銀魂BL小説
烈しい日光に熱されたぬるい空気が風のかたまりになって頬にぶつかる。白いカッターシャツの袖がばたばたとはためく。二人乗りした自転車は、ときどき悲鳴を上げるみたいに軋む。
土方は目の前の、体を左右に揺らしながら立ち漕ぎをしている坂田を見上げた。眩しい青空のまんなかでふわふわと揺れる銀髪が雲みたいだと思った。
「すっいへーりーべーぼっくのふねー」
坂田はなぜかミッキーマウス・マーチのリズムで元素記号の覚え方の歌を歌っている。微妙に調子っぱずれな歌に思わず吹き出すと、「なに笑ってんだコノヤロー」と彼が振り返った。けれどその顔はどこか上機嫌に笑っていて、土方も「前見て漕げよ」と注意しつつまた笑う。
「つーかなんでその歌?」
「だって海に行くんだぜ? 海っぽい歌がいいだろー」
問いかけると、大声で坂田が叫んだ。バイクでもあるまいし、そんなに大きな声で言わなくても聞こえるのに。それに、ぜんぜん海っぽい歌でもないし、なんだか納得できるようなできないような変な理屈だ。「バーカ」と土方は白い背中に軽く頭突きした。
歩道の横のガードレール越しに広がる青々とした田んぼを次々に通り過ぎてゆく。ぬるい風なのに、緑の波を渡ってきたそれはどうしてか爽やかな気がした。どんどん横を追い抜いていく車たちも、ギラギラと焼け付くような陽の光も、なにもかもが遠ざかっていく。
海に行こうと言い出したのは銀時で、それは夏休みの課外授業が終わった十二時すぎのことだった。
使い込んだスポーツバッグに教科書やノートをしまいながら、土方は深い溜め息を吐き出した。今日はこれから塾があるわけでも、友達と勉強する約束をしているわけでもなく、ただまっすぐ家に帰らなければいけない。それがひどく憂鬱だった。帰れば、また「話し合い」が待っている。胸の中に鉛を流し込まれたように気分がどろりと重い。
「どしたよ、インキな顔しちゃって」
ふと、机の前に坂田が立っていた。
いつも飄々としていて、決して真面目なタイプではなくクラスのムードメーカーのような立ち位置にいる彼とは、よく一緒につるんでいるわけでもなく仲の良い友達というわけでもない。ただ、三年間クラスが一緒だったこととなにかと接点が多いことで、たまに二人で話をしたりするような関係だ。いわゆる腐れ縁というやつなのかもしれない。
「帰らねーの? 腹減るぞ」
「いや……」
なんと答えたらいいか分からず、土方はぎこちなく目を逸らす。いつのまにか教室に残っているのは二人だけになっていた。廊下から響くざわめきがどこか遠く聞こえる。
「にしても今日もあっちィなオイ。毎日毎日鉄板の上で焼かれてる気分だぜ、嫌になっちゃうな」
「……そうだな」
ぶつぶつとぼやく声に軽く相槌を打つ。ボケているのは分かっているが、相手をしてやるほどの気力は生憎持ち合わせていなかった。
「んだよノリわりーな」と顔をしかめた坂田は、けれどなぜかそこから立ち去ろうとはしない。
「おい、何か用でもあんのか?」
「用っつーかさ、こんなあっちィ日は絶好の海日和だと思わね?」
「はあ?」
唐突な言葉に、何を言い出すのかと土方は怪訝な顔で坂田を見つめた。しかし坂田はそんなことお構いなしで、ぐいぐいと話を進めていく。
「やっぱり日本人たるもの季節ごとの風情を楽しむ情緒を忘れちゃいけねーよな、うん。こんな猛暑日だからこそ、きらきら輝く青い海を見に行くべきだと思うだろ?」
べつに海なんてどうでもいい。それが本心だったけれど、でもまっすぐ家に帰る気にならないのも本当だ。少し逡巡したすえに、土方はこくりと頷いた。
「まあ、付き合ってやってもいい、けど」
そう告げると、坂田は満足そうに笑った。
たしかに一緒に行くとは言ったが、まさか自転車二人乗りでだとは思っていなかった。だから校門を出て駅へと向かおうとする土方を坂田が呼び止めて駐輪場に連れて行ったとき、土方は驚いたし、呆れた。
「この炎天下にわざわざ自転車で行かなくてもいいだろ」
しかめっ面で諭す土方を、坂田は「分かってねーな」と一蹴した。
