11章
河合さんはしばらくテンパっていた。こんな様子の河合さんを見るのは久しぶりだった。
嘘を貫かねばいけないというのと、和泉に状況を説明しなければというのと、一年ぶりの生の和泉に会えたのとが渋滞して、とにかくあぐあぐと言葉にならない声をあげて和泉の腕の中に埋もれていたのである。
和泉は少し遅れて、後ろの見知らぬ少女もこの場の一員だと気付いたようで、自分の話はせずに不思議そうな顔で俺たちを順繰りに見ていた。
「えーと……説明していいだろうか……」
小さく挙手し、発言の許可を求める。誰も許可してくれない。
勝手に喋ることにする。
「まず、あー……こちらは友人の和泉。海外にいるはずだったけど……」
「夏休みになったから帰ってきたんだよ」
「だそうです。で、彼はこっちの河合さんの……えーと……パートナー?」
そういうと和泉はてへへと頭を掻いた。やかましいわ。お前、今別れの危機だったんだぞ。……いや、だからこそ帰ってきたのか。まあ今はいい。
筒井さんに向き直り河合さんを指し示す。
「……で、先ほど彼女は俺の恋人だと言ったけど」
「えっそうなの?」
和泉に見下ろされぶんぶんぶんと河合さんは首を振る。やめなさい……必死に否定するほど嘘っぽくなるから……。
「うん、それは嘘で、彼女は君を遠ざけるために一役買ってくれたのです」
いつの間にか敬語になっていた。だって、そうしないと言ってる内容はあまりに酷かったから。
どう考えても浮気した男女が本命の前で見苦しい言い逃れをしているとしか思えない説明だったが、それでも筒井さんは納得したらしい。まあ、俺と河合さんが付き合ってるなんて話よりもずっと真実味があるよな。
「……えー……」
司会の俺はもう弾がなくなってしまったので手をすり合わせて様子を伺う。
俺たちの視線を一身に受けていた筒井さんは、やがて、ふうーと深いため息をついて、肩を落とした。
それからぱっと勢いよく顔を上げ、俺をまっすぐに睨みつけた。これほど鋭い視線は人生でそう向けられることはないだろう。ぼんやりと俺は見返すしかできなかった。
酷く罵倒されるのだと思った。それも仕方ないことだと思う。目の前で嘘をつかれていたことがバレたのだ。全く文句を言える立場にない。
しかし彼女はきゅっと釣り上げていた眉毛を一瞬にして緩め、泣くような顔をしたのち、それを誤魔化すように笑った。明らかに無理して笑っているのがわかる笑顔だった。ビンタされたって受け入れようと思っていたくらいだったのに。
「そんな嘘ついてまで……嫌がんなくてもよくなーい……?」
彼女の言うとおりだった。卑劣なやり口だった。
河合さんが手助けしてくれたのは愚痴る俺を見かねてだ。ちゃんと俺が一人で対応するべきだった。陰でぼやいたりせず。
筒井さんはそう言った後、俺の返事を待たずに踵を返し、去っていった。
「……追いかけなくていいやつなのか?」
河合さんの頭に顎を乗せた和泉が、経緯がわからないなりにそう言ってはくれたが、首を振る。河合さんが頭の上の和泉を見上げながら口を開いた。
「謝ったってどうせ振るんでしょ。だったらとどめ刺すだけじゃない。優しいふりするだけ酷よ」
「振るってなに。お前告られてんの? やるじゃん」
「……全然だよ……俺、やっぱり人に好かれるほどの器じゃないや……」
うなだれつつ、一年ぶりの和泉の全身を見る。
まあ、ビデオ通話したときの印象とおおむね変わりはない。カメラ越しではわからなかったが、少し日焼けはしたようだ。
「帰ってくるなら連絡しろよ」
「へへーん、やっぱサプライズはしなきゃだめだろー」
「する必要ないわよ。どうするのよ、予定だってあるのに、困るわこんな急に」
あっけらかんとしている和泉に河合さんと口々に文句を付ける。
「だってよーこっちだって急に決めたんだもん。ほんとは帰ってくる気なかったんだよ。それが河合が電話全部無視すっからさあ、コンクールの課題とか必死で片付けてさあ」
「わたしのせい!?」
「他に誰がいるってんだよ! どうせふてくされてんだと思ったけど、万が一事故や事件に巻き込まれたんだったらって心配してたんだぞ!」
「それならせめて俺には連絡しろよ……」
和泉は俺の顔を見てようやく、ああそうか。と手を叩いた。俺の存在忘れてやがったな……。
「と、とにかく、うちに来なさいよ。桐谷も来て」
人通りがないとはいえいつまでも路上を占領するわけにもいかない。和泉は馬鹿でかい荷物を担ぎなおした。
……俺は、二人の間に入っていいんだろうか? だって、多分俺が取り持ったりしなくたって二人の空気はすっかりいつも……いや記憶の通りだ。……ああ、いや、そんなあからさまな喧嘩をするタイプではないか。問題はきっと、周りからじゃわからない根深い部分にあるのだ。少なくともファミレスで聞いた河合さんの主張は、ちょっと心配になる部分があったしな。
筒井さんのことが気になりつつも、重い足取りで俺は二人のあとを追った。
ーーー
河合さんはお店のシャッターを半分だけ開けて、どうぞ。と言いながらさっさと中に入っていった。すぐに電気がつけられて見慣れたお店の内装が照らされるが、営業中の雰囲気とはまた違ったすこし寂しげな空気がある。
そのままレジの横を通り過ぎると奥に河合さん用の休憩スペースがある。ドアなどの仕切りはなく、のれんがかかっているだけだ。真っ直ぐいくと倉庫に繋がっていて、レジの裏になる左側には段差があって、座敷になっているのだ。
