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溺愛しゅかゆづ夫婦 9

【とある夜 ①】


 ぷつり。テレビの音が消えた。
 リモコンをソファに放った朱夏が、僕を見つめて、ふわりと笑う。そっと抱き寄せられるまま、やさしい口づけを受けいれた。いちど、下唇をやわく食まれ、背中に甘い痺れがはしる。ああ、夜。明日は休日だ。

「弓弦、行きましょう」
「っ……ん」

 朱夏の両腕に抱き上げられ、僕は彼の首にしがみつく。向かう先も、これからのことも、……ああもう顔が熱い。わからないわけ、ないのだから。



【とある夜 ②】


 心が落ち着かず、なぜだか不安で、へんに眠れない夜だ。
 こんなときの特効薬を、弓弦は知っている。――愛する朱夏が作ってくれる、優しいホットミルク。
 はちみつをまぜた、甘く、猫舌の弓弦にもほどよい温もりの飲みもの。

「……ねえ、朱夏」

 いつも、朱夏から『作りましょうか』と言ってくれる。だからこそ弓弦は勇気を出し、今夜は自分から。
 甘えていい相手がいる。それを許してくれるひとなのだ、と、

「はい。どうしましたか、弓弦」

 優しい声、微笑み、ゆるりとつながる手。
 幸せが、弓弦の心を満たす。痛いくらいに沁み渡りながら。



【とある夜 ③】


 ぐるり。
 あ、いやな感覚だ。そう思った矢先。

「い……っ」

 頭痛。太長い釘を打ちつけられるような。
 何度も、何度も。
 こめかみをおさえる弓弦の脳裏に、濁流。
 ざあざあ煩い言葉たち。

 ――それでどうなるんだ。
 その声だけは、妙に鮮明だ。頭痛の中に、誰かが立っている。
 それは耳を塞ぐ弓弦へと振り向き、言葉を続ける。
 ――どうなるんだ。龍の寵愛を得ても。おまえは、二度と、その檻から出られない。
 それは、じりじり迫ってくる。弓弦が聴きたくない言葉を伴って。
 ――死んでも生き返る? 不老不死? そんなもの、ただの呪いじゃないか。
 じっと耐える弓弦の目の前に立った、のっぺらぼう。冗談のように顔のパーツが抜け落ちているそれが、けらりと嗤ってみせた。
 ――どうせ、飽きたら棄てられる。

「……!」

 酷い痛み。頭も、胸の内も、刃物で抉られるよう。
 ちがう、と叫ぶことができずにいる。喉からこぼれ落ちるのは、無意味で無様な呻き声ばかり。
 目の前のそれがけらけらと嗤う。ぼさぼさに荒れたベージュの髪を掻きむしりながら。
 顔のないそれは、弓弦自身だった。すべりおちたような顔のパーツの他は、弓弦と同じ姿かたちをしていた。
 ――そうだろう? どうせ、

「弓弦」

 ふ、と。後ろへ抱き寄せられる感覚があった。
 耳もとから流し込まれた緩やかな声が、とても優しく、弓弦の鼓膜から脳裏までを包み込んだ。
 途端に痛みが引いていく。世界が静かになる。
 弓弦は振り向こうとしたが、暖かい両腕にぎゅっと抱きしめられ、うまくできなかった。
 かわりにその腕に触れる。耳を塞ぐ必要のなくなった手で。すがりつくように。
 けれど、弓弦の指先は震えていた。
 ――どうせ飽きたら棄てられる。どうせ。そうして、どうする? 不老不死のこの体では、死んで逃げおおせることも出来ないのに。
 そんな言葉が、呪いとなって、思考にこびり付いている。
 ……けれど。

「こんなに魘されて。怖かったでしょう。でも、もう大丈夫ですよ。弓弦、起きましょう」
「……おきる?」
「はい」

 そっと唄うような声へ、弓弦の反応は、まるで子どもだ。迷子で、つかれて、途方にくれた子。
 優しい腕が、そんな弓弦を導く。震えた手に、たくましい手のひらを重ねて。

「いち、にい、さんで起きてしまいましょう。少し、大きな音がするかもしれません。ですが、それは貴女を害するものではありませんからね」
「……? うん」
「良い子。では、数えますよ。いち、に……」

 さん。
 ――ごお……っ!
 激しい音と共に、真っ赤な柱が上がる。
 弓弦は目を瞠り、息を呑んだ。それは、炎だ。炎が猛々しく咆哮している。
 天も地も引き裂いてしまえそうな巨大な炎が、目の前の、弓弦の姿かたちだったものを焼いている。
 どうやら、叫び声をあげる間もなかったようだ――。

