このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

11章

 さて、春から嵐のように俺の頭の中に渦巻いていた悩みが消えた。勝手なことを言うと少しだけ寂しくもあるが、正しい状態に戻ったのだ。
 残るはあの二人だ。
 講義を終えた俺は今日ばかりは寄り道をせずそそくさと河合さんのお店へと向かった。
 お客さんは当然のようにいない。基本的にそれほど繁盛している店とは言い難いのだ。特に最近はすっかり夏日だし、今はまだ昼下がりで日差しが照りつけている。夕方頃になれば常連が顔を出すそうだがそれにはまだ早い時間帯だ。
 奥に呼びかけようかと考えていると、ぱたぱたと足音を立てのれんの向こうから河合さんが顔を出した。

「あら桐谷、おかえりなさい」
「あ、ただいま河合さん……えーっと……」
「和泉なら実家の方に顔だすって」

 言いながら河合さんはまた奥へ引っ込み、俺もついて行き、座布団の上にさっさと座った。この流れは慣れたものだった。
 この一年ほど、こうしてここでだらだらとなんてことない話をしたり、少し自習させてもらったり、たまにテーブルゲームで遊んでみたりをしてきたのだ。二人でできるゲームは限られていて、その度に河合さんは寂しそうにしていたけど。

「で、どうなったのさ。昨日の続き」
「そんな、ドラマみたいに言わないでよ。不躾ね」

 河合さんはふうとため息をついて俺の向かいにのそのそと座る。
 手にはあからさまに外国語の包装の包みが抱えられている。

「お土産に貰ったの。チョコレートですって。あ、桐谷も貰ったのかしら」
「貰ったけど歯磨き粉だよ。俺虫歯できやすいからって」

 あいつ、俺がチョコ好きだって知ってるくせに。変な情報ばかり覚えやがって。
 河合さんは箱を開け、ちゃぶ台の真ん中に置いて直接摘まみながら二人で食べる。外国の食べ物らしい独特の舌触りだ。でも味は意外と甘すぎることもなくおいしい。

「それで、心行くまで二人で話せた?」
「……どうかしら。最近和泉のことがよくわからなくて。ううん、自分のこともよくわからないんだけど」

 河合さんは思い返すように天井の方を見上げる。

「ほんとは今日お店締めて閉じこもってやりたかったわ」
「そ、そんなに……」
「なんだかね、嫌になっちゃって……」

 ど、どうしよう。何が、とか、ちょっと聞きづらい。とうとう和泉のあのしつこさに嫌気が差す日がきてしまったのだろうか。
 それはものすごく寂しい。二人には仲良くしていて欲しいのだ。

「和泉にも言ったんだけどね……、言いたくなかったんだけどね、多分わたし、遠距離恋愛とかできない人なのよ」
「そ、そう……なの……?」
「まあ、わたしたちのは恋愛の熱量とはまた違うんだろうけど」

 たしかに、好きだったら休暇をとって会いに行くなりするだろう。河合さんたちはそういうことはしない。二人ともあくまでも自分のやること優先だ。和泉だって河合さんのことが大好きだけど、それでも今回のようなことがなければ当分帰省するつもりはなかったようだし。

「わたし、物理的に距離が離れてたら、心もどんどん離れていっちゃう気がするの」
「あ、ああー……そ、それは確かに、なかなか……厳しいね……」

 なんとも言い難い。つまり河合さんの心は和泉から離れつつあるということでしょうか……。あんなに仲良かったのに? やばい。なぜか俺が泣きそうだ。

「あー、えーっと、好きじゃなくなったとか、興味がなくなったとか、そういう意味じゃないのよ? 聞いてる?」
「う、うん。……じゃあどういう意味?」
「ええとね、うんと……、なんていうのかしら。どれだけ電話で喋ってもね、ずっと遠くにいるっていうか……実際遠くにいるんだけど、心の意志疎通ができてる気がしないっていうか……」

 もごもごと河合さんは言い淀む。
 まあ、言わんとすることはわかるさ。実際に顔を合わせて喋るのと電話越しではやっぱり違うし。電話しながら浮気することだってできるし。ビデオ通話だって相手の変化なんかはわかりづらい。
 誰だって不安になる気持ちはあるだろう。あまり和泉の行動にこだわらない、嫉妬だってしない河合さんがそういうことを気にするのはなんだか不思議だったが、なんらおかしなことではなかった。
 しかし、解決法というのはよくわからない。
 和泉がどれほど河合さんに一途であると言っても、疑うことなんて人はいくらでもできるのだ。

「和泉は、わたしだって自由にすればいいって言ったでしょ。わたしもそう思ったの。でも、実際はお店のこととかあるし、じいちゃんたちのこともあるじゃない。もしわたしがこんな生活嫌って言ったら、パパもじいちゃんたちもいいよって言うと思う。でも、わたしきっとどこに行っててもずっとお店のことやじいちゃんばあちゃんのことが気になって、何も楽しめないと思うの。それってすごく不自由じゃない? 誰も邪魔してないのに」