四人くらいは座れる空間があり、真ん中にちゃぶ台。上にはパソコンや魔法瓶やお菓子があり、部屋には小さなキッチンまである。ここだけ見れば古風なワンルームである。さらに奥には河合家の居住スペースに繋がる引き戸があるが、そこから先は未知の空間だ。
お客さんがいない間河合さんはここでお昼ご飯を食べたり、ちょっとした手作業をしたりしているのだ。俺が遊びに来たときもここに通されて内職みたいなことを手伝わされたりもする。
河合さんは座布団をひっぱりだして俺たちの分を並べた。
「どうぞ」
「いやー久々だなー。全然変わってねえじゃん!」
河合さんのお店はいわゆる古書店だ。あまりころころディスプレイを変える場所でもないのだろう。
お店に入った目の前のところや、レジの周りにおしゃれなポストカードやアンティークっぽい雑貨も置いてはあるけど、素朴な町の本屋さんといった店構えだ。コミックスなんかは殆どなくてラインナップは大人向けだが、最近は河合さんの趣味で絵本や児童書なんかもそこそこ充実している。
河合さんは慣れた手つきでお湯を沸かし、お茶を煎れた。
「えっとなんだったかしら。多分ハトムギ茶」
慣れている割に適当だ。
「あ~~~懐かしい~~日本だ~~!」
荷物を降ろした和泉はきゃっきゃと喜んで両手で湯飲みを持ってちびちびと飲む。
河合さんも一口飲み、静かに机に湯飲みを置き、そして口を開いた。
「で?」
冷たい一言だった。
まるで離婚が決まった夫婦の会話のようだった。
和泉はぴくんと肩を跳ねさせ、急に緊張したように目を瞬かせた。俺は一切関係ないのに一緒に小さくなっている。
「え、えー……で、と申されますと……」
まるで大将に声をかけられた下っ端のように腰を低くして和泉は河合さんの顔色を伺う。
「か、河合さん、別に怒るこたないじゃないか。和泉は河合さんのために帰国したんだからさ……。飛行機代だってばかにならないし、予定だって色々あったろうに……」
「流……!」
和泉はきらきらとした目をこちらに向けている。やめろ、今はもっとしおらしくしてろ。
「別に怒ってなんかないわよ……」
しかしほっぺたは膨らんでいる。
怒っているというよりも距離感を掴みかねているんだろうか。久しぶりに会うわけだし、河合さんは一方的に無視していたのだ。バツの悪さもあるだろう。
俺がどうにか橋渡しをしてやるべきか……。
「和泉、俺はさっき河合さんからお前たちの話を聞いたところなんだよ」
「あ、そうなの? じゃあベストタイミングじゃん。さすがおれ。……つーかおれたちのことって言われても、おれもよくわかってねえんだけど……」
ああ、和泉からすると急に河合さんに連絡を絶たれたという感じなのか。
「心当たりは?」
「ねえよ。清く正しく美しく生きてるつもりだぜ。このあいだだってボランティアで……」
「いや、今その話はいい」
「あ、はい」
和泉はしゅんと手を降ろした。やっぱり海外にいると身振り手振りが身につくんだろうか。元々動きの大きな奴だったが、それに磨きが掛かったように思える。
さて、和泉は嘘がつけないタイプだ……と思っている。実際どうかと言われると、そこまで和泉の生態に詳しくはないので断言しかねるが……。まあ、何の動揺もなく心当たりはないと言い切った。なら俺は信じる。
「河合さん、拗ねてないで説明してあげなよ」
「別に拗ねてなんかないわよ」
それでも河合さんはしばらくもぞもぞとして、やがて渋りながらスマホを取り出した。
「これ。あなたから送られてきたの」
「ん?」
差し出された画面を覗きこんで、すぐさま和泉は「うげっなんだこれ!」と叫んだ。
「お前っこれ、あっ、これ!? 信じたのか!? おれが浮気してるって!?」
「信じたって言うか……、和泉からやってるんじゃないっていうのはさすがに見ればわかるわよ。でも寝ている間にこんな写真が撮れる相手がいるって……もう……アウトじゃない?」
「んああああーー……まあ、普通はそうかもしんねえけどよお……ええー……?」
和泉はわしわしと頭を掻く。その口振りは少しだけ後ろめたいような気持ちを刺激した。信じてもらえなかったことに対する悲しさとか、そういうものを感じたからだ。
普通は寝ている人の部屋に忍び込んでキスするなんてしない。できない。犯罪だし、リスクだって高い。でもそういうことを平然とするやつを知っている。小野さんだ。彼女がどうだったかは知らないが、人の能力によってはこっそり忍び込むなんていくらでもできる子供はいる。和泉と同学年なら女子とはいえまだ能力が使える子がいても不思議ではない。
そういう可能性も考えてみれば、あり得なくはないだろう。事実はどうであっても、要はいくらでも和泉には弁明の余地があるのだ。それでも河合さんは和泉に怒ってなんの弁解も許さず連絡を絶った。まあ……ちょっとがっかりするよな。そりゃあ怒るかもしれないけど、せめて言い訳くらいさせてくれないと。
「……あー……なんか前一回、おれが酔っぱらって意識失ったとき仲間の何人かで連れ帰ってくれたってことがあったから……そんとき……かなあ……女はいなかったはずだけど……」
「……お持ち帰りされちゃってんじゃねえか!」
「さ、されてない! 起きたときは誰もいなかったし! 服ちゃんと着てたし!!」
「つーか、お前まだ酒飲めない年じゃ……」
