11章
俺の愚痴を聞いた河合さんは、カルピスを飲み干してストローで氷をつついていた。
「き、聞いてる……? 俺結構悩んでるんだけど……」
河合さんなら絶対話を聞いてくれるはず! と連絡を取り、学校帰りにお店を閉めた河合さんを夕食がてらファミレスに連れ出したのだが、河合さんは面倒くさそうな顔をしていた。
「まったくどいつもこいつも色気付いて……」
低いうなり声のような声だった。河合さんは見た目の割に結構声が低い。澄んだ高い声も出るのに、普段喋らないせいか、テンションが低いせいか、普段はよくじっとりした重たい声になるのだ。
「色気付くって……失礼だなあ! 俺は勉強に集中したいから河合さんに相談してるんじゃないか」
とんでもない冤罪だ。今の話ちゃんと聞いてたんだろうか。モテ自慢に聞こえたとでも言うんだろうか。そりゃあ全く知らない奴が後輩にしつこくアプローチされてて……なんか言ってたらこなくそと思うし、遠回しな自慢と思われてもしかたないとは思うが……。河合さんはそんな俺のようなひねくれた受け取り方はしないはず。
「……あれ。どいつもこいつも……って、何? もしかして和泉と仲直りできてないの?」
「……別に、喧嘩なんてしてないわ」
どうだろうか。しかし二人が喧嘩、少し想像つかない。二人ともたまに言葉がきついときがあるし、言葉足らずなところもある。しかし衝突する前にきちんと相手の話を聞いて、自分の話もする。自分たちが口下手な自覚があるからだ。
ああでも電話だと相手の心の機微にはなかなか気付けないだろうし、あんまり話こむことができないのかもしれない。特に二人は表情とか、距離感を大事にしていたし、言葉だけで全てを表現できるタイプではない。
それに電話は片方が拒否しようと思えばいくらでもできてしまうのがよくない。お互いに話すつもりがないと成立しないのだ。喧嘩の仲直りには向いていないツールだろう……。
「えーっと、前に電話したのっていつ?」
「……二ヶ月くらい前」
二ヶ月!
俺が連絡したのは四月の半ば。今はもう七月、夏休み目前だ。
多分あのあと和泉と連絡をとったはずだから、そこでこじれちゃったのか!? お、俺のせいか……? どう考えても元サヤに納まる流れだったじゃないか。
「な、何があったのか聞かせてもらってもいい?」
「あなたの愚痴を聞く会でしょ? いらないわよ。さっきはちょっと八つ当たりしちゃったけど、別に気にする必要ないわよ」
「気にするよ~! 気にするに決まってるじゃん」
するとふふ、と河合さんは笑い声を漏らした。そんな様子を見るのは久しぶりだ。高校時代はよく笑うようになってたのに。
「あなた、喋り方変わったわね」
「え。そ、そうかな?」
「うん。ちょっとは感情豊かになったんじゃない」
あまり自覚はないけど……筒井さんと話す時は淡々としていておっかないと周囲に言われたことがあるし。
でも昔に比べると改善されているとしたら、それは良いことだよな。うん。冷たい人間に思われるよりきっと相手も気分が良いはずだ。
なんだか照れくさくて頬を掻いた。
こんなやりとりをしている場合ではないのに。河合さんは一番の親友と仲違いして思い悩んではいないのだろうか。
「ま、まあ、俺の話なんてただのボヤきだからいいんだよ。でも河合さんや和泉のことは俺にだって関係あることだから、首突っ込ませてよ」
河合さんは笑みを完全には消さないまま、眉尻を下げて自分の髪を撫でつけた。仕事の邪魔だからと、高校時代は長かった髪はだいぶすっきりしていた。かなり短く量も少なくなった髪をいつも結んでいるから、印象は全くあの頃とは違う。
それでも河合さん自身はなにも変わっていない。不器用だけど結局は素直な人だ。
「あのね、わたしってきっと普通ではないのよ」
……お、おおう……。急に話の舵を切られたのでとりあえず黙って耳を傾ける。
「わたしだって、普通これだけ仲良くしていたら、付き合うとか、将来結婚するとかするべきだってわかるのよ。でも、どうしてもなんだかね……」
「別に今時普通というものに当てはまる必要はないと思うんだけど……」