 話の風向きが変わった。
 その気持ちはわかった。責任から解放されて好きにしていいと言われたからって、それですぐに気持ちを切り替えて楽しめるっていうのは難しいことだろう。この世界から問題が消えたわけではないのだ。別の誰かがその責任を負うことになっただけ。自分の手を離れたからって、自分は何もしなくていいと言われたって気にしない、ということはできない。

「だから和泉が羨ましくて八つ当たりしたのかも。和泉はちゃんとやるべきことをやっていて、環境だって整えて、ちゃんと正当に頑張ってるだけなのに、僻んじゃったの。……って、和泉には言って、謝ったわ」
「……あれ。ということは、他にも理由があると?」

 河合さんは、ふふ、と肩を竦めて笑った。いたずらっぽいようにも見えたし、自嘲しているようにも見えた。
 チョコが入っていた包装を細長く折り畳んで、きゅっと結んでそのまま包み紙を寄せ集めていた机の真ん中に放る。

「わたし和泉の邪魔はしたくないのよ」
「……気持ちはわかるけど、その考え方は和泉も喜ばないと思う」
「わかってるわよ。わたしだって一晩色々と考えたのよ、自分が何を考えているのか」

 黙って話を聞けと、河合さんは頬を膨らませた。

「あのね、和泉って自由な人でしょ。やりたいことのためにはすごく頑張る人でしょ。あの人に、ちゃんと企業に勤めて働きなさい! なんて絶対通用しないでしょ」
「それは想像つかないね」

 破天荒ってほど好き勝手するやつではないし、和を乱すこともしないのだが、なんとなくあいつはやりたいからそうしているのであって、誰かに強制されても決して従わないだろうと思わせるやつだった。喋らなくても性格を知らなくても、気にくわないことは決してやらないだろうと感じさせるやつだ。
 サラリーマンしてる姿なんて、想像してもコスプレにしか見えない気がした。

「うん、それでね、わたしはね、和泉の不自由にはならないわけじゃない。わたしはきっとずっとお店やじいちゃんのことを考えて、手がつかなくなると思う。でも和泉にとってわたしはそうじゃないんだって思ったら、なんだか面倒な気持ちになっちゃって……」
「面倒?」
「なんていうのかしら。ため息をつきたくなるような感じ。おかしなこと言ってる自覚はあるの。だから文句を言いたいわけじゃないし、ほんとにね、邪魔したいわけじゃないのよ。だから、よかったんだけど……、残念、みたいな」

 かくんと、河合さんは首を傾げて、視線を逸らした。斜め下の、なんでもないところを見つめていた。

「わたし、ここを離れる気はないの。だってお店もあるし、じいちゃんたちもいるし、パパも帰ってくるし、桐谷は遊びに来てくれるし、大好きだもの。いたくているのよ。なのにわたし、和泉に、ついてきて欲しい、とか、一緒にいられないならいかない、とか、そういうことを言ってほしかったのよね。とんでもないわがままよね。従うつもりないくせに。こんなこと、言えないわ」
「……よくあるよね、喧嘩して彼女が出ていって、男に追いかけてよ! って怒るやつ」
「そうそれ。むちゃくちゃよね」

 くすくすと笑った。
 河合さんは冷静だった。だからこそ自分の考えている矛盾に敏感に気付いて、自分の中に押しとどめてしまうのだ。
 そんなの、本気で和泉の行動を操作しようなんて思っていないんだから、戯れに過ぎない。わがままでもなんでもないのに。きっと和泉だってそんなこと言われたら困るだろうが、一方で心の内では河合さんが自分に対してそんな風に思っていることを喜ぶと思う。表層だけ見ればとても矛盾してるけど、納得できる心の動きだと俺は思う。
 きっと和泉は、河合さんは離れて過ごしていても平気でいられる人だと思いこんでいる。だって、河合さんの態度はなにも変わらないから。
 しかし河合さんはそういった葛藤を和泉には知られたくないようだ。
 もし河合さんが和泉にどこにも行くなと言ったら、和泉はどうするのだろう。あいつは自分の意志を大事にするやつだが、河合さんのことはいつも尊重してきた。河合さんを振り切ってまで遠い地に行くというのは考えがたい。かといってそれであっさり自分の夢を諦めてしまう奴だとも思えない。……結局、説得の末河合さんが折れて円満に見える形で和泉は海外へ行くような気がする。結果としては同じだけど、その過程を河合さんは求めたのだ。でもそれを表に出す前に矛盾に気付いてやめた。ただうまく隠しきれなかったのがこじれた原因だろう。

