2章
その日は雨が降った。珍しく、雨足は強い。
佐伯はいつも雨の日は学校にこない。2日休んでようやく出て来るようになったのに、また休みか。そんな日はいつも少し暇だ。
「ねえ、びしょびしょの傘って、電車の中ではどうするのが正解なの?」
しかし佐伯は学校に来ていた。慣れない様子で傘を閉じていた。
佐伯の声に気づいたクラスのみんなが驚いたと思う。
「雨の日の道路ってチョー最悪だね〜、靴の中に水入っちゃった。これじゃ休んでる方がいいね」
他の女子たちと話しながら靴を履き替え、呆気に取られる俺の後ろを通り過ぎる。
「おはよっ桐谷!」
「ああ、うん……おはよう」
他の子も挨拶して、佐伯はそのまま階段を登っていった。
思わず土足のまま校舎に上がってしまいそうになった。
雨の日にも関わらず元気そうだったから、というだけじゃない。それはもちろんあるけど。
スカートを履いていたのだ。
---
「だって全然眠くないんだもん。そりゃ来るよ〜」
どうしたんだよ、と誰かが聞くとあっけらかんと佐伯は言う。
そこじゃないだろ、と誰かがいう前に、そばにいた他の女子が割り込んだ。
「いーじゃん、別に。女子が女子の制服着てるだけじゃん? なんか文句あんの?」
やけに喧嘩腰だ。文句を言えばセクハラ男扱いになりそうな予感がする。
佐伯は茶々を入れた誰かに向けて自信なさげな表情を向けた。
「お下がりの制服もらったからさ、制服じゃないのも悪目立ちするし……。やっぱ変態っぽいかなあ……」
不安げに、佐伯が言い訳のように述べると、すぐさま他の女子が「何言ってんの、そんなことないよ!」と庇う。なんだこの茶番。
その女子はいちいち距離が近いのだが、それは男へのボディタッチというより女子同士の結束を感じる近さだ。うちら味方だよ、とアピールするための接触に見える。なんだこの三文芝居。
いや、しかし。なんてこった。
他の女子たちと同じセーラー服である。河合さんが来ている旧制服とは違って襟や袖なんかが白いデザインだ。
あとはカーディガンに、赤いスカーフ、それと膝下まであるソックス。
これじゃあもう、まるっきり女じゃないか。
いいのかお前はそれで。
---
「友達のお姉さんが卒業生でさ、サイズもちょうどいいからって譲ってくれたんだよね」
「そ、そっか。用意してもらったなら、着ないと失礼だもんな……」
休み時間。
なんだか格好まで女子だと、こう、もう女として生きていくのよ、男はお呼びじゃないわ! みたいなことを言われるんじゃないかとビクビクしながら声をかけたら、いつも通りの佐伯でホッとした。
ただ服が変わっただけなんだ。冷静に考えれば当然だろうけどさ。
中身まで急に路線変更されたら、流石に困る。ついていけない。
人通りの少ない階段は肌寒かった。雨の日にたむろする場所ではなかったな。
「下に体操ズボン、履いてるんだよ? ほら」
「み、見せなくていいから」
どうも後ろめたさのようなものがあるのか、佐伯は仕切りに言い訳をしている。こいつはこんなことばかりだな。もっと開き直れば誰も何も言わないのに。
心許ないのか、それとも寒いのか、剥き出しの膝をさする。
「こうしてたら、普通の女子でしょ?」
返答に困る。
その通りなんだが、果たして本人は望んでいないだろうに同意していいものか……。
「やっぱり、目立つからさ……うちの学校は女子用のズボンの制服とかまだないでしょ? だから、見た目が女なのにズボン履いてるってだけで、あーあの子かーみたいな。顔だけ見にきたりする人もいるし、オレもやだし、友達もやな気持ちになるからさ……」
男が女になった、というのはとっくに校内では噂になっていた。元々佐伯は交友範囲が広いし、大体の奴が噂好きだ。
まあそのブームもすでに過ぎ去ってはいるし、教室内ではすっかり受け入れられているのだが……。
「それにね、テレビとかの取材の人もいたんだよ」
それは初耳だった。