まあ、親や親戚がどうこうというのはよくあるらしいが、あまり他人の意見を気にするタイプにも思えない。
「でも恋愛も結婚も1人じゃできないじゃない? 相手との普通が違ったら、どちらかは我慢しないと成立しないじゃない」
「ああ。まあ……そうだね」
「わたし、和泉のこと好きだけど、これがわたしの立ち位置にいたのが別の女の子だったら、きっともっと別の好きになってたと思うの。それこそ、和泉について海外まで行っちゃうようなくらい」
たしかに、和泉は見た目もいいし、中身だって申し分ない。我が強いから好みは別れそうだが、順当に友達としてうまいことやれていて、河合さんくらいべたべたと仲良くしていたら、まあ付き合わない理由はないだろう。
そして筒井さんのことを思い返す。ただの方便の可能性も十分あるが、俺と同じ大学にわざわざ入学してきたようだった。俺相手でそんなだぞ。これがもっと魅力的な男前だったら、海くらい越えてついて行こうとする子がいてもおかしくはない……かもしれない。小野さんだって、一時期のような執着心を持っていたら確実に行っていただろう。
「和泉は多分、わたしにそうして欲しかったんだと思う。ついていって、それからキスなんかして」
「いや、待って待って。ついていくいかないはさておいて、キスだなんだは和泉だって興味ない様子だったじゃないか。恋愛感情があるわけではないけど、恋人としての立場が欲しいって告白してたでしょ? ドラマのような恋愛をするのが普通だというなら、あいつだって十分変わり者だよ」
ちらちらと横の席のカップルがこちらに視線を向けているのを感じる。一体俺たちがどんな関係性でなんの話をしていると思われているのか……。
「……今はきっと違うわ」
河合さんは目を伏せ、机の小さな傷を睨んでいるようだった。筒井さんがじっと机の木目を見ていた記憶が頭を過ぎった。たしか、あれは俺の彼女がどうとかいう話をしていたときだ。知らない誰かを思うときの仕草なんだろうか。
「和泉、彼女はいないって言ってたろ?」
「でもキスしてたわ」
何故か隣のカップルが顔を見合わせたのが視界に入る。やめろ、中途半端な情報で勝手に推察するな。ちゃんと頭から説明してやるから聞きに来なさい。
いや、にしても。キス? 誰と。というのは愚問だろうか……。
「あー……それはー……挨拶のキスじゃなくて?」
「挨拶のキスって唇同士でするの?」
しません。
そ、そうか……そんなまともなキスか……。しかし、一体どうしてそれを河合さんが見る羽目になるっていうんだ? 万が一和泉が他にいい人ができたって、それをわざわざ当てつけのように河合さんに見せるわけはないだろう。あてつけじゃないにしたって人がいちゃついてるところをわざわざ見たい人なんてそうはいまい。
自分に攻撃的なストーカー行為をしてきた小野さんにすら気を遣っていたような男だ。わざと女性を傷つけるようなことするわけない。
「そのキスってどこで見たの?」
「……画像が送られてきたの」
ははーん……。読めてきたぞ。
「それ、河合さんを嫌な気持ちにさせようと和泉の携帯使って相手の女の人が勝手に撮って送ったんでしょ。和泉は彼女じゃないって言ってたよ。からかってくるって。あいつ写真学びに行ってんでしょ、だったらその子だって上手にそれっぽい写真合成することなんて訳ないよ」
「……」
写真だって。へー。と隣で勝手に参加してきているカップルが感想を漏らす。
聞こえてるぞ! ほっといてちょうだい!
「これ。送られてきた画像」
「おわ」
うげー。見知った人のキスシーンは見たくないもんだな……。
和泉はベッドで寝ていて一緒に寝ている女性が横に添い寝しながらキスして自撮りしたもののようだ。わざわざ合成するならもっとやりやすいものがあっただろう。布団にくるまったりしているし、素人ながらもいじりにくそうな写真だと思う。自撮りだからあまり広い範囲は映っていないが、ベッドの周りに本が何冊か転がっていて、そのラインナップから和泉のベッドで間違いなさそうだとわかる。俺は探偵か?