「なんかみんな普通に飲んでっから……むこうの法律じゃOKなのかなって……」
んなわけない。なんなら日本より飲酒が解禁される年齢は高い。和泉もそれをあとから知ったのか、叱られる前の子供のような顔をしている。日本でも子供のうちから酒を飲んだり煙草吸ったりするやつはいるが、和泉は見た目に似合わずそういったルールはきちんと守るのだ。悪さをしたら裕子さんにシバかれるからだそうだ。ああ見えて和泉は裕子さんには従順なのだ。
……まあ今はどうでもいいか。置いておこう。
「とにかくおれは一切疑われるようなことした覚えないぜ! こんなものはねつ造だ!」
「……」
和泉の高らかな宣言を前にして、それでもなお河合さんは押し黙っていた。
嘘だったのね、よかったー! で済む話なのに。
もはや和泉に女がいるかどうかなんてはじめから興味なかったかのように。
「河合さん。不用心な振る舞いがあった点はたしかにこいつの落ち度だけど、なんの心当たりもないことを疑われて、話すら聞いて貰えなかったというのはあんまりな対応だったと思うよ。河合さんも思うところがあるのかもしれないけど、それとこれとは切り離して考えないと」
河合さんは口をもごもごと動かす。懐かしい動きだった。出会ったばかりのころ、河合さんはたまに言葉をゆっくり必死に頭の中で組み立てて、取捨選択をしているようだった。そのため会話が少し止まる。他の人だったら気まずくて話を変えているだろうというほどに。俺だって最初に和泉からそういう注意を受けていなかったら、すぐに河合さんとの会話は諦めていたと思う。しかし和泉は熱心に声をかけ、河合さんのそういう弱点に気がついたのだ。そしてじっくりと言葉ができあがるのを待ったし、それでも河合さんがうまくできないときは、目の動きなんかから敏感にそれを察して助け船を出してやったのだ。だからこそ二人は仲良くなれた。ここまでやってこれた。
そして和泉は今も、決して急かさず邪魔せず、じっと河合さんを見つめて次に口を開くのを待った。
「ごめんなさい……」
絞り出した言葉は簡単なものだった。でも河合さんの頭の中ではきっと簡単なことは巻き起こっていないのだ。それから続けて河合さんは言った。
「言い訳してもいい?」
河合さんは和泉の目をじっと見る。和泉は怒ってなどいない。ただ、河合さんは本当に了承を得たいだけなのだ。そして、だめだと言われたらきっと何も言わないのだ。そういう人だ。河合さんは保身のために言い訳したい人ではない。
和泉は穏やかな声で「いいよ」と言った。
河合さんは少し目を逸らし、両手を組み合わせたりして、やはり言葉を練っているようだった。そうしながらも今度は先ほどよりもスムーズに喋り始める。
「あの写真はきっかけになったけど、和泉に怒って無視したわけじゃないの。そりゃあ、一体何してるのかってちょっと思ったけど……」
河合さんは勝手に自己完結に走って、一方的に河合さんは身を引こうとしたのだ。
和泉は当然ながらそんなことは察せられない。考えもしないだろう。首を傾げて河合さんを見下ろしている。青天の霹靂だろう。正直、される側からするとなかなか悪質な思考回路である。
「うんと、えっとね、わたし……、もしかしたら和泉のことを縛ってるんじゃないかって……もっと色んな人と出会ったり、仲良くなれるのに、わたしがいるせいでできなくなって……、でもだからってわたし自身は和泉とキスしたりとか……しないでしょ? それがすごく、わたしは落ち込むの」
和泉はぽかんとしていた。
俺も河合さんは和泉との関係はもはや悩んだりしないと思っていた。高校時代にあれやこれは散々やったし、結局和泉が好き勝手して、河合さんは適度に相手をするような距離感に落ち着いたのだ。河合さんが声をかければ和泉は嬉しそうに駆け寄るし、和泉を見つけると河合さんは安心した顔をする。和泉が遠くへ行ってもどうせ河合さんのところに帰ってくる。そんな信頼がある関係なのだとはたから見ていても感じた。
それなのに実は河合さんがそんな気持ちを抱えていたなんて、思っても見なかったのだろう。……いや、元から河合さんはあれこれ頭で考えるタイプだったけどさ。俺はその気持ちが良くわかる。
和泉は顎を触って考えているようだった。こいつ髭は生えないんだろうか。つるつるだ。俺だって青髭ができるわけじゃないが。
「お前の頭の中のおれの話をおれに押しつけるな」
河合さんの目がぱっちりと見開かれた。少しきつい言い方だ。
「勝手におれに気を遣われたって困るぜ。別におれは出会いだの恋愛だの求めてねえし。そうするのが幸せだなんてつまんねえこと言ってくれんなよ。お前がいようがいまいがおれは誰とも付き合わねえっての」
河合さんは頬を膨らませていた。ぶりっこみたいな顔ではなく、ちょっと変な顔だった。唇を内側にしまい込んで、じっと斜め下を睨んでいる。次第に大きな目が少しずつ潤んできて、やばい! と反射的な焦燥感が沸き上がる。
「い、和泉! 言い方!」
「えあ、ああ……いや、伝わんねえだろ、こういう言い方しねえと……おれ易しい言い方とか思いつかねえし……」
まあ、相手に気を遣った喋り方をすると話も長くなるし、言いたいことがぼやけてしまう気持ちはわかるが……。和泉はいちいち言い方が雑だ。内容自体は決してきついものじゃないのに、なんとなく言葉遣いや喋り方のせいで攻撃的な印象を受けてしまう。高校時代、河合さんとじっくり話すときはもっとゆっくり、優しい言い回しを意識しているように見えたが、一年のブランクで忘れてしまったんだろうか。
