みなづき珈琲(仮)
不思議な体験をした。
誰に言ったところで信じてもらえないだろう。
私自身、疑っている。
あれは現実だったのだろうか?
今日こそ死のうと思い夜道を歩いた私の目の前に、それはふと現れた。
暗闇にぱっと明かりがつくような、あまりの唐突感。足を止めた私の目に、お洒落な看板が目についた。
『みなづき珈琲』
こんな夜中に営業している店があるのかと訝しんだのを覚えている。そのときは深夜二時過ぎ。その時点でおかしいのだった。
死にたい私は自暴自棄に任せ、みなづき珈琲とやらの店のドアを開いた。店の外見は……覚えていない。ぼろの古風な感じではなかった、ような気がする。かろうじて。
店に入った私を、「いらっしゃいませ」と出迎えたのは、
「お客さん、どおぞどおぞ。今夜も寒いですねえ〜」
ぬいぐるみ。喋る、飛ぶ、動く。つぶらな瞳にゆるい口もと、ずいぶんゆるふわとした顔の、ぬいぐるみサイズの龍(?)だった――。
夢でも見ているのだろうか。
謎の龍らしき生物に案内された席は、窓際でありながら暖かかった。窓の外は当然に暗い。
私は何をするまでもなかった。
「ご縁ですから、チマがおごってあげます! お客さん、レモンティーがお好きでしょ〜?」
チマ、というのが名前なのだろうか。小さな龍は小さな翼をぱたぱたさせ、親切でありながら押し付けがましい。
しかし、レモンティーを好んでいたのは事実だ。何か、妙やたらに見透かされている気がした。
小さな龍がカウンターへと向かう。小ぢんまりとした店内の奥。カウンターの向こうに、人影があった。男性だろうか。あのような異様な生き物がいながら、普通の人間もいるらしい。
思えば、私の他に客らしき人はいない。それもそうか、深夜である。
と、カウンターの方から、こちらに向かって歩いてくる人がいた。先ほど目にした男性ではない。こちらは、女性である。細身で、背丈も低めだ。見ようによって、高校生ほどに思える。だが、繰り返しになるが深夜である。
まあ今どきの若者事情などわからない。ふとすれ違う、制服を着た学生連中は、どれもこれも大人びていて、制服がなければ学生だともわからないことが多い。
……女性は私の席の傍に立った。
「失礼します」
とだけ言い、静かにテーブルにプレートを置いた。白く細い、透き通った指先。そして、それが紡いだかのような真っ白のショートケーキ。真っ赤な苺は大粒で、はたと見やった女性の瞳も、まるで宝石のような赤い色だった。
幼く、とても可愛らしい顔立ちがまた、深夜の未成年は外出禁止……と私に思わせる。
「ごゆっくりどうぞ」
落ち着いた、中性的な声質だと感じた。女性が踵を返す。ベージュ色の髪がふわっと揺れ、私の目線を誘った。
交代で、次に男性がやってくる。こちらはだいぶ背が高い。すらっとしている。長い脚。真っ赤に燃えるような髪も含め、なにかの若い俳優のようだ。
きれいすぎる顔のつくりであり、私は視線を逸らした。あまり見つめてはならないような気がしたのだ。それほどまでの外見は、もはや奇麗である。私は、自分の思いつきに少しだけ笑い、そして驚いた。笑ったのだ。いつぶりであろうか。
「どうぞ」
男性はぶっきらぼうで、声にもほとんど抑揚がなかった。そっと私のテーブルにカップを置き、早々に立ち去る。レモンティーの香りが漂う、カップの水面は透いた薄檸檬色。
テーブルにショートケーキとレモンティー。そこまでして、ようやく私は、はっとした。夢見心地から我にかえった。こんなものを出してもらってどうする。私は財布を持ってこなかったし、これらは実は押し売りセットで、触れたら最後、相当の金額を要求されるかもしれない。
なにをぼんやりしていたのだろう。立ち去るべきだ、と顔を上げる。すると、向かい側の席に、
「どおぞどおぞ。チマのおごりですから!」
ほぼ忘れかけていた異様な存在、喋る飛ぶ動くのぬいぐるみ龍が、ちょこんと座っているではないか。
ためらう私を見透かしてか、
「ささ、どおぞ、冷めないうちに。残しちゃったら、そおですねえ、百万円になります〜」
などと冗談ぽく言う。ふわあと笑みとろけるさまが、私の肩から緊張を奪った。これを癒し系マスコットにして売れば、ざっと百万は売れる。おそらく。そんなことを考える私は、そうだ、今日こそ死ぬのではなかったのか?