「ね。合成じゃないでしょ」
「……でも和泉寝てるじゃない。勝手に潜り込んで勝手にキスして撮っただけだよ。あいつ、向こうでもストーカーされてるんじゃない?」
どれだけ引き寄せ体質なんだと笑うが、河合さんは仏頂面だ。
「なんで寝ているところに人が入ってくるのよ」
「そ……それは……、鍵開いてたとか、こっそり忍び込んだとか……」
「向こうは銃社会なのよ? そんなに不用心な家あるかしら」
「……お、小野さんならやったでしょ」
「小野さんならねえ……」
知らないワードに横のカップルがまた顔を見合わせるのが見えた。ふふん、惑うがいいさ。こっちは内輪ネタで盛り上がってやる。ついてこれまい。
「それで……和泉はなんて言ってるの?」
「別に。特に話題には登っていないわ。一度電話したあともう出てないし」
「なんで!? 聞かなきゃ!」
河合さんはむくれる。鼻の上に皺を寄せて、まったく可愛くない顔をする。
笑顔は貴重なのに、こういう顔はちょこちょこと見せるのだ。
「でもわたしなんだかしっくりきたの。和泉はそういうことできる相手がいる方が似合うわ」
「ちょっと待って。今のしっくりっていうのなんかすごい引っかかる」
「は?」
なんだかすごい胸の辺りがもやもやする。なんだったっけ。しっくり……っていう言い回しじゃなかったかな。でも、似たような感覚。自己完結っていうか、なんていうか……すごく、はがゆい気持ちになる。勝手に人のことを遠くから見つめて、納得されるような。
自分でも知らないスイッチを押されたような気がしてもやもやとした。
「……とにかく、似合うだのなんだのは河合さんが決めることじゃないよ。それを言うなら俺から見ると河合さんと和泉が付き合ってる方が誰よりもずっとしっくりくる。でも付き合わないわけでしょ。周りがしっくりこようがどうだろうが、関係ないよ」
「……うん、ああ、そうね」
俺のまくし立てた言葉に、河合さんは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと頷いた。
河合さんもきっと心の内ではわかっているんだろう。自分の勝手な思いこみであると。テーブルの上で河合さんは自分の指を触る。
「……でも、でもね、和泉がね、もしそういうことをして喜んだりする人だと思ったら、わたしはうまくしてあげられないから……、それなのに、和泉ったらわたしのこと大好きでしょ?」
申し訳なくて。と河合さんは消えそうな声で呟いた。
それは、俺の心をずんと重たくする言葉だった。
一方的に相手の気持ちを決めつけて配慮して、反論する隙も与えずに距離を置く。健全な関係ではないなと、今となっては思う。
それでも河合さんたちのように物理的に離れていれば、やっぱりこういうすれ違いというのは起きてもおかしくはないと思う。
すぐそばにいるのにやってるんじゃ世話がない。
「……とにかく、本人に問いただして言い訳を聞くべきだよ。ほんとに浮気してるんだったらそれから怒りな。河合さんと和泉の付き合い方はそのあと、気の済むまで相談して決めたらいいよ」
「桐谷、間に入ってちょうだいよ」
「ええ……? うーん……まあ、いいけど……途中までね」
俺の見立てでは、どうせあいつは今でも河合さんにぞっこんだ。そんな二人の仲をわざわざ取り持つなんて俺の精神が持たない。お邪魔虫は退散するさ。写真の審議については俺も興味があるから入れてもらうけどね。
河合さんは少しすっきりしたようだった。問題は解決してはいないが、自分のやるべきことを決めると少し肩の荷は降りたらしい。
食事も終えそろそろ帰ろうと席を立つと、途中で河合さんは隣のカップルに、頑張って、と勇気づけられていた。結局なんなんだこの二人は……。
ーーー
「まだ明るいわね」
「陽長くなってきたよね」
俺の家は河合さんの家の向こうにあるので、ついでに送っていく。このときばかりは高校時代の登下校を思い出す。
でも当時より河合さんは大人っぽく……はなってないけど、すっきりした見た目になったから、少し垢抜けたかもしれない。ちなみに、今でも中学生のお手伝いだとお客さんには思われるらしい。
「そうだ。この前小野さんと偶然会ったんだけど、全然気づいてもらえなかったよ」
「あら。珍しい取り合わせじゃない。元気そうだった?」
「うん、すごく話しやすくなっててさ、そしたら俺が成長したからじゃないって言われちゃった。河合さんから見たらどう? 俺大人っぽくなったかな?」
「そうね。老けたわね」
な、なんで嫌な言い方するんだ……。
でも、まあ、成長してるってことだ。全然変わってないと言われるよりいいか。中身の方を追いつかせないといけなくなってくるが……。
「桐谷先輩!」
びくんと肩が跳ねた。そのくらい通りの良い声だ。
斜め後ろから、にゅっと俺を追い越してその子は現れた。
「やっぱり! 先輩だと思ったー! お疲れさまです!」
「あ……お、……お疲れ様……、どうしたのこんなところで……」
ぴょんとぶりっこっぽい仕草できちんと俺の前に出てくる。お前高校時代そんなキャラじゃなかったろ。弟を顎で使ってただろ。知ってるんだぞ。
「この近くの商店街でお気に入りのお店があって。高校時代帰りによく寄ってたんだ~」
……たしかに、彼女の実家はここからそれほど離れていなかったな……完全に忘れていた……。
そして少女はぴた、と俺の横で視線を止める。
それに気付いて慌てて俺は河合さんに紹介した。
「あ……、こ、この子大学の後輩……」
「はじめまして、筒井凛子です!」
筒井さんはお手本のようにはきはきと挨拶する。
一方河合さんは、俺が紹介するのか自分からいけばいいのか、という目でちらっとこちらを見上げた。小さな子供のように見えた。なんと儚い存在なんだろう……。
そうだ、河合さん。正直言うと、高校時代、河合さんとはソリがあわなかった子たちと筒井さんは多分性質が近い。河合さんは結局クラスの女子とは友人というほどの仲にはならなかった。二年の頃のように憎み合ったりいじめあったりするような仲でもなくなっていたが。まあそういうことがなくたって河合さんは初対面の人とうまく話せるタイプじゃない。俺がしっかり間に立たなければ……!
