銀魂BL小説
暑い。暑すぎる。土方は机に広げた数Bの問題集を解きながら、左手で額ににじむ汗をぬぐった。一時間前の課外授業のときは綺麗だったノートが、汗のせいでよれて小さな皺をつくる。
夏休みの課外授業のあと、土方はいつも図書室や自習室で自習してから帰ることにしている。けれど今日にかぎってどちらの部屋も空席が見つからず、仕方なく適当な空き教室に入ったのだ。ほかに誰もいない教室はひどく静かで、計算式を書きつらねるシャーペンの音だけが仰々しいクーラーの稼働音にかすかに入りまじる。もっとも、立派なのは稼働音だけの古びたエアコンはなかなか室内を涼しくしてくれない。吹き出し口から降りてくる生ぬるい風に前髪をそよがせつつ、土方は天井のエアコンを力なく睨みつけた。もちろんそうしたからといって涼しくなるわけもなく、べとりと肌に張り付くような蒸し暑さは変わらない。
集中しなければと思うのに、ノートの上で動かすシャーペンは少しずつスピードが遅くなっていく。土方はシャーペンを解きかけの計算式のうえにころんと転がした。
教室に充満するうっとうしい暑さが、心までどろりと重く溶かしていくようだ。どうしてだろう。課外も今日で前半部が終わって、明日からはやっと二週間ほどの本当の休みだというのに。それなのに解放感はまったくなくて、しおれて枯れ果てていく花をひたすら眺め続けるような、黒くよどんだ泥のなかに沈みこんでいくような、言いようのない憂鬱が胸を重くするばかりだ。土方はノートの上に突っ伏した。シャーペンが腕に食いこむが、かまわずにそのまま目を閉じる。
ふと、閉じた瞼の裏にちらりと銀色が瞬いた、気がした。黒板の前で教科書を読むあのひとの銀髪に、窓から射す陽光がかすかに反射しているさまが脳裏に浮かぶ。土方はよりきつく瞼を閉じた。
図書室でも自習室でもなく、エアコンが効いていておそらく他の生徒がいないであろう場所を、本当は土方は知っていた。ぱたぱたと揺れる褪せた水色のカーテン、ファイルや書類が山のように積まれた机、縫い目が避けて綿が飛び出たソファ。なんだか時間がゆっくり流れているような、学校から切り離されたようなその国語準備室で聴く、気だるそうな声な低い声。一年生のときから何度も訪れていたその場所へ足を向けなくなって随分経つのに、すべて鮮明に思い出せてしまう。
ガタンッ、とわざと大きな音を立てて土方は勢いよく立ち上がった。窓でも開ければ少しは涼しくなるだろうか。そうすれば、この停滞しきった空気も少しはマシになるかもしれない。
窓を開け放つと、ボリュームを上げたみたいに蝉の声が大きくなった。ふわりとカーテンをはためかせながら吹きこんだぬるい風が絡みつくように頬を撫で、そして通りすぎていく。土方はそっと目を細めた。
眼下の校庭ではサッカー部が練習をしていて、その向こうに小さく連なる山々の後ろからは峰まではっきりと輪郭を持つ大きな入道雲がそびえている。夏休みに入る前、七月のはじまりの晴れた日にも、同じような空を国語準備室で眺めていた。隣にはあのひとがいて、やっぱり銀髪が瞬くように光の粒をまとっていた。
まだ一ヶ月も経っていないのに、思い浮かべた光景は山の稜線ごしに立ちのぼる入道雲のように遠く感じる。あの場所に行かなくなってから、なんだか時間が飛ぶように過ぎる気がする。土方は目を伏せ、窓の外の景色に背を向けた。
勉強する気はとっくに失せてしまっているけれど、とりあえずノートを広げたままの席に戻る。椅子に座ってシャーペンを拾い上げたとき、ふと廊下を歩く足音に気づいた。ぺったぺったとやる気の感じられないその音に、心臓が小鳥のように跳ねる。
「おー、自習中?」
ドアを開けてひょこりと顔を覗かせたのは、まさしく脳裏に思い描いていた銀八だった。パッと喜色が滲んでしまいそうな顔を土方はあわてて伏せた。シャーペンを動かし、問題を解いているふうを装う。どうしよう。なにに対してか分からず、そう思った。
「なにそれ、数学?」
「はい」
いつもと何ひとつ変わらないぼんやりした声が近づいてくる。ますます顔が上げられなくなる。シャーペンはただ意味のない式を書き連ねる。国語にしとけばよかった、と考えそうになって、あわてて打ち消した。