(そうだ。どうせ死ぬんだ)
改めた決意が、私の背中を押した。私は、自暴自棄でこの店に飛び込んだ時のように、カップの取手に指を絡める。
あたたかいレモンティーを飲む。フォークを手に、ショートケーキを頬張る。さっぱりして、甘くて、……美味しい。
「おいしい……」
こぼれたのは、つぶやきだけではなかった。ひとつ、またひとつ、こぼれてゆく。私の視界を滲ませるもの。
「そうでしょう、そうでしょう。ゆうっくり食べてくださいねえ」
小さな龍は微笑んでいる。自慢げに。自信作を褒めてもらったみたいに。はたして、この龍が作ったデザートたちなのだろうか。これらを運んできた二人の姿が浮かんで消えた。
私は飲み、食べた。泣きながら、みっともなく。小さな龍がハンカチを渡してくれた。ふわふわの布地に顔をこすりつけながら、私はひたすらに飲んで、食べて、泣いた。
――悔しかった。
なにひとつ上手くいかず、歳だけを無駄に重ねてゆき、この世界のすべてに絶望しきったつもりで、死ぬことこそが復讐なのだとさえ思った、それが今日なのだと息巻いていた自分が、好物だったレモンティーとショートケーキに敗けたのだ。
どちらも美味しかった。久しぶりに味わった。泣きじゃくりながらだったのに、いや、だったからこそ、それらは心の奥底にまで届いてしまったのだろう。からっぽの食器、ぐしゃぐしゃのハンカチ、泣きやんだ私はぼんやりと。頭が疲れて働かない。
「さぁさ、お客さん」
「……?」
「そろそろ夜が明けますよ〜」
……夜?
首を傾げる。先ほどの女性がやってきて、私にストールらしきものをかけてくれた。礼を伝える暇もなく、というより、何故か口が動かない。
動かない。指先ひとつ。女性の赤い瞳が、私を心配そうに見た。そして、からになった食器を下げてゆく。
「またご縁がありましたら、今度はチマをおごってくださいねえ!」
否応を答えることが出来ない。私は、釣り上げられる魚のような無力さで瞼を閉じ、比喩とは真逆に沈んでゆく。
暗い底へ。
――そして、今。
私は、雑木林の奥にいる。呆然と座り込んでいる。
目の前には折れた木枝。結んだロープ。倒れた椅子。
……なんだか、とても、不思議な体験をした。
誰に言っても信じてもらえないだろう。
私自身、疑い続けている。
あれは何だったのだろうか?