「……どうも……、わたしは彼とは高校のときの……」
「彼女さんですか!?」
発言が被ったのはわざとではないらしい。もそもそっとした河合さんの声は見事に打ち消されてなかったことにされた。ほら! やっぱり! 相性が悪いというかタイミングが合わないのだ!
河合さんは自己紹介をやめ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「い、いやこの子は違……」
「そうです」
「!」
俺と筒井さんは多分同じ顔をして驚愕した。幸い彼女は河合さんに釘付けのようだった。
か、河合さん……? もしかして俺の彼女の振りをして筒井さんを遠ざけることに協力してくれようとしている……!?
それはどうなんだろう……一瞬考えたことがなくもないが、やはりこれ以上嘘を重ねるのも、人を巻き込むのも嫌だった。それにだ、河合さんレベルの美人が彼女だってことになったら絶対話題になる! 絶対馬場あたりが河合さんの顔を拝みたがる!
で、でもあの河合さんが俺を助けようとしてくれているんだ……それを無駄にはできない……! それに今更どうしようもあるまい……!
「……桐谷の彼女の河合雪葉です。彼がお世話になってます」
ぺこりと河合さんは頭を下げる。数年前の俺が聞いたら飛び上がって喜んでいた台詞だろう。
「あ、おあ……こ、こちら……こそ……」
筒井さんは呆気にとられているようだった。自分で言い出したくせにダメージを受けている。
それもそのはずだ。すっかり見慣れてしまったが河合さんはとんでもない美人なのだ。見慣れたはずなのにたまに見惚れるくらいに。親近感の沸く美人ではなく、まさに人形のような、という言葉が似合う造形だ。愛嬌はまったくないのにこれで十分だと思えるのだ。そんな子の彼氏はきっと背が高くて頭小さくてめちゃくちゃイケメンな貴公子みたいな人じゃないと務まらないと思うだろう。どう考えたってチビで目つきが悪くて趣味が勉強というつまらない男が彼氏だったらボコボコにされる。河合さんが良くたって俺が許さない。……いや俺はもうチビではないぞ!!
いかん。自分で自分に腹が立ってしまった。
「あ、お、おふ、お二人は、いつからの付き合いなんですか……?」
「え。えーと……」
河合さんはあからさまに動揺してこちらに視線を送る。ポーカーフェイスなのに嘘は下手なのだ。
「あ~……、高3のときから、だよね」
「そ、そうね」
どうしよう、別になにか矛盾するような情報与えてないよな。
「そ、そっか……そう……」
筒井さんはあからさまにショックを受けているようだった。胸が痛い……。なんで俺なんかにそんな興味持ってるんだよ。いくらでもいい男はいるだろ。
「じゃ、じゃあ俺たちはこれで……。気をつけて帰りなね」
「あ……はい……」
気まずくなって横をすり抜けてこの場を後にする。河合さんは彼女っぽさを演出しようとしたのか少しだけ距離が近い。
……でもこれで筒井さんも俺のことなんかすっぱり忘れて他のことに目を向けるはずだ。うん。いいんだ。河合さんの彼氏面できるという貴重な体験もできたことだし……。
そう思っていたら、ゴールデンレトリバーのような影がものすごい勢いで突っ込んできた。
「あー!!! お前ら何やってんだよおれ抜きで!!」
目を疑った。ついでに耳も。おまけに鼻も疑ってみようかな。
俺たちが進もうとしていた道の曲がり角から現れた男は、大きな声で文句を言ったあと、俺の隣の河合さんに突撃した。普通なら身を挺して守るレベルの勢いだ。
「河合ー! なんで電話出てくんないんだよー!! 浮気かー!?」
「あ……うわ、……え? なん……い、いず……ちが……」
小さな河合さんに飛びついて頭にほっぺを擦り付ける姿は久々にみるとなかなか異様な光景であった。
ああ、うん。そうだ。どっからどう見てもこれは和泉だ。大荷物を背負っているあたりからしても、急に現れた幻覚とかじゃなくて、海を渡ってきたいでたちの和泉だ。
そして俺は恐怖に震えながら少しずつ視線を後ろに移す。
だって、今の状況は、どう見たって修羅場だ。どっちがどっちかはさておき、本命と、間男と、二股女の邂逅……それを目の当たりにした女……。
