しゅかゆづ短編集 1
ゴールデンウィークの喧騒は、僕にとっても朱夏にとっても、鬱陶しいだけのものだった。
「弓弦、とっておきの場所があるんです。デートしましょう」
だから、今日も自宅で過ごすのだろうと思っていたし、僕もそれで良かった。
なのに、本を読む僕を背中から抱きしめていた朱夏が、なんの前置きもなくそう言い出すから、ちょっと驚いてしまった。
……朱夏とのデート。その響きは、決して、嫌じゃないけれど。でも、どこへ行くにも人だらけの世間だから、少し気乗りがしない。
それは、人間嫌いの龍神である、朱夏も同じだと思うのだけど――。
「ほら、俺に乗って。決して手を離さないでくださいね。ゆっくりと行きますから」
「……ん。わかった」
朱夏は、僕の手を取る。
窓辺まで行って、窓をあける。わっと強い風が入り込んだ。
僕にあれこれ言う朱夏は、僕が頷くのを見て、満足そうにする。そして、僕の手を引くまま、窓辺に足をかけた。
春を忘れたばかりの青空が見える。
朱夏が、ひとの姿から龍神の姿になり、その背中に僕を乗せる。
まるで血を浴びたみたいに真っ赤な胴体。一枚一枚が美しく立派で、触れるのをためらう鱗。巨大な神木の太枝のように力強い角。
僕は今、朱夏の背中に乗って、彼と一緒に空を泳いでいる。
春に手を振った初夏の空の中を。
そうして朱夏が僕を連れてきたところは、どこかの山奥。青々とした木々の立ち並ぶ、深い森の中だった。
なんとなく、神秘的な場所だった。透き通った池があり、そのほとりの陽だまりで、僕たちは落ち着いた。
「朱夏」
「はい」
「この池も、神様の池なの?」
「これは違いますねえ。ごく普通の池ですよ」
「ふうん」
朱夏が元々住んでいた場所も、山の奥の森の中だった。
ひとけのない、ほとんど忘れ去られた龍神池。僕がそこに沈んで、溺れて。だから彼と出逢ったんだということも、まざまざと思い出す。
……そんなふうに、ぼうっと考え事をしていたからだろうか。僕を包み込む朱夏の、尾の部分。龍神の姿のままでいる朱夏に、優しく頬を撫でられて。
「……ふふ。くすぐったいよ」
「あはは」
僕は、我にかえる。ちょっとしたいたずらに成功した、とばかりに笑った朱夏の、魅入られるほど恐ろしくて美しい顔を眺め、その頭や顎のあたりを両手でそろりと撫でる。
……ひとの姿でも、龍の姿でも、朱夏はとても綺麗だ。顔つきひとつだけで言っても整っていて。どこからどう見ても、容姿端麗で。
ずるいなあと思った。そんなところも、好きだけれど。
「弓弦、貴方も眠れそうですか」
「……うん」
僕は両手で朱夏を撫でる。朱夏も、尾についた羽のようなもので、僕をそうっと撫でてくれる。
陽だまりの中は、とても暖かい。新緑の木の葉が受け止め、そこからもれる光だからなのか、それとも何か特別な力でも働いているのだろうか、まったく眩しくもなく、暑くもならない。
そよそよと微風があそんでいる。その涼しさ、澄み切った空気。朱夏はもうだいぶ寝に入っているようだった。僕も、とても眠い。
僕を護るように、抱きしめるように、包み込んでくれている彼の胴体。僕は朱夏に身をあずけ、瞼を閉じる。時おり朱夏を撫で、時おり彼の尾に背中を撫でられながら、ゆっくりと眠りについていく。
「弓弦、好きですよ。貴方は俺だけの弓弦です」
「……うん。朱夏」
僕だって、貴方が好きだよ。
そう、心の中で呟いた。べつに、意味はない。面と向かって応えることが、気恥ずかしかっただけ。
朱夏が、いつも、僕のこういうところまで、許容して甘やかしてくれるからわるい。甘えさせてくれるから。
……静かな時間。とても、心地いい。
僕と朱夏は、一緒に、ひたすらに微睡む。
