10章
「せんせ~課題手伝ってよ~」
「いや、先生じゃないから。……うん、9割できてるじゃん、ここはもう克服できたね」
「やった」
「せんせ~ねえこれ見てよー」
ぴいちくぱあちくと茶々を入れられながら答案を渡し、ミスしていた問題と同じタイプの問題をふたつずつ織り交ぜながら用意する。
「よし、じゃあこれ挑戦してみよう」
「うーっす」
「じゃあ待ってる間こっち見てよ~」
「……」
家庭教師のバイト中。
今日は高校三年生の男の勉強を見ていた。初対面時に俺を中学生と間違えた生意気な少年だったが、徐々に成績が上がるにつれやる気もでてきたらしい。最近はすっかり見違えるように真面目に勉強に取り組むようになっていた。
まあ、もうじき受験だし、今やる気出してくれなきゃ困るんだけどな。
この子はいい。問題はその子の双子の姉だった。関係ないのにいつの間にか部屋に入ってきてやたらと絡んでくるのだった。親御さんに相談しても絶賛反抗期中のようで、あまり効果はないらしい。
そもそも姉と比べて弟は勉強に身が入らず、このままでは進学が危ういということで家庭教師を利用しているのだ。姉の方は必要ないだろうに。
まあ、こういう話は聞かない訳じゃない。教師側が異性の生徒に手を出すという例があるように、異性の教師に興味を持つ生徒もいるのだ。
特にこの子は女子校育ちのようだし、同年代の男が身近にいるのは気になるのだろう。……まあ、なんにせよこういうのは相手にしないに限る。セクハラだなんだということになったら首が飛ぶからな。変な誤解をされかねないものには近付かないに限る。
「お、全問正解だ。もう不安はないでしょ」
「いえーい」
双子がハイタッチする。
なんとなく集中力が散漫になってきている気がするので休憩にすることにした。次の内容を準備しながら雑談するのがいつもの流れだ。気まずいほどではなく、盛り上がりすぎるということもない程度の距離感だ。
「やっぱり双子って仲いいものなんだね」
「うちは仲良いけどねー、この年だと珍しいんじゃないかなー。特に男女はそんなに双子感ないし」
こういうときすぐに口を開くのは姉の方だ。この双子の力関係は明らかだった。
姉がはきはきとした雰囲気を持っているのに対し、弟は少し内向的な様子だ。でも姉がいるからというのもあるだろう。二人きりの時はもっと自分から喋る。
「ねえ先生連絡先交換しようよー」
「そんなことしたら首になる」
「誰にも言わないからさー」
「そういう問題じゃないってわかるでしょ」
なんとも熱烈だ。嬉しくない。
変な風に親に伝わったらと思うと恐ろしい。やっぱりもう一度文句を言おう。悪意はなさそうだが、まだこちらの社会的立場などを冷静に考えられないのかもしれない。
「先生って彼女いないでしょー」
「し、失礼だな……!」
「なんか縁なさそうな顔してる」
本当に失礼だな!
これでも変に意識せずに異性とも関われるようになったというのに。
たしかに、彼女がいたと言えるのは二年前のたった4、5ヶ月程度だけど……。むかつく。
まあでも彼女いるって言っておいた方がこれ以上ちょっかいだすなという牽制にもなるか……。
「悪いけど、彼女いるよ」
「えっ!?」
「まじ!?」
双子が同時に驚愕の声を上げる。そんなに驚かれることなのか……? 馬場といい、俺のことをなんだと思ってるんだ……。
何故か弟の方まで詳しく、というように身を乗り出す。
「な、なんだよ……いいだろ別に……」
「いやいやいやだって先生背低いし! 子供じゃん! オレの鼻くらいの高さしかないじゃん!」
「うるさいな! 低いってほどじゃないだろ! お前がでかいんだよ!」
つくづく失礼なやつだ! 大学に入ってから俺は背が伸びたんだ。もう170近い。今まで停滞していた成長期がきたのだ。まだまだ将来有望だ。
対して双子弟は180越えている。バスケ部だったそうな。エースだったが、足を怪我して引退。スポーツ推薦の予定がおじゃんになり、路線変更となって成績を上げる必要性がでてきたという経緯らしい。
まあ、そんながっちり体型の男からしたら俺なんかひょろひょろちびっ子のガキみたいなやつかもしれないけどさ! 見た目がなんだよ! 努力じゃどうしようもないところがあるだろ!
