出逢いにまつわる短編集
そのひとは、朱夏と名乗った。
僕に一目惚れをしたのだと、金色の瞳を輝かせて言った。
あの日のことを思い出そうとすると、まだ心がざわざわする。
落ち着かない。だから、書き記しておく。
あの日、僕は、池に溺れて死んだはずだった。そのつもりで飛び込んだ。
でも、僕はこうして生きている。いつも通り、いつものアパートの一室で。時間は確かに進んでいる。夜になれば眠り、朝になったら目が覚める。
だから、長い走馬灯を見ているわけじゃないらしい。
今となっては、曖昧なところも多い。
あれは何処の山奥だっただろう。あの池は何処にあったのだろう。僕はどうして、そこに行ったのか。
思い出せない。ただ、溺れていた。それだけは鮮明だ。死ぬことは、想像より怖くなかった。
池の底から這い上がる真っ赤な龍を見た。
それこそ、何かの幻だろうと、普通なら考える。でも、幻じゃない。僕はその龍と目を見合わせた。仄昏い水中で、その金色だけが、きらきらと光り輝いていた。
僕と、その赤い龍は、しばらく見つめあったのだと思う。わからない、曖昧だ。確かなのは、僕が、彼を知ったということ。彼が、僕の人生を知ったのだということ。
『このくらい簡単です。俺は龍神ですからね。俺のことを貴方に知ってもらうのは、これから貴方を愛する俺の誠意です。俺だけ貴方の人生を知るのでは、不平等でしょう?』
朱夏という名の、龍の神様?
そのひとの言葉を、一字一句、すぐに思い出せる。僕は溺れていたはずで、ひとの声なんか聴こえるわけがないのに。
頭の中を整理したくて書いているはずなのに、書けば書くほど訳がわからなくなっていく。
訳がわからないことになっている。この一言に尽きるだろうか。
◆
「弓弦。まだ起きているんでしょう?」
ノックの音がする。反射的に肩が跳ね、息を詰まらせた。
どくどくと心臓が厭な音を鳴らす。
日記を閉じ、振り返る、部屋のドア。それを隔てた向こうには、彼が立っているのだろう。
池に溺れ、龍に出会い、何故かそれの生きてきた日々を知り――気づけば、自室のベッドだった。僕が茫然と横たわる傍に、彼はいた。朱夏と名乗る、男のひと。
赤い髪を揺らし、金色の瞳を細め、まるで昔からの馴染みのように僕の名前を呼んで。
「……開けていいですか?」
「あ……」
答えに困った。中途半端に声がこぼれる。それが返事に受け取られたのか、がちゃりとドアが開かれた。
そのひと、……朱夏というひとが、部屋に入ってくる。僕の姿を見て、すっと目を細める。ぎくりと身が固まってしまうような、その、金色の瞳――。
「飲みものを作ってみました。今晩は寒いでしょう」
「…………」
「どうぞ。ああ、俺がひとくち、飲んでやってからの方がいいです?」
僕は、どう反応していいのかわからない。
僕の傍、テーブルの上に、ことんと置かれるマグカップ。ふわりと湯気が立ちのぼるそれは、ホットミルクのようだ。
一度、ちいさく首を傾げたそのひとが、マグカップの取っ手に指を絡める。どうやら本当にひとくち飲んでみせるつもりらしい。僕はやっとの思いで首を横に振り、彼の手をそっと遠ざけた。
そんな、毒味をしてもらうような真似までは、してもらわなくていい。会って数時間のひとならともかく、このひととはもう、知り合って一ヶ月近くなる。
そのあいだ、彼は、ずっとこの家にいるのだ。僕と一緒に。最初は混乱しっぱなしだったけれど、いよいよその感覚も麻痺しつつある。
だから、たぶん、大丈夫だと思えた。毒味が必要だと思わせるほど警戒するのも、どうかなと思ったのだ。