「……悪霊ごときが。俺の愛するひとの姿で、俺の愛するひとを傷つけた、その罪は重い」

 弓弦の意識は遠のいていく。
 脱力する身体を、しっかりと受け止め、抱き上げてくれる両腕。
 それは暖かく、とても優しいのに、ぽつりと呟かれる声はゾッとするほど冷たかった。
 弓弦へ向けられてではない言葉は、丁寧でも、敬語ですらもない。

「未来永劫、焼かれて苦しめ」

 炎を司る龍神の、断罪。宣告――。


「……はっ、」
「弓弦」
「はあっ、はあ……っ! しゅか、っ、朱夏……っ」

 飛び起きた弓弦が、ひどく苦しそうにしている。
 朱夏はすかさず弓弦を抱きしめ、その背中をさすってやった。ふらりと何かを探すような手があり、それをぎゅっと握ってやる。

「朱夏、おいていかないで」
「どこにもおいていきません」
「僕を、っ、すて、すてないで……」
「捨てません。大丈夫ですよ、弓弦」

 ひどく混乱し、動揺している。弓弦はきっと、せっかく美しいベージュの髪をくしゃくしゃにして、それを引きちぎってしまう。
 だから、朱夏は、弓弦を抱きしめつつ、さりげなく腕の動きを制限する。安心させてやりたくて、かつ、安全であるようにと、片手を恋人つなぎにする。

「大丈夫。貴女は怖い夢を見ただけです。ほら、俺はここにいるでしょう? だから、大丈夫です」

 朱夏は、弓弦がどんな悪夢に苦しめられたのかを知っている。
 当然だ。弓弦の夢に現れた朱夏は、『夢』ではない。正真正銘、本物の朱夏なのだから。
 弓弦を救い、悪を討ち焼いた。龍神の力をもってして。朱夏は、こんなとき、自身が龍であり神であって良かったと思う。
 龍として神としての永い孤独は空虚で退屈だった。
 けれど、愛するひとを得た今、その力は愛するひとを護ることに存分に発揮できる。
 この夜のように。

「朱夏、貴方は、ここに」
「はい」
「……ここに、僕の傍に、ちゃんといる……ここに」
「はい。弓弦。ここにいます。俺は貴女を護る、貴女だけの龍です」

 雨の降る夜。暗い寝室。
 弓弦は、少しずつ落ち着いていく。ぽつりぽつりと呟かれる言葉たちを、朱夏は丁寧になぞって、そのたび付け足した。

「大丈夫。俺が護ります。貴女を独りにさせません」

 もともと離すつもりなど微塵にもない。
 弓弦を不老不死にしたのは朱夏だ。その責任は、きちんととる。いや、責任をとるなどと、なんだか堅苦しく義務的な表現は、適切ではないなと思った。
 朱夏は弓弦を愛している。そして、愛していくのだ。この想いは揺らぎない。たとえ天と地がひっくり返っても、朱夏の弓弦への愛は覆らない。
 絶対に。

「……朱夏。僕……」
「はい。当てて差し上げます、弓弦。ホットミルクが飲みたい、でしょう?」
「……うん」

 こくり。頷き、深く長く息を吐く。
 まだぼんやりしているが、弓弦はもう大丈夫だ。彼女は強い。朱夏としては、いつも、逆に心配になってしまうけれど。
 弓弦にひとつキスをした朱夏は、彼女と手をつないだまま、ベッドからおりる。当然のようについてきてくれる弓弦を、ゆっくり、大切にエスコートする。
 涙の張った赤い瞳が、そろりと朱夏を見上げた。
 宝玉のようなそれに射抜かれる朱夏は、微笑みながら、いっそ声を張り上げたくすらなる情動を、なんとか心に留めた。

 離せるわけないじゃないですか、と。
 朱夏は弓弦と出逢い、恋をし、弓弦から愛を知った。
 もう、そのまえの自分には戻れない。

(もちろん、戻りたいとも思いませんけど)

 朱夏は弓弦を両腕に抱き上げ、愛くるしい額にキスをし、寝室を出る。弓弦はホットミルクを所望だ。とびきり美味しい、はちみつ入りを作って差し上げなくては。

 ――ふたりがあとにした寝室の窓の外。
 酷く激しかった雨が、ぴたりと止んだ。


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