出逢いにまつわる短編集
朱夏という名前の彼は、じつは龍神様なのです。
彼は長い長い年月、山の奥の森の中、静かに佇む池のところに暮らしていました。
滅多にひとが来ない、人間嫌いの朱夏にはもってこいの場所でした。それなのに、あの日。そんなところに、弓弦はやって来たのです。
その日のことを、朱夏は、とても鮮明に思い出せます。本来、彼に思い出は必要ありません。神様なのですから。
でも、憶えています。そして、ずっと憶えていたいと思っているのです。いついかなる時も、まるで昨日のことのように。
ざぶんと派手な音がしました。いつもは静かな龍神池が、ゆらゆら、ゆらゆらと靡きます。
池の水底で微睡んでいた朱夏は、その時、だいぶ不機嫌でした。木洩れ日がほどよく暖めた住処。眠りのふち。それらを乱すものは、いったいなんだろう。どうやら、人間のようです。
ああなんて面倒くさい。
さてはて、神の住まう池に落ちてきた不届き者をどうしてくれようと、朱夏は気だるくそれを見上げました。
――そして。そのひと目で、恋に落ちたのです。
水中にてゆっくりと沈みゆくそれは、ひとのかたちでありながら、真っ白な一輪の花のようでした。
水泡をまとってゆらめく亜麻色の髪は、さながら陽だまりの束でした。
朱夏は相当長い年月を生きているのに、そのなかで、こんなにも美しいものは初めてに思えました。
そのうえで、それは――。のちに『弓弦』という名前なのだと知るその存在は、ゆっくりと瞼を開いたのです。
水の中で、ひたすら深く沈みながら。緩やかでありつつ、まっさかさまに落ちながら、彼はなにも恐れていないようでした。とても美しい顔立ちも、ぴくりとも歪みません。
息もできないはずなのに。このままでは、当然、死んでしまいます。けれども彼は、凛としていました。どんな花も、いつかは枯れるさだめだと、彼は知っているのです。
彼の、強くまっすぐな赤い瞳が、完全に朱夏の心を射止めました。朱夏はもう、あっという間に、彼の虜となりました。
それが彼らの出逢いです。
朱夏は、沈みゆくばかりの弓弦を、抱きかかえようと。立派な鱗を持つ龍のからだを、ひとのかたちに模して、ゆえに両腕で――。
「――朱夏?」
両腕に、ぎゅっと抱きしめます。
そう、まさに今も。朱夏は、「どうしたの」と言いたげな弓弦を抱きすくめて、折れそうに薄い背中をなんとなくさすってやります。
「弓弦。今日も可愛いですね。大好きですよ」
「い……いきなり、なに?」
「いいえ。貴方のことを考えていましたから」
「よくわからない。それは答えなのか」
「あはは、まあまあ。それよりも、です。弓弦」
鮮明な思い出を、頭の中に大切にしまいこみました。
そうして朱夏は、不思議で不思議でたまらない様子の弓弦と、まっすぐ向かい合います。ややこしいお話はあとにして、彼の唇をじいっと見つめて。
それだけで、弓弦は、朱夏がなにを求めてるのか、わかってくれるのです。やれやれ、みたいに息をついた弓弦が、肩のちからを抜きました。朱夏の望みへの、お返事です。
ああ、愛しいな。貴方は俺だけのものです、と。花を咲かせるように微笑んだ朱夏から、愛しの弓弦へ。
愛情でたっぷりの口づけを、くりかえし。満たされて、足りなくなって、また唇を重ねるのです。
いまは、朱夏にとって、住み慣れた池のところではないけれど。
人間を真似した生活は、面倒なことも多いけれど。
朱夏は、思うのです。今日も、弓弦が、こんなにも愛おしい。彼への愛情は、朱夏の心だけでは収まってくれません。ですから、弓弦へと注ぐ必要がありました。心からあふれて、こぼれてしまう前に。
刻々と深まる夜の一部始終。
ふたりがふたりきりで住まう、甘くとろける愛の巣にて。