「いただくよ、ありがとう」
そう言って、マグカップを両手に持ってみたら。
「はい、どういたしまして」
そのひとは――朱夏は、ぱあっと笑った。妙なほどに嬉しそうに。無邪気な子どもみたいに。
『俺は貴方に一目惚れしたんですよ。弓弦。ですので、俺は貴方を愛します』
僕に向かって当然のように宣言した、あの日。そのときも、今と同じような笑顔だった。
わけがわからないのに、少しの悪意も嘘も、隠された意図のようなものも、なんの片鱗もないから……だから、なんだか絆されてしまう。
僕は一旦、考えることをやめた。考えすぎて、頭が痛くなりそうだったから。
おそるおそる、マグカップに口をつける。あまり他人と関わった経験がなく、あったとしてもろくでもない……そんな僕の手は、ちいさく震えていた。情けないことに。
朱夏の作ってくれたホットミルクは、美味しかった。
ふわりと甘い香りがした。
聞いたら、はちみつを入れたのだそうだ。『はちみつミルクと言うんでしょう? ふふん、俺、調べたんですよ』なんて、彼は誇らしげにした。はちみつは、買ってきたらしい。
そこまでして僕にこれを作ってくれたのだと思うと、ひどく申し訳ない。そして、すこし、心がくすぐったかった。嬉しいと思ったのかもしれない。
……後で見てみたら、朱夏が買ってきていたのは、はちみつじゃなくてメープルシロップだったけど。
僕の指摘に、朱夏は、『えっ!?』なんて。きれいな瞳を大きく見開いて、とても驚いた。急いで買い直しに行く、なんて言うから、僕はちょっと笑ってしまった。
そうしたら、朱夏は僕をまじまじと見たあとに、
「やっと笑ってくれました。貴方、笑う顔も可愛らしいですね」
……そんなことを言って。
まるで自分のことのように、心底嬉しそうに笑うのだった。
◆
朱夏と出逢ってから、もうそんなに経つらしい。
僕は、自分の日記を読み返している。数冊前のものだ。なんとなく読み返したくなった。そんな気分だった。
「……ふふ」
「弓弦?」
「ん、いや……貴方と出逢ったばかりの僕が、ちょっと面白くて」
日記の中の、困惑した僕。このときは、思ってもみなかっただろうな。
数年経った今現在、僕は未だに朱夏に溺愛されている。そして僕も、彼のことが、……まあ。僕は、ソファに座る朱夏の膝の上に座り、彼の腕の中にいる。彼の胸に背中をあずけて、この居場所がなにより心地よくて。
朱夏とこんな関係になるなんて、思ってもみなかった――確かに、そうだ。今だって、たまに不思議になる。
どうして朱夏はこんなに僕を愛してくれるんだろう、とか。
「弓弦、はちみつミルク、いい具合ですよ」
「うん。ありがとう」
五月の夜はまだ肌寒い。
朱夏が作ってくれて、ほどよく冷ましてくれたはちみつ入りのホットミルク。差し出されたマグカップを受け取るために、そっと日記を閉じる。
ひとくち飲んで、ほっと息をつく。ふわりと甘くて、とても美味しい。きっと、朱夏が作ってくれたものだから、なおさらにそう感じるんだろう。
「朱夏」
「はい」
「……もうすこし、屈んで」
「あはは、はあい」
ちょこっとだけ、ミルクを飲む。
身を屈ませてくれた朱夏の唇に、たまには僕から。美味しいホットミルクのおすそ分け、なんて名目で。
嬉しそうに笑ってくれる朱夏を見て、僕も嬉しくなる。胸のあたりがふわふわして、とてもあたたかい。
……もうすぐ六月。
朱夏と僕が出逢った日も、ゆっくりと近づいている。
僕は、表紙の古びた日記帳を眺め、密かに目を細めた。昔の僕へ、伝えるなら――。
今日も僕は、朱夏という名前の龍神様に、しっかり溺愛されているよ。