筒井さんは、怒りに震えるような、それか驚いたような、泣いてるような、よくわからないとにかく怖い表情で突っ立ってこちらを見ていた。
「き、聞いてる……? 俺結構悩んでるんだけど……」
河合さんなら絶対話を聞いてくれるはず! と連絡を取り、学校帰りにお店を閉めた河合さんを夕食がてらファミレスに連れ出したのだが、河合さんは面倒くさそうな顔をしていた。
「まったくどいつもこいつも色気付いて……」
低いうなり声のような声だった。河合さんは見た目の割に結構声が低い。澄んだ高い声も出るのに、普段喋らないせいか、テンションが低いせいか、普段はよくじっとりした重たい声になるのだ。
「色気付くって……失礼だなあ! 俺は勉強に集中したいから河合さんに相談してるんじゃないか」
とんでもない冤罪だ。今の話ちゃんと聞いてたんだろうか。モテ自慢に聞こえたとでも言うんだろうか。そりゃあ全く知らない奴が後輩にしつこくアプローチされてて……なんか言ってたらこなくそと思うし、遠回しな自慢と思われてもしかたないとは思うが……。河合さんはそんな俺のようなひねくれた受け取り方はしないはず。
「……あれ。どいつもこいつも……って、何? もしかして和泉と仲直りできてないの?」
「……別に、喧嘩なんてしてないわ」
どうだろうか。しかし二人が喧嘩、少し想像つかない。二人ともたまに言葉がきついときがあるし、言葉足らずなところもある。しかし衝突する前にきちんと相手の話を聞いて、自分の話もする。自分たちが口下手な自覚があるからだ。
ああでも電話だと相手の心の機微にはなかなか気付けないだろうし、あんまり話こむことができないのかもしれない。特に二人は表情とか、距離感を大事にしていたし、言葉だけで全てを表現できるタイプではない。
それに電話は片方が拒否しようと思えばいくらでもできてしまうのがよくない。お互いに話すつもりがないと成立しないのだ。喧嘩の仲直りには向いていないツールだろう……。
「えーっと、前に電話したのっていつ?」
「……二ヶ月くらい前」
二ヶ月!
俺が連絡したのは四月の半ば。今はもう七月、夏休み目前だ。
多分あのあと和泉と連絡をとったはずだから、そこでこじれちゃったのか!? お、俺のせいか……? どう考えても元サヤに納まる流れだったじゃないか。
「な、何があったのか聞かせてもらってもいい?」
「あなたの愚痴を聞く会でしょ? いらないわよ。さっきはちょっと八つ当たりしちゃったけど、別に気にする必要ないわよ」
「気にするよ~! 気にするに決まってるじゃん」
するとふふ、と河合さんは笑い声を漏らした。そんな様子を見るのは久しぶりだ。高校時代はよく笑うようになってたのに。
「あなた、喋り方変わったわね」
「え。そ、そうかな?」
「うん。ちょっとは感情豊かになったんじゃない」
あまり自覚はないけど……筒井さんと話す時は淡々としていておっかないと周囲に言われたことがあるし。
でも昔に比べると改善されているとしたら、それは良いことだよな。うん。冷たい人間に思われるよりきっと相手も気分が良いはずだ。
なんだか照れくさくて頬を掻いた。
こんなやりとりをしている場合ではないのに。河合さんは一番の親友と仲違いして思い悩んではいないのだろうか。
「ま、まあ、俺の話なんてただのボヤきだからいいんだよ。でも河合さんや和泉のことは俺にだって関係あることだから、首突っ込ませてよ」
河合さんは笑みを完全には消さないまま、眉尻を下げて自分の髪を撫でつけた。仕事の邪魔だからと、高校時代は長かった髪はだいぶすっきりしていた。かなり短く量も少なくなった髪をいつも結んでいるから、印象は全くあの頃とは違う。
それでも河合さん自身はなにも変わっていない。不器用だけど結局は素直な人だ。
「あのね、わたしってきっと普通ではないのよ」
……お、おおう……。急に話の舵を切られたのでとりあえず黙って耳を傾ける。
「わたしだって、普通これだけ仲良くしていたら、付き合うとか、将来結婚するとかするべきだってわかるのよ。でも、どうしてもなんだかね……」