彼は長い長い年月、山の奥の森の中、静かに佇む池のところに暮らしていました。
滅多にひとが来ない、人間嫌いの朱夏にはもってこいの場所でした。それなのに、あの日。そんなところに、弓弦はやって来たのです。
その日のことを、朱夏は、とても鮮明に思い出せます。本来、彼に思い出は必要ありません。神様なのですから。
でも、憶えています。そして、ずっと憶えていたいと思っているのです。いついかなる時も、まるで昨日のことのように。
ざぶんと派手な音がしました。いつもは静かな龍神池が、ゆらゆら、ゆらゆらと靡きます。
池の水底で微睡んでいた朱夏は、その時、だいぶ不機嫌でした。木洩れ日がほどよく暖めた住処。眠りのふち。それらを乱すものは、いったいなんだろう。どうやら、人間のようです。
ああなんて面倒くさい。
さてはて、神の住まう池に落ちてきた不届き者をどうしてくれようと、朱夏は気だるくそれを見上げました。
――そして。そのひと目で、恋に落ちたのです。
水中にてゆっくりと沈みゆくそれは、ひとのかたちでありながら、真っ白な一輪の花のようでした。
水泡をまとってゆらめく亜麻色の髪は、さながら陽だまりの束でした。
朱夏は相当長い年月を生きているのに、そのなかで、こんなにも美しいものは初めてに思えました。
そのうえで、それは――。のちに『弓弦』という名前なのだと知るその存在は、ゆっくりと瞼を開いたのです。
水の中で、ひたすら深く沈みながら。緩やかでありつつ、まっさかさまに落ちながら、彼はなにも恐れていないようでした。とても美しい顔立ちも、ぴくりとも歪みません。
息もできないはずなのに。このままでは、当然、死んでしまいます。けれども彼は、凛としていました。どんな花も、いつかは枯れるさだめだと、彼は知っているのです。
彼の、強くまっすぐな赤い瞳が、完全に朱夏の心を射止めました。朱夏はもう、あっという間に、彼の虜となりました。
それが彼らの出逢いです。
朱夏は、沈みゆくばかりの弓弦を、抱きかかえようと。立派な鱗を持つ龍のからだを、ひとのかたちに模して、ゆえに両腕で――。
「――朱夏?」
両腕に、ぎゅっと抱きしめます。
そう、まさに今も。朱夏は、「どうしたの」と言いたげな弓弦を抱きすくめて、折れそうに薄い背中をなんとなくさすってやります。
「弓弦。今日も可愛いですね。大好きですよ」
「い……いきなり、なに?」
「いいえ。貴方のことを考えていましたから」
「よくわからない。それは答えなのか」
「あはは、まあまあ。それよりも、です。弓弦」
鮮明な思い出を、頭の中に大切にしまいこみました。
そうして朱夏は、不思議で不思議でたまらない様子の弓弦と、まっすぐ向かい合います。ややこしいお話はあとにして、彼の唇をじいっと見つめて。
それだけで、弓弦は、朱夏がなにを求めてるのか、わかってくれるのです。やれやれ、みたいに息をついた弓弦が、肩のちからを抜きました。朱夏の望みへの、お返事です。
ああ、愛しいな。貴方は俺だけのものです、と。花を咲かせるように微笑んだ朱夏から、愛しの弓弦へ。
愛情でたっぷりの口づけを、くりかえし。満たされて、足りなくなって、また唇を重ねるのです。
いまは、朱夏にとって、住み慣れた池のところではないけれど。
人間を真似した生活は、面倒なことも多いけれど。
朱夏は、思うのです。今日も、弓弦が、こんなにも愛おしい。彼への愛情は、朱夏の心だけでは収まってくれません。ですから、弓弦へと注ぐ必要がありました。心からあふれて、こぼれてしまう前に。
刻々と深まる夜の一部始終。
ふたりがふたりきりで住まう、甘くとろける愛の巣にて。
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