銀魂BL小説
なまぬるい風を頬に感じ、銀時は目を覚ました。電気もついていない、ぼんやりと薄暗い部屋には今は銀時しかいないようである。眠っている間に子供たちはどこか出かけてしまったらしい。静かな部屋の中には時計の音だけが響いていた。ソファーに横になるのではなく社長椅子に座ったまま眠っていたから、体の節々が痛む。ごきりと首を鳴らした後、椅子を回転させて窓へと体を向けた。開けっ放しの窓から湿った風が冷たく吹き込んでいる。外を見やると、灰色に濁った雲が空を覆ってた。夕立でも来そうな雰囲気。これはもうじき一雨くるだろう。そう思い窓に手をかけたとき、不意に煙草の匂いがした、……気がした。遠くにそびえるビルたちの間をすり抜け町を駆けてきた風が連れてきたのだろうか。懐かしい、久しく忘れていた香りだった。思わず止めていた、窓を閉めようとしていた手をのろのろと動かす。隙なく閉められた窓からは、もう風など吹き込んでいないというのに。それなのに、あの微かに感じた煙草の匂いが忘れられない。
いや、本当はもとから、忘れてなどいなかった。忘れたふりをしてはぐらかしていただけで、本当はずっと記憶の奥底にしまいこんでいた。アイツの煙草の匂い、アイツの匂い。アイツと過ごした日々のすべて。
いつのまにか、窓の外では雨が降り出していた。屋根を打つ雨粒の音が大袈裟なほどに響く。すべての音を奪うかのようなそれに委ねるように、銀時はそっと目を閉じた。記憶の波が押し寄せて、揺蕩いながら深く沈んでゆく。
アイツに終わりの言葉を告げてから、もう半年以上経つ。始まりのときは言葉など無かったのに。今にして思えば、なんて滑稽だったのだろう。
そういえば、始まりのときもこんな雨の日であった。偶然鉢合わせた居酒屋で、ぽつぽつと会話と杯を重ねていくうちに曖昧になった境界線。ひとりで帰るには淋しくて、無性にそばにいてほしくて。どちらからともなく、手を重ねていた。
そのとき溢れたものがただの劣情だけじゃないことは分かっていた。長いあいだ、大切にそして慎重に秘めてきた想いがあった。己の中にも、相手の中にも。それを分かっていながらも臆病さゆえに言葉にはできず、愚かさゆえに体だけを明け渡した。湿った空気が満ちる部屋の中、しとしとと降りつづく雨の音が静かに響いていたのを覚えている。
それから体だけの関係が始まった。欲しいのは体だけではないくせに、それを知っているくせに。はぐらかすようにして、そんな本心から目を背けつづけて。
そんなだったから、淋しさを埋めるはずの行為はむしろ、だんだんと淋しさを募らせるものになっていった。大切にしていたはずの想いに虚しさが滲み、澱のように黒く沈んでゆく。心に空いた穴の中を、冷たい風が吹き荒ぶような感覚がずっと付き纏っていた。
それでも拭いきれない欲は心からぽたぽたと滴り落ちて、それに溺れずにはいられなくて。そしてまた、淋しさと虚しさだけが募ってゆく。貪るように互いを求めるくせに、わざと怒らせて喧嘩を繰り返した。淀んだ重苦しい空気が二人のあいだに満ちるようになった頃から、交わされる言葉と視線が減っていった。
終わりの言葉を告げたとき。アイツは一度瞬きをした後、そっと目を伏せた。そうかと一言言ったきり、いつもと変わらぬ様子で煙草に火をつけていた。引き止めないのか、と考えて、引き止めてほしかった自分に気付く。吐き出された煙は心許なく漂った後、あとかたも無く消えていった。
アイツはいつも、部屋から出て行く前に一本だけ煙草を吸っていた。煙草を吸う横顔は好きだった、だが無機質な灰皿に取り残された、火種を残して燻る吸い殻は嫌いだった。細くたちのぼる、白い煙が脳裏に蘇る。
今なら何が大切だったか分かるのに。目蓋の裏に描くアイツの姿は、あの頃よりも鮮明だ。傍にいない、今だからこそ。
最後の日も、土砂降りの雨だった。遠くで鳴る雷がまるで終わりの合図のようだった。
銀時はゆっくりと目を開けて、窓の外を眺める。
暗澹たる空、打ちつける飛沫。
雨はまだ、止まない。