「別に今時普通というものに当てはまる必要はないと思うんだけど……」
まあ、親や親戚がどうこうというのはよくあるらしいが、あまり他人の意見を気にするタイプにも思えない。
「でも恋愛も結婚も1人じゃできないじゃない? 相手との普通が違ったら、どちらかは我慢しないと成立しないじゃない」
「ああ。まあ……そうだね」
「わたし、和泉のこと好きだけど、これがわたしの立ち位置にいたのが別の女の子だったら、きっともっと別の好きになってたと思うの。それこそ、和泉について海外まで行っちゃうようなくらい」
たしかに、和泉は見た目もいいし、中身だって申し分ない。我が強いから好みは別れそうだが、順当に友達としてうまいことやれていて、河合さんくらいべたべたと仲良くしていたら、まあ付き合わない理由はないだろう。
そして筒井さんのことを思い返す。ただの方便の可能性も十分あるが、俺と同じ大学にわざわざ入学してきたようだった。俺相手でそんなだぞ。これがもっと魅力的な男前だったら、海くらい越えてついて行こうとする子がいてもおかしくはない……かもしれない。小野さんだって、一時期のような執着心を持っていたら確実に行っていただろう。
「和泉は多分、わたしにそうして欲しかったんだと思う。ついていって、それからキスなんかして」
「いや、待って待って。ついていくいかないはさておいて、キスだなんだは和泉だって興味ない様子だったじゃないか。恋愛感情があるわけではないけど、恋人としての立場が欲しいって告白してたでしょ? ドラマのような恋愛をするのが普通だというなら、あいつだって十分変わり者だよ」
ちらちらと横の席のカップルがこちらに視線を向けているのを感じる。一体俺たちがどんな関係性でなんの話をしていると思われているのか……。
「……今はきっと違うわ」
河合さんは目を伏せ、机の小さな傷を睨んでいるようだった。筒井さんがじっと机の木目を見ていた記憶が頭を過ぎった。たしか、あれは俺の彼女がどうとかいう話をしていたときだ。知らない誰かを思うときの仕草なんだろうか。
「和泉、彼女はいないって言ってたろ?」
「でもキスしてたわ」
何故か隣のカップルが顔を見合わせたのが視界に入る。やめろ、中途半端な情報で勝手に推察するな。ちゃんと頭から説明してやるから聞きに来なさい。
いや、にしても。キス? 誰と。というのは愚問だろうか……。
「あー……それはー……挨拶のキスじゃなくて?」
「挨拶のキスって唇同士でするの?」
しません。
そ、そうか……そんなまともなキスか……。しかし、一体どうしてそれを河合さんが見る羽目になるっていうんだ? 万が一和泉が他にいい人ができたって、それをわざわざ当てつけのように河合さんに見せるわけはないだろう。あてつけじゃないにしたって人がいちゃついてるところをわざわざ見たい人なんてそうはいまい。
自分に攻撃的なストーカー行為をしてきた小野さんにすら気を遣っていたような男だ。わざと女性を傷つけるようなことするわけない。
「そのキスってどこで見たの?」
「……画像が送られてきたの」
ははーん……。読めてきたぞ。
「それ、河合さんを嫌な気持ちにさせようと和泉の携帯使って相手の女の人が勝手に撮って送ったんでしょ。和泉は彼女じゃないって言ってたよ。からかってくるって。あいつ写真学びに行ってんでしょ、だったらその子だって上手にそれっぽい写真合成することなんて訳ないよ」
「……」
写真だって。へー。と隣で勝手に参加してきているカップルが感想を漏らす。
聞こえてるぞ! ほっといてちょうだい!
「これ。送られてきた画像」
「おわ」
うげー。見知った人のキスシーンは見たくないもんだな……。
和泉はベッドで寝ていて一緒に寝ている女性が横に添い寝しながらキスして自撮りしたもののようだ。わざわざ合成するならもっとやりやすいものがあっただろう。布団にくるまったりしているし、素人ながらもいじりにくそうな写真だと思う。自撮りだからあまり広い範囲は映っていないが、ベッドの周りに本が何冊か転がっていて、そのラインナップから和泉のベッドで間違いなさそうだとわかる。俺は探偵か?
