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11章

「でさあ、そいつ漢字のタトゥーいれてさ、なんて字だと思う? 「子豚」だぜ!? 爆笑したら超怒んの。ウケ狙いじゃないんかいってさ、意味教えたら呆然としてんの! 辞書見せたら泣いてんの! 日本人の留学生に騙されたって!」

 きゃはきゃはと笑って和泉は語る。話題は尽きなかった。といっても和泉が話すことが殆どだ。こいつと比べると俺はとてもつまらない変化のない日常を送っていると痛感させられる。けど、もし環境を逆転させたって、きっと和泉は楽しげに色々と語るし俺は退屈な日常を送るのだろう。
 母は久しぶりの俺の友人の訪問に喜んでいた。にこにこと遅めの夕食を振る舞い、和泉は愛想よく平らげた。日本の味に感動して、おおげさに喜んでいた。高校の時から大人に対しては結構しっかりした態度をとるやつだったが、その頃よりもむしろ親しみやすく愛嬌が出ているような気がする。やっぱり周りに知り合いがほぼいない場所にいくと、受け入れられやすくなる処世術を身につけるものなんだろうか。とちょっと嫌らしい見方をしてしまった。

「ま、向こうでもうまくやっていけてるならよかったよ。お前のことだからギャングとかに目を付けられてドンパチやるんだろうと思っていたけど……」
「まさか、映画じゃあるまいし。さすがにギャングにゃもう勝てねえなあ」

 和泉は風呂から上がるとゆったりしたジャージに着替えていた。修学旅行の時を思い出させる。こうして見るとこいつもまだ全然子供に見えた。

「そうだ、お前どのくらいこっちいる予定なの?」
「五日! 五日後の昼には日本を出る予定~」
「短いな……。向こうの夏休みってすごい長いんじゃないの? もっといればいいのに」
「いやいやそれがさあ、おれも期待してたんだけど、みんな夏休み中遊ばねえの。勉強するやつもいるし、仕事するやつもいるし、大体作品作りも大変だし、休んでられねえって感じよ。日本に来るのだって色々必死で片付けてようやくって感じだったし」
「へえ……大変なんだな……」

 和泉は真面目に頑張っているようだ。よかった。あれだけ頑張って入ったんだから、真面目にやってもらわなきゃとは思うが、でも親も誰の監視もない場所で、色々と誘惑も多いであろう中できちんと勉学に取り組むというのは大変なことだと思う。国内でだって大学に受かったら遊びほうけて留年だとか、悪さに耽って退学だとかあるんだから、海外となったらそのレベルも違うだろうと勝手に思っていたのだ。クスリとか、ハッパとか、よくわからないけど海外の方が緩そうだし。映画とかでよくあるしな。
 まあ、和泉は大丈夫そうだ。一人で海外で暮らして飛行機乗って帰ってくるなんて俺には考えられない。俺の心配なんて必要ないくらいちゃんとしている。

「で、寝てる間にファーストキス奪われた気持ちはどうですか?」
「最悪……」

 和泉は両手で顔を覆う。そりゃあな。いい感じの仲の相手だったらときめくところかもしれないが、そんな少女マンガみたいな状況じゃない。

「ま、ファーストは小学生んときの友也だから」

 少し、思考がもたついた。急にその名前を出すのはやめてほしい。
 つーか男同士でなんでチューしてんだ……。

「……そっか。ならまあ、セーフか」
「セーフではない。おれは心に傷を負った。つーか河合許してくんねえし」
「別にキスに関しては許してるだろ」
「じゃあなんだよあの態度……」

 ふむ。河合さんについては改めて考えなくてはいけない。先ほどの河合さんは随分とらしくなかった。拙くとも、一生懸命相手に気持ちを伝えて向き合うのが河合さんだ。一方的に話しを切り上げるなんてらしくない。

「お前明日学校?」
「あー……そうだね。悪いけど二人の話には付き合えないかも」

 長引きそうだし。ちょっと顔出す、じゃ足らなそうだしな。
 ちぇーと和泉はベッドに転がる。
 和泉と河合さんはどんな気持ちなんだろう。
 だって、一大事だ。飛行機に乗って駆けつけるくらい。二人の仲の存亡の危機ではないだろうか。そんな気持ちで眠りにつくのは嫌じゃないんだろうか。
 俺は寝るときは何も悩みを抱えていたくない。寝る寸前、今ももしかしたらこの先もう目覚めないかも、なんて一瞬だけ思ってしまうのだ。この世界とお別れする気分で俺は眠りにつく。だから明日の行事が不安だとか、そういう未来への心配事はあっても、喧嘩しただとか確かめなきゃいけないような不安を放置したまま眠りにつきたくはないのだ。それを自らお預けにする気持ちはわからなかった。
 明日に響いたとしても、今日解決できるならしたい。河合さんはそうは思わなかったのかな。悩んだり、悲しくなったりしないのかな。
 客間があるというのに和泉は折角だからと俺の部屋で寝たがったので、ベッドを譲って俺は床に布団を敷いて寝た。久しぶりにタンスから出した布団は少し埃っぽいような気もするし、気のせいかもしれない。ただ、色々時差ボケで眠くないだとか語らいたいとか言ってたくせに疲れたのか和泉はすぐに寝てしまって、俺は裏切られた気持ちで一人寂しく遅れて眠りについた。

