。たまに会話すらなくなるのに別に誰も気にもとめない、たまに嘘みたいに盛り上がる、ああいうのがいい。素面だし。
 ……でも和泉なんかも次に会ったときは酒を飲むのかな。見た目的にアルコールに強そうだけど、どうだろうな。酒癖悪かったら俺では制御しきれないぞ。
 ふと、河合さんのことが気になった。
 もう長いこと会っていない。実習に行っていたときにちょっとしんどくて、癒しを求めて顔を出したとき以来か。二ヶ月以上会っていない。
 立ち話ではなくきちんと会話をしたのはさらに前、河合さんの誕生日の時だ。二十歳になったからお祝いしたのだ。お酒にはだいぶ弱いようで、一口味を確認したあと全部俺の胃に入った。
 河合さんと一緒にいると、まったりとした雰囲気でつい長いこと居座ってしまうのだ。試験勉強中控えてしまったまま、通いそびれていた。
 最後に話した頃は和泉とも相変わらずのようだったけど……今どうなっているんだろう。また喧嘩したりしていないといいけど。俺が立ち寄らなければ彼女から連絡がくることはほぼないからな。俺の誕生日にメールで祝ってくれたくらいである。
 河合さんはお店の定休日以外はいつだってそこにいるけど、俺は大学やらバイトやら試験やら不定期に予定を入るので向こうから接触してくることはないのだ。
 うん、久しぶりに寄ってみることにした。大学の帰りにほんの少しだけ遠回りすればいいだけだ。
 手みやげでも持って行こうかな。

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「……あれえ……」

 俺は河合さんのお店、いろは堂の入り口の前で呆然としていた。
 まだ閉店時間ではないのにシャッターが降りていたのだ。そして張り紙には頼りない細目の文字が並んでいた。

『店主怪我のため臨時休業させて頂いております』

 簡素な内容だった。時候の挨拶はもちろん、再開の日取りは書かれていない。
 しかし、怪我? 河合さんが? いや、店主っていうからおじいさんかな? 河合さんは介助で店に出られないとか。あれ、でもおじいさんは入院中なんだっけ?
 とりあえず電話をしてみるが、出ない。ううむ。
 裏手に回ってみる。たしかこっちに住宅の入り口があるのだ。裏口がお店の奥と繋がっているという構造だったはずだ。
 うん、表札には河合と書いてある。
 雑草は生えっぱなしだが、生活感がないというほどではない。ポストだって満杯にはなっていないし。
 少し躊躇してから、チャイムを押す。和風とまでは行かないが少し古い日本らしい家だ。昭和っぽい、ドアは引き戸。セキュリティ面が心配である。あんな美人な子、いくらストーカーがついたっておかしくないっていうのに。
 しばらく待っても応答がない。やっぱり留守なのかと思っていると、ドアの向こうに近づいてくる気配を感じた。
 それから磨り硝子の向こうに人影が映り、ゆっくりとした動作でドアがゆっくり開いた。

「あら。桐谷じゃない」

 平然と昔から変わらぬ平坦な声で、俺を見上げる彼女の全身を呆気にとられ見下ろす。

「か、河合さん……どうしたの、それ」

 河合さんは腕と足にギプスをつけ、松葉杖をついていたのである。
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