夢、あるいは幻、そうだ、おかしな走馬灯を見たのだと思ってみる。私の肩でまどろむストールが、夢幻を否定する。
レモンティーのあたたかさも、ショートケーキの甘さも記憶に新しい。ぐうう、とお腹が鳴った。こんな状況下で、ずいぶん呑気なことだ。私は、くすっと笑った。
木々の隙間から白い光が垂れている。夜明けだ。死にたくなるほどどうにもならない世界が、またしても始まろうとしている。
私は立ち上がった。
このまま奥へ逝くことも、前へ進むこともできる。それを好きに選べるのだと気づいた。どちらも嫌なら、もう一度この場に座り込めばいい。好きにすればいいのだ。自分の好きに。
何をどう選択しても、この肩にあるストールは、変わらず私を包んでいてくれる。
そう、思った。
◆
『みなづき珈琲』店内の奥は広い。
キッチン、リビング、バスルーム、寝室。完璧に、もうひとつの家である。建物の造りや世界の常識に囚われない、ここは人ならざる者の空間。
水無月朱夏、水無月弓弦。若い夫妻の住居。
「あのひとはどうしたかな」と赤い瞳をふせる弓弦。
「どうでしょうねえ」と、弓弦のベージュの髪を愛でながら、朱夏は興味なさげだ。弓弦を抱きしめ、甘え、真っ赤に燃えるような髪を揺らす。朱夏は、弓弦に対してのみ、はちみつホットミルクより甘い。
水無月夫妻が営む『みなづき珈琲』は年中有休、不定期。神出鬼没の不思議な喫茶店。
「もう、朱夏。今日はお店、開けているのに」
「大丈夫ですよ、あのちみっこい龍もどきに任せておけば」
「チマはケーキとか作れないんだから」
「そうなんですよ。なのにあれ、たまに『私が作りました』的な顔するんです。むかつきます」
「まあ……大先輩なんだから、そういらいらしないで。ね、龍神さま?」
「……貴女に免じて大目に見てやります」
のんびり繰り広げられる会話の終わりに、からんころん。みなづき珈琲に客人がやってきた音。
「ほら朱夏……っこら!」
「まだ大丈夫です。弓弦」
行かなきゃ、と立ち上がろうとする弓弦。
その弓弦を引きとめ、抱きすくめてしまう朱夏。
リビングのソファは鬱陶しげに軋んだ。
水無月夫妻は、溺愛夫婦である。つねにふたりきりの世界がある。
一方のみなづき珈琲店内――。
「お客さん、どおもどおも〜。ささ、今日も冷えますねえ!」
チマの声は弾んだ。いつかの窓辺の席へ、客人を案内する。
そこに座った女性は、チマを見上げて言った。
「今日は私のおごり」
憑き物が取れたかのような、晴れた笑顔。彼女は、綺麗に洗われ、畳まれたストールを、そっと膝の上に置いた。
誰に言ったところで信じてもらえないだろう。
私自身、疑っている。
あれは現実だったのだろうか?
今日こそ死のうと思い夜道を歩いた私の目の前に、それはふと現れた。
暗闇にぱっと明かりがつくような、あまりの唐突感。足を止めた私の目に、お洒落な看板が目についた。
『みなづき珈琲』
こんな夜中に営業している店があるのかと訝しんだのを覚えている。そのときは深夜二時過ぎ。その時点でおかしいのだった。
死にたい私は自暴自棄に任せ、みなづき珈琲とやらの店のドアを開いた。店の外見は……覚えていない。ぼろの古風な感じではなかった、ような気がする。かろうじて。
店に入った私を、「いらっしゃいませ」と出迎えたのは、
「お客さん、どおぞどおぞ。今夜も寒いですねえ〜」
ぬいぐるみ。喋る、飛ぶ、動く。つぶらな瞳にゆるい口もと、ずいぶんゆるふわとした顔の、ぬいぐるみサイズの龍(?)だった――。
夢でも見ているのだろうか。
謎の龍らしき生物に案内された席は、窓際でありながら暖かかった。窓の外は当然に暗い。
私は何をするまでもなかった。
「ご縁ですから、チマがおごってあげます! お客さん、レモンティーがお好きでしょ〜?」
チマ、というのが名前なのだろうか。小さな龍は小さな翼をぱたぱたさせ、親切でありながら押し付けがましい。
しかし、レモンティーを好んでいたのは事実だ。何か、妙やたらに見透かされている気がした。
小さな龍がカウンターへと向かう。小ぢんまりとした店内の奥。カウンターの向こうに、人影があった。男性だろうか。あのような異様な生き物がいながら、普通の人間もいるらしい。