「家にも直接話聞かせてくださいって電話とかあったみたい。和泉の家にも取材の人来たんだけど、それはおばさんが追い払ってくれたの。性別が突然変わるなんて、あるわけないでしょって。でも同じ学校の人にもこっそり情報収集してたみたいで、やっぱり隠しきれないし……。そんなとこにのこのこ男装して学校行って見つかったら言い逃れできないじゃん」
まあ確かに、完全に女の子の格好してたら、元男ですかと聞いて、いいえ違いますと言われれば一旦引き下がるしかない。中学時代の卒業アルバムとか引っ張り出されたら言い逃れできないかもしれないけど、そこまでやる人はまだ現れていないようだ。
といっても佐伯は未成年だし、悪さをしたわけでもないんだから自分から主張しない限り個人情報は守られるだろうとは思う。しかしやっぱり詮索されるのは気分が悪いだろうし不安もあるはずだ。
それに比べたら女子の格好をする方が気が楽だったんだろう。
うん。納得がいった。
というか、佐伯も俺を納得させようとしたんだろうか。
女子は好意的というか、むしろこっち側へ早くおいで、というように映るが、男はやはり少し、抵抗があるやつが多い。
声に出さずとも、あいつとうとうやりやがった、と顔を見合わせる男子が何人かいたことに、佐伯だって気付いただろう。
あれは、やっぱり不愉快だろうと思う。
でも、もしこれが佐伯じゃなくて、よく知らない別の男だったら、俺はどんなふうに思ったろう。
さすがに笑ったりはしないと思うけど、いくら見た目が女だからって、よくやるなあとか、元々興味あったのかなあとか、勝手に思ったんじゃないだろうか……。
自己嫌悪だ。
勝手によく知りもしない人の行動原理を推察するのはやめよう。
「それにしても、寒いね〜。足キンキンだよ」
「まあ雨だし、丸出しだしね」
「だよね〜、足冷やしちゃよくないのに、スカートなんておかしいよ~」
ペチペチと膝を叩くので、視線がそっちに落ちる。
すべすべの足だ。ムダ毛処理とかもしたんだろうか……いや、そりゃするよな。
と思っていたら、こちらの視線に気付いたのか目があった。やばい。エロい目で見てると思われたらどうしよう。
しかし佐伯は何も言わない。なにか気になるものでもあるのかいというように、はてなマークを浮かべているようなので話を逸らすことにした。
「そ、そういえば、雨降ってるのになんともないんだな。いつも休んでたでしょ」
「あ、うん! 全然平気〜! 出席日数ギリギリだったからね、これで留年の危機脱出だよ!」
自慢げに胸を張る。相変わらず小さい。
しかし、こいつ、ほんとに男に戻る気あるんだよな……?
少し不安に思いつつ、しかし本人は喜んでいるようなのでそっとしておいた。
そうして、あまりにも平穏に日常は過ぎていった。
一度、佐伯の友人が、佐伯も女子トイレや女子更衣室を使用するべきだと訴え、女子の何人かが反発した。
そして結局今まで通り教員用トイレを使うという結論で収束した。白熱したのは女子だけで、男子は蚊帳の外だ。もはや羨ましがる声どころか、からかうための野次すら飛ばなかった。
実際はどう思っているのかはわからないが、佐伯は楽しそうだったと思う。
特に和泉家に堂々と入り浸れるのが気に入っているらしい、と和泉は疲れた顔で言った。
今までも和泉の家族に受け入れられてはいたが、姉妹の一員として扱われることでより親密になれたのだろうか。
しかし、元々女性が立場の強い家に、さらに女子が加わって騒ぐとなると、和泉はついていけないようだった。
たまに実家に帰宅すると、父親とともに隅っこに追いやられているらしい。
さて。あとは犯人だ。
存在するのか、確証はない。
でも一番可能性が高いはずなのだ。
ただ不安なのが、犯人自身に、佐伯を女に変えたという自覚がない可能性だ。
……いや、そんなことを考えたってしょうがないか。
とにかく、犯人がいて、そいつが接触してくることを祈った。