 朝ご飯、やっぱり和泉はうまいうまいと笑顔で平らげた。うちはパン派なので感動するほどのものではないと思うのだが。
 しばらく和泉は俺に、何時ぐらいに行ったらいいと思う? 開店前はやっぱ忙しいかな? でも開店したあとは仕事の邪魔にならないかな? お昼時なら客もいないかな? でも河合もお昼食べてるよな。としきりに訊ねてきたが、俺には答えはわからないので学校にいくついでに河合さんのところに置き去りにした。しょぼくれた背中で店の前を右往左往して、中の様子を伺ってからそおっと入っていったのを見届けて俺は学校へ向かった。
 心配だ。別に絶対でなきゃいけない講義ではない。サボって二人の間に立った方がよかっただろうか。でも、やっぱりお邪魔な気もする。もしかしたら昨日は俺に気を遣ってあまり打ち明けられなかったのかもしれないし。
 自分に言い聞かせて学校に向かった。

 俺は俺で、筒井さんのことをもう少し考えなければいけない。といっても昨日のように偶然顔を会わせるような仲ではない。いつも向こうが探し出して声をかけていたのだ。謝罪のメールくらいは入れておこうか。いや、でも謝罪は直接すべきではないだろうか。それとも河合さんの言うように、あんまり関わるのは却って酷なのだろうか。

 それにしても和泉のやつ、帰るなり河合さんにつきっきりなんて。まあ、そのために帰ってきたんだけどさ。あいつはなんだかんだ交友関係は狭いからな。それほど地元に帰って遊ぶ相手などいないのだ。
 ふと、俺は長門のことを思いだした。そうだ、あいつはちゃんと和泉から連絡を受けているのだろうか。和泉に日本を立つまでのスケジュールを聞いたが、とりあえず河合さんをどうにかしないとということで頭がいっぱいなようだった。長門のこと、忘れてるんじゃないだろうか。拗ねるだろうな、あいつ。和泉大好き人間だから。
 俺は長門の元へ立ち寄ることに決めた。たしかなんとか研究室にいるはずだ。あいつとも随分顔を会わせていないし、息抜きにはなりそうだ。


「アキちゃん帰ってきてるの……?」

 その顔はいわゆる「絶望」だった。
 長門はくたびれた顔をしていた。かなりブラックなようだ。長門の説明なので細かいことは謎なのだが、長門はいわゆる特待生だ。高校のときもそうだったが、学費が全額免除となっているらしい。しかしその分優秀な成績を収めないといけない。俺のように自己満足で好き勝手知識欲を満たしていたんじゃだめなのだ。きちんと実績を残さなくてはいけない。
 なかなか苦労しているようだ。まあ、それでも何を考えているのかよくわからないやつなのだが、和泉のことを話すとわかりやすく動揺していた。

「ぼく、連絡もらってない……」
「お、俺だって偶然会って知っただけだからさ、あいつ、誰にも言ってないんだよ! ほんと、勝手なやつだよなあ」

 何故か俺は長門のフォローをしていた。さすがに打ちひしがられている姿を見ると放っておけなかった。俺が言ったせいなんだが。どう考えても和泉に連絡させるべきだったな。

「あいつ河合さんと喧嘩してるんだよ。それどころじゃないみたいでさ」
「ああ、そう……」

 だめだ、全然耳に入っていない。
 奥から長門の仲間と思われる方々が、なにしてくれてんだという視線を送っている。
 それにしても長門は社会性とかコミュニケーション能力みたいなものが皆無だから浮いているんじゃないかと心配していたのだが、どうにか馴染めているようだ。一年のはじめの頃はどこそこに行きたいだとか誰それに話を聞かなきゃいけないとかいちいち俺に連絡してきて付き添いしたものだが。

「まあ、うん。いつあいつがわがまま言っても付き合ってられる心構えだけでもしといてやってよ」
「アキちゃん、ぼくにわがままなんて言ってくれないよ……」

 だ、だめだネガティブモードになってる。いやこいつは年中こうか。
 和泉はなかなか残酷なやつだ。こんなに懐かせておいて河合さんにべったりなんだから、長門の立場になるとたまったもんじゃないだろう。
 まあ、高校時代は一緒に暮らしてたんだし俺が知らないところでちゃんと長門の相手もしてやってるのかもしれないけど。でも連絡くらいしてやれよと思う。
 もし今日も顔をあわせることがあったらちゃんと言っといてやらないとな。和泉家に行く予定らしいが、河合さんとのことが解決しなければまた俺の家に泊まるつもりらしい。
 俺じゃこれ以上手の施しようがなさそうだし、ほっといて帰るかと入り口から離れる。

「あ」

 と、研究室に入ろうとしていた人とぶつかりそうになったが、謝罪の言葉より驚きの声が先に出た。

「つ、筒井さん」

 俺より少し低い位置にある丸い目がこっちを見ていた。
 一瞬にして気まずい空気になる。きっと周りは気づきもしないほど一瞬だ。

「お、お疲れさまです……」

 すぐに平静を装い、筒井さんは軽く会釈して横をすり抜けようとして、今度は長門とぶつかりそうになって、「わっ! すみませんっ」と謝った。長門は無反応だ。そっちから向かってきたんだから謝る筋合いはないとでも言うかのように。嘘でもいいから謝っておけという助言をしたいが、今はそれどころではない。

「ちょっと待って、筒井さん。昨日の謝罪と言い訳をさせては貰えないだろうか」

 無視されたってしようのない申し出だった。
 筒井さんは視線をあちらこちらに移して逡巡したのち、うーっと悩む顔をして、それからはあと小さなため息をついた。

「じゃあ、向こうで……」
「筒井凛子、そのプリント……」
「あ。お願いします」

 すれ違いざま長門が声をかけ、筒井さんからファイルと箱を受け取った。二人が顔見知りだったとは。意外な取り合わせだった。
 そうして筒井さんが教室を後にすると、少し遅れて中から「何今のー!」「告白ー!?」とどよめきが響くのが廊下に漏れてきた。
 中学生かよ。
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