思えば、私の他に客らしき人はいない。それもそうか、深夜である。
と、カウンターの方から、こちらに向かって歩いてくる人がいた。先ほど目にした男性ではない。こちらは、女性である。細身で、背丈も低めだ。見ようによって、高校生ほどに思える。だが、繰り返しになるが深夜である。
まあ今どきの若者事情などわからない。ふとすれ違う、制服を着た学生連中は、どれもこれも大人びていて、制服がなければ学生だともわからないことが多い。
……女性は私の席の傍に立った。
「失礼します」
とだけ言い、静かにテーブルにプレートを置いた。白く細い、透き通った指先。そして、それが紡いだかのような真っ白のショートケーキ。真っ赤な苺は大粒で、はたと見やった女性の瞳も、まるで宝石のような赤い色だった。
幼く、とても可愛らしい顔立ちがまた、深夜の未成年は外出禁止……と私に思わせる。
「ごゆっくりどうぞ」
落ち着いた、中性的な声質だと感じた。女性が踵を返す。ベージュ色の髪がふわっと揺れ、私の目線を誘った。
交代で、次に男性がやってくる。こちらはだいぶ背が高い。すらっとしている。長い脚。真っ赤に燃えるような髪も含め、なにかの若い俳優のようだ。
きれいすぎる顔のつくりであり、私は視線を逸らした。あまり見つめてはならないような気がしたのだ。それほどまでの外見は、もはや奇麗である。私は、自分の思いつきに少しだけ笑い、そして驚いた。笑ったのだ。いつぶりであろうか。
「どうぞ」
男性はぶっきらぼうで、声にもほとんど抑揚がなかった。そっと私のテーブルにカップを置き、早々に立ち去る。レモンティーの香りが漂う、カップの水面は透いた薄檸檬色。
テーブルにショートケーキとレモンティー。そこまでして、ようやく私は、はっとした。夢見心地から我にかえった。こんなものを出してもらってどうする。私は財布を持ってこなかったし、これらは実は押し売りセットで、触れたら最後、相当の金額を要求されるかもしれない。
なにをぼんやりしていたのだろう。立ち去るべきだ、と顔を上げる。すると、向かい側の席に、
「どおぞどおぞ。チマのおごりですから!」
ほぼ忘れかけていた異様な存在、喋る飛ぶ動くのぬいぐるみ龍が、ちょこんと座っているではないか。
ためらう私を見透かしてか、
「ささ、どおぞ、冷めないうちに。残しちゃったら、そおですねえ、百万円になります〜」
などと冗談ぽく言う。ふわあと笑みとろけるさまが、私の肩から緊張を奪った。これを癒し系マスコットにして売れば、ざっと百万は売れる。おそらく。そんなことを考える私は、そうだ、今日こそ死ぬのではなかったのか?
(そうだ。どうせ死ぬんだ)
改めた決意が、私の背中を押した。私は、自暴自棄でこの店に飛び込んだ時のように、カップの取手に指を絡める。
あたたかいレモンティーを飲む。フォークを手に、ショートケーキを頬張る。さっぱりして、甘くて、……美味しい。
「おいしい……」
こぼれたのは、つぶやきだけではなかった。ひとつ、またひとつ、こぼれてゆく。私の視界を滲ませるもの。
「そうでしょう、そうでしょう。ゆうっくり食べてくださいねえ」
小さな龍は微笑んでいる。自慢げに。自信作を褒めてもらったみたいに。はたして、この龍が作ったデザートたちなのだろうか。これらを運んできた二人の姿が浮かんで消えた。
私は飲み、食べた。泣きながら、みっともなく。小さな龍がハンカチを渡してくれた。ふわふわの布地に顔をこすりつけながら、私はひたすらに飲んで、食べて、泣いた。
――悔しかった。
なにひとつ上手くいかず、歳だけを無駄に重ねてゆき、この世界のすべてに絶望しきったつもりで、死ぬことこそが復讐なのだとさえ思った、それが今日なのだと息巻いていた自分が、好物だったレモンティーとショートケーキに敗けたのだ。
どちらも美味しかった。久しぶりに味わった。泣きじゃくりながらだったのに、いや、だったからこそ、それらは心の奥底にまで届いてしまったのだろう。からっぽの食器、ぐしゃぐしゃのハンカチ、泣きやんだ私はぼんやりと。頭が疲れて働かない。
「さぁさ、お客さん」
「……?」
「そろそろ夜が明けますよ〜」
……夜?