和泉はぽりぽりと頭を掻く。
「……わ、悪かったって……」
「別に。和泉は悪くないわ。わたしは、和泉が幸せにしてるところが見たかった。けどそれは和泉の幸せではないというんでしょ」
「お、おお……?」
河合さんは泣かなかった。ぎりぎりで踏ん張った。人によっては判定負けしそうな気もするけど、河合さんの実績をみるとまだ泣いているうちには入らない。
しかし、晴れやかな顔とも言い難い。
「わかったわよ……。和泉は今まで通り自由にしてて、わたしはただそれを聞いていればいいんでしょ」
あ。すごく嫌味を言っている。声色からも伝わってきた。
まるで挑発するような言い方だ。なんださっきからこいつら。仲直りする気あるのか?
和泉は当然その投げやりな口ぶりに、はあ? というような顔をする。
「それじゃあおれがお前を一所に縛り付けているみたいじゃねえか。自由にしたいならお前だってすりゃいいだろ。学校もねえし、法律だって大してねえんだから」
いや法律は結構あるだろ。さっきからツッコミを入れたいことがたくさんあるのに真剣な雰囲気が邪魔して心の中に留めておくしかない。悔しい。
「…………言われなくても、そうするわよ」
唸るような声だ。怒りを押さえているような。それを全部ぶちまけてほしいのに、それができない人なのだ。やりかたを知らないから。
河合さんは中身が減った湯飲みをお盆に戻す。
「明日の準備しなきゃいけないから、悪いけど今日は帰って」
「おいおいこれじゃなんも解決してないだろ。このまま帰れって? 寝れねえよこのままじゃ」
「しょうがないでしょ、寝る間を惜しんでまで話し合ってなんかいられないわよ。明日もお店開けなきゃいけないんだし、仕事残ってるし」
あ、だめだ。河合さんはもう取り合うつもりがない。
「第一、話し合ったからって全部が解決するなんて簡単なこと、そうないでしょ。それをこの場だけで決着つけようなんて、無茶よ。どちらかが折れるしかなくなるわ」
何故だろう。その言葉にはじくりと胸が痛んだ。痛いところを突かれた気がする。俺は渦中にはいないのに。
俺も、気にかかったことはその場で解決しようとするところがある。きちんとお互いに考えを述べて、お互いに聞けば解消できると思っている。でもきっと、どこまで言ってもぶつかってしまう部分というのはあって、そして俺みたいなやつがなんとかできると思いこんでいる限りぶつかり続けて、相手は疲弊するのだ。言われてみればぼんやりとわかるのだが、言われるまで俺はそれが最善だと思っているから、わからない。
「……また来るわ」
和泉は肩を落として諦めて、荷物をまとめる。俺はその間でどうしていいのかわからなかった。
相変わらず俺は河合さんの話をもっと丁寧にじっくりと聞きたかったのだ。だって、河合さんらしくない。あんな喧嘩腰で、よくわからない主張をしていた。話の核心を避けていた。一体なにがそんなに気に入らないのかちっともわからなかった。対して和泉の返しは理路整然としていたと思う。
「桐谷、付き合わせてごめんね。あの女の子のこともわたし、余計なことしちゃったし……」
「あ、いやいや! そんなことないよ。元々俺が彼女に嘘ついてたのが悪いんだから、身から出た錆だよ。むしろ拍車がかかる前に露呈してよかったと思う。こちらこそ巻き込んでごめん」
河合さんは俺に対してはいつも通りだった。ほっとするけど、少し疎外感がなくもない。
そんな態度をとられると、追及するのもはばかられて俺も和泉のあとをついて店を出た。何度か振り返るが、シャッターの隙間から明かりが漏れるだけで河合さんの姿は見えなかった。
「おい、お前んち泊めてくんね?」
和泉はえらく軽い様子で俺に絡んできた。
「お前、ホテル取ってないの……? っていうか実家あるだろ」
「そんな気分じゃねえよー。明日も河合んちいくつもりだし。だったら流んちに泊まった方が快適じゃん?」
「うわあ、断りたい……」
まあ、客間は空いているし、断る理由もなかったのだが……。
「金とろうかな……」
「あっあっ、お土産あるから! これで勘弁してくれえ!」
どうやら貧乏学生らしい。まあ飛行機代のことを考えればしょうがないか。海外で勉強しながらバイトするのも大変だろうし。
しょうがない。向こうの生活とか、聞きたいこともあるしな。
ついてきな、と先導すると、後ろで「へへーっ」と手下のような返事をあげてついて行くのがわかった。
少しいい気分になった。
嘘を貫かねばいけないというのと、和泉に状況を説明しなければというのと、一年ぶりの生の和泉に会えたのとが渋滞して、とにかくあぐあぐと言葉にならない声をあげて和泉の腕の中に埋もれていたのである。
和泉は少し遅れて、後ろの見知らぬ少女もこの場の一員だと気付いたようで、自分の話はせずに不思議そうな顔で俺たちを順繰りに見ていた。
「えーと……説明していいだろうか……」
小さく挙手し、発言の許可を求める。誰も許可してくれない。
勝手に喋ることにする。
「まず、あー……こちらは友人の和泉。海外にいるはずだったけど……」
「夏休みになったから帰ってきたんだよ」
「だそうです。で、彼はこっちの河合さんの……えーと……パートナー?」