「それにしても、なんでわざわざこんな隅の空き教室なんかで自習してんの?」
「……ほかの部屋、どうせ今から移動しても席がないと思ったからです」
「そりゃそうだろーけど、この部屋のエアコン故障気味だぞ」
「えっ、そうなんですか」
驚き、思わず顔を上げる。銀八の眼鏡越しの目と、視線が交わった。
「やっとこっち見たな」
銀八がほんの小さく苦笑を浮かべた。心臓がきゅっと萎むようだった。
「あちィだろ、ここ。わざわざこんなとこで勉強しなくてもいいだろ」
準備室に来ればよかったのに、ともし言われたらどうしよう。最近あんまり準備室来ねェよな、と言われたら。土方は手の中の水色のシャーペンを握りしめる。それは花が綻ぶような喜びであり、冷たい泥に沈むような悲しみでもあった。
けれど銀八は土方の心配をよそに、それ以上なにも言わなかった。落胆と安堵が胸の中で複雑なマーブル模様を描く。でたらめな計算式を綴るシャーペンをとめて、土方はまた俯いた。顎の先から小さな汗のしずくがひとつ落ちる。
「ほら、汗。ノートもちょっと皺になってんだろコレ」
からかうように銀八がノートに落ちた透明な円を指差した。身をかがめた彼のよれた白衣からふと香った、煙草の匂いといちご牛乳の甘い匂い。そこにコーヒーの苦い匂いが混じっていないことに、そっと胸を撫で下ろしたくなる。コーヒーは国語準備室を訪れたひとに彼がふるまうものだ。あのコーヒーを飲むのは自分だけがいい。
まるで子どもの我儘のような思いだけれど、本当はそんなに単純なものでないことは気づいている。気づいてしまったけれど気づかないふりをし続けるために、だからもうあの場所には行かないことに決めたのだ。
「おい、どうしたよ。反応がにぶいけど、大丈夫か?」
銀八がそっと顔を覗きこんでくる。その彼らしい瞳の色を間近に見つめたとたん切なさがこみ上げて、心臓を掴まれたみたいに胸が詰まった。目の奥の熱いかたまりがじわりと溶けて溢れ出しそうになる。
だって、気づいたところでどうしようもないじゃないか。この思いが恋だと気づいたところで、彼は先生で自分は生徒で、大人と子どもで、その境界線は越えられないのに。眼鏡の向こうの瞳から目を逸らせないまま、土方はくしゃりと顔を歪ませる。
超えられない境界線があると分かっているのに、それなのに、瞳の色が混ざるほどこんなにも近くにいると胸の底に隠し続けてきたものがぜんぶぜんぶ溢れてしまいそうで。唇は今にも「好き」と告げてしまいそうで。茹だるような暑さも蝉の声も遠い世界で、近くに感じる煙草の匂いに泣きたくなる。
「……大丈夫、です」
土方は目を伏せ、顔を逸らした。
それでもやっぱり、思いを告げるなんてできるはずがなかった。なんの躊躇いもなく先生に好だと言えるくらい彼に近い大人でもなければ、同じくらい彼から遠い子どもでもなかった。この胸にわだかまる思いを告げれば、確実に銀八を困らせることになる。そう分かるくらいには大人で、子どもだった。
「ま、無理しすぎんなよ。体壊したら元も子もねーだろ」
俯けた頭の上に、ぽん、と大きな手が置かれる。あつくて、優しくて、そしてとても遠い手。
目の端に滲んだ思いを乱暴に拭って、土方は立ち上がった。宙ぶらりんになった銀八の手と困惑の浮かぶ顔を見ないようにして机の上のノートと問題集をカバンに仕舞う。
「すいません、ちょっと用事を思い出して」
ペンケースを放りこみつつ、我ながら下手くそな嘘だと思う。でもこれ以上、あの手に触れられるのは耐えられなかった。
「……失礼します」
俯いたまま早口で呟くように告げ、土方は教室を飛び出した。
射るように烈しい光の中の廊下を全速力で駆け抜ける。真っ黒な影が足元でうごめく。痛いほどに高鳴る鼓動がぐちゃぐちゃになった心をいっそうかき乱す。頬を伝ったしずくが顎先からこぼれ、一瞬きらめいて溶けていった。
遠ざかる足音を背中で聞きながら、銀八は置き去りにされた右手をぎゅっと握りしめた。
「……くそ、なにやってんだよ」
自嘲混じりの悪態がこぼれる。超えてはいけない境界線があることなど、分かりきっているのに。