「お、オレだっていたことないのに……」
「えーうそ、運動部のエースだろ? ほっといたってモテモテだろ」
「あーだってこいつ全然面白くないもん。バスケバカで女子なんか興味ないってキャラやってたら接し方わかんなくなったタイプよ。モテるわけないって」
「はあ? そんなことないし! 学校での普段の姿知らないくせに!」
なんでいちいち喧嘩を売るような言い方をするのか……。
喧嘩に発展しようものならそれを口実に部屋から叩き出そうと思っていたが、そこは心得ているらしい、けろっとした顔でこちらに矛先を変えた。
「ねー写真見せてよー相手も大学生ー? 付き合って何年ー?」
「はい休憩終わり。先進もうか」
「ねええ~~」
どうぞお引き取りくださいとドアを促してふわふわした雰囲気を切り替える。
「えーオレも見たいんだけど」
「なんでだよ……。見せないよ」
な、なんでみんなして相手の写真なんか見ようとするんだ。見てどうするというのか。もしかして俺が嘘ついてると疑ってるのか……?
……まあ、今彼女がいるっていうのは嘘だけどさ。
なんてことない世間話みたいなものなのかもしれないが、あんまり傷を抉らないでほしい。
俺が思っている以上に他人は他人の恋模様が気になるようであった。
次のテストで十位以内に入れば見せるという約束を一方的に取り付けられてしまった。いくらなんでも守る道理はないと思うが、まあやる気になっているようなので泳がせておくことにした。
いざとなったら別れたとでも言っておけばいいしな。こうして人は嘘を塗り重ねていくのか。
俺はあまり適当に嘘で誤魔化す、みたいなことをしないタイプだと自分で思っていたのだが、いつの間にやらバレようもなく、影響も少ないだろうというとき小さな嘘で誤魔化すようになっていた。方便というやつか。
それはいつもどこか佐伯にまつわる事柄ばかりである。
なんだか自分に嫌気が差しそうだ。
しかし、かといってうまいあしらい方も知らない。
そう、女性避けのためだけであって、決して見栄をはっているわけでもないし、付き合ってる相手として佐伯を想定する必要もないのだ。空想上の女の子でいいし、河合さんにお願いするんでもいいじゃないか。どうせあの人は頓着しないだろう。
でもなんだか、考えれば考えるほど虚しかった。
ーーー
金銭的に余裕も出てきたので、秋から自動車学校に通い始めた。河合さんと一緒だ。
久しぶりに学校に通えるのね、と河合さんは嬉しそうにしていた。学校なんかくそくらえよ、なんて言ってたのに。
「最近あなた、元気がなかったから、誘ってくれて嬉しいわ」
「……えっ、そ、そうかな……?」
「そうよ、旅行行った時から」
……結構経つじゃないか。
そりゃあ、あのとき佐伯捜索の壁の高さを感じて打ちひしがられていたのはたしかである。
でもそれを表に出しているつもりはなかったし、いや、表も何も俺自身、それはそれとして切り替えているつもりだった。とにかく、目の前の課題をこなしていくべきだと思考を変えたのだ。
自分の足で探し出すのは無理だと悟った。でもそれしか方法がないわけではないんだから、大丈夫だと、自分を鼓舞していたつもりなのだが……河合さんから見ると元気がなかったらしい。
「なーんかね、鬱っぽいっていうか、無気力っぽいっていうか……」
「それ、重症じゃん」
「そうよ。あなた重症者なのよ」
「……今は大丈夫でしょ?」
「さあ、どうかしら……」
な、なんだと。
河合さんの目に俺は一体どんな風に写っているんだろうか。
そりゃあね、人一人を探し出すということの途方のなさを思い知って、落ち込みはしたよ。でも佐伯がいなくなったときほどじゃないから、大したことではないのだ。
「えーっと……心配かけてごめん……」
「わたしが勝手に心配してるだけだもの。桐谷も勝手に心配されてなさい」
「……それは励ましている言葉なの?」
「そうよ」
うん、よくわからないけど、無理に元気そうに振る舞わなくていい……みたいなニュアンスなんだろうと解釈しておく。
河合さんにも、佐伯とのことは相変わらず話せていないままだ。
でも大学で知り合った友人のように、佐伯の存在自体を誤魔化したりする必要はない。多分、なんとなく関係性についても勘付いているのだろうし。
久しぶりにふたりで一緒に行動したが、佐伯の話なんてしなかった。
でも、しても別にいい。そういう関係がなんだか心地よかった。安心できた。嘘をついたり、誤魔化す必要がないのだと怯えなくていいというだけで、ちょっと気が楽だった。