「もう自分で自分がやんなっちゃうわよ。わたしってもっとしっかりしていると思っていたわ」
「そ、それは……時と場合によるよね」

 河合さんは一人の時間が長かったから意外としっかりしている……ように見えて、慣れないことでは結構そそっかしいところもあるしな。

「強くならなきゃね。これから先一緒にいられる時間の方がうんと少ないんだから。今までだってそうだったんだもの、できるわ」
「……」

 河合さんの言っていることは尤もだ。年に数回帰ってくるだけというのが続くのなら、本当に僅かな間しか和泉とは一緒にいられない。
 それなのに和泉は河合さんに浮気するなだの、付き合おうだの結婚しようだの言うのだ。そんなの口だけじゃないか。

「河合さん、結婚願望とかないの?」
「あら。誰か紹介してくれるの? 幼児体型で無口で人とあんまり仲良くなれないんだけど、それでもいいって人いるかしら」
「はは……。それでも河合さんなら引く手あまたじゃないかな」
「桐谷お世辞が上手になったわね」

 河合さんはいつものように笑った。思い悩んでいる顔ではなくなっていた。

「和泉はいいやつだけどさ、振り回されるようなら他に相手を見つけた方が良いと思うな。人生のペースみたいなものが合う相手の方が良いよ。あいつはちょっと急ぎすぎてるから」
「そうねえ……それは本当、そう思うわ。でもまだ考えられないわね。わたしまだ19よ?」
「ああ……そっか、そうだね」

 そうだった。俺たちのような体質の人間の結婚や出産の平均年齢は二十歳前後だが、一般的にはずっと上だ。俺の両親だとか、勉強中に読む資料なんかが偏っているせいで、俺の感覚も少しずれていたらしい。
 ううん、でも、このままじゃこの先もずっと和泉に翻弄されそうじゃないか? 和泉とは友人関係を続けて、もっと落ち着いた人とくっついた方が河合さんらしくいられるような気がする。
 俺が勝手にあれそれ考えていると、河合さんは手を組んで、少しだけ身を乗り出した。

「ま、お互い30になっても相手がいなかったら結婚しましょうよ」
「えっ、俺?」

 数年前の俺が聞いたら天にも昇る気持ちだったろう。しかしまさか俺の名前が出てくるとは思わず、驚きが先に出た。

「……って、そんな約束して相手が他の人と結婚したら、素直にお祝いできなさそうね」
「それは言えてる」
「桐谷には佐伯もいるしね」
「……」

 佐伯は、いつかこの先、俺の人生の中にいるんだろうか。
 他の人と恋愛をする気はない。それは変わらない。どちらに対しても不誠実だからだ。
 しかし自力で佐伯を見つけられるという自信は日に日に減っていた。第一、見つかったとしても佐伯は新たな人生を謳歌しているかもしれないし……。というのは、責任逃れにすぎないだろうが。
 河合さんなら、深い事情を話しても受け止めてくれそうな気がする。佐伯が見つかったとしても、話がつけやすいし、佐伯だって河合さんなら……。
 …………いや、ないな。
 どの面下げて会えるっていうんだ。
 佐伯は、俺が河合さんといる方が似合う、なんてことを言うような奴なのだ。俺が佐伯以外の人を選んだら、ほっとする、なんてことをいう奴なのだ。まんまとそうしてやる筋合いはない。癪じゃないか。あーやっぱりね、なんて思われたら。
 最近、どこか無意識に思い出さないようにしていた佐伯との思い出が急に沸き上がってきて、なんだか笑えた。
 昼間は俺を慕ってくれた後輩で、今は憧れだった河合さん相手にして。一日にどれだけフラグを折るんだよ。やっぱりモテ期なのか?

「河合さんをキープできるなんて贅沢なことだけど、やめておこうよ。和泉にシバかれるから」
「和泉以外の相手を探せって言ったのはあなたじゃない。わたしの周り、桐谷以外はおじいちゃんしかいないのよ? お先真っ暗よ」
「友達にいいやつ見つけたら紹介するからさ」
「いらないわよ……情けないったらないわ」

 俺がどうしても笑いをこらえきれずにいると、河合さんも文句を言いつつも笑っていた。
 俺も河合さんも、吹っ切れたような笑いだった。ああ、もう、しょうがないんだ。どれだけ悩んだって、悩みの元をすっかり忘れて生きるなんてこと、俺たち自身がしたくないんだから。
 そうして少し話した後、俺は家に帰り、久しぶりに佐伯がくれたテディベアを眺めた。
 左右非対称なのがニヒルに笑っているように見える。
 多分俺、佐伯が見つからない限り、一生結婚なんてできないんだろうな。
 きっと誰かと深い仲になる前に、俺は二の足を踏んで、そして結局は佐伯のことを思い出して踏みとどまるんだ。
 もし佐伯がそれをどこかで知ったら、自分のせいで俺の幸せを奪ったと思って悲しむんだろう。でももうそれでも、いい。
 佐伯がもし結婚相手と幸せに暮らしてたっていい。そしたら俺だって、実は彼女がいて、なんて適当に言えばいいんだ。たとえそれがじいさんになった頃だったとしても、きっと再会できた喜びで全部吹き飛ぶんだ。
 会えさえすればいい。それでいいんだ。
11/12ページ
スキ