僕に一目惚れをしたのだと、金色の瞳を輝かせて言った。
あの日のことを思い出そうとすると、まだ心がざわざわする。
落ち着かない。だから、書き記しておく。
あの日、僕は、池に溺れて死んだはずだった。そのつもりで飛び込んだ。
でも、僕はこうして生きている。いつも通り、いつものアパートの一室で。時間は確かに進んでいる。夜になれば眠り、朝になったら目が覚める。
だから、長い走馬灯を見ているわけじゃないらしい。
今となっては、曖昧なところも多い。
あれは何処の山奥だっただろう。あの池は何処にあったのだろう。僕はどうして、そこに行ったのか。
思い出せない。ただ、溺れていた。それだけは鮮明だ。死ぬことは、想像より怖くなかった。
池の底から這い上がる真っ赤な龍を見た。
それこそ、何かの幻だろうと、普通なら考える。でも、幻じゃない。僕はその龍と目を見合わせた。仄昏い水中で、その金色だけが、きらきらと光り輝いていた。
僕と、その赤い龍は、しばらく見つめあったのだと思う。わからない、曖昧だ。確かなのは、僕が、彼を知ったということ。彼が、僕の人生を知ったのだということ。
『このくらい簡単です。俺は龍神ですからね。俺のことを貴方に知ってもらうのは、これから貴方を愛する俺の誠意です。俺だけ貴方の人生を知るのでは、不平等でしょう?』
朱夏という名の、龍の神様?
そのひとの言葉を、一字一句、すぐに思い出せる。僕は溺れていたはずで、ひとの声なんか聴こえるわけがないのに。
頭の中を整理したくて書いているはずなのに、書けば書くほど訳がわからなくなっていく。
訳がわからないことになっている。この一言に尽きるだろうか。
◆
「弓弦。まだ起きているんでしょう?」
ノックの音がする。反射的に肩が跳ね、息を詰まらせた。
どくどくと心臓が厭な音を鳴らす。
日記を閉じ、振り返る、部屋のドア。それを隔てた向こうには、彼が立っているのだろう。
池に溺れ、龍に出会い、何故かそれの生きてきた日々を知り――気づけば、自室のベッドだった。僕が茫然と横たわる傍に、彼はいた。朱夏と名乗る、男のひと。
赤い髪を揺らし、金色の瞳を細め、まるで昔からの馴染みのように僕の名前を呼んで。
「……開けていいですか?」
「あ……」
答えに困った。中途半端に声がこぼれる。それが返事に受け取られたのか、がちゃりとドアが開かれた。
そのひと、……朱夏というひとが、部屋に入ってくる。僕の姿を見て、すっと目を細める。ぎくりと身が固まってしまうような、その、金色の瞳――。
「飲みものを作ってみました。今晩は寒いでしょう」
「…………」
「どうぞ。ああ、俺がひとくち、飲んでやってからの方がいいです?」
僕は、どう反応していいのかわからない。
僕の傍、テーブルの上に、ことんと置かれるマグカップ。ふわりと湯気が立ちのぼるそれは、ホットミルクのようだ。
一度、ちいさく首を傾げたそのひとが、マグカップの取っ手に指を絡める。どうやら本当にひとくち飲んでみせるつもりらしい。僕はやっとの思いで首を横に振り、彼の手をそっと遠ざけた。
そんな、毒味をしてもらうような真似までは、してもらわなくていい。会って数時間のひとならともかく、このひととはもう、知り合って一ヶ月近くなる。
そのあいだ、彼は、ずっとこの家にいるのだ。僕と一緒に。最初は混乱しっぱなしだったけれど、いよいよその感覚も麻痺しつつある。
だから、たぶん、大丈夫だと思えた。毒味が必要だと思わせるほど警戒するのも、どうかなと思ったのだ。
「いただくよ、ありがとう」