きっと、ほとんど一緒に、お昼寝に入る。
「弓弦、とっておきの場所があるんです。デートしましょう」
だから、今日も自宅で過ごすのだろうと思っていたし、僕もそれで良かった。
なのに、本を読む僕を背中から抱きしめていた朱夏が、なんの前置きもなくそう言い出すから、ちょっと驚いてしまった。
……朱夏とのデート。その響きは、決して、嫌じゃないけれど。でも、どこへ行くにも人だらけの世間だから、少し気乗りがしない。
それは、人間嫌いの龍神である、朱夏も同じだと思うのだけど――。
「ほら、俺に乗って。決して手を離さないでくださいね。ゆっくりと行きますから」
「……ん。わかった」
朱夏は、僕の手を取る。
窓辺まで行って、窓をあける。わっと強い風が入り込んだ。
僕にあれこれ言う朱夏は、僕が頷くのを見て、満足そうにする。そして、僕の手を引くまま、窓辺に足をかけた。
春を忘れたばかりの青空が見える。
朱夏が、ひとの姿から龍神の姿になり、その背中に僕を乗せる。
まるで血を浴びたみたいに真っ赤な胴体。一枚一枚が美しく立派で、触れるのをためらう鱗。巨大な神木の太枝のように力強い角。
僕は今、朱夏の背中に乗って、彼と一緒に空を泳いでいる。
春に手を振った初夏の空の中を。
そうして朱夏が僕を連れてきたところは、どこかの山奥。青々とした木々の立ち並ぶ、深い森の中だった。
なんとなく、神秘的な場所だった。透き通った池があり、そのほとりの陽だまりで、僕たちは落ち着いた。
「朱夏」
「はい」
「この池も、神様の池なの?」
「これは違いますねえ。ごく普通の池ですよ」
「ふうん」
朱夏が元々住んでいた場所も、山の奥の森の中だった。
ひとけのない、ほとんど忘れ去られた龍神池。僕がそこに沈んで、溺れて。だから彼と出逢ったんだということも、まざまざと思い出す。
……そんなふうに、ぼうっと考え事をしていたからだろうか。僕を包み込む朱夏の、尾の部分。龍神の姿のままでいる朱夏に、優しく頬を撫でられて。
「……ふふ。くすぐったいよ」
「あはは」
僕は、我にかえる。ちょっとしたいたずらに成功した、とばかりに笑った朱夏の、魅入られるほど恐ろしくて美しい顔を眺め、その頭や顎のあたりを両手でそろりと撫でる。
……ひとの姿でも、龍の姿でも、朱夏はとても綺麗だ。顔つきひとつだけで言っても整っていて。どこからどう見ても、容姿端麗で。
ずるいなあと思った。そんなところも、好きだけれど。
「弓弦、貴方も眠れそうですか」
「……うん」
僕は両手で朱夏を撫でる。朱夏も、尾についた羽のようなもので、僕をそうっと撫でてくれる。
陽だまりの中は、とても暖かい。新緑の木の葉が受け止め、そこからもれる光だからなのか、それとも何か特別な力でも働いているのだろうか、まったく眩しくもなく、暑くもならない。
そよそよと微風があそんでいる。その涼しさ、澄み切った空気。朱夏はもうだいぶ寝に入っているようだった。僕も、とても眠い。
僕を護るように、抱きしめるように、包み込んでくれている彼の胴体。僕は朱夏に身をあずけ、瞼を閉じる。時おり朱夏を撫で、時おり彼の尾に背中を撫でられながら、ゆっくりと眠りについていく。
「弓弦、好きですよ。貴方は俺だけの弓弦です」
「……うん。朱夏」
僕だって、貴方が好きだよ。
そう、心の中で呟いた。べつに、意味はない。面と向かって応えることが、気恥ずかしかっただけ。
朱夏が、いつも、僕のこういうところまで、許容して甘やかしてくれるからわるい。甘えさせてくれるから。
……静かな時間。とても、心地いい。
僕と朱夏は、一緒に、ひたすらに微睡む。
きっと、ほとんど一緒に、お昼寝に入る。