固く結んだ右手には、ほのかな体温とかすかに汗ばんだ黒髪の感触が残っていた。
夏休みの課外授業のあと、土方はいつも図書室や自習室で自習してから帰ることにしている。けれど今日にかぎってどちらの部屋も空席が見つからず、仕方なく適当な空き教室に入ったのだ。ほかに誰もいない教室はひどく静かで、計算式を書きつらねるシャーペンの音だけが仰々しいクーラーの稼働音にかすかに入りまじる。もっとも、立派なのは稼働音だけの古びたエアコンはなかなか室内を涼しくしてくれない。吹き出し口から降りてくる生ぬるい風に前髪をそよがせつつ、土方は天井のエアコンを力なく睨みつけた。もちろんそうしたからといって涼しくなるわけもなく、べとりと肌に張り付くような蒸し暑さは変わらない。
集中しなければと思うのに、ノートの上で動かすシャーペンは少しずつスピードが遅くなっていく。土方はシャーペンを解きかけの計算式のうえにころんと転がした。
教室に充満するうっとうしい暑さが、心までどろりと重く溶かしていくようだ。どうしてだろう。課外も今日で前半部が終わって、明日からはやっと二週間ほどの本当の休みだというのに。それなのに解放感はまったくなくて、しおれて枯れ果てていく花をひたすら眺め続けるような、黒くよどんだ泥のなかに沈みこんでいくような、言いようのない憂鬱が胸を重くするばかりだ。土方はノートの上に突っ伏した。シャーペンが腕に食いこむが、かまわずにそのまま目を閉じる。
ふと、閉じた瞼の裏にちらりと銀色が瞬いた、気がした。黒板の前で教科書を読むあのひとの銀髪に、窓から射す陽光がかすかに反射しているさまが脳裏に浮かぶ。土方はよりきつく瞼を閉じた。
図書室でも自習室でもなく、エアコンが効いていておそらく他の生徒がいないであろう場所を、本当は土方は知っていた。ぱたぱたと揺れる褪せた水色のカーテン、ファイルや書類が山のように積まれた机、縫い目が避けて綿が飛び出たソファ。なんだか時間がゆっくり流れているような、学校から切り離されたようなその国語準備室で聴く、気だるそうな声な低い声。一年生のときから何度も訪れていたその場所へ足を向けなくなって随分経つのに、すべて鮮明に思い出せてしまう。
ガタンッ、とわざと大きな音を立てて土方は勢いよく立ち上がった。窓でも開ければ少しは涼しくなるだろうか。そうすれば、この停滞しきった空気も少しはマシになるかもしれない。
窓を開け放つと、ボリュームを上げたみたいに蝉の声が大きくなった。ふわりとカーテンをはためかせながら吹きこんだぬるい風が絡みつくように頬を撫で、そして通りすぎていく。土方はそっと目を細めた。
眼下の校庭ではサッカー部が練習をしていて、その向こうに小さく連なる山々の後ろからは峰まではっきりと輪郭を持つ大きな入道雲がそびえている。夏休みに入る前、七月のはじまりの晴れた日にも、同じような空を国語準備室で眺めていた。隣にはあのひとがいて、やっぱり銀髪が瞬くように光の粒をまとっていた。
まだ一ヶ月も経っていないのに、思い浮かべた光景は山の稜線ごしに立ちのぼる入道雲のように遠く感じる。あの場所に行かなくなってから、なんだか時間が飛ぶように過ぎる気がする。土方は目を伏せ、窓の外の景色に背を向けた。
勉強する気はとっくに失せてしまっているけれど、とりあえずノートを広げたままの席に戻る。椅子に座ってシャーペンを拾い上げたとき、ふと廊下を歩く足音に気づいた。ぺったぺったとやる気の感じられないその音に、心臓が小鳥のように跳ねる。
「おー、自習中?」
ドアを開けてひょこりと顔を覗かせたのは、まさしく脳裏に思い描いていた銀八だった。パッと喜色が滲んでしまいそうな顔を土方はあわてて伏せた。シャーペンを動かし、問題を解いているふうを装う。どうしよう。なにに対してか分からず、そう思った。
「なにそれ、数学?」
「はい」
いつもと何ひとつ変わらないぼんやりした声が近づいてくる。ますます顔が上げられなくなる。シャーペンはただ意味のない式を書き連ねる。国語にしとけばよかった、と考えそうになって、あわてて打ち消した。