そう言って、マグカップを両手に持ってみたら。
「はい、どういたしまして」
そのひとは――朱夏は、ぱあっと笑った。妙なほどに嬉しそうに。無邪気な子どもみたいに。
『俺は貴方に一目惚れしたんですよ。弓弦。ですので、俺は貴方を愛します』
僕に向かって当然のように宣言した、あの日。そのときも、今と同じような笑顔だった。
わけがわからないのに、少しの悪意も嘘も、隠された意図のようなものも、なんの片鱗もないから……だから、なんだか絆されてしまう。
僕は一旦、考えることをやめた。考えすぎて、頭が痛くなりそうだったから。
おそるおそる、マグカップに口をつける。あまり他人と関わった経験がなく、あったとしてもろくでもない……そんな僕の手は、ちいさく震えていた。情けないことに。
朱夏の作ってくれたホットミルクは、美味しかった。
ふわりと甘い香りがした。
聞いたら、はちみつを入れたのだそうだ。『はちみつミルクと言うんでしょう? ふふん、俺、調べたんですよ』なんて、彼は誇らしげにした。はちみつは、買ってきたらしい。
そこまでして僕にこれを作ってくれたのだと思うと、ひどく申し訳ない。そして、すこし、心がくすぐったかった。嬉しいと思ったのかもしれない。
……後で見てみたら、朱夏が買ってきていたのは、はちみつじゃなくてメープルシロップだったけど。
僕の指摘に、朱夏は、『えっ!?』なんて。きれいな瞳を大きく見開いて、とても驚いた。急いで買い直しに行く、なんて言うから、僕はちょっと笑ってしまった。
そうしたら、朱夏は僕をまじまじと見たあとに、
「やっと笑ってくれました。貴方、笑う顔も可愛らしいですね」
……そんなことを言って。
まるで自分のことのように、心底嬉しそうに笑うのだった。
◆
朱夏と出逢ってから、もうそんなに経つらしい。
僕は、自分の日記を読み返している。数冊前のものだ。なんとなく読み返したくなった。そんな気分だった。
「……ふふ」
「弓弦?」
「ん、いや……貴方と出逢ったばかりの僕が、ちょっと面白くて」
日記の中の、困惑した僕。このときは、思ってもみなかっただろうな。
数年経った今現在、僕は未だに朱夏に溺愛されている。そして僕も、彼のことが、……まあ。僕は、ソファに座る朱夏の膝の上に座り、彼の腕の中にいる。彼の胸に背中をあずけて、この居場所がなにより心地よくて。
朱夏とこんな関係になるなんて、思ってもみなかった――確かに、そうだ。今だって、たまに不思議になる。
どうして朱夏はこんなに僕を愛してくれるんだろう、とか。
「弓弦、はちみつミルク、いい具合ですよ」
「うん。ありがとう」
五月の夜はまだ肌寒い。
朱夏が作ってくれて、ほどよく冷ましてくれたはちみつ入りのホットミルク。差し出されたマグカップを受け取るために、そっと日記を閉じる。
ひとくち飲んで、ほっと息をつく。ふわりと甘くて、とても美味しい。きっと、朱夏が作ってくれたものだから、なおさらにそう感じるんだろう。
「朱夏」
「はい」
「……もうすこし、屈んで」
「あはは、はあい」
ちょこっとだけ、ミルクを飲む。
身を屈ませてくれた朱夏の唇に、たまには僕から。美味しいホットミルクのおすそ分け、なんて名目で。
嬉しそうに笑ってくれる朱夏を見て、僕も嬉しくなる。胸のあたりがふわふわして、とてもあたたかい。
……もうすぐ六月。
朱夏と僕が出逢った日も、ゆっくりと近づいている。
僕は、表紙の古びた日記帳を眺め、密かに目を細めた。昔の僕へ、伝えるなら――。
今日も僕は、朱夏という名前の龍神様に、しっかり溺愛されているよ。
2/2ページ