そういうと和泉はてへへと頭を掻いた。やかましいわ。お前、今別れの危機だったんだぞ。……いや、だからこそ帰ってきたのか。まあ今はいい。
筒井さんに向き直り河合さんを指し示す。
「……で、先ほど彼女は俺の恋人だと言ったけど」
「えっそうなの?」
和泉に見下ろされぶんぶんぶんと河合さんは首を振る。やめなさい……必死に否定するほど嘘っぽくなるから……。
「うん、それは嘘で、彼女は君を遠ざけるために一役買ってくれたのです」
いつの間にか敬語になっていた。だって、そうしないと言ってる内容はあまりに酷かったから。
どう考えても浮気した男女が本命の前で見苦しい言い逃れをしているとしか思えない説明だったが、それでも筒井さんは納得したらしい。まあ、俺と河合さんが付き合ってるなんて話よりもずっと真実味があるよな。
「……えー……」
司会の俺はもう弾がなくなってしまったので手をすり合わせて様子を伺う。
俺たちの視線を一身に受けていた筒井さんは、やがて、ふうーと深いため息をついて、肩を落とした。
それからぱっと勢いよく顔を上げ、俺をまっすぐに睨みつけた。これほど鋭い視線は人生でそう向けられることはないだろう。ぼんやりと俺は見返すしかできなかった。
酷く罵倒されるのだと思った。それも仕方ないことだと思う。目の前で嘘をつかれていたことがバレたのだ。全く文句を言える立場にない。
しかし彼女はきゅっと釣り上げていた眉毛を一瞬にして緩め、泣くような顔をしたのち、それを誤魔化すように笑った。明らかに無理して笑っているのがわかる笑顔だった。ビンタされたって受け入れようと思っていたくらいだったのに。
「そんな嘘ついてまで……嫌がんなくてもよくなーい……?」
彼女の言うとおりだった。卑劣なやり口だった。
河合さんが手助けしてくれたのは愚痴る俺を見かねてだ。ちゃんと俺が一人で対応するべきだった。陰でぼやいたりせず。
筒井さんはそう言った後、俺の返事を待たずに踵を返し、去っていった。
「……追いかけなくていいやつなのか?」
河合さんの頭に顎を乗せた和泉が、経緯がわからないなりにそう言ってはくれたが、首を振る。河合さんが頭の上の和泉を見上げながら口を開いた。
「謝ったってどうせ振るんでしょ。だったらとどめ刺すだけじゃない。優しいふりするだけ酷よ」
「振るってなに。お前告られてんの? やるじゃん」
「……全然だよ……俺、やっぱり人に好かれるほどの器じゃないや……」
うなだれつつ、一年ぶりの和泉の全身を見る。
まあ、ビデオ通話したときの印象とおおむね変わりはない。カメラ越しではわからなかったが、少し日焼けはしたようだ。
「帰ってくるなら連絡しろよ」
「へへーん、やっぱサプライズはしなきゃだめだろー」
「する必要ないわよ。どうするのよ、予定だってあるのに、困るわこんな急に」
あっけらかんとしている和泉に河合さんと口々に文句を付ける。
「だってよーこっちだって急に決めたんだもん。ほんとは帰ってくる気なかったんだよ。それが河合が電話全部無視すっからさあ、コンクールの課題とか必死で片付けてさあ」
「わたしのせい!?」
「他に誰がいるってんだよ! どうせふてくされてんだと思ったけど、万が一事故や事件に巻き込まれたんだったらって心配してたんだぞ!」
「それならせめて俺には連絡しろよ……」
和泉は俺の顔を見てようやく、ああそうか。と手を叩いた。俺の存在忘れてやがったな……。
「と、とにかく、うちに来なさいよ。桐谷も来て」
人通りがないとはいえいつまでも路上を占領するわけにもいかない。和泉は馬鹿でかい荷物を担ぎなおした。
……俺は、二人の間に入っていいんだろうか? だって、多分俺が取り持ったりしなくたって二人の空気はすっかりいつも……いや記憶の通りだ。……ああ、いや、そんなあからさまな喧嘩をするタイプではないか。問題はきっと、周りからじゃわからない根深い部分にあるのだ。少なくともファミレスで聞いた河合さんの主張は、ちょっと心配になる部分があったしな。
筒井さんのことが気になりつつも、重い足取りで俺は二人のあとを追った。
ーーー
河合さんはお店のシャッターを半分だけ開けて、どうぞ。と言いながらさっさと中に入っていった。すぐに電気がつけられて見慣れたお店の内装が照らされるが、営業中の雰囲気とはまた違ったすこし寂しげな空気がある。
そのままレジの横を通り過ぎると奥に河合さん用の休憩スペースがある。ドアなどの仕切りはなく、のれんがかかっているだけだ。真っ直ぐいくと倉庫に繋がっていて、レジの裏になる左側には段差があって、座敷になっているのだ。
四人くらいは座れる空間があり、真ん中にちゃぶ台。上にはパソコンや魔法瓶やお菓子があり、部屋には小さなキッチンまである。ここだけ見れば古風なワンルームである。さらに奥には河合家の居住スペースに繋がる引き戸があるが、そこから先は未知の空間だ。
お客さんがいない間河合さんはここでお昼ご飯を食べたり、ちょっとした手作業をしたりしているのだ。俺が遊びに来たときもここに通されて内職みたいなことを手伝わされたりもする。
河合さんは座布団をひっぱりだして俺たちの分を並べた。
「どうぞ」
「いやー久々だなー。全然変わってねえじゃん!」
河合さんのお店はいわゆる古書店だ。あまりころころディスプレイを変える場所でもないのだろう。