「ね。合成じゃないでしょ」
「……でも和泉寝てるじゃない。勝手に潜り込んで勝手にキスして撮っただけだよ。あいつ、向こうでもストーカーされてるんじゃない?」
どれだけ引き寄せ体質なんだと笑うが、河合さんは仏頂面だ。
「なんで寝ているところに人が入ってくるのよ」
「そ……それは……、鍵開いてたとか、こっそり忍び込んだとか……」
「向こうは銃社会なのよ? そんなに不用心な家あるかしら」
「……お、小野さんならやったでしょ」
「小野さんならねえ……」
知らないワードに横のカップルがまた顔を見合わせるのが見えた。ふふん、惑うがいいさ。こっちは内輪ネタで盛り上がってやる。ついてこれまい。
「それで……和泉はなんて言ってるの?」
「別に。特に話題には登っていないわ。一度電話したあともう出てないし」
「なんで!? 聞かなきゃ!」
河合さんはむくれる。鼻の上に皺を寄せて、まったく可愛くない顔をする。
笑顔は貴重なのに、こういう顔はちょこちょこと見せるのだ。
「でもわたしなんだかしっくりきたの。和泉はそういうことできる相手がいる方が似合うわ」
「ちょっと待って。今のしっくりっていうのなんかすごい引っかかる」
「は?」
なんだかすごい胸の辺りがもやもやする。なんだったっけ。しっくり……っていう言い回しじゃなかったかな。でも、似たような感覚。自己完結っていうか、なんていうか……すごく、はがゆい気持ちになる。勝手に人のことを遠くから見つめて、納得されるような。
自分でも知らないスイッチを押されたような気がしてもやもやとした。
「……とにかく、似合うだのなんだのは河合さんが決めることじゃないよ。それを言うなら俺から見ると河合さんと和泉が付き合ってる方が誰よりもずっとしっくりくる。でも付き合わないわけでしょ。周りがしっくりこようがどうだろうが、関係ないよ」
「……うん、ああ、そうね」
俺のまくし立てた言葉に、河合さんは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと頷いた。
河合さんもきっと心の内ではわかっているんだろう。自分の勝手な思いこみであると。テーブルの上で河合さんは自分の指を触る。
「……でも、でもね、和泉がね、もしそういうことをして喜んだりする人だと思ったら、わたしはうまくしてあげられないから……、それなのに、和泉ったらわたしのこと大好きでしょ?」
申し訳なくて。と河合さんは消えそうな声で呟いた。
それは、俺の心をずんと重たくする言葉だった。
一方的に相手の気持ちを決めつけて配慮して、反論する隙も与えずに距離を置く。健全な関係ではないなと、今となっては思う。
それでも河合さんたちのように物理的に離れていれば、やっぱりこういうすれ違いというのは起きてもおかしくはないと思う。
すぐそばにいるのにやってるんじゃ世話がない。
「……とにかく、本人に問いただして言い訳を聞くべきだよ。ほんとに浮気してるんだったらそれから怒りな。河合さんと和泉の付き合い方はそのあと、気の済むまで相談して決めたらいいよ」
「桐谷、間に入ってちょうだいよ」
「ええ……? うーん……まあ、いいけど……途中までね」
俺の見立てでは、どうせあいつは今でも河合さんにぞっこんだ。そんな二人の仲をわざわざ取り持つなんて俺の精神が持たない。お邪魔虫は退散するさ。写真の審議については俺も興味があるから入れてもらうけどね。
河合さんは少しすっきりしたようだった。問題は解決してはいないが、自分のやるべきことを決めると少し肩の荷は降りたらしい。
食事も終えそろそろ帰ろうと席を立つと、途中で河合さんは隣のカップルに、頑張って、と勇気づけられていた。結局なんなんだこの二人は……。
ーーー
「まだ明るいわね」
「陽長くなってきたよね」
俺の家は河合さんの家の向こうにあるので、ついでに送っていく。このときばかりは高校時代の登下校を思い出す。
でも当時より河合さんは大人っぽく……はなってないけど、すっきりした見た目になったから、少し垢抜けたかもしれない。ちなみに、今でも中学生のお手伝いだとお客さんには思われるらしい。
「そうだ。この前小野さんと偶然会ったんだけど、全然気づいてもらえなかったよ」
「あら。珍しい取り合わせじゃない。元気そうだった?」
「うん、すごく話しやすくなっててさ、そしたら俺が成長したからじゃないって言われちゃった。河合さんから見たらどう? 俺大人っぽくなったかな?」
「そうね。老けたわね」
な、なんで嫌な言い方するんだ……。
でも、まあ、成長してるってことだ。全然変わってないと言われるよりいいか。中身の方を追いつかせないといけなくなってくるが……。
「桐谷先輩!」
びくんと肩が跳ねた。そのくらい通りの良い声だ。
斜め後ろから、にゅっと俺を追い越してその子は現れた。
「やっぱり! 先輩だと思ったー! お疲れさまです!」
「あ……お、……お疲れ様……、どうしたのこんなところで……」
ぴょんとぶりっこっぽい仕草できちんと俺の前に出てくる。お前高校時代そんなキャラじゃなかったろ。弟を顎で使ってただろ。知ってるんだぞ。
「この近くの商店街でお気に入りのお店があって。高校時代帰りによく寄ってたんだ~」
……たしかに、彼女の実家はここからそれほど離れていなかったな……完全に忘れていた……。
そして少女はぴた、と俺の横で視線を止める。
それに気付いて慌てて俺は河合さんに紹介した。
「あ……、こ、この子大学の後輩……」
「はじめまして、筒井凛子です!」
筒井さんはお手本のようにはきはきと挨拶する。
一方河合さんは、俺が紹介するのか自分からいけばいいのか、という目でちらっとこちらを見上げた。小さな子供のように見えた。なんと儚い存在なんだろう……。
そうだ、河合さん。正直言うと、高校時代、河合さんとはソリがあわなかった子たちと筒井さんは多分性質が近い。河合さんは結局クラスの女子とは友人というほどの仲にはならなかった。二年の頃のように憎み合ったりいじめあったりするような仲でもなくなっていたが。まあそういうことがなくたって河合さんは初対面の人とうまく話せるタイプじゃない。俺がしっかり間に立たなければ……!