それから先は、見つかってから考えようと思う。
佐伯はいつも雨の日は学校にこない。2日休んでようやく出て来るようになったのに、また休みか。そんな日はいつも少し暇だ。
「ねえ、びしょびしょの傘って、電車の中ではどうするのが正解なの?」
しかし佐伯は学校に来ていた。慣れない様子で傘を閉じていた。
佐伯の声に気づいたクラスのみんなが驚いたと思う。
「雨の日の道路ってチョー最悪だね〜、靴の中に水入っちゃった。これじゃ休んでる方がいいね」
他の女子たちと話しながら靴を履き替え、呆気に取られる俺の後ろを通り過ぎる。
「おはよっ桐谷!」
「ああ、うん……おはよう」
他の子も挨拶して、佐伯はそのまま階段を登っていった。
思わず土足のまま校舎に上がってしまいそうになった。
雨の日にも関わらず元気そうだったから、というだけじゃない。それはもちろんあるけど。
スカートを履いていたのだ。
---
「だって全然眠くないんだもん。そりゃ来るよ〜」
どうしたんだよ、と誰かが聞くとあっけらかんと佐伯は言う。
そこじゃないだろ、と誰かがいう前に、そばにいた他の女子が割り込んだ。
「いーじゃん、別に。女子が女子の制服着てるだけじゃん? なんか文句あんの?」
やけに喧嘩腰だ。文句を言えばセクハラ男扱いになりそうな予感がする。
佐伯は茶々を入れた誰かに向けて自信なさげな表情を向けた。
「お下がりの制服もらったからさ、制服じゃないのも悪目立ちするし……。やっぱ変態っぽいかなあ……」
不安げに、佐伯が言い訳のように述べると、すぐさま他の女子が「何言ってんの、そんなことないよ!」と庇う。なんだこの茶番。
その女子はいちいち距離が近いのだが、それは男へのボディタッチというより女子同士の結束を感じる近さだ。うちら味方だよ、とアピールするための接触に見える。なんだこの三文芝居。
いや、しかし。なんてこった。
他の女子たちと同じセーラー服である。河合さんが来ている旧制服とは違って襟や袖なんかが白いデザインだ。
あとはカーディガンに、赤いスカーフ、それと膝下まであるソックス。
これじゃあもう、まるっきり女じゃないか。
いいのかお前はそれで。
---
「友達のお姉さんが卒業生でさ、サイズもちょうどいいからって譲ってくれたんだよね」
「そ、そっか。用意してもらったなら、着ないと失礼だもんな……」
休み時間。
なんだか格好まで女子だと、こう、もう女として生きていくのよ、男はお呼びじゃないわ! みたいなことを言われるんじゃないかとビクビクしながら声をかけたら、いつも通りの佐伯でホッとした。
ただ服が変わっただけなんだ。冷静に考えれば当然だろうけどさ。
中身まで急に路線変更されたら、流石に困る。ついていけない。
人通りの少ない階段は肌寒かった。雨の日にたむろする場所ではなかったな。
「下に体操ズボン、履いてるんだよ? ほら」
「み、見せなくていいから」
どうも後ろめたさのようなものがあるのか、佐伯は仕切りに言い訳をしている。こいつはこんなことばかりだな。もっと開き直れば誰も何も言わないのに。
心許ないのか、それとも寒いのか、剥き出しの膝をさする。
「こうしてたら、普通の女子でしょ?」
返答に困る。
その通りなんだが、果たして本人は望んでいないだろうに同意していいものか……。
「やっぱり、目立つからさ……うちの学校は女子用のズボンの制服とかまだないでしょ? だから、見た目が女なのにズボン履いてるってだけで、あーあの子かーみたいな。顔だけ見にきたりする人もいるし、オレもやだし、友達もやな気持ちになるからさ……」
男が女になった、というのはとっくに校内では噂になっていた。元々佐伯は交友範囲が広いし、大体の奴が噂好きだ。
まあそのブームもすでに過ぎ去ってはいるし、教室内ではすっかり受け入れられているのだが……。
「それにね、テレビとかの取材の人もいたんだよ」
それは初耳だった。