そうか、普段通り振る舞っているつもりだったのに、俺は気を張っていたのか。まるで知り合った頃の河合さんである。誰にも心を許していなくて、小動物のように常にぴんと耳をそばだてて警戒しているようだった。
あそこまで、精神を消耗するほどではないにしろ、ただ時間をおくだけで回復するということもなかったのかもしれない。
別れ際、心配してくれてありがとうと付け足すように言ったら、河合さんはにやっと笑った。「いいってことよ」と和泉みたいな言い方をするのが、なんだかおかしかった。
「いや、先生じゃないから。……うん、9割できてるじゃん、ここはもう克服できたね」
「やった」
「せんせ~ねえこれ見てよー」
ぴいちくぱあちくと茶々を入れられながら答案を渡し、ミスしていた問題と同じタイプの問題をふたつずつ織り交ぜながら用意する。
「よし、じゃあこれ挑戦してみよう」
「うーっす」
「じゃあ待ってる間こっち見てよ~」
「……」
家庭教師のバイト中。
今日は高校三年生の男の勉強を見ていた。初対面時に俺を中学生と間違えた生意気な少年だったが、徐々に成績が上がるにつれやる気もでてきたらしい。最近はすっかり見違えるように真面目に勉強に取り組むようになっていた。
まあ、もうじき受験だし、今やる気出してくれなきゃ困るんだけどな。
この子はいい。問題はその子の双子の姉だった。関係ないのにいつの間にか部屋に入ってきてやたらと絡んでくるのだった。親御さんに相談しても絶賛反抗期中のようで、あまり効果はないらしい。
そもそも姉と比べて弟は勉強に身が入らず、このままでは進学が危ういということで家庭教師を利用しているのだ。姉の方は必要ないだろうに。
まあ、こういう話は聞かない訳じゃない。教師側が異性の生徒に手を出すという例があるように、異性の教師に興味を持つ生徒もいるのだ。
特にこの子は女子校育ちのようだし、同年代の男が身近にいるのは気になるのだろう。……まあ、なんにせよこういうのは相手にしないに限る。セクハラだなんだということになったら首が飛ぶからな。変な誤解をされかねないものには近付かないに限る。
「お、全問正解だ。もう不安はないでしょ」
「いえーい」
双子がハイタッチする。
なんとなく集中力が散漫になってきている気がするので休憩にすることにした。次の内容を準備しながら雑談するのがいつもの流れだ。気まずいほどではなく、盛り上がりすぎるということもない程度の距離感だ。
「やっぱり双子って仲いいものなんだね」
「うちは仲良いけどねー、この年だと珍しいんじゃないかなー。特に男女はそんなに双子感ないし」
こういうときすぐに口を開くのは姉の方だ。この双子の力関係は明らかだった。
姉がはきはきとした雰囲気を持っているのに対し、弟は少し内向的な様子だ。でも姉がいるからというのもあるだろう。二人きりの時はもっと自分から喋る。
「ねえ先生連絡先交換しようよー」
「そんなことしたら首になる」
「誰にも言わないからさー」
「そういう問題じゃないってわかるでしょ」
なんとも熱烈だ。嬉しくない。
変な風に親に伝わったらと思うと恐ろしい。やっぱりもう一度文句を言おう。悪意はなさそうだが、まだこちらの社会的立場などを冷静に考えられないのかもしれない。
「先生って彼女いないでしょー」
「し、失礼だな……!」
「なんか縁なさそうな顔してる」
本当に失礼だな!
これでも変に意識せずに異性とも関われるようになったというのに。
たしかに、彼女がいたと言えるのは二年前のたった4、5ヶ月程度だけど……。むかつく。
まあでも彼女いるって言っておいた方がこれ以上ちょっかいだすなという牽制にもなるか……。
「悪いけど、彼女いるよ」
「えっ!?」
「まじ!?」
双子が同時に驚愕の声を上げる。そんなに驚かれることなのか……? 馬場といい、俺のことをなんだと思ってるんだ……。
何故か弟の方まで詳しく、というように身を乗り出す。
「な、なんだよ……いいだろ別に……」
「いやいやいやだって先生背低いし! 子供じゃん! オレの鼻くらいの高さしかないじゃん!」
「うるさいな! 低いってほどじゃないだろ! お前がでかいんだよ!」
つくづく失礼なやつだ! 大学に入ってから俺は背が伸びたんだ。もう170近い。今まで停滞していた成長期がきたのだ。まだまだ将来有望だ。
対して双子弟は180越えている。バスケ部だったそうな。エースだったが、足を怪我して引退。スポーツ推薦の予定がおじゃんになり、路線変更となって成績を上げる必要性がでてきたという経緯らしい。
まあ、そんながっちり体型の男からしたら俺なんかひょろひょろちびっ子のガキみたいなやつかもしれないけどさ! 見た目がなんだよ! 努力じゃどうしようもないところがあるだろ!