「この炎天下だからこそだろ。それに定期区間外だから金もったいねーし」
「お前は自転車通学だから関係ねェだろ」
「うるせぇなあ。俺がチャリ漕ぐから、それなら文句ねーだろ」
普段の怠惰な彼を知っているから、そんな彼がここまで食い下がるならまあいいか、と思ったのだが。
見慣れないのどかな町並みが視界を流れていくのに合わせて吹きつける風が、額に浮かんだ汗をさらって散らす。帆のように膨らんだ坂田の白シャツがときどき頬をくすぐる。土方は目を細めた。荷台は硬くて尻が痛いし男二人を乗せた自転車は決して速くはないけれど、それでも自転車にしてよかったと思った。
そのときなにかを感じ取ったようにふいに坂田が振り返り、ニッと笑った。暑さのせいかほのかに赤く染まった頬に、鼓動の音が大きくなった、気がした。
「この住宅街抜けてちょっと行ったら、もう海だぜ」
そう言った坂田の言葉のとおり、古い家の立ち並ぶ通りを過ぎて路地を抜ければ、すぐに青い海が眼前に開けた。金色の光が波に反射し、砂金をばら撒いたようにちらちらときらめく。土方は思わず感嘆をもらした。海なんてとくべつ珍しいものでもないのに、それでも心は子どもに還る。
海沿いの道路をしばらく進むと、砂浜に下りられる階段があった。そのわきに自転車を止め、近くにあった自販機でそれぞれコーラとスポーツドリンクを買ってから砂の浮いた階段を下りていく。
ずぶずぶと足を取られる砂浜に苦戦しながら、二人で海を目指す。
「靴ん中、砂まみれだ」
土方は靴を脱いで片足を上げ、ざらざらと砂をかき出す。と、その横を坂田が駆け抜けていった。よく見れば彼は裸足になっている。
「先に海に触ったほうが勝ちな!」
「勝ちってなんだよガキか!」
振り返らずに駆けていく背中に叫び返しながら、履こうとしていた靴を砂に放り、靴下を脱ぎ、白くはためく背中を彼と同じはだしで追いかける。日光に熱された砂は熱くて、だから必死で足を動かした。ああ、バカみたいだ。思って、笑いが込み上げた。
先に海に足を浸けていた坂田は、後からたどり着いた土方に向かってピースサインをつくりながら勝ち誇ったように笑う。
「お前の負けな、アイス奢れよ」
「うっせー甘党」
土方はニヤニヤ笑う顔に向かって波を蹴り上げる。飛び散る水は鮮やかな陽光をまとい、水色のビーズのように輝いた。ぬるい水なのに、そうと思わないくらい涼しい色をしていた。
それから水をかけ合ってふざけて、捲ったズボンの裾とシャツの袖がびしょ濡れになったころ、二人はようやく海から上がった。ちょうどよく近くにあったセブンティーンアイスの自販機でアイスを買い、階段の一番下の段に並んで腰掛けて食べる。日陰にいるとよけい海の眩しさが際立って、波の音が穏やかに響く。
「あー、明日もまた課外かぁ」
ソーダのシャーベットを舐めつつ、土方は思わず文句混じりの溜め息をこぼした。
「そりゃあボクたち受験生ですから」
そう言いながらもその声はのんきだ。土方は隣に座る坂田を見やった。いつもと変わらないぼんやりした顔で、土方が奢ってやったイチゴ味のアイスをかじっている。
「でも、受験生だからこそ早く帰りたくなかったんだろー?」
のんびりした声にハッとして坂田を振り返る。やっぱりコイツ、気づいてやがった。土方は胸の内で呟いた。だから坂田はわざわざ自転車で海に行こうなんて言い出したのだ。より時間がかかって、より気晴らしになるように。
「……おう。帰ったら、話し合いしなきゃいけねェから」
「なんの?」
「進路について、いろいろと」
「お前、まだ第一志望校決めてねェの?」
返ってくるのは淡々とした相槌で、だからこそするすると話してしまう。
「……やっぱり、就職のほうがいいかと思って」
「なんで。成績良いのにもったいねー」
「だって、学費とか、出してもらうことになるし」
土方には両親がいない。愛人だった母親が交通事故で亡くなってからは、腹違いの兄たち夫婦に育ててもらっている。そのあたりの事情をぜんぶ、坂田は知っている。それに坂田自身も養子という身の上なので、一般的ではない家庭の者同士、余計な気を遣ったり遣わせたりせずにいられるのは楽だった。