「それにしても、なんでわざわざこんな隅の空き教室なんかで自習してんの?」
「……ほかの部屋、どうせ今から移動しても席がないと思ったからです」
「そりゃそうだろーけど、この部屋のエアコン故障気味だぞ」
「えっ、そうなんですか」
驚き、思わず顔を上げる。銀八の眼鏡越しの目と、視線が交わった。
「やっとこっち見たな」
銀八がほんの小さく苦笑を浮かべた。心臓がきゅっと萎むようだった。
「あちィだろ、ここ。わざわざこんなとこで勉強しなくてもいいだろ」
準備室に来ればよかったのに、ともし言われたらどうしよう。最近あんまり準備室来ねェよな、と言われたら。土方は手の中の水色のシャーペンを握りしめる。それは花が綻ぶような喜びであり、冷たい泥に沈むような悲しみでもあった。
けれど銀八は土方の心配をよそに、それ以上なにも言わなかった。落胆と安堵が胸の中で複雑なマーブル模様を描く。でたらめな計算式を綴るシャーペンをとめて、土方はまた俯いた。顎の先から小さな汗のしずくがひとつ落ちる。
「ほら、汗。ノートもちょっと皺になってんだろコレ」
からかうように銀八がノートに落ちた透明な円を指差した。身をかがめた彼のよれた白衣からふと香った、煙草の匂いといちご牛乳の甘い匂い。そこにコーヒーの苦い匂いが混じっていないことに、そっと胸を撫で下ろしたくなる。コーヒーは国語準備室を訪れたひとに彼がふるまうものだ。あのコーヒーを飲むのは自分だけがいい。
まるで子どもの我儘のような思いだけれど、本当はそんなに単純なものでないことは気づいている。気づいてしまったけれど気づかないふりをし続けるために、だからもうあの場所には行かないことに決めたのだ。
「おい、どうしたよ。反応がにぶいけど、大丈夫か?」
銀八がそっと顔を覗きこんでくる。その彼らしい瞳の色を間近に見つめたとたん切なさがこみ上げて、心臓を掴まれたみたいに胸が詰まった。目の奥の熱いかたまりがじわりと溶けて溢れ出しそうになる。
だって、気づいたところでどうしようもないじゃないか。この思いが恋だと気づいたところで、彼は先生で自分は生徒で、大人と子どもで、その境界線は越えられないのに。眼鏡の向こうの瞳から目を逸らせないまま、土方はくしゃりと顔を歪ませる。
超えられない境界線があると分かっているのに、それなのに、瞳の色が混ざるほどこんなにも近くにいると胸の底に隠し続けてきたものがぜんぶぜんぶ溢れてしまいそうで。唇は今にも「好き」と告げてしまいそうで。茹だるような暑さも蝉の声も遠い世界で、近くに感じる煙草の匂いに泣きたくなる。
「……大丈夫、です」
土方は目を伏せ、顔を逸らした。
それでもやっぱり、思いを告げるなんてできるはずがなかった。なんの躊躇いもなく先生に好だと言えるくらい彼に近い大人でもなければ、同じくらい彼から遠い子どもでもなかった。この胸にわだかまる思いを告げれば、確実に銀八を困らせることになる。そう分かるくらいには大人で、子どもだった。
「ま、無理しすぎんなよ。体壊したら元も子もねーだろ」
俯けた頭の上に、ぽん、と大きな手が置かれる。あつくて、優しくて、そしてとても遠い手。
目の端に滲んだ思いを乱暴に拭って、土方は立ち上がった。宙ぶらりんになった銀八の手と困惑の浮かぶ顔を見ないようにして机の上のノートと問題集をカバンに仕舞う。
「すいません、ちょっと用事を思い出して」
ペンケースを放りこみつつ、我ながら下手くそな嘘だと思う。でもこれ以上、あの手に触れられるのは耐えられなかった。
「……失礼します」
俯いたまま早口で呟くように告げ、土方は教室を飛び出した。
射るように烈しい光の中の廊下を全速力で駆け抜ける。真っ黒な影が足元でうごめく。痛いほどに高鳴る鼓動がぐちゃぐちゃになった心をいっそうかき乱す。頬を伝ったしずくが顎先からこぼれ、一瞬きらめいて溶けていった。
遠ざかる足音を背中で聞きながら、銀八は置き去りにされた右手をぎゅっと握りしめた。
「……くそ、なにやってんだよ」
自嘲混じりの悪態がこぼれる。超えてはいけない境界線があることなど、分かりきっているのに。
固く結んだ右手には、ほのかな体温とかすかに汗ばんだ黒髪の感触が残っていた。