「お、オレだっていたことないのに……」
「えーうそ、運動部のエースだろ? ほっといたってモテモテだろ」
「あーだってこいつ全然面白くないもん。バスケバカで女子なんか興味ないってキャラやってたら接し方わかんなくなったタイプよ。モテるわけないって」
「はあ? そんなことないし! 学校での普段の姿知らないくせに!」
なんでいちいち喧嘩を売るような言い方をするのか……。
喧嘩に発展しようものならそれを口実に部屋から叩き出そうと思っていたが、そこは心得ているらしい、けろっとした顔でこちらに矛先を変えた。
「ねー写真見せてよー相手も大学生ー? 付き合って何年ー?」
「はい休憩終わり。先進もうか」
「ねええ~~」
どうぞお引き取りくださいとドアを促してふわふわした雰囲気を切り替える。
「えーオレも見たいんだけど」
「なんでだよ……。見せないよ」
な、なんでみんなして相手の写真なんか見ようとするんだ。見てどうするというのか。もしかして俺が嘘ついてると疑ってるのか……?
……まあ、今彼女がいるっていうのは嘘だけどさ。
なんてことない世間話みたいなものなのかもしれないが、あんまり傷を抉らないでほしい。
俺が思っている以上に他人は他人の恋模様が気になるようであった。
次のテストで十位以内に入れば見せるという約束を一方的に取り付けられてしまった。いくらなんでも守る道理はないと思うが、まあやる気になっているようなので泳がせておくことにした。
いざとなったら別れたとでも言っておけばいいしな。こうして人は嘘を塗り重ねていくのか。
俺はあまり適当に嘘で誤魔化す、みたいなことをしないタイプだと自分で思っていたのだが、いつの間にやらバレようもなく、影響も少ないだろうというとき小さな嘘で誤魔化すようになっていた。方便というやつか。
それはいつもどこか佐伯にまつわる事柄ばかりである。
なんだか自分に嫌気が差しそうだ。
しかし、かといってうまいあしらい方も知らない。
そう、女性避けのためだけであって、決して見栄をはっているわけでもないし、付き合ってる相手として佐伯を想定する必要もないのだ。空想上の女の子でいいし、河合さんにお願いするんでもいいじゃないか。どうせあの人は頓着しないだろう。
でもなんだか、考えれば考えるほど虚しかった。
ーーー
金銭的に余裕も出てきたので、秋から自動車学校に通い始めた。河合さんと一緒だ。
久しぶりに学校に通えるのね、と河合さんは嬉しそうにしていた。学校なんかくそくらえよ、なんて言ってたのに。
「最近あなた、元気がなかったから、誘ってくれて嬉しいわ」
「……えっ、そ、そうかな……?」
「そうよ、旅行行った時から」
……結構経つじゃないか。
そりゃあ、あのとき佐伯捜索の壁の高さを感じて打ちひしがられていたのはたしかである。
でもそれを表に出しているつもりはなかったし、いや、表も何も俺自身、それはそれとして切り替えているつもりだった。とにかく、目の前の課題をこなしていくべきだと思考を変えたのだ。
自分の足で探し出すのは無理だと悟った。でもそれしか方法がないわけではないんだから、大丈夫だと、自分を鼓舞していたつもりなのだが……河合さんから見ると元気がなかったらしい。
「なーんかね、鬱っぽいっていうか、無気力っぽいっていうか……」
「それ、重症じゃん」
「そうよ。あなた重症者なのよ」
「……今は大丈夫でしょ?」
「さあ、どうかしら……」
な、なんだと。
河合さんの目に俺は一体どんな風に写っているんだろうか。
そりゃあね、人一人を探し出すということの途方のなさを思い知って、落ち込みはしたよ。でも佐伯がいなくなったときほどじゃないから、大したことではないのだ。
「えーっと……心配かけてごめん……」
「わたしが勝手に心配してるだけだもの。桐谷も勝手に心配されてなさい」
「……それは励ましている言葉なの?」
「そうよ」
うん、よくわからないけど、無理に元気そうに振る舞わなくていい……みたいなニュアンスなんだろうと解釈しておく。
河合さんにも、佐伯とのことは相変わらず話せていないままだ。
でも大学で知り合った友人のように、佐伯の存在自体を誤魔化したりする必要はない。多分、なんとなく関係性についても勘付いているのだろうし。
久しぶりにふたりで一緒に行動したが、佐伯の話なんてしなかった。
でも、しても別にいい。そういう関係がなんだか心地よかった。安心できた。嘘をついたり、誤魔化す必要がないのだと怯えなくていいというだけで、ちょっと気が楽だった。
そうか、普段通り振る舞っているつもりだったのに、俺は気を張っていたのか。まるで知り合った頃の河合さんである。誰にも心を許していなくて、小動物のように常にぴんと耳をそばだてて警戒しているようだった。
あそこまで、精神を消耗するほどではないにしろ、ただ時間をおくだけで回復するということもなかったのかもしれない。
別れ際、心配してくれてありがとうと付け足すように言ったら、河合さんはにやっと笑った。「いいってことよ」と和泉みたいな言い方をするのが、なんだかおかしかった。