「遠慮してんの?」
問いかける声は水平線のようにフラットだ。土方はアイスを持ったまま膝を抱える。
「遠慮……に、なんのかな。でもやっぱり、なんか悪いなぁって思っちまう」
それまでは地元の国立大を第一志望にしていたから、突然の進路変更にもちろん兄たちは困惑し、そして怒っていた。余計なことを気にしなくていい。もう一度よく考え直せ。そう言う兄の目には、うすく水の膜が張っていた。ぎゅっと心臓を握られるような胸の痛みがリフレインする。
「ふぅん。そういうもんかね」
「お前は?」
「俺は進学。教育学部行って、教師になろうかなぁって」
坂田の養父である松陽さんはたしか昔教師をしていて、今は個人塾を開いているのだと聞いたことがある。
「だから、なんつーかさ。今は頼れるところは頼っといて、自分で選んだ道に進んで、いつかなりたいものになることがホントの親孝行なんじゃねーの」
「……そういうもんかな」
「そーだよ。親なんてなぁ、子どもに頼られたほうが嬉しいに決まってんだ」
コイツはいったい何歳なんだ。訳知り顔で頷く坂田に、土方はふふ、と吹き出した。砂浜にぶつかって綻ぶ白い波のように、心を満たしていた鉛が澄んだ水に変わってほどけていく。
「分かったら早くアイス食え。溶けてんぞ」
そう言う坂田のアイスはすでにコーンの先のかけらだけになっていた。あわてて自分のアイスを見れば、いつのまにか指にソーダ色が垂れてきている。舐めると少ししょっぱかった。
「つーかお前、ソーダとか食うんだな。もっとビターな感じのやつにするのかと思ってた」
最後のひとくちを口に放りこみながら坂田が呟く。
「あ? ああ、なんか懐かしくなって。昔、兄さんと買い物に行った帰りにときどき買ってもらってたから」
「へぇー?」
なんだか意味ありげな、含みのある相槌が帰ってきた。隣を見れば、坂田はなんだか嬉しそうにも見える顔でにやにやと笑っている。
「なんだよ」
「なーんでも」
なんでも、と言いながら、こちらを見つめる眼差しはいつものやる気のないそれとは違っていて、やわらかくて、くすぐったい。土方は思わず目を逸らした。じわじわと熱を持つ頬はきっと烈しい陽射しのせいだ。むずがゆく疼く胸はきっと乾いた潮風のせいだ。磯の匂いのする風に小さく前髪を揺らしながら、土方は最後のひとくちを食べ終える。
「海、来てよかったろ」
「……そうだな」
足元の砂を見つめたまま答える。
高く昇っていた太陽も、鮮烈な光はそのままとはいえ少しずつ傾きはじめていた。つるりとした白い貝殻にはほのかに淡いオレンジの光が反射している。
帰りたくない。胸の底でそっと思う。もちろん海に来る前に抱いていたのとはまったく違う感情だ。土方はシャツの胸のあたりを力なく掴んだ。
「だから、さ。いつかまた来ようぜ、二人で」
かすかに上擦った声が言う。まるで緊張しているみたいに硬い声だった。驚いて、坂田を見る。遠い水面を眺めるその横顔は、頬のあたりが赤く染まっている。
それも、夏の陽射しのせいなんだろうか。
そうじゃなければいい、と思ってしまったこの感情は、いったい何のせいにすればいいのだろうか。胸の中を潮騒のようなざわめきが満たしてゆく。
「……おう」
頷くと、坂田がほんの少し眉を下げてほどけるように笑った。なんとなく気恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しいような気持ちになる。
来年また二人で海に来たときには、この感情の正体も分かっているだろうか。そのとき、この青くきらめく海はいったいどんなふうに見えるのだろうか。
白い帆船のような雲が二つ、ゆらゆらと漂うように水平線の向こうを航る。風に吹かれて形を変えたそれはやがて一つとなり、遥か向こうへと流れていった。眩しく穏やかな光景に、土方は目を細めた。
今はまだ不確かで頼りない進路でも、いつか二人で来るこれからの海に繋がっているなら、その航路はきっと輝いている。