「……どうも……、わたしは彼とは高校のときの……」
「彼女さんですか!?」
発言が被ったのはわざとではないらしい。もそもそっとした河合さんの声は見事に打ち消されてなかったことにされた。ほら! やっぱり! 相性が悪いというかタイミングが合わないのだ!
河合さんは自己紹介をやめ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「い、いやこの子は違……」
「そうです」
「!」
俺と筒井さんは多分同じ顔をして驚愕した。幸い彼女は河合さんに釘付けのようだった。
か、河合さん……? もしかして俺の彼女の振りをして筒井さんを遠ざけることに協力してくれようとしている……!?
それはどうなんだろう……一瞬考えたことがなくもないが、やはりこれ以上嘘を重ねるのも、人を巻き込むのも嫌だった。それにだ、河合さんレベルの美人が彼女だってことになったら絶対話題になる! 絶対馬場あたりが河合さんの顔を拝みたがる!
で、でもあの河合さんが俺を助けようとしてくれているんだ……それを無駄にはできない……! それに今更どうしようもあるまい……!
「……桐谷の彼女の河合雪葉です。彼がお世話になってます」
ぺこりと河合さんは頭を下げる。数年前の俺が聞いたら飛び上がって喜んでいた台詞だろう。
「あ、おあ……こ、こちら……こそ……」
筒井さんは呆気にとられているようだった。自分で言い出したくせにダメージを受けている。
それもそのはずだ。すっかり見慣れてしまったが河合さんはとんでもない美人なのだ。見慣れたはずなのにたまに見惚れるくらいに。親近感の沸く美人ではなく、まさに人形のような、という言葉が似合う造形だ。愛嬌はまったくないのにこれで十分だと思えるのだ。そんな子の彼氏はきっと背が高くて頭小さくてめちゃくちゃイケメンな貴公子みたいな人じゃないと務まらないと思うだろう。どう考えたってチビで目つきが悪くて趣味が勉強というつまらない男が彼氏だったらボコボコにされる。河合さんが良くたって俺が許さない。……いや俺はもうチビではないぞ!!
いかん。自分で自分に腹が立ってしまった。
「あ、お、おふ、お二人は、いつからの付き合いなんですか……?」
「え。えーと……」
河合さんはあからさまに動揺してこちらに視線を送る。ポーカーフェイスなのに嘘は下手なのだ。
「あ~……、高3のときから、だよね」
「そ、そうね」
どうしよう、別になにか矛盾するような情報与えてないよな。
「そ、そっか……そう……」
筒井さんはあからさまにショックを受けているようだった。胸が痛い……。なんで俺なんかにそんな興味持ってるんだよ。いくらでもいい男はいるだろ。
「じゃ、じゃあ俺たちはこれで……。気をつけて帰りなね」
「あ……はい……」
気まずくなって横をすり抜けてこの場を後にする。河合さんは彼女っぽさを演出しようとしたのか少しだけ距離が近い。
……でもこれで筒井さんも俺のことなんかすっぱり忘れて他のことに目を向けるはずだ。うん。いいんだ。河合さんの彼氏面できるという貴重な体験もできたことだし……。
そう思っていたら、ゴールデンレトリバーのような影がものすごい勢いで突っ込んできた。
「あー!!! お前ら何やってんだよおれ抜きで!!」
目を疑った。ついでに耳も。おまけに鼻も疑ってみようかな。
俺たちが進もうとしていた道の曲がり角から現れた男は、大きな声で文句を言ったあと、俺の隣の河合さんに突撃した。普通なら身を挺して守るレベルの勢いだ。
「河合ー! なんで電話出てくんないんだよー!! 浮気かー!?」
「あ……うわ、……え? なん……い、いず……ちが……」
小さな河合さんに飛びついて頭にほっぺを擦り付ける姿は久々にみるとなかなか異様な光景であった。
ああ、うん。そうだ。どっからどう見てもこれは和泉だ。大荷物を背負っているあたりからしても、急に現れた幻覚とかじゃなくて、海を渡ってきたいでたちの和泉だ。
そして俺は恐怖に震えながら少しずつ視線を後ろに移す。
だって、今の状況は、どう見たって修羅場だ。どっちがどっちかはさておき、本命と、間男と、二股女の邂逅……それを目の当たりにした女……。
筒井さんは、怒りに震えるような、それか驚いたような、泣いてるような、よくわからないとにかく怖い表情で突っ立ってこちらを見ていた。