お店に入った目の前のところや、レジの周りにおしゃれなポストカードやアンティークっぽい雑貨も置いてはあるけど、素朴な町の本屋さんといった店構えだ。コミックスなんかは殆どなくてラインナップは大人向けだが、最近は河合さんの趣味で絵本や児童書なんかもそこそこ充実している。
河合さんは慣れた手つきでお湯を沸かし、お茶を煎れた。
「えっとなんだったかしら。多分ハトムギ茶」
慣れている割に適当だ。
「あ~~~懐かしい~~日本だ~~!」
荷物を降ろした和泉はきゃっきゃと喜んで両手で湯飲みを持ってちびちびと飲む。
河合さんも一口飲み、静かに机に湯飲みを置き、そして口を開いた。
「で?」
冷たい一言だった。
まるで離婚が決まった夫婦の会話のようだった。
和泉はぴくんと肩を跳ねさせ、急に緊張したように目を瞬かせた。俺は一切関係ないのに一緒に小さくなっている。
「え、えー……で、と申されますと……」
まるで大将に声をかけられた下っ端のように腰を低くして和泉は河合さんの顔色を伺う。
「か、河合さん、別に怒るこたないじゃないか。和泉は河合さんのために帰国したんだからさ……。飛行機代だってばかにならないし、予定だって色々あったろうに……」
「流……!」
和泉はきらきらとした目をこちらに向けている。やめろ、今はもっとしおらしくしてろ。
「別に怒ってなんかないわよ……」
しかしほっぺたは膨らんでいる。
怒っているというよりも距離感を掴みかねているんだろうか。久しぶりに会うわけだし、河合さんは一方的に無視していたのだ。バツの悪さもあるだろう。
俺がどうにか橋渡しをしてやるべきか……。
「和泉、俺はさっき河合さんからお前たちの話を聞いたところなんだよ」
「あ、そうなの? じゃあベストタイミングじゃん。さすがおれ。……つーかおれたちのことって言われても、おれもよくわかってねえんだけど……」
ああ、和泉からすると急に河合さんに連絡を絶たれたという感じなのか。
「心当たりは?」
「ねえよ。清く正しく美しく生きてるつもりだぜ。このあいだだってボランティアで……」
「いや、今その話はいい」
「あ、はい」
和泉はしゅんと手を降ろした。やっぱり海外にいると身振り手振りが身につくんだろうか。元々動きの大きな奴だったが、それに磨きが掛かったように思える。
さて、和泉は嘘がつけないタイプだ……と思っている。実際どうかと言われると、そこまで和泉の生態に詳しくはないので断言しかねるが……。まあ、何の動揺もなく心当たりはないと言い切った。なら俺は信じる。
「河合さん、拗ねてないで説明してあげなよ」
「別に拗ねてなんかないわよ」
それでも河合さんはしばらくもぞもぞとして、やがて渋りながらスマホを取り出した。
「これ。あなたから送られてきたの」
「ん?」
差し出された画面を覗きこんで、すぐさま和泉は「うげっなんだこれ!」と叫んだ。
「お前っこれ、あっ、これ!? 信じたのか!? おれが浮気してるって!?」
「信じたって言うか……、和泉からやってるんじゃないっていうのはさすがに見ればわかるわよ。でも寝ている間にこんな写真が撮れる相手がいるって……もう……アウトじゃない?」
「んああああーー……まあ、普通はそうかもしんねえけどよお……ええー……?」
和泉はわしわしと頭を掻く。その口振りは少しだけ後ろめたいような気持ちを刺激した。信じてもらえなかったことに対する悲しさとか、そういうものを感じたからだ。
普通は寝ている人の部屋に忍び込んでキスするなんてしない。できない。犯罪だし、リスクだって高い。でもそういうことを平然とするやつを知っている。小野さんだ。彼女がどうだったかは知らないが、人の能力によってはこっそり忍び込むなんていくらでもできる子供はいる。和泉と同学年なら女子とはいえまだ能力が使える子がいても不思議ではない。
そういう可能性も考えてみれば、あり得なくはないだろう。事実はどうであっても、要はいくらでも和泉には弁明の余地があるのだ。それでも河合さんは和泉に怒ってなんの弁解も許さず連絡を絶った。まあ……ちょっとがっかりするよな。そりゃあ怒るかもしれないけど、せめて言い訳くらいさせてくれないと。
「……あー……なんか前一回、おれが酔っぱらって意識失ったとき仲間の何人かで連れ帰ってくれたってことがあったから……そんとき……かなあ……女はいなかったはずだけど……」
「……お持ち帰りされちゃってんじゃねえか!」
「さ、されてない! 起きたときは誰もいなかったし! 服ちゃんと着てたし!!」
「つーか、お前まだ酒飲めない年じゃ……」
「なんかみんな普通に飲んでっから……むこうの法律じゃOKなのかなって……」
んなわけない。なんなら日本より飲酒が解禁される年齢は高い。和泉もそれをあとから知ったのか、叱られる前の子供のような顔をしている。日本でも子供のうちから酒を飲んだり煙草吸ったりするやつはいるが、和泉は見た目に似合わずそういったルールはきちんと守るのだ。悪さをしたら裕子さんにシバかれるからだそうだ。ああ見えて和泉は裕子さんには従順なのだ。
……まあ今はどうでもいいか。置いておこう。
「とにかくおれは一切疑われるようなことした覚えないぜ! こんなものはねつ造だ!」
「……」
和泉の高らかな宣言を前にして、それでもなお河合さんは押し黙っていた。
嘘だったのね、よかったー! で済む話なのに。
もはや和泉に女がいるかどうかなんてはじめから興味なかったかのように。
「河合さん。不用心な振る舞いがあった点はたしかにこいつの落ち度だけど、なんの心当たりもないことを疑われて、話すら聞いて貰えなかったというのはあんまりな対応だったと思うよ。河合さんも思うところがあるのかもしれないけど、それとこれとは切り離して考えないと」
河合さんは口をもごもごと動かす。懐かしい動きだった。出会ったばかりのころ、河合さんはたまに言葉をゆっくり必死に頭の中で組み立てて、取捨選択をしているようだった。そのため会話が少し止まる。他の人だったら気まずくて話を変えているだろうというほどに。俺だって最初に和泉からそういう注意を受けていなかったら、すぐに河合さんとの会話は諦めていたと思う。しかし和泉は熱心に声をかけ、河合さんのそういう弱点に気がついたのだ。そしてじっくりと言葉ができあがるのを待ったし、それでも河合さんがうまくできないときは、目の動きなんかから敏感にそれを察して助け船を出してやったのだ。だからこそ二人は仲良くなれた。ここまでやってこれた。
そして和泉は今も、決して急かさず邪魔せず、じっと河合さんを見つめて次に口を開くのを待った。
「ごめんなさい……」
絞り出した言葉は簡単なものだった。でも河合さんの頭の中ではきっと簡単なことは巻き起こっていないのだ。それから続けて河合さんは言った。
「言い訳してもいい?」
河合さんは和泉の目をじっと見る。和泉は怒ってなどいない。ただ、河合さんは本当に了承を得たいだけなのだ。そして、だめだと言われたらきっと何も言わないのだ。そういう人だ。河合さんは保身のために言い訳したい人ではない。
和泉は穏やかな声で「いいよ」と言った。
河合さんは少し目を逸らし、両手を組み合わせたりして、やはり言葉を練っているようだった。そうしながらも今度は先ほどよりもスムーズに喋り始める。
「あの写真はきっかけになったけど、和泉に怒って無視したわけじゃないの。そりゃあ、一体何してるのかってちょっと思ったけど……」
河合さんは勝手に自己完結に走って、一方的に河合さんは身を引こうとしたのだ。
和泉は当然ながらそんなことは察せられない。考えもしないだろう。首を傾げて河合さんを見下ろしている。青天の霹靂だろう。正直、される側からするとなかなか悪質な思考回路である。
「うんと、えっとね、わたし……、もしかしたら和泉のことを縛ってるんじゃないかって……もっと色んな人と出会ったり、仲良くなれるのに、わたしがいるせいでできなくなって……、でもだからってわたし自身は和泉とキスしたりとか……しないでしょ? それがすごく、わたしは落ち込むの」
和泉はぽかんとしていた。
俺も河合さんは和泉との関係はもはや悩んだりしないと思っていた。高校時代にあれやこれは散々やったし、結局和泉が好き勝手して、河合さんは適度に相手をするような距離感に落ち着いたのだ。河合さんが声をかければ和泉は嬉しそうに駆け寄るし、和泉を見つけると河合さんは安心した顔をする。和泉が遠くへ行ってもどうせ河合さんのところに帰ってくる。そんな信頼がある関係なのだとはたから見ていても感じた。
それなのに実は河合さんがそんな気持ちを抱えていたなんて、思っても見なかったのだろう。……いや、元から河合さんはあれこれ頭で考えるタイプだったけどさ。俺はその気持ちが良くわかる。
和泉は顎を触って考えているようだった。こいつ髭は生えないんだろうか。つるつるだ。俺だって青髭ができるわけじゃないが。
「お前の頭の中のおれの話をおれに押しつけるな」
河合さんの目がぱっちりと見開かれた。少しきつい言い方だ。
「勝手におれに気を遣われたって困るぜ。別におれは出会いだの恋愛だの求めてねえし。そうするのが幸せだなんてつまんねえこと言ってくれんなよ。お前がいようがいまいがおれは誰とも付き合わねえっての」
河合さんは頬を膨らませていた。ぶりっこみたいな顔ではなく、ちょっと変な顔だった。唇を内側にしまい込んで、じっと斜め下を睨んでいる。次第に大きな目が少しずつ潤んできて、やばい! と反射的な焦燥感が沸き上がる。
「い、和泉! 言い方!」
「えあ、ああ……いや、伝わんねえだろ、こういう言い方しねえと……おれ易しい言い方とか思いつかねえし……」
まあ、相手に気を遣った喋り方をすると話も長くなるし、言いたいことがぼやけてしまう気持ちはわかるが……。和泉はいちいち言い方が雑だ。内容自体は決してきついものじゃないのに、なんとなく言葉遣いや喋り方のせいで攻撃的な印象を受けてしまう。高校時代、河合さんとじっくり話すときはもっとゆっくり、優しい言い回しを意識しているように見えたが、一年のブランクで忘れてしまったんだろうか。
和泉はぽりぽりと頭を掻く。
「……わ、悪かったって……」
「別に。和泉は悪くないわ。わたしは、和泉が幸せにしてるところが見たかった。けどそれは和泉の幸せではないというんでしょ」
「お、おお……?」
河合さんは泣かなかった。ぎりぎりで踏ん張った。人によっては判定負けしそうな気もするけど、河合さんの実績をみるとまだ泣いているうちには入らない。
しかし、晴れやかな顔とも言い難い。
「わかったわよ……。和泉は今まで通り自由にしてて、わたしはただそれを聞いていればいいんでしょ」
あ。すごく嫌味を言っている。声色からも伝わってきた。
まるで挑発するような言い方だ。なんださっきからこいつら。仲直りする気あるのか?
和泉は当然その投げやりな口ぶりに、はあ? というような顔をする。
「それじゃあおれがお前を一所に縛り付けているみたいじゃねえか。自由にしたいならお前だってすりゃいいだろ。学校もねえし、法律だって大してねえんだから」
いや法律は結構あるだろ。さっきからツッコミを入れたいことがたくさんあるのに真剣な雰囲気が邪魔して心の中に留めておくしかない。悔しい。
「…………言われなくても、そうするわよ」
唸るような声だ。怒りを押さえているような。それを全部ぶちまけてほしいのに、それができない人なのだ。やりかたを知らないから。
河合さんは中身が減った湯飲みをお盆に戻す。
「明日の準備しなきゃいけないから、悪いけど今日は帰って」
「おいおいこれじゃなんも解決してないだろ。このまま帰れって? 寝れねえよこのままじゃ」
「しょうがないでしょ、寝る間を惜しんでまで話し合ってなんかいられないわよ。明日もお店開けなきゃいけないんだし、仕事残ってるし」
あ、だめだ。河合さんはもう取り合うつもりがない。
「第一、話し合ったからって全部が解決するなんて簡単なこと、そうないでしょ。それをこの場だけで決着つけようなんて、無茶よ。どちらかが折れるしかなくなるわ」
何故だろう。その言葉にはじくりと胸が痛んだ。痛いところを突かれた気がする。俺は渦中にはいないのに。
俺も、気にかかったことはその場で解決しようとするところがある。きちんとお互いに考えを述べて、お互いに聞けば解消できると思っている。でもきっと、どこまで言ってもぶつかってしまう部分というのはあって、そして俺みたいなやつがなんとかできると思いこんでいる限りぶつかり続けて、相手は疲弊するのだ。言われてみればぼんやりとわかるのだが、言われるまで俺はそれが最善だと思っているから、わからない。
「……また来るわ」
和泉は肩を落として諦めて、荷物をまとめる。俺はその間でどうしていいのかわからなかった。
相変わらず俺は河合さんの話をもっと丁寧にじっくりと聞きたかったのだ。だって、河合さんらしくない。あんな喧嘩腰で、よくわからない主張をしていた。話の核心を避けていた。一体なにがそんなに気に入らないのかちっともわからなかった。対して和泉の返しは理路整然としていたと思う。
「桐谷、付き合わせてごめんね。あの女の子のこともわたし、余計なことしちゃったし……」
「あ、いやいや! そんなことないよ。元々俺が彼女に嘘ついてたのが悪いんだから、身から出た錆だよ。むしろ拍車がかかる前に露呈してよかったと思う。こちらこそ巻き込んでごめん」
河合さんは俺に対してはいつも通りだった。ほっとするけど、少し疎外感がなくもない。
そんな態度をとられると、追及するのもはばかられて俺も和泉のあとをついて店を出た。何度か振り返るが、シャッターの隙間から明かりが漏れるだけで河合さんの姿は見えなかった。
「おい、お前んち泊めてくんね?」
和泉はえらく軽い様子で俺に絡んできた。
「お前、ホテル取ってないの……? っていうか実家あるだろ」
「そんな気分じゃねえよー。明日も河合んちいくつもりだし。だったら流んちに泊まった方が快適じゃん?」
「うわあ、断りたい……」
まあ、客間は空いているし、断る理由もなかったのだが……。
「金とろうかな……」
「あっあっ、お土産あるから! これで勘弁してくれえ!」
どうやら貧乏学生らしい。まあ飛行機代のことを考えればしょうがないか。海外で勉強しながらバイトするのも大変だろうし。
しょうがない。向こうの生活とか、聞きたいこともあるしな。
ついてきな、と先導すると、後ろで「へへーっ」と手下のような返事をあげてついて行くのがわかった。
少しいい気分になった。