首を傾げる。先ほどの女性がやってきて、私にストールらしきものをかけてくれた。礼を伝える暇もなく、というより、何故か口が動かない。
動かない。指先ひとつ。女性の赤い瞳が、私を心配そうに見た。そして、からになった食器を下げてゆく。
「またご縁がありましたら、今度はチマをおごってくださいねえ!」
否応を答えることが出来ない。私は、釣り上げられる魚のような無力さで瞼を閉じ、比喩とは真逆に沈んでゆく。
暗い底へ。
――そして、今。
私は、雑木林の奥にいる。呆然と座り込んでいる。
目の前には折れた木枝。結んだロープ。倒れた椅子。
……なんだか、とても、不思議な体験をした。
誰に言っても信じてもらえないだろう。
私自身、疑い続けている。
あれは何だったのだろうか?
夢、あるいは幻、そうだ、おかしな走馬灯を見たのだと思ってみる。私の肩でまどろむストールが、夢幻を否定する。
レモンティーのあたたかさも、ショートケーキの甘さも記憶に新しい。ぐうう、とお腹が鳴った。こんな状況下で、ずいぶん呑気なことだ。私は、くすっと笑った。
木々の隙間から白い光が垂れている。夜明けだ。死にたくなるほどどうにもならない世界が、またしても始まろうとしている。
私は立ち上がった。
このまま奥へ逝くことも、前へ進むこともできる。それを好きに選べるのだと気づいた。どちらも嫌なら、もう一度この場に座り込めばいい。好きにすればいいのだ。自分の好きに。
何をどう選択しても、この肩にあるストールは、変わらず私を包んでいてくれる。
そう、思った。
◆
『みなづき珈琲』店内の奥は広い。
キッチン、リビング、バスルーム、寝室。完璧に、もうひとつの家である。建物の造りや世界の常識に囚われない、ここは人ならざる者の空間。
水無月朱夏、水無月弓弦。若い夫妻の住居。
「あのひとはどうしたかな」と赤い瞳をふせる弓弦。
「どうでしょうねえ」と、弓弦のベージュの髪を愛でながら、朱夏は興味なさげだ。弓弦を抱きしめ、甘え、真っ赤に燃えるような髪を揺らす。朱夏は、弓弦に対してのみ、はちみつホットミルクより甘い。
水無月夫妻が営む『みなづき珈琲』は年中有休、不定期。神出鬼没の不思議な喫茶店。
「もう、朱夏。今日はお店、開けているのに」
「大丈夫ですよ、あのちみっこい龍もどきに任せておけば」
「チマはケーキとか作れないんだから」
「そうなんですよ。なのにあれ、たまに『私が作りました』的な顔するんです。むかつきます」
「まあ……大先輩なんだから、そういらいらしないで。ね、龍神さま?」
「……貴女に免じて大目に見てやります」
のんびり繰り広げられる会話の終わりに、からんころん。みなづき珈琲に客人がやってきた音。
「ほら朱夏……っこら!」
「まだ大丈夫です。弓弦」
行かなきゃ、と立ち上がろうとする弓弦。
その弓弦を引きとめ、抱きすくめてしまう朱夏。
リビングのソファは鬱陶しげに軋んだ。
水無月夫妻は、溺愛夫婦である。つねにふたりきりの世界がある。
一方のみなづき珈琲店内――。
「お客さん、どおもどおも〜。ささ、今日も冷えますねえ!」
チマの声は弾んだ。いつかの窓辺の席へ、客人を案内する。
そこに座った女性は、チマを見上げて言った。
「今日は私のおごり」
憑き物が取れたかのような、晴れた笑顔。彼女は、綺麗に洗われ、畳まれたストールを、そっと膝の上に置いた。
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