「家にも直接話聞かせてくださいって電話とかあったみたい。和泉の家にも取材の人来たんだけど、それはおばさんが追い払ってくれたの。性別が突然変わるなんて、あるわけないでしょって。でも同じ学校の人にもこっそり情報収集してたみたいで、やっぱり隠しきれないし……。そんなとこにのこのこ男装して学校行って見つかったら言い逃れできないじゃん」
まあ確かに、完全に女の子の格好してたら、元男ですかと聞いて、いいえ違いますと言われれば一旦引き下がるしかない。中学時代の卒業アルバムとか引っ張り出されたら言い逃れできないかもしれないけど、そこまでやる人はまだ現れていないようだ。
といっても佐伯は未成年だし、悪さをしたわけでもないんだから自分から主張しない限り個人情報は守られるだろうとは思う。しかしやっぱり詮索されるのは気分が悪いだろうし不安もあるはずだ。
それに比べたら女子の格好をする方が気が楽だったんだろう。
うん。納得がいった。
というか、佐伯も俺を納得させようとしたんだろうか。
女子は好意的というか、むしろこっち側へ早くおいで、というように映るが、男はやはり少し、抵抗があるやつが多い。
声に出さずとも、あいつとうとうやりやがった、と顔を見合わせる男子が何人かいたことに、佐伯だって気付いただろう。
あれは、やっぱり不愉快だろうと思う。
でも、もしこれが佐伯じゃなくて、よく知らない別の男だったら、俺はどんなふうに思ったろう。
さすがに笑ったりはしないと思うけど、いくら見た目が女だからって、よくやるなあとか、元々興味あったのかなあとか、勝手に思ったんじゃないだろうか……。
自己嫌悪だ。
勝手によく知りもしない人の行動原理を推察するのはやめよう。
「それにしても、寒いね〜。足キンキンだよ」
「まあ雨だし、丸出しだしね」
「だよね〜、足冷やしちゃよくないのに、スカートなんておかしいよ~」
ペチペチと膝を叩くので、視線がそっちに落ちる。
すべすべの足だ。ムダ毛処理とかもしたんだろうか……いや、そりゃするよな。
と思っていたら、こちらの視線に気付いたのか目があった。やばい。エロい目で見てると思われたらどうしよう。
しかし佐伯は何も言わない。なにか気になるものでもあるのかいというように、はてなマークを浮かべているようなので話を逸らすことにした。
「そ、そういえば、雨降ってるのになんともないんだな。いつも休んでたでしょ」
「あ、うん! 全然平気〜! 出席日数ギリギリだったからね、これで留年の危機脱出だよ!」
自慢げに胸を張る。相変わらず小さい。
しかし、こいつ、ほんとに男に戻る気あるんだよな……?
少し不安に思いつつ、しかし本人は喜んでいるようなのでそっとしておいた。
そうして、あまりにも平穏に日常は過ぎていった。
一度、佐伯の友人が、佐伯も女子トイレや女子更衣室を使用するべきだと訴え、女子の何人かが反発した。
そして結局今まで通り教員用トイレを使うという結論で収束した。白熱したのは女子だけで、男子は蚊帳の外だ。もはや羨ましがる声どころか、からかうための野次すら飛ばなかった。
実際はどう思っているのかはわからないが、佐伯は楽しそうだったと思う。
特に和泉家に堂々と入り浸れるのが気に入っているらしい、と和泉は疲れた顔で言った。
今までも和泉の家族に受け入れられてはいたが、姉妹の一員として扱われることでより親密になれたのだろうか。
しかし、元々女性が立場の強い家に、さらに女子が加わって騒ぐとなると、和泉はついていけないようだった。
たまに実家に帰宅すると、父親とともに隅っこに追いやられているらしい。
さて。あとは犯人だ。
存在するのか、確証はない。
でも一番可能性が高いはずなのだ。
ただ不安なのが、犯人自身に、佐伯を女に変えたという自覚がない可能性だ。
……いや、そんなことを考えたってしょうがないか。
とにかく、犯人がいて、そいつが接触してくることを祈った。
それから先は、